サンショウとハーブティー・4
「雪乃さん、すぐに帰ってくるかな?」
有麻が立ち上がって伸びをして言った。
「帰って来てくれなきゃ、困るよ。誰が莉々子を保育園まで送り迎えして、ご飯作って洗濯するんだよ」
思わず本音を漏らすと、有麻にかわいそうなものを見るような目をされてしまった。
「まずは雪乃さんの心配をしてやれよ。それとお前にとって奥さんっていうのは、家事と育児をしてくれる便利屋さんなのか? しかもただ働きの」
正論を言われて、何の反論もできない。
「でも実際明日から、仕事しながら莉々子の世話もしなきゃいけないんだよな。参ったよ。仕事遅くなる時、迎えどうすりゃいいんだよ」
秀治が頭を抱えてため息をつくと、「情けない父親だな」と頭上から声が降ってくる。
「子供いないやつに言われたくない。莉々子はまだトイレだって、一人でいけないんだぞ」
「しょうがないな」
その声に、思わず秀治は顔を上げた。子供のころから秀治が何か頼みごとをすると、有麻は正論を重ねて諭してきた。だけど最後には必ず秀治を助けてくれるのだ。
「雪乃さんが帰るまで、二人でここに泊まればいい。俺の仕事は時間の融通がきくから、夕方なら迎えに行ける」
「うわ、まじで。助かる」
雪乃の実家は隣町にあるし、秀治の母親も今は飛行機を使わなければならないほどの遠方に住んでいる。実際秀治が頼れるのは、有麻しかいないのだ。
「それでも、なるべく早く帰るようにしろよ。母親がいないだけでも、相当不安なはずだから」
「もちろんだ」
秀治はうなずいた。その不安さなら、自分もよく知っている。おばさんは優しかったし、祖父も有麻も秀治を家族として扱ってくれた。それでもやはり、家に母親がいない間は常に心細さにつきまとわれていた。
「よし、そうと決まったら、午後から引っ越しだな。どの部屋使おうかな」
「ああ、その前に、ちょっと耳貸してくれ」
有麻がこう言う時は、庭の木に気になることがある時だ。
「いいよ、どの木?」
莉々子も連れて三人で庭の奥へと移動する。
「このオオデマリなんだけど、少し弱っている気がする。根腐れでも起こしてないか?」
秀治は腕時計のバンドを緩めると、手首から外した。シルバーのスチール製のバンドを選んだのは、植物が金気を嫌うからだ。
母親が普通を求めるたび、友人達に嘘つきと言われるたび、秀治自身もこの力を疎ましく思うようになった。
常に耳をふさいでいるわけにはいかないし、植物はどこにでも存在する。年を経た木はおしゃべり好きなものも多く、通りかかるたびに話しかけてくる。
普段は力を封じておきたいと有麻に相談したところ、勧められたのが金属を身に着ける方法だった。そのころはまだ秀治は中学生で、学校は腕時計禁止だったために、鉄くぎを缶に入れて身に着けるようにした。教師に見つかった時は、弁解に苦労したものだった。
金属を取り払うと、柔らかな聲に身を包まれる。注意深く耳を傾けなければ、それらは虫のさえずりやカエルの鳴き声と変わらないものだ。
秀治はオオデマリの幹に手を当てた。有麻と違って秀治には、木のささいな変化はわからない。だから、聞いてみるよりない。
彼らの聲は、鼓膜を震わせるというよりは、肌を通して染みこんでくるようだ。実際手を当てている方が、聲もクリアになるような気がする。
しばしオオデマリと言葉を交わした秀治は、隣にあるドウダンの植えこみの中をのぞきこんだ。
「ほら、原因はこれだ。ヒコバエ。こんなとこまで伸びてる」
ヒコバエというのは、木の根元から生えてくる若芽のことだ。これが出てくると、余計な養分を取られて、木の本体が弱ってしまう。
「ああ、ほんとだ。ドウダンの枝にまぎれて、気づかなかったな。助かった」
有麻は腰にぶら下げた道具入れから剪定バサミを取り出すと、ドウダンの枝を器用に避けて、オオデマリのヒコバエをはさんだ。パチンという、ハサミの小気味いい音が庭に響き渡る。
はさむというのは、有麻と一緒に祖父から教わった言葉だ。ベテランの庭師は、切るという言葉はなるべく使わず、はさむ、おろす、はずすという言葉を使うのだそうだ。
有麻は子供のころから、家の中よりも庭で過ごすことのほうが多かった。ハイハイするころから、裸足で芝生に放り出されていたのだそうだ。
祖父は秀治にとっては優しい人だったが、有麻に対しては厳しい態度を取ることもあった。そのほとんどが、庭仕事に関することだったと思う。
庭で過ごしながら有麻は父親から庭師の技術と知識を学び、有麻が一人前になったのを見届けるようにして、祖父は病死した。
数日分の着替えと莉々子のおもちゃを車に積みこんで、秀治は引っ越しを開始した。とりあえず一階の居間に近い部屋を使わせてもらうことにする。ベッドも家具もそろっていて、普段は和室に布団で寝起きしている莉々子は大喜びだった。
「プリンセスのベッドみたい」とはしゃいでいる。
「今日からしばらく、ここで暮らすんだぞ。大丈夫か」
「おばけ出ない?」
今の莉々子が一番怖いものが、おばけだ。暗いところやせまい場所も怖がって、トイレにも一人では行けない。
「出ないよ。有麻かパパがいつも一緒にいるから、大丈夫」
「庭でおままごとしてもいい?」
「有麻がいいって言ったらな。勝手に花や葉っぱを摘むなよ。有麻に聞いてからだ」
秀治が部屋を使えるように整えている間、莉々子は有麻と一緒に庭で遊んでいた。ベッドにシーツを敷いて、着替えをチェストにしまい、布団を干すために庭に出る。玄関の脇がガラス張りの温室になっていて、その横が物干しのスペースだった。
布団を干し終えて、腰を伸ばしながら庭を眺める。有麻と莉々子は、庭の花々に水やりをしていた。莉々子はジョウロを使って鉢植えの花々に水をあげて回っていて、有麻はシャワーで木々と花壇に水を与えている。
雨のような音が響き、土の匂いと水の匂いが立ち上る。水の気配が庭中を包み、植物が喜びの歓声を上げる。
あちこちの葉に雫が留まって、それが光をきらめかせる。庭全体が光を放ち、魔法でもかけられているようだ。
庭の風景は、秀治の子供のころの記憶と驚くほどに変わらない。植えられた木は確かに変わっていないが、花達は刻々と変化しているはずなのに。
先代と先々代とが作り上げた景色を、なるべく変えずに守り続けていくことが、有麻の使命なのだろう。有麻にはそれができるだけの能力があり、庭の植物達も有麻を信頼し協力している。
有麻が少し、うらやましくなった。
自分の仕事に誇りを持ち、人と花の役に立ち、きっとやりがいも感じていることだろう。
明日からまた仕事なのだと思うと、ズンと肩が重くなるのを感じた。
夕飯は秀治が作ることに決まった。秀治が作れる料理は限られているが、腕は悪くないと自分でも思っている。今日は莉々子の好きな、トマトの無水カレーだった。このレシピは、学生時代にバイトしていた喫茶店のオーナーから教わったものだった。
ひたすらタマネギを刻んでいると、バイトをしていた時代が懐かしくなってくる。穏やかなマスターの元で、コーヒーの淹れ方を教わり、料理を運び、皿洗いした毎日。店に漂っていたコーヒーの香りと、ジャズの音色がまざまざと蘇る。店はマスターが病気になり、数年前に閉店してしまった。
そういえば……と、秀治は思い出す。店を畳む前に、マスターから声をかけられたのだった。後を継いでこの店のマスターになる気はないかと。秀治も愛着のあった店だったから、気持ちが動いたのは確かだった。
喫茶店を経営するために必要な、食品衛生者の資格も取ったのだが、反対したのは雪乃だった。個人で店を経営するのは、リスクが高すぎるということだった。莉々子もまだ幼かったし、会社勤めのほうが将来的に安心だと説得されたのだ。
トマトとチキンの香りがキッチンに立ちこめたころ、ルーを溶かせば無水カレーの完成だった。炊き立てのご飯と共に皿に盛りつけて、グリーンサラダを添えてテーブルに置く。
「おーい、ご飯だぞ」
叫ぶと、莉々子が玄関から飛びこんできた。
「莉々ちゃん、手洗って。土だらけだよ」
「パパー、クマさんの踏み台どこ?」
「洗面所に置かなかったか? あ、しまった。まだ段ボールの中だ」
クマの絵のついた踏み台を持っていってやり、莉々子に手を洗わせる。お湯の出し方やらハンドソープの銘柄やら、うちとは違うものを見つけると莉々子は一々教えてくれる。
「早くしないと、カレー冷めちゃうぞ」
「うん、ねえ、パパ、庭があるっていいね。楽しいね」
何気なく莉々子が言った言葉が、胸を打った。
莉々子が着ているTシャツもジーンズも、あちこちに土がついていた。雪乃が見たら、唇をとがらせて怒り出すだろう。
雪乃はきれい好きで、公園に莉々子を連れていっても、砂場で遊ばせることはしなかった。土や砂には、ばい菌がいるからというのが理由だった。
雪乃は、花もどうやら好きではないようだった。アパートの部屋に花が飾られていたのを見たことはなかったし、有麻が庭の花を切って持たせてくれた時も、職場に持っていくようにと雪乃は秀治に言ったのだ。莉々子が花畑に入りこんで遊んだ時は、服が花粉で汚れてしまったと怒っていた。
莉々子の性質が、有麻と同じだということを、秀治は解っていた。土に触れ、花と木と共にいる時が、一番安らげるのだと。有麻が子供時代に庭で大半の時間を過ごしていたように、本当なら莉々子もそんな風に育ててやりたかった。