ミツバチの見た世界・7
「秀治!」
名前を呼ばれて、秀治ははっとした。ツツジの茂みから目をそらし、声のしたほうに顔を向ける。
有麻がいた。妙にでかいなと感じて、すぐにもう子供ではないのだと我に返る。自分も有麻も、もういい大人だ。赤いツツジの件は遠い過去の話だ。
有麻が手にしているブラックライトらしきものを見つけて、瞬時に莉々子のことを思い出す。
「莉々子は?」
有麻は首を振りながら、ブラックライトを振った。
「これを持ってる人を見つけるのに手間取ってしまった。夜釣りが趣味の人に片っ端から当たってみたんだけど、留守だったり持ってなかったりで……」
「夜釣り?」
「夜釣りに使うルアーは、蓄光っていって暗いところでも光るようになってるんだ。で、そのルアーを光らせるためには、ライトを当てて光を蓄えないといけない。そこでこのブラックライトが役に立つ」
辺りはもう薄暗くなってきていた。有麻がライトを点灯すると、青紫色の光が地面に落ちる。
「ブラックライトを使うと、短時間で光が蓄えられるらしいんだ。そういう話を聞いたことがあったから、夜釣りが趣味な人を当たってみた」
「それで、何で今ブラックライトなんだ?」
莉々子の行方を探すよりも先に、有麻はブラックライトを探しに走った。そもそも莉々子は、どうしてブラックライトを持って家を出ていったのだろう。
「莉々ちゃん、ヘンゼルとグレーテルは知ってるか?」
「ああ、ちょうど今読んでやってるところだ」
「ああ、だから……」
「何だよ、早く言えよ」
こんなやり取りをしている場合ではないのだ。空の端は柔らかなオレンジ色に染まり始めていて、視線を地面に向けると空との対比で暗さが一層際立つ。
ブラックライトが切り取った視界の中に、ふっとそれを見つけて、秀治は声を上げていた。
「何だそれ?」
傍らのブロック塀に白く浮き立つものが見える。どうやら、矢印の形だ。
「莉々ちゃんは学習能力が高いね。僕が教えたことをしっかり聞いて、それを活用する方法を自分で考えることができる。きっと以前に、紫外線吸収剤についても聞いたことがあったんだろう」
「紫外線吸収剤って……」
「日焼け止めなんかに入っている。たぶんこれは、日焼け止めクリームを塗って書いたものだよ」
「日焼け止め……」
確かに雪乃は、紫外線にもうるさかった。莉々子が日焼けしないようにと、外へ出かける際には日焼け止めクリームを塗るのを欠かさなかった。
そう説明すると、有麻はうなずいた。
「じゃあ雪乃さんが教えたんだろうな。日焼け止めの成分について。昨日の実験で日焼け止めクリームにブラックライトを当てれば目立つはずだって気づいたんだろう。賢いな、莉々ちゃんは」
娘を褒められるのは悪い気がしないが、今はとにかく莉々子を見つけなければならない。
「それで、莉々子はどこにいるんだよ」
「この目印を辿るんだ」
ブラックライトを当てながら、有麻は矢印を指さした。だけど矢印が差しているのは、秀治が来た方向――つまり家のほうだ。
「辿ったら、家に戻らないか?」
「だから、逆なんだ。莉々ちゃんは迷わず家に帰れるように、この目印を書いていったんだ。家の方向はあっちだって。これを逆に辿っていけば、莉々ちゃんのいるところに辿り着くはずだ」
莉々子にそれだけのことを考えて行動する力があったのかと、目を見張る思いだった。父親なのに、何もわかっていなかった。あれこれと世話をしてやるばかりで、できることに目を向けていなかった。
夕闇の迫る中、有麻と秀治はブラックライトで照らしながら、目印を辿っていった。
この薄暗い世界で、莉々子はどうしているだろう。怖い目に遭わされていないだろうか。心細くて泣いていないだろうか。繋いだ手のぬくもりや柔らかさを思い出すだけで、秀治のほうが泣き出しそうだ。
親の立場になってみて、初めてわかった。
子供の行方がわからないというだけで、不安と心配で胸が押しつぶされそうになっている。嫌な想像ばかりが膨れ上がって、打ち消しても打ち消しても頭から離れていかない。
あの時――秀治がツツジに捕らわれた時、秀治の母親や有麻は、どんな心地でいたのか。
当事者の秀治は、怖いとも辛いとも思っていなかった。彼女がかわいそうという気持ちに流されていただけだった。
あの時の周囲の人達の気持ちが、今初めて理解できた。
秀治を失ったらどうしよう。何が何でも秀治を取り戻すのだと、そう思っていてくれたのだろう。
あれが起きてしまったのは、有麻の助言を聞かなかった自分のミスでしかなかった。
もし秀治が死んでしまっていたら、どれだけの傷を周りの人に残すことになっただろう。
「有麻」
ライトを握って振り向いた、有麻の目だけが白く輝いている。その背後に広がる空は一部分だけがオレンジ色に燃えていて、そのオレンジを闇が呑みこみ始めていた。
「ツツジの件で、迷惑かけたな」
有麻は「今さら何だ」と静かに返した。
あの一件については、お互いなるべく触れないようにして来たのに。
「引き留める側の気持ちが、初めてわかった」
有麻の目の白い輝きが、三日月のように細くなる。菩薩のような慈悲深い笑みだった。
「莉々ちゃんのおかげだ。親になれてよかったな」
お前のおかげでもあると、胸の中だけで秀治はつぶやいた。
有麻が引き留めてくれたおかげで、秀治の今がある。
だからいい加減、秀治に責任を感じるのはやめにしてほしい。
有麻に優しくされるたび、何かをしてもらうたび、秀治は思ってしまうのだ。まだ責任を感じているのかと。だから優しくしてくれるのかと。莉々子に対する優しさまで、大伯父としての愛情なのか、責任感からかと勘ぐってしまう。
更に闇は落ちて、お互いの表情すらわからなくなる。ブラックライトに照らされた視界の中で、莉々子のつけた目印だけが星のように輝いている。
目印を辿っていった先は入り組んだ細い路地だった。家の密集した路地を抜けると、竹垣の前に出た。竹垣は長く続いていて、家なのかお寺なのかわからないが広い敷地だということは伺える。
「お寺か?」
「いや、この辺にお寺はないな」
竹垣にも目印は書かれていた。それを辿っていくと、立派な拵えの門に出る。幸い扉などはなく、恐る恐る庭へと足を踏み入れる。
「お邪魔しまーす」
及び腰の秀治と違って、有麻は堂々と庭へ足を踏み入れていく。普段から他所の庭へ入り慣れているからだろう。
「空き家だな」
庭の様子をざっと目にして、有麻は断定した。
秀治の目から見ても、その庭は荒れ果てていた。足元には枯れた雑草がそのまま放置され、広い敷地には木の影が見えるが、どれも枝が伸び放題のようで、モンスターのようなシルエットが見える。
「莉々子はここにいるのかな」
「家の中に入りこんでなきゃいいけど」
子供のすることとはいえ、他人の庭に入るのと家に入りこむのでは深刻度が違う。
有麻がライトを動かす。ブラックライトでは視界はあまりよくない。その青紫色の円の中に、綿菓子のようなフワフワとした塊が見えた。有麻もそれに気がついたようで、そこにライトを当てる。
莉々子だった。大きな木の幹に寄りかかるようにして、ライトの光にまぶしそうに目を細めている。
「莉々子!」
呼びながら秀治は莉々子に駆け寄った。幻ではないかと恐れながら左手に触れ、握り返すいつもの感触に胸を撫で下ろした。