サンショウとハーブティー・8
有麻と三人で家へ向かって歩き出すと、莉々子にさっき言おうとしたことを訪ねた。
「何だっけ?」
「木のところにいて、パパに何か言おうとしてただろ?」
「ああ、あの木ね、会いたいんだって」
「会いたいって、誰に?」
「わかんないけど、会いたいって。会わせてだって。だからパパ、会わせてあげて」
「何でパパが、木のお願い聞かなきゃならないんだよ――っと」
先に立って歩いていた有麻が足を止め、秀治はその背中にぶつかって止まった。
「何だよ、いきなり」
「さっきの人」
有麻の肩越しに見ると、柴田家で会った女性が、塀に背中を預けてハンカチに顔を埋めていた。まだ泣き続けていたらしい。
有麻は花と女性には優しい。泣いている女性にそっと声をかけて、どうやら家に寄ってもらうことにしたらしかった。
「ねえねえ、パパ」
「ん?」
「あの人、かたにセミのあかちゃんのってるね」
莉々子にしか見えないものでも見えているのかと、前を歩く女性に目を向けると、確かに肩に何かが載っている。目をこらすと、セミの抜け殻だとわかった。そういえば莉々子は、セミの抜け殻のことを赤ちゃんと言っていた。
冬を越した抜け殻を、どこかでくっつけてきたのだろうか?
こちらのやりとりを聞いていた有麻が、ひょいと女性の肩からセミの抜け殻をつまみ上げた。
「こんなものが、くっついてましたよ」
「まあ、やだ。気がつきませんでした」
涙を拭いて女性は、有麻に手を差し出す。その手の上に抜け殻がちょんと乗った。
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
「え、ええ。……どうして息子だと?」
「この季節にセミの抜け殻が自然に肩につくというのは、あまりないことだと思いまして、子供さんの仕業かと……。セミの抜け殻を集めているような子は、大体男の子なんじゃないでしょうか」
女性は赤い目のままで、驚いたように有麻を見上げた。
植物を相手にしているだけあって、有麻の観察眼はなかなかのものだ。耳を頼りにしなくなってからは、眼のほうにどんどん磨きがかかっていった。
御園生の家に辿り着くと、女性をテラスのイスへと案内した。有麻がまた、ハーブティーを淹れて、女性の前へと差し出す。
「どうぞ、柴田さんに頂いたカモミールティーです」
女性はしばらく湯気と香りを楽しんで、ゆっくりとカップに口をつけた。
「懐かしい匂い。お母さんが、よく淹れてくれました。気持ちが落ち着くからって。カモミールにレモンバーム、オレンジピールにペパーミントを少々」
庭の花々を眺めながら、女性は静かにお茶を飲み続けた。気持ちが落ち着くまではと思って、秀治も声をかけずに見守るだけだ。
やがて、カップをソーサーに置くカチャリという音が響いた。女性を見ると、目は赤いままだが、頬がピンク色に染まり明るい表情に変わっていた。
「ありがとうございます。おかげ様で落ち着きました。私、旧姓を柴田小百合と申します。今は夫の姓になっているんですが。主人の国籍はカナダで、今は私も息子もカナダに住んでいるんです。久しぶりに日本に来る機会ができたので、お父さんを訪ねてみたのですが……ご覧になったとおりです」
しっかりとした、落ち着いた声だった。自立した女性という雰囲気がある。
「通りすがりの者ですが、これも何かのご縁なので、事情を伺ってもよろしいですか?」
あくまでもさりげなく、有麻が促す。秀治も何があったのかと気になっていたので、話が聞きたいと思っていたところだった。
「主人と知り合ったのは、大学に通っていたころです。主人は留学生として日本に来ていて、私達は恋人同士となりました。卒業したら結婚して、一緒に彼の国へ行こうということになったんですが……。父は許してくれませんでした。彼が心変わりするんじゃないか。カナダへ渡って、私に何かあっても、自分達には助けてやれないと……。主人のことを信用しきれなかったんですね。父は頭の固い人で、中々異文化を受け入れられなくて。母も説得してくれたんですけど、難しくて……」
言葉が途切れて、小百合さんは庭に目をやった。視線の先では莉々子が、小道のレンガを使って、けんけんぱをしていた。
「お嬢さんは、おいくつですか?」
「五歳……誕生日が来て、六歳です。年長ですね」
「あら、うちの息子と同じ年です」
しばし、保護者同士で笑い合う。
(もし、莉々子が……)
小百合さんの話を聞いて、考えずにはいられなかった。
もし莉々子が、外国の人と結婚して、海外で暮らすと言ったら自分はどうするのだろう。
やっぱり、秀治も反対するだろう。頭が固いと言われても、娘が目の届かない所に行ってしまうのは心配だ。離れているときっと、悪い想像ばかりしてしまう。
柴田さんもそうなのだろうか。悪い想像ばかりで凝り固まって、あんな言葉を娘に投げつけてしまうのだろうか。
「結局、父の理解は得られなくて、私駆け落ちみたいにして、彼とカナダに渡って結婚してしまったんです」
小百合さんは、話を続けた。
「私が向こうでちゃんとした職についていれば、父も安心してくれるのかと思って、ガイドや通訳の仕事を始めました。主人の家族もいい人達で、言葉や向こうの習慣に馴染むのは大変だったけど、どうにかやって来ました。でも、両親のことはいつも気にかけていました。母と手紙をやり取りして、写真もたくさん送って、父にわかってもらおうと努めてきたんです。でも、そんな時に母が……」
小百合さんは、声をつまらせた。
「息子を妊娠している時でした。母が病気で亡くなった知らせが届いたのは。そのショックなのか私、切迫流産になってしまって、入院することになったんです。それから出産までずっと入院していました。産まれたら生まれたで、子供が未熟児でしばらく入院することになって、三歳を過ぎるまではしょっちゅう病院のお世話になっていたんです。やっと長旅に耐えられるくらいに、元気になってくれたんですけど」
「そういう事情は、お父様はご存じなんですか?」
「手紙には全て書いて送っていました。でもわかりません。まだあんなに怒っているっていうことは、言い訳だと思っているのかも。もしかしたら、手紙を読まずに捨ててしまったのかも」
「読んでいると、思いますよ」
ポツリと、有麻が言った。言った後で、慌てたように付け足す。
「ああ、すみません。特に根拠はなく、そう思っただけなんです」
「そう……ですか」
落胆したように、小百合さんは芝生の上に目を落とした。
「……そろそろ、失礼しますね。主人と息子が待っているので、行かないと。またお父さんのところに来てみます」
「おせっかいなようですが、……次は息子さんも連れてきてみてはどうですか?」
有麻の提案に、秀治も心の中でうなずいた。結婚したことを許す気にならなくても、孫の顔を見れば柴田さんの態度も変わるかもしれない。
「私もそうしたいんですが……でももし、息子にまでひどいことを言われたらと思うと……」
さすがに子供相手に怒鳴りはしないだろうと思うが、万が一ということもある。その万が一を避けたいと思うのが、親心だ。
「あの、もしよかったら、連絡先を教えていただけませんか? ホテルの電話番号でもいいので」
有麻の申し出に小百合さんは小首を傾げながらも、バッグから名刺を取り出した。
「ここに、メールアドレスが書いてありますので、こちらにどうぞ」
「ありがとうございます。久しぶりの日本、楽しんでくださいね」
有麻と秀治に会釈し、莉々子に手を振って小百合さんは庭を去っていった。
「人妻に連絡先聞いて、どうする気だよ、お前は」
有麻を小突くと、露骨に顔をしかめて秀治を見返してくる。
「やましい想像しかできないのか。どうにかしてやりたいだろ。お父さんとのこと。このままじゃ、みんなが不幸なままだ」
「どうにかできるかねえ。あの頑固じいさんを」
収まるところに収まってくれればいいとは思うが、結局は秀治も有麻も部外者だ。下手に口を出したところで、柴田さんの怒りをかうだけだろう。ハーブティーを提供してほしい秀治としては、トラブルは避けたいところだった。