サンショウとハーブティー・3
御園生家は代々この町で、庭師をして生計を立ててきた。有麻も個人で庭師をしていて、代々御園生家が管理してきた庭の整備を仕事にしている。
祖父の、そのまた父親の時代の話だ。今は御園生家の所有となっているこの洋館は、元々貿易商をしていたイギリス人が建てたものだったという。その家族が仕事の都合で母国に引き上げることになった時、庭の管理を託されたのが庭師をしていた先々代だった。
彼らはいつかはまた日本に帰るつもりでいたらしいが、商売が頓挫してできなくなり、それで先々代は破格の値段でこの屋敷と土地を譲り受けることになった……というのが、秀治の聞いている話だった。
だから洋館は大家族が住めるだけの部屋数があり、かつてはガーデンパーティを開いていた離れまでがついている。
有麻の母親はずいぶん前に病気で亡くなっていて、祖父が亡くなった後は有麻と秀治の母が、ここの所有者ということになっていた。だが秀治の母は、今は遠方で仕事をしていて、ここへ帰って来ることはほとんどない。
ガーデンパーティーをしていたころの名残で、離れの前は芝生が敷かれた広場になっている。莉々子はそこで遊ぶのが好きだった。
靴も靴下も脱いで裸足になった莉々子は、芝生の感触に笑い転げている。荷物の中からシャボン玉を出してやると、「二人とも見ててねー」と言って、遊び始めた。
離れは改築してあり、ガラスの引き戸を開けるとウッドデッキに出られるようになっている。そこのイスに腰かけて、しばし二人で、まだ色の浅い芝と虹色に輝くシャボン玉と、莉々子の蜂蜜色に透けるふわふわとした髪を眺める。
「シャボン玉って最近じゃ、できる場所が少なくてさ」
「へえ、どうして」
「車につくと痕が残るって、うるさく言うご近所さんがいるんだよ」
「世知辛いな」
会話が途切れたところで、吐息のように有麻は言った。
「雪乃さん、どうかしたか?」
秀治は大げさにため息をついてみせた。
「家出したかも」
「何で」
「何でも何も、心当たりが何もないから弱ってるんだよ」
「ケンカしたとかは?」
「そりゃあ、ちょっとした言い争いくらいはよくあったけど……」
雪乃がいなくなる前に、何か言い争ったりしただろうか? 風に流されるシャボン玉を追いかけていく莉々子の姿を眺めながら、秀治は考える。
『あなたには、わからないのよ』
「ああ……、あれか」
「思い当たったか」
ここで、この庭で、こいつの横でそれを言ってもいいのかと、秀治はしばし逡巡する。
その様子を見て、有麻が目を細めた。
「ここなら、誰も聞いてない」
辺りを見回して、確かに、と秀治も思う。ウッドデッキには花のコンテナは置かれていないし、声の届く場所に木も植えられていない。経験上芝生は大丈夫だと知っている。
秀治は手首にはめた銀色の腕時計をいじりながら、言った。
「雪乃に、例の力のことがばれた」
有麻は驚いた様子もなく、静かにうなずいた。
「そうじゃないかと、思ってた」
秀治の両親が離婚したのは、秀治が三歳のころだったらしい。だから秀治には、父親の思い出というものが恐らくない。
恐らく、と言うのは、自分でもよくわからないからだ。小さなころに男の人に肩車をしてもらったような記憶は確かにある。だけどそれが、父親なのか、祖父なのか、そこが自分でも心もとないのだ。
母親は秀治を産む前から保険会社で働いていて、一年だけ産休を取りすぐに仕事に復帰したのだそうだ。シングルマザーとなってもその仕事を続けるために、やむを得ず離婚後、実家で暮らすことを選んだのだ。
保育園に秀治を迎えに来るのは、大抵有麻の母親だった。夕飯ができるまで庭で有麻と一緒に過ごし、おばさんが作ってくれたご飯を有麻と共に食べた。
祖父の後妻さんだったその人のことを、秀治はおばさんと呼んでいた。祖父のことはおじいちゃんと呼んでいたのだから、本当ならおばあちゃんと呼ぶべきだったのかもしれなかったが、見た目では自分の母親とそう変わらなかったのだ。とてもおばあちゃんとは呼べなかった。
秀治は半分以上、おばさんに育ててもらったのだと思っている。実の母の料理より、おばさんの料理のほうが記憶に残っているくらいだ。
中学を卒業するまで、この家で有麻と兄弟のように暮らしたせいか、秀治は有麻のことも伯父さんだとは思っていない。兄というのとも少し違う。有麻との距離感をうまく言い表す言葉を、秀治はいまだに探しあぐねているのだ。
『あなたにはわからないのよ』
どういう流れで雪乃はそれを口にしたのだったか。そうだ。確か、保育園からの帰りに、莉々子がモクレンの木と会話していたという話だった。
そのモクレンの木は、秀治にも心当たりがある。莉々子とは仲良しで、通りかかればいつも一言二言声をかけていた。
物語好きの五歳児が木とおしゃべりするなんて、それほど珍しいことじゃない。想像力豊かでいいことじゃないかと言った秀治に、雪乃が返したのが『あなたにはわからないのよ』だった。
『わからないって、何が』
『私の気持ちが、よ』
雪乃は切々と訴えてきた。莉々子がしゃべれるようになったころから、木や花に話しかけていたこと。一方的な話しかけではなく、明らかに会話していたこと。
『あなた、がんづきって知ってる?』
『知ってるよ。子供のころ、食べたこともあるし』
『そう、私は名前を知ってるだけだったけど。莉々子が言ったのよ。この家に前にいたおばあさんは、がんづきが好きだったって。想像力だけで子供が、知らない言葉を言えると思う?』
『テレビか絵本で覚えたんだろ』
雪乃は泣きそうな顔で、秀治を見つめた。
『あなたも、莉々子とおんなじよね?』
背中が冷え冷えとするのを、秀治は感じた。
『私はいつだって、仲間外れなんだなって感じてたわ』
それだけ言うと、雪乃は莉々子を連れて寝室へ行ってしまった。
泣きそうな雪乃の顔は、そのまま母親の顔に重なった。
秀治の場合は、メリケン粉だった。
秀治も子供のころ、莉々子と同じようなことをしていた。道ばたの木に話しかけ、子供が知るはずもないことを口にして、大人を驚かせていた。
秀治は母親にすごいねと言われたかっただけだ。だけど母親はそんな時決まって、泣きそうな顔になった。
保育園の先生に、メリケン粉の話をした時のことだ。まだ若い先生は、その言葉を知らなかった。珍しく迎えに来た母親にその意味を問い、母親は瞬時に何が起きたのかを察したようだった。
『小麦粉のこと、昔はそう呼んだらしいです。おじいちゃんに聞いたのよね?』
メリケン粉のことを教えてくれたのは、お寺にあるケヤキの古木だった。
ケヤキの木と、のど元まで出かかった言葉を、秀治は呑みこんだ。それを答えても母親を悲しませるだけだとわかったからだ。
うなずくのは、嘘をつくことだった。でも秀治には、そうするしかなかった。母親の目が、それを望んでいたからだ。
それっきり、秀治は母親の前では植物に話しかけるのをやめてしまった。
普通の子供でいてほしい。母親も雪乃も、それだけを願っていたのだろう。
自分も莉々子も普通じゃない。
普通では、ないのだ。
植物の聲が聞ける。
莉々子と秀治が生まれつき持っているのは、そんな力だ。
木や花の聲が聞けるし、会話することもできる。
御園生の血を引く者には、時々その力を持つ者が生まれるのだそうだ。
秀治の祖父もそうだったし、そして有麻も、そうだった。