桐とタルト・3
振り返ると、有麻と宮村さんが顔を見合わせながら苦笑いしていた。
「見事に振られたな」
「祥子ちゃんにとっても、いいお話だと思うんだけど」
宮村さんも困ったように笑いながら、頬に手を当てている。
「祥子ちゃんね、お母さんが亡くなってからあんな風に引きこもりがちになっちゃって、私も心配してるのよ」
立ち話もなんだからと、宮村家の庭にお邪魔することにして、そこの縁側で彼女の話を聞いた。庭の片隅に見事なオオデマリの木があり、時折雪のような花びらが落ちて来る。
「祥子ちゃん、パティシエになるのが夢だって、張り切って学校に通ってたのよ。パイとかタルトみたいな焼き菓子が得意でね、フルーツの載ったタルトなんて本当においしかったわ。まあ学校入る時は、何だかおばあちゃんに反対されて大変だったらしいけど」
「おばあさんも一緒に暮らしてたんですか?」
「ええ、そう。昔ながらの人でね、女の子はお嫁に行くのが幸せだ、手に職なんてつけてどうするって言って。その反対を押し切って学校に通い出したんだけど、それからすぐにおばあちゃん亡くなってしまって。反対されたままだったから、祥子ちゃんも落ちこんだんだけど、それでも気を取り直してまたお菓子作り頑張ってたんだけどね」
さっき宮村夫人が言ったのは、おばあちゃんではなく、お母さんが亡くなったという言葉だった。
彼女に訪れた不幸を思って、秀治の気持ちも否応なしに沈む。
「お母さんが癌になってしまったの。見つかった時にはもうかなり進んでいてね。手術したけど、転移してしまって……。祥子ちゃん学校卒業してケーキ屋さんに就職して頑張ってたんだけど、そんな時にお母さんが亡くなってしまったの。それで気落ちしちゃったのかしらね。仕事も辞めちゃって。お母さんが亡くなってもう一年くらいになるんだけど、家にこもりがちになってしまって」
母親の死で落ちこんだだけで、仕事をやめて家にこもってしまうだろうか。彼女がお菓子作りをやめたのは、もっと何か理由がありそうな気がする。
「パパ、あのね」
庭の隅でおとなしくアリの行列を眺めていた莉々子が近寄ってきた。こちらの話が終わるのを待っていてくれたらしい。
「何だ、莉々子」
「あのきりかぶね、くやしいって」
「え?」
「くやしいって言ってた。役に立ちたいって」
莉々子の話に、宮村さんが怪訝な顔で首を傾げる。
「ああ、伐られて、くやしいってことかな。そう言ってるように思えたらしいです」
慌てて秀治がごまかそうとすると、宮村さんはポンと手を叩いた。
「切り株って、あの桐の木のこと?」
「うん、おとなりのお家の、おっきなきりかぶ」
おっきなと言いながら手を広げる莉々子に、宮村さんが目を細める。確かに莉々子が両手を広げたくらいの大きさだった。
「立派な木だったのよ。祥子ちゃんが生まれた時に、おばあちゃんが植えたの。昔はよく女の子が生まれると桐の木を植えたものだけど、今は見なくなったわよねえ。桐はすくすく育つから、大きな木になって」
「どうして、伐られたんですか?」
そう尋ねたのは、有麻だった。
「お母さんがね、退院して家にいる時に業者さんを呼んで、突然伐ってしまったのよ。『あんまり大きくなっちゃったから』なんて言ってたけどね。退院って言ってもその時にはもう手の施しようがないってことで、家族と過ごすために家に帰ってきたらしいんだけど」
「桐が伐られたのがいつだったか、覚えていますか?」
「去年の……四月かしら。祥子ちゃんが学校を卒業して、勤めだしてすぐだった気がするから」
「じゃあもう、一年経つんですね」
何かに納得したように一人うなずいて、有麻は立ち上がった。
「彼女の問題は時間が解決してくれると思います。今日はありがとうございました」
颯爽と庭を立ち去っていく有麻を、秀治は莉々子の手を引いて慌てて追いかける。
「おい。いいのか、それで」
「言っただろう。時間が解決してくれる問題だ」
「祥子さんがまた、お菓子作るようになるって言うのか?」
「それはわからない。でもしばらく待てば、必ず彼女には立ち上がるきっかけが与えられる。その時まで、僕達にできることはないよ」
莉々子が有麻のズボンをつんつんと引っ張る。
「まりあ君、じゃあ、きりの木は? くやしいって言ってたよ」
「桐の木にも、くやしくなくなる時がきっと来るよ」
「じゃあ、カフェのメニューはどうするんだよ」
時間が解決すると言っても、それを待っている間にカフェは開店してしまう。
「人を当てにするなって、神様に言われてるんだよ、きっと」
「スイーツメニューなしで、始めるしかないのか」
「この間のスコーンでいいじゃないか。チョコチップとジャムの二種類で、メニュー欄が二つも埋まる」
軽い調子で言って、有麻は莉々子の手を引いて歩いていった。
時間が解決すると言われても、やはり秀治は待っていられなかった。
週が明けた月曜日。懲りずに祥子の家を訪ねてみる。今回は、他の家族の話も聞けたらと、夕方に尋ねてみた。
インターフォンを鳴らしても、祥子の出て来る気配はなかった。モニターフォン越しに「ごめんなさい」とようやく聞き取れる声が答えただけだ。
「また来ますね」と返して、秀治は踵を返した。そこで、桐の木の切り株が目に入る。
吸い寄せられるように近づいて、腕時計をはずした。切り株に腰かけて、切り口に手を当てる。
『くやしい』
莉々子が言っていたとおりの聲が聞こえた。
『くやしい。役に立てなくて』
「何の役に立ちたかったんだ?」
思わず尋ねた時、傍らに人がいるのに気がついた。
「うちに何か御用ですか?」
作業着を着たその人は仕事帰りのようだ。祥子の父親だろうと見当をつけて、秀治は立ち上がった。
「すみません、勝手にお邪魔して。私この近所に住む御園生という者です」
「御園生って、あのお屋敷の?」
珍しい苗字のおかげで、名乗るだけで素性をわかってもらえるのはありがたいことだ。
「そうです。あの家の主の甥なんですが」
「うちに、何か?」
秀治はもうすぐカフェを開く予定だということと、祥子の作ったお菓子をそのカフェで出したいということを、ていねいに説明した。父親は荒川克也と名乗り、切り株に腰かけ秀治にも座るよう促した。切り株は大人二人が並んで座れるだけの大きさがある。
「妻がね、あの子の作るフルーツタルトが大好きだったんですよ」
「そうなんですか」
「中学くらいからお菓子をよく作るようになって、妻がうれしそうに食べるものだから祥子はパティシエを目指したんです」
秀治はうなずいて、克也に続きを促した。
「妻が入院した時、祥子は就職活動が忙しくてね、あんまり病院にも来れなかったんですよ。家に帰ってきたら今度は就職したばかりで、仕事にかかりきりになってしまって。一緒に過ごす時間がなかなか取れなくてね。そんな時に妻は、この桐の木を伐ってしまったんです」
「どうしてか、聞いていますか?」
「もういらないものだからって、妻は言ってました」
克也の声が、ふいに暗く沈んだ。
「この桐の木は、祥子が生まれた時に私の母が植えた記念樹なんです。私も祥子もこの木を、祥子と一緒に育った兄弟みたいなものだって思ってました。それを……いらないって、妻は言ったんです」
「ひょっとして、それで祥子さんはお菓子作りを辞めてしまったんですか?」
「それだけじゃないんです、ちょっと待っててもらえますか」
克也は家に入ると、白い箱を手に戻ってきた。
「これは、妻が亡くなって持ち物を整理していた時に見つけたものです。箱の上には、『祥子へ』と書かれた紙が貼ってありました。だから祥子に形見になるものでも残したのだろうと、二人で箱を開けてみたんです」
克也が白い箱の蓋を開ける。真四角で帽子かバッグでも収まっていそうな化粧箱だ。母親から娘への最後の贈り物に、何が選ばれたのだろう。そう思いながら中を覗くと――。
「石?」
呆気に取られて、秀治は間の抜けた声しか出せなかった。
箱の中を埋め尽くしていたのは、どう見てもただの石だった。河原から拾ってきたような、丸みのあるつるんとした石だ。
本当にただの石だろうかと、一つ取り上げてみる。手の平に置いて眺めても、光にかざしてみても、何かの特徴が現れることはなかった。
少し平べったくて丸い石。ただそれだけのものだ。
立派な箱に期待に胸を高鳴らせて蓋を開けただろう、祥子の気持ちが想像できてしまう。そして中身を見た時の落胆も。
「祥子はこれを見てショックを受けましてね。大事にしていたものを形見に遺してくれたのかと思ったら、ただの石が箱に詰めてあったんですから。それで祥子は思ってしまったようなんです。私がお菓子作りに夢中になって、お母さんの最後の時間に寄り添えなかったから、恨まれているんだって。桐の木をいらないものだからって伐ったのも、私をいらないと思ったからなんだって」
秀治には返す言葉もなかった。
元々は母親を喜ばせるために作っていたお菓子だったのだろう。母親の笑顔をきっかけにパティシエを志したのに、肝心の母親の最後の時間に一緒にいられなかったことを、祥子は後悔し続けているのだろう。その上、母親からそんな仕打ちを受けてしまったら……。
お菓子作りをやめてしまうのも、無理がない。
「カフェのお話、祥子にとってもいいきっかけになりそうなんですがね。祥子が立ち直るにはまだ時間がかかりそうで」
申し訳なさそうに頭を下げる克也に、秀治は「いえいえ」と立ち上がった。
「こちらこそ、突然無理なお願いをして申し訳ありませんでした。でも、祥子さんがその気になってくれるのなら、俺は待ちますので」
時間が解決するという有麻の言葉は、こういうことだったのかもしれない。今はやはり、祥子が立ち直るのを待つしかないということだ。
克也も立ち上がる。ふとその後ろに、切り株から芽が伸びているのが見えた。青々とした小さな若葉が、空に向かって手を広げているようだ。
「役に立ちたい……」
「何ですか?」
「いえ、あの、桐の木って、何の役に立ちますかね」
突然の質問に面食らったようにしながらも、克也は教えてくれた。
「色々役に立ちますけどね。桐の木っていったら、やっぱり箪笥にするのが一番じゃないですか。防虫効果があるとかで、着物をしまうのによく使われたそうですよ」
「桐の木……。伐られたこの木は、どうなったんですか?」
克也は初めて気づいたというように、額に手を当てた。
「ああ、うっかりしてた。そうですね。桐と言ったら高級木材って言われてるんだから、何かに使えるかもしれませんね。今度業者にどうしたのか問い合わせてみます」
高級木材を勝手に売り払われてしまっていたら確かに問題だ。もう一度お礼を言って、秀治は庭を後にした。