サンショウとハーブティー・5
キッチンから朝ご飯を作る音がする。夢うつつで、そろそろ雪乃が起こしに来るかなと考えながら目を開けた秀治は、やけに高い天井を見て飛び起きた。
「やっば、おい、莉々子起きるぞ」
寝起きで機嫌の悪い莉々子を連れてキッチンに行くと、有麻がコンロの前に姿勢よく立っていた。
「おはよう。目玉焼きでいいか?」
「悪い、寝坊した」
居候させてもらっているのに、初日からこれでは情けないにもほどがある。
「いいから、莉々ちゃんの仕度してやれ」
「パパー、トイレー」
「はいはい」
莉々子をトイレに連れていき、顔を洗ってやり髪をとかしてやる。着替えの段階ではまた莉々子があれこれ注文をつけ、せっかくの目玉焼きも冷めてしまった。今までは莉々子の仕度は雪乃にまかせっきりだったが、自分の仕度をしながら子供の仕度を手伝うのがいかに大変なのか、身に沁みた。
有麻が用意してくれた朝食を食べ終えて、莉々子の保育園の仕度にかかる。これもさっぱりわからないので、保育園のしおりを見ながら一つ一つそろえていく。
「ナフキンってなんだ?」
「おやつの時にテーブルに敷くの」
慌ててチェストを引っかき回すが、どうやらアパートに置いてきたらしい。
「有麻、ナフキンないか?」
「大きさはどれくらい?」
しおりを見せると有麻も居間の引き出しを引っかき回し始めた。
「バンダナか、お弁当包みか。莉々ちゃん、どっちがいい?」
紺のチェックのナフキンと、緑色のバンダナだ。莉々子はむうっと唇をとがらせて、首を振った。
「ピンクか赤がいい」
「莉々子、これしかないんだって」
「パンダさんのやつ」
「どっちか」
苛立った秀治が思わず声を張り上げると、莉々子が泣きそうな顔になる。
「ごめん。でも時間ないから、どっちかにしてくれよ。今日の帰り、アパートから持ってきておくから」
「ぜったいだよ」
「うん、絶対だ」
莉々子はしぶしぶ、バンダナを選んだ。この様子だときっと、おやつの時間も沈んだ感じで過ごすことになるのだろう。かわいそうなことをしてしまった。
保育園へ送り届けるのも、また一苦労だった。
せまい駐車場は、常に出入りがあって冷や冷やする。慎重に車を停め、緊張しながら保育園の門を潜った。行事以外でここへ来るのは初めてのことだった。
ホールへ入ると、「おはようございます」の声が飛び交っていて、ビクリとなる。
「パパ、これに書くのよ」
莉々子が指さした先に、児童名がずらりと並んだ紙があった。ていねいに、書き方の指示もある。送り届けた人物の続柄を書き、時刻を書き、更に降園予定時間と、迎えに来る人物の続柄も書かなければならない。
莉々子にとって、有麻って何者だ? としばし考えこんでしまった。後ろに順番を待つ人がいるのに気づいて、慌てておじと書く。とりあえず、こういうことにしておこう。
「すみません」と頭を下げて、場所を譲る。並んでいた女性は、さっさと書きこみを終えて、秀治に声をかけてきた。
「もしかして、莉々子ちゃんのお父さんですか?」
「そうです」
「珍しいですね。いつもお母さんなのに。奥さん、どうかされましたか?」
「ええっと、ちょっと病気して、実家のほうで静養することになって……」
「そうなの?」
声を上げたのは、上履きを履いていた莉々子だった。
「そ、そうなんだよ。だから、しばらくは有麻のとこで暮らそうな」
嘘をついてしまったことに、心がひりつく。それでも日常を回していくためには、仕方のないうそだと、自分に言い聞かせる。
莉々子はもう年長なので、部屋まで送ってやらなくてもいい。朝はホールでお別れのはずだった。
「じゃあ、パパ行くな。帰りは有麻が迎えに来てくれるから」
「パパ」
莉々子が両手を出してきたので、抱っこかと思って抱き上げると、猛然と抗議された。
「ちっがう。タッチするだけ」
「ああ、タッチか」
慌てて莉々子を床に下ろし、両手でタッチする。ネコの肉球のような柔らかな手のひらが、一瞬触れて離れていく。
「行ってらっしゃい」と声をかけてくれたのは、保育士さんだった。自分よりも若い女性に、行ってらっしゃいと送り出されるのは、胸がむずがゆくなる感覚だった。
朝からバタバタし通しで、会社についた時には疲れ果てていた。
秀治が勤めているのは、地元密着型の印刷会社だ。ポスターにパンフレットに企業の広報など、印刷物なら大抵の物は手掛けている。秀治の仕事は、顧客の要望を元に印刷物のレイアウトやデザインを決めることだった。
「藤枝君、例の原稿チェックできてる?」
部長に声をかけられて、秀治は一瞬凍りついた。土日のうちに家に持ち帰ってやるはずだった仕事を、このゴタゴタですっかり忘れていたのだ。
「す、すいません。すぐにチェックします」
「朝一の印刷に回すやつだぞ。納期間に合うのか?」
「すぐにやりますので」
「焦ってミスするなよ」
慌ててパソコンを立ち上げて、原稿を呼び出す。時計を気にしながら、それでも誤字を見逃さないように神経を尖らせて確認していく。チェックが終わると自分の手で印刷工場へと持ちこみ、工場のスタッフに頭を下げて頼みこんで、どうにか先回しにしてもらった。
出来上がった原稿の最終確認やら、納品やら、顧客との打ち合わせやらで瞬く間に一日は過ぎていき、気づいた時には終業時間を一時間過ぎていた。
早く帰ると有麻と約束していたんだった。バタバタと机を片づけて、会社を後にする。途中うっかりアパートの前を通り過ぎてから莉々子との約束を思い出し、引き返してナフキンを取ってきた。
アパートの部屋には相変わらず人気はなく、雪乃が帰った形跡は見られない。テーブルの上には、有麻の家にいるという、秀治の書き置きだけが載っている。
ここで雪乃と暮らしていた毎日が、途端に夢のように思えてくる。この部屋で何でもない会話をして、一緒に莉々子を育ててきたのに。
スマホを取り出して、雪乃に電話をかけてみる。相変わらず流れるのは、電源が入っていないか……という無機質なメッセージだ。
メッセージも開いてみるが、既読はついていない。それでも秀治は、新しいメッセージを送った。
『莉々子の仕度大変だな。まかせっきりでごめん』
『雪乃の肉豆腐が食べたいな』
『雪乃はちゃんとご飯食べてる?』
『莉々子が、ママに会いたがってるよ』
御園生の家に行くと、有麻と莉々子はもう夕食を食べ始めていた。昨日のカレーにチーズをかけて、オーブンで焼いたものだ。
「ごめん、先に食べてた。莉々ちゃんがお腹すいたって言うから」
「いや、俺も早く帰るって言ったのに、遅くなった」
上着を脱いで、ついいつもの癖でイスに座りそうになり、こういうところだよな、と思いながらグラタン皿を探す。ご飯をよそい、温められたカレーをかけ、チーズを細かく裂いて載せて、オーブンに放りこむ。トースターに毛が生えた程度のオーブンで、つまみをひねるだけだ。
「莉々のにはね、ウインナーのってるんだよ」
「野菜スープもあるから、あっためて」
「おーいいな、おう」
前の部分は莉々子に、後ろの部分は有麻に返事して、スープの鍋を火にかける。ご飯を炊くのもスープを作るのも、結局有麻に頼りっぱなしだ。
出来上がった食事を並べて秀治がテーブルにつくと、もう食べ終えた莉々子がしゃべり始める。
「今日ねえ、まりあ君迎えに来たでしょ。女の子達みんな、かっこいーって言ってたよ。先生も」
「パパだって、かっこいいだろ」
「パパはふつー」
西洋人形じみた有麻の容姿は、子供のころからどこへ行っても目立っていた。本人は植物にしか興味がないから、周りで女子が騒いでいても何とも思わなかっただろうが、同じ家で暮らしていた秀治にも有麻目当ての女子が寄って来たくらいだ。
食事を終えて、皿洗いくらいは自分がやらねばと引き受ける。それが終わればお風呂だった。幼児とはいえ女の子だ。こればかりは、有麻に任せられない。
子供がいると本当にバタバタと一日が過ぎていく。夜のルーティーンを終えて、莉々子を寝かしつけるとくたくただった。それでもまだ寝る時間には早いかと、居間に出てみる。テレビを消した静かな部屋で、有麻がグラスを傾けていた。
「お疲れ、飲むか?」
有麻が指さしたのは、自家製の梅酒のビンだった。トロリとした琥珀色の液体の中に、緑色の梅の実が夢うつつというように沈んでいる。
「んじゃ、水割りで」
有麻は、陽が沈んだ後の空の色に似た液体をグラスに注ぐと、水と氷を入れかき混ぜて手渡してくれた。庭師のくせに、きれいな指をしていると、変なところに感心する。
「この梅酒、莉々ちゃんが生まれた年に仕こんだものだぞ」
「まじか。じゃあ、六年ものか」
口に含むと熟成された濃厚な味が広がった。莉々子が育ったのと同じだけの年数浸かっていたのだと思うと、何とも感慨深い。
「いいよなあ。梅酒浸けて、庭仕事して、俺もそういう風に生きたかったよ」
「何だよ、急に」
「勤め人に嫌気がさしただけ。残業残業で、莉々子の世話はできないし、奥さんには逃げられるし、そもそも俺、今の仕事向いてないんだよなあ」
この地元を離れる気はなく、堅実な会社ならどこでもいいと思って、内定が取れたから就職した会社だった。そもそも秀治には、本当にやりたい仕事などそのころは思いつかなかった。
「じゃあ、今からでも庭師になるか? 造園会社紹介してやるぞ」
「いや、肉体労働はいやだ。あの手の職人の厳しさも無理だ。今さらお前のまねができるとも思ってない」
「じゃあ、どうしたいんだよ」
「喫茶店の話、断るんじゃなかったなあと今さらながら思ってさ」
雪乃がいなくなった途端、こんなことを思うなんて、我ながら虫がいいよなと思ってしまう。
そもそも喫茶店をやることを断念したのは、家族の生活を支えたいという思いがあったからだった。だけど雪乃はいなくなり、帰って来るかどうかもわからない。自分に合わない仕事をしながらも、守り続けなければならないものが、なくなってしまった。
雪乃が理想とするものは、秀治もわかっていた。堅実な仕事をする夫。家をきちんと整えて、夫を支える妻。親の言うことをよく聞く子供。雪乃は世間に、そういう風に自分達を見せたかったのだ。
実際の生活は、そうそう理想どおりになど行かない。それでも秀治なりに、雪乃の理想に近づけようと、努力してきたつもりだった。雪乃が許容できないほどに、理想を大きくはずれてしまったのが、秀治と莉々子の持つ力だったのかもしれない。
「やりたいんなら、やれば」
意外なほどにあっさりと、有麻が言った。
「止めないのか」
「やりたいことを仕事にできた僕に、止める資格はないよ。それから、ここの家は僕と姉さんとが所有しているものだから、姉さんの息子と孫が住む権利だってあるんじゃないのかな」
「あるのか?」
「法律的なことはわからない。でも、姉さんさえ許可するなら、僕はいつまでだっていてもらって構わないよ」
有麻の優しさに、このまま甘えてもいいのかと迷った。
だけどとにかく、何かを決断するにはまだ早すぎる。明日にでも、雪乃が帰って来るかもしれないのだ。
「取りあえず、喫茶店の件は置いとく。雪乃が帰って来たら、あの部屋に戻らなきゃならないんだし」
「そうだな。子供には母親が必要だ。でもな」
有麻は言おうかどうしようかと迷うようにして、それでも言った。
「秀治は、雪乃さんを必要としてるのか?」