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コンコン。
「あん?」
ふいにノックが響いて、俺は振り返った。窓を閉め、部屋を横切りながら時計を見ると、夜中の1時、人の部屋を訪問するにしては、気が利きすぎる時間帯だ。
「高野…」
「夜分失礼いたします、滝様。よろしいでしょうか」
ドアを開けると、そこに例のごとく、黒っぽい背広上下に身を固めた高野が立っていた。気がかりそうな一瞥をちらりと階段の方へ投げて問いかけてくる。
「あ…うん。いいけど……きれいじゃないぜ」
「存じております」
「あ…そ」
果てる俺を無視して高野は部屋に入り、惨状にさすがにちょいと眉をひそめた。きれい好きの高野にしてみれば、渾身で仕えている主人の屋敷が、一室とは言えジャングルの奥地よろしく、何が何やらわからない状況になっているのに適応するのは、なかなか努力のいることだったのだろう。数分間突っ立った挙句に正気に返るように少し首を振り、散乱した本とノートを丁寧に積み重ね、ソファの上に腰を降ろした。
「もう少し早く、お伺いするつもりだったのですが」
「構わないぞ、まだ寝てなかった」
俺はとりあえず、ソファ前のテーブルの上の物を床に降ろして、高野の前に座った。
「一体何だ?」
「……実は…」
高野はポケットから四つ折りにした紙を抜き出し、テーブルに広げた。
「こういうものを御存知でしょうか」
「……」
俺は黙って紙を覗き込んだ。白い、何の変哲も無い計算用紙、印刷された横書きの文字は『朝倉周一郎殿』で始まり、『九龍』で終わっている。
「…こいつか」
「御存知ですか?!」
「うん……この間、周一郎が英の事故で夜中に呼び出されたろ? あの時、あいつの部屋に残っていたのをチラッと…」
「それで?!」
「一応、英やお由宇に『九龍』について聞いてみたが、英は知らんと言っていた。調べておくと言ってたよ」
「佐野様の方は」
「知ってたみたいだが…」
尋ねた時のお由宇の顔を思い出す。一瞬眉をひそめ、奇妙な、どこか腑に落ちないような表情になったお由宇…。
「俺には何も…」
「……そうですか」
高野はがくりと肩を落とした。深々とソファに身を沈める。
「どうしてだ?」
思わず尋ねた。
「『そういう事』なら、俺なんかより、朝倉家の情報網の方が有能だろう?」
「それが…」
高野は両手を膝の上で組み、難しい顔になった。
「この件に関しては、なぜか坊っちゃまは、朝倉財閥を動かそうとされないのです。今、それよりも他にする事がある、と仰られて」
どこか俺を恨めしそうに見る。
「何だ? 俺はまだ何もやってないぞ」
「されたじゃありませんか」
「は?」
「ここを出ていく、と仰られたでしょう?」
「ああ………それが?」
どういう関係がある、と言いかけた俺を、高野は大きく深い溜息で遮った。
「未だにお分かりになってないんですか」
「だから、何を、だよ」
「坊っちゃまが、あなたのことになると、どれほど過敏になられるのかを、です」
「…へ?」
過敏って……だって、周一郎は、俺が出ていくと言った時ぐらいだぞ、ショックだったらしいのは。あとは例の通り冷ややかで、俺を相手にもしなくなって……。
「滝様」
「はい」
じろりと高野が俺をねめつけ、思わず畏まった。
「あなたが亡くなられたと知らされたときの坊っちゃまの御様子、お話ししませんでしたか?」
「いえ、確か『お話しされた』と…」
「で?」
「で……とは?」
「お分かりになりませんか」
「……えー……と?」
何を…その……『お分かりになれば』いいんだろうか。
「……………」
「高野?」
「………………」
「おーい?」
高野はしばらく俯いて無言で固まっていた。が、突然復活するや否や、
「ですから! 坊っちゃまは! 御自信を無くされておいでです!」
「…自信……って……何の?」
「………わかりました。もう、この話は止めましょう。坊っちゃまでなくとも……不安になる」
終わりの方はほとんど自分の世界に没頭しているような呟きだ。いや、そりゃ、俺は物分かりが悪いよ? けれど、今、急に『理解不全症候群』になったわけじゃないだろ? そういう『間接話法』を使って話したって、俺にわかるわきゃないだろ?
「……まあ、それだけではなく、実際に今、おいそれと朝倉財閥を動かすわけにはいかない事情もあるにはあるのですが」
気を取り直した高野は、次の俺のことばに、文字通り、目を皿にした。
「朝倉…じゃないな、まだ。高柳慈のことか?」
絶句した後、ようよう高野はことばを返した。
「……どうしてそのようなことをご存知でしょうか」
「は、ははっ……その、まあ、な」
厄介事吸引器の能力フル回転、というところだ。
「つくづく……不思議な方ですねえ。常人ではない失敗をされる方とは思っていましたが」
あ…あのなあ……もう少しマシな表現はないのかマシな。
「とにかく、そうなのです」
俺の恨みがましい視線を見事に無視して、高野は頷いた。
「名前をご存知なだけ…ではなさそうですね」
「ああ。大悟、さんの実子、だっていうんだろ? 実際のところはどうなんだ?」
「はい…外見上は北欧の方とお見受けいたしましたが、その、仕草、と言うか……気配と言うか…」
微かに高野の声が明るんだ。もし高野がうら若き乙女なら、頬を紅に染めて、とでも表現したいような高揚した表情と懐かしげな瞳になる。
「大悟さん、そっくり?」
「はい」
大きく頷いた。
「一度、坊っちゃまの名代としてお会いしたのですが、部屋に入るや否や、席を立たれて握手を求められ、如何にも親しげに席を勧められました。その間の取り方や、お客様への対応が、亡くなられた大悟様に生き写しでございました」
「…どんなことを話したんだ?」
「二、三の質問……今の朝倉家の家族構成と、坊っちゃまのこと、滝様のこと、それから、自分は父の暮らした所で住みたいだけだから、坊っちゃまがどうしても拒まれるなら仕方ない、と」




