桐とタルト・5
カフェの準備は着々と進んでいた。注文していたカップやグラスが揃い、メニュー表も自作した。
今日は有麻の軽トラックを借りて、花屋に観葉植物を取りに行く日だった。
店に入って名乗ると、すぐに店主が相好を崩した。
「有麻さんにはいつもお世話になっております。すみません、わざわざ取りに来て頂いて」
「こちらこそ、お世話になります。近くなんですから、大丈夫ですよ」
「それで、ご注文いただいた鉢ですが、こちらに揃えてあります」
店の隅へと案内されると、鉢植えの観葉植物が揃っていた。前もって有麻と一緒に写真を見て選んだもの達だ。
「モンステラに、ねじねじのパキラ、シマトネリコ……、あ、オリーブはどこですか?」
まとめられている鉢は三つしかない。店主の顔色がさっと青ざめるのがわかった。
「オ、オリーブ。そうですね。オリーブもご注文いただいていましたね。し、しばしお待ちを」
店主は店にある観葉植物を端から覗きこみ、注文書をひっくり返し、更にどこかに電話をかけ始めた。電話を二本ほどかけ終えて、汗を拭きながら秀治の前に戻ってくる。
「あのー、大変申し訳ないのですが」
何か手違いがあったらしいと、一連の動きを見ているだけで察することができた。
「配送のミスで、オリーブは隣の市の系列店の方に運ばれてしまったようです」
「何だ、大丈夫ですよ。今日は他に予定もないし、俺がそっちに取りにいってもいいですか」
「いえっ、こちらのミスなのに、そんな申し訳ない」
しきりに恐縮する店主と話し合って、配送にかかる費用分だけ値引きしてもらうということで話がまとまった。
まずは軽トラックに鉢を三つ積んで一旦カフェへと運びこんでから隣市へと向かう。
スマホにナビをしてもらいながら街中にある店へと辿り着く。こちらの店が本店にあたるらしく、ずいぶん大きな店舗だった。
目についた店員に声をかけると、電話で話が通してあったようで、すぐにオリーブの鉢が運ばれてきた。銀色に光る葉を見ると、迷子を見つけたような気分になった。
軽トラックの荷台まで鉢を運んでもらい、店員にお礼を言った時だった。
通用口からホウキを持って出てきた店員を見て、秀治の動きは止まった。その店員もホウキをアスファルトの上に落とし、その音が駐車場に響く。
雪乃だった。
少し伸びた髪を後ろでくくって、秀治を見つめている。
店名の入ったエプロンをかけ、ホウキを手にしていたということは、ここで働いているのだろう。
「雪乃」
そっと呼びかけた。かける言葉を一つ間違えただけで、また目の前からいなくなってしまう気がした。
静かに近づいて、雪乃の腕を取る。顔色は悪くない。ちゃんと食べて眠れているようだ。
「よかった。元気そうで」
「……ごめんなさい」
健康的なことを詫びるように、雪乃は言った。
「――話がしたい。少し、時間取れないかな」
雪乃は迷うように、秀治と背後の扉とを見比べた。やがて逃げられないと観念したようにうなずいた。
「ちょっと待ってて。休憩もらってくるから」
店の外の売り物の鉢物や花苗が並ぶ隅に、木製のベンチが置かれている。そこで秀治は雪乃が出て来るのを待っていた。
胸のざわめきは収まらない。せっかく見つけたのに、また雪乃がいなくなってしまったらどうしようという不安。それを上回る高揚感は、また雪乃に出会えたという喜びからだ。
二本の缶コーヒーを横に置いて、ソワソワと雪乃を待っていると、付き合い始めたころの待ち合わせの時間を思い出した。
「待たせてごめんなさい」
エプロンを取りながら雪乃が現れた。秀治の目を見ないまま横に座ってうつむく。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
プルタブを開ける音が響いたきり、沈黙が落ちる。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったけれど、言葉が多すぎて喉の奥でつかえているようだ。
「莉々子は、元気?」
話の口火を切ったのは、雪乃のほうからだった。
「元気だよ。風邪も引いてないし、しばらく熱も出してないし、ご飯もたくさん食べてる」
「よかった」
言葉とは裏腹に、雪乃は寂しそうだ。自分がいなくても莉々子が平気にしていると思っているのだろうか。
「体は元気でも、寂しそうだ。ママを恋しがってる」
雪乃が目を伏せる。缶コーヒーを包んだ指が、見えない鍵盤を弾くように動いている。
「雪乃に会ったら、まずは謝ろうと思ってた。本当は結婚する前に言うべきだったんだ。俺は普通じゃないんだって」
キュッと雪乃の指が缶を握りしめた。
秀治は自分の子供時代から順に説明していった。植物の聲が聞けること。それで危ない目に遭ったこともあること。ケヤキに聞いたメリケン粉の話。それを口にした時の母親の反応。面倒ごとを避けるために、金属を身に着けてきたこと。
「想像力が足りなかったんだ。自分の子供にこの力が受け継がれるかとか、それでどんなことが起こるかなんて、考えもせずに結婚してしまったんだから」
もっと早くに雪乃に打ち明けて、相談するべきことだったのだ。隠し事をされているほうからしたら、除け者にされていると感じるのも仕方ないことだ。
「私、母親だから」
ポツリと、降り出した雨の一粒のように、雪乃は語り出した。
「お腹の中で莉々子を育てて、莉々子が赤ちゃんの時は、本当に二十四時間一緒にいたのよ。莉々子のことなら何でもわかっているって思ってた。思ってたのに」
言葉の雨粒が増えていく。乾いた地面に黒い染みを作る雨粒が見えるようだ。
「自分の足で歩き始めて話し出した莉々子が、私に理解できないことを言ってきたの。私が育てた子なのに、どうして普通じゃないの? おかしいのは私なの? それともあなた達のほうなの?」
雪乃の目から涙が溢れ出した。降るのを我慢していた空から一度に雨が降り注ぐようだった。
「そんなに、普通でいなくちゃいけない?」
雪乃はかぶりを振った。
「だって、私、普通にしてなさいって、ずっとお母さんに言われて育ったんだもの。世間から見ておかしくない状態が、お母さんの言う普通なの。お母さんに恥ずかしい思いをさせないようにって、私ずっと頑張って普通にしてきたのに。どうして莉々子は……」
話しているうちに自分自身の声でヒートアップしたように、雪乃の声は強まっていく。その途端ふっと、雪乃は我に返った。
「ある日気づいたの。莉々子が普通じゃないことを言って、家で必死に莉々子に言い聞かせていた時、お母さんそっくりだって。私の怒り方、お母さんそっくりじゃないって」
雪乃の頬を涙が伝って落ちていき、コンクリートに黒い染みを作る。
「お母さんみたいな母親には、なりたくなかった」
小さな子が秘密を打ち明けるようにそっと、雪乃は言った。
「普通の家庭を作りたいとは思ったけど、お母さんみたいにはなりたくなかった。あんな風にヒステリックに怒ったりしない、いつも感情の安定した穏やかな母親になりたかった。なれると思ってた」
結婚相手が秀治でなければ、雪乃のその願いは叶えられたのかもしれなかった。でもその世界に、莉々子は存在しない。
「俺と結婚したことを、後悔してる?」
「そうじゃない!」
きっぱりと雪乃は否定した。泣き顔のまま秀治を見つめて。
「あなたのことも莉々子のことも、大好きだし大切なの。でも、母親そっくりになっていく自分にぞっとして、思ったの」
涙を乱暴に拭って、虚空を見つめて雪乃は言った。
「莉々子を、私みたいにしたくない」
それが雪乃の願いであり、祈りだった。
娘を自分のようにしたくないと思うのは、今の自分自身を否定することでもある。
「だから、ひとまず莉々子から離れることにしたの。離れてそして……私も、変わらなきゃって思った」
花屋に勤めているらしい雪乃の姿を見た時から、秀治も感じていたことだった。
家に花を飾らず、出かけ先でも花の話題を口にしたことのなかった雪乃が、花屋で働いている。
雪乃は、変わりたいと願っているのだ。