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桐とタルト・1

 季節は五月の終わりになり、雪乃がアパートを出ていってから一カ月半が経過してしまった。

 こちらから送るメッセージに既読はつくものの、雪乃の返事は相変わらずない。電話も繋がらないし、アパートの部屋を訪れた形跡もない。


 初夏というのは、騒がしい季節だ。

 春に芽吹いた新芽が光を浴びるごとに伸びていき、山を黄緑色に包みこんでいく。

 花達にとってもこの季節は、虫を呼びこんで花粉を運んでもらう大事な時期だ。受粉という種の存続が関わっている大仕事なのだから、どの花も精一杯に花びらを広げ香りを漂わせて虫を呼ぼうとしていた。

 腕時計をはずすと、その騒がしさがよくわかる。木々のささやきに花の歌声が波音のように体を包みこみ、それでも馴染んでくると騒がしいというより心地よく感じてくるから不思議なものだ。

 このところ秀治は、腕時計をはずす時間が前より増えていた。

 それでも今日は耳をふさがなくてはならない。常識をまとわなければならない。

 久しぶりのスーツを身に着けて、秀治は隣町へと車を走らせていた。

 助手席で揺れる菓子折りの入った紙袋にちらりと目をやって、結婚の承諾に雪乃の実家へ向かった時のことを思い出した。


 雪乃と出会ったのは、大学生のころの台風の日だった。

 台風で天候が荒れそうだということで、講義が休講となった。アパートに帰ろうとキャンパスを出ると、うなり声を上げながら風が吹き始めていて、雨も混じっていた。

 防水ジャケットを着こんでいた秀治は、フードを被って走り出そうとした。そこに女子学生が建物から出てきた。話をしたことはなかったけど、同じ学年の子という認識はあった。

 彼女は強風の中で折りたたみ傘を広げようとしていた。この程度の雨なら傘などいらないだろう。風であおられるから、かえって危険だ。

 傘はどうにか開かれたが、いかにも頼りなさげな感じで、彼女が歩き出すとすぐに風であおられて傘は裏返ってしまった。それをどうにかしようと苦戦する彼女を見かねて、秀治は自分の防水ジャケットを差し出した。

「これ防水なんで、フード被れば雨も防げると思うから」

「え、でもあなたは?」

「これくらいの雨だったら、走れば平気」

 ジャケットを押しつけるようにして、秀治は雨風の中へ飛び出していった。

 それが、雪乃との出会いだった。


 後日、貸したことも忘れた頃合い、に雪乃はジャケットを返してきた。わざわざクリーニングしてくれたらしく、紙袋にはクッキーの小箱まで入っていた。

 お金を使わせてしまったという罪悪感で、ランチに誘った。おごったら今度はそのお礼という形で、雪乃のほうからお茶に誘ってきた。そんなことを繰り返すうちに、いつの間にか交際していたのだ。

 雪乃は何もかもがきっちりとしていた。服にはいつもアイロンがかけられ、出かけた場所に注意書きがあると必ず立ち止まって読みこんでいた。ささいなことでもルールを守るということを、気にかけていた。めったに車が通らない道路でも、横断歩道のある場所でしか渡ろうとしなかった。

 雪乃の夢は奥様になることだった。家のことをきっちりとやって、手作りの料理で旦那さんを迎える奥さんになりたいのと語った。

 今の時代に珍しい……と思いながらも、その夢に心くすぐられる自分がいた。秀治もまた子供時代にそんな母親に憧れていたのだ。理想は有麻の母親だった。おばさんはいつでも家にいて、秀治と有麻を迎えてくれた。本当の母親だったら――と何度も思ったものだった。そんな気持ちでいたから、あのツツジの騒動が起きてしまった。

 雪乃は就職活動もしなかった。大学を卒業すると同時にアパートで一緒に暮らし始め、結婚し、一年後に莉々子が生まれた。


 菓子折りを手に下げ、秀治はその家の前に立った。雪乃も莉々子も伴わず一人で来るのは初めてのことだ。

 隣町にある雪乃の実家は築三十年ほどの一戸建てで、家の周りはぐるりとブロック塀に囲まれている。家と塀の間にある土地を庭と呼んでいいのか秀治にはわからない。そこには何の植物も植えられていないのだ。

 飛び石と物干し場と物置と。庭にあるのはそれだけだ。砂利の敷かれた地面には草の生える余地もないのだろう。

 インターフォンを押すと、雪乃の両親が出迎えてくれた。義父は公務員をしているが、今日は土曜日で休みの日だ。

「莉々子の顔見たかったのに、連れて来なかったの?」

 言われるだろうと思っていたことを義母の孝子が口にして、秀治は覚悟を決めた。

「莉々子は、伯父の有麻に預けてきました」

「あら、伯父さんに? 雪乃はどうしたの。そういえば最近あの子から連絡ないけど……」

 母親特有の嫌な予感がしたのだろう。急須にポットのお湯を注いでいた手が止まり、孝子の顔がみるみる険しくなっていく。

「雪乃に、何かあったの?」

 秀治は正座したまま、頭を下げた。

「黙っていてすみません。雪乃が家を出ました」

「いつ?」

「ひと月半くらい前です」

「どうして!?」

 いきなり声を荒げられて、秀治は体が跳ねるのを押さえられなかった。

 秀治はこの家ではいつもお客さん扱いだった。義母はにこやかに出迎えてくれて、もてなしてくれていた。雪乃に対して厳しい言葉をかけているのを見かけたことはあったが、秀治に対してはいつも穏やかな義母だった。

「すみません。自分にもはっきりとした理由はわからなくて」

「雪乃の行き先には、何の心当たりもないの?」

 語気は弱くはなったが、孝子の声には冷え冷えとしたものが感じられる。真冬の戸外のドアノブを素手で触った感覚がふと蘇る。冷たいというより痛い、あの感覚。

「はい。雪乃は莉々子を産んでから大学時代の友達とも疎遠になってたみたいで、ママ友の話も聞いたことがないし、バイト先でも特に親しい人はいなかったようで……。その、親戚とか、あ、仲のいいイトコとかいませんか? 雪乃が頼れそうな人を教えてもらえたらと思って」

「教えるつもりはありませんよ」

「え……?」

「娘がご迷惑をおかけしました。娘の不始末は責任もって私達がどうにかします。必ずあの子を見つけ出して、家に戻るよう説得しますから、どうか秀治さんは莉々子のことをよろしくお願いします」

 さっきあんなにも感情をむき出しにした義母が、瞬時に鎧を身にまとっていくようだった。冷え冷えとした氷のような鎧を身に着けて、義母は微笑んだ。

「大丈夫よ。必ず雪乃はあなたの元に戻ってきます。うちの子が離婚なんてするはずがないんだから」

 離婚だけはさせないという意思が、義母の鎧から透けて見えた。


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