ミツバチの見た世界・8
「パパ」
左手だけで莉々子は秀治にしがみついてきた。
「ごめんなさい」
莉々子の声が涙まじりだ。ライトの明かりで見ると、莉々子の頬は濡れていて髪が貼りついている。
「こわかったか。もう、大丈夫だ」
「ごめんなさい。あの子がね、さびしいって。ちょっと遊ぶだけだからって、ついてきちゃったの。すぐに帰ろうと思って、目印があれば大丈夫って思ってたのに……」
その後は泣き声になって、何を言っているのかわからなくなった。ひとしきり声を上げて莉々子は泣いた。
三歳くらいのころ、よくこんな風に火のついたような泣き方をしたものだった。転んだ時、公園でおもちゃを他の子にとられた時。普段は静かなしゃべりかたをするのに泣き声はやたらと大きくて、人の注目を浴びてしまう。
秀治も雪乃もその度、泣き止ませようと躍起になったものだった。子供を泣かせている親として見られたくなかったのだ。そのせいで、莉々子の気持ちはなおざりにしたこともあったかもしれない。
莉々子の感じた恐怖も心細さも全て受け止めるつもりで、秀治は莉々子を抱きしめた。莉々子の流した涙が服に染みこむ感触がする。その熱さに、莉々子が確かに生きていると実感できた。生きて、ここにいてくれる。それだけで十分だった。
ひとしきり泣くと、もうどんな感情も出てこないとばかりに莉々子はしゃくりあげた。涙は止まったが疲れたような顔をしている。
「さあ、帰ろう」
「……でもね、パパ」
莉々子の深刻そうな顔に、すっと背筋を冷たい指でなぞられたような心地がした。
「動けないの」
そう言えば莉々子は、左手だけで秀治にしがみついてきていた。何故右手を動かさないのだろう。
「ライトをくれ」
ブラックライトだけではなく普通の懐中電灯も持って来るべきだったと後悔しながら、秀治は有麻に手を伸ばした。
受け取ったブラックライトの明かりを、恐る恐る莉々子の右手に向ける。
莉々子の右手には枝が絡みついていた。肩のあたりまで腕全体に枝がグルグルと巻きついている。
だからなのか、とようやく理解できた。目印をつけていたのに、莉々子が帰れなかったのはこういうわけだったのだ。
ライトで絡まっている枝を辿ってみると、莉々子が寄りかかっている幹へと繋がっている。
「どうする?」
不安げに有麻を見上げると、表情もわからない暗闇の中で力強い声が返ってきた。
「決まってる」
迷いのない声だった。有麻にライトを向けると、腰ベルトに下げていた袋からハサミを取り出した。太い枝を切るための剪定バサミだった。
「莉々ちゃん、動かないでね」
莉々子が怖がらないようにと、秀治は莉々子の視界を片手でふさいだ。もう片方の手でライトを持ち、莉々子に絡みついている枝を照らす。
有麻は枝の出所を辿っていき、木の幹に触れた。気の立った獣をなだめるように、木の肌を撫でる。
「コナラだな。家が建てられた時植えられたものかな」
木の幹を撫でながら、有麻はささやく。
「秋にはたくさんドングリをつけるんだろうね。この家には子供がいた? 子供が遊んでいる庭が恋しくなってしまったんだね。でも、これはやり過ぎだ」
ハサミの刃がギラリと光る。オウムのくちばしを思わせる独特な形の刃が、枝をはさむ。暗闇の中にパチンと乾いた音が響いた。愛情をこめて切る時も、心を鬼にして切る時も、ハサミの音に変わりはなかった。
「成長の妨げになる枝は、取りのぞくしかないんだ」
花の聲に手を止めていた幼いころの有麻の影は、もうそこには微塵も感じられなかった。
自由になった莉々子が、秀治の首に両手を回してくる。抱き上げて背中をポンポンと叩きながら、「もう大丈夫だ」と繰り返した。
「秀治、これを見てみろ」
有麻がライトで木の根元を照らしている。そこに小さな影が見えて、思わずビクリとする。近づいてよくよく見てみると、帽子をかぶったそれは人形だった。その帽子や服に見覚えがある。
「これ、莉々子を連れていった男の子じゃないか?」
莉々子がうんうんとうなずいている。
「ここに来たら、動かなくなって人形に戻っちゃったの」
「どういうことだ?」
有麻を見ると、「たぶん……」と考えるようにしながら、続けた。
「人形は元々ここにあったもので、これ自体には問題はないんだと思う。コナラの木の魂みたいなものが人形に入りこんで、人の形を取って動いていたんじゃないかな」
木の形をライトでなぞり、荒れた庭もグルッとライトで照らして、やるせないように有麻は言った。
「荒れた庭ほど悲しいものはないな」
不思議だなと思う。野にある木や花は自然の姿のままで美しい。人の手で作られた庭は、人の手をかけなくなった途端荒廃していく。自然の姿に戻るでもなく、荒れているという印象しか抱けない。その姿はただただ悲しい。
「帰ろう」
有麻の言葉にうなずいて、秀治は莉々子を背負った。庭を出た後も、コナラの枝が追いかけて来はしないかと、秀治は度々振り向かずにいられなかった。
疲れ切っていた莉々子はすぐに背中で寝息を立て始めた。寝た子は重いが、生きているゆえの重みだ。
「莉々ちゃんに、怖い思いをさせたな」
有麻は時々、植物の代弁者のような言い方をする。その言葉も、植物側の目線に立っているような気がした。
「そうだな。怖さはしばらく消えないだろうけど」
秀治だっていまだに、赤いツツジが苦手だ。
「でも、莉々子は学ばなきゃいけない。植物にはいいものもいれば、人を騙したり利用したり傷つけようとするものもいるんだってことを」
花の聲を聞く力を持っている以上、彼らとの関わりは避けられないことだ。いい経験も悪い経験も積み上げていくことで、自分なりの彼らとの関わり方を身に着けていかなければならない。
「まあ、俺だってまだ、学んでる途中ってところかもしれないけど」
秀治は金属を身に着けて、敢えて聲を聞かないという手段を取って来た。それも一つの方法ではあるけれど、莉々子がそれを選ぶかどうかも、莉々子が決めることだ。
「だから、莉々子の助けになってやってくれ」
足を止めて頭を下げると、街灯の明かりの中で有麻はうなずいた。
「わざわざ言われなくたって、莉々ちゃんの力になるよ。僕は大伯父なんだから」
秀治はもう一度頭を下げた。さっきよりも更に深く。莉々子が背中でずれる気配がする。
「何だ、もうわかったって」
「すまなかった」
突然の謝罪に、有麻が息を呑む気配がした。
「俺を助けるために、ツツジの木を切らせてしまってすまなかった。あの悲鳴をお前にだけ聞かせてしまって、すまなかった」
「とどめを刺したのは、秀治だろう」
「それでもお前は、力をなくした。お前が持っていてこそ、役に立つ力だったろうに」
「どうかな……」
ふっと息の漏れる音がした。
「頭を上げろ。莉々ちゃんが落ちる」
莉々子を理由にされては、頭を上げないわけにはいかない。体を起こすと、有麻は自嘲するような笑みを浮かべていた。
「この仕事をする上では、僕にとってはあの力は邪魔なものだった気がする。子供のころの僕は植物達に言い負かされてばかりだったろう?」
思わず小さくうなずく。
「それに力があったら、それに寄りかかってしまったと思うんだ。聲が聞ければ確かに手っ取り早いこともあるけど、目の前の木の様子をしっかり観察するっていう一番大事なことをおざなりにしてしまったかもしれない。知識と経験と観察。それがあれば、あの力なんていらないよ」
二人の間で揺れ続けていた、後ろめたさを載せた天秤。その片方の重りがふっと消えた気配があった。
(だったら……)
口には出さず、胸の中だけで秀治はつぶやく。
(お前もいい加減、俺を引き留めたっていう後ろめたさを捨てたらどうだ)
有麻の中のその思いを消していくには、秀治が日々の生活の中で見せていくしかない。
有麻はあの時、秀治の代わりに選択してしまった。
秀治が生きる道を。
本当にそれが正しかったのかと、あの選択を恨んでいないかと、有麻が気にかけ続けるのなら、秀治は体現するしかない。
今が幸福だと。生きていてよかったと。生きているおかげで、莉々子と出会えたと。
莉々子を負ぶって歩く道を、有麻の持つライトが照らしてくれている。傍らの壁に点々と続く莉々子の描いた矢印が、自分達の人生の道しるべに思えた。