ミツバチの見た世界・6
その人に会ったのは――正確に言うと、その人に気がついたのは、秀治がライオン組の時だった。ライオン組というのは秀治の通っていた保育園の年中さんのことだ。
御園生の庭の母屋の裏手の隅。そこに毎年赤い花を咲かせるツツジの木があった。
ツツジが丸く整えられた枝いっぱいに赤い花をつけたころ、秀治はそこに人がいることに気がついた。白っぽい和服を着た女性だ。髪を後ろで結い上げていて、年だけ見ると母親と同じくらいに見えるのに、もっと昔という感じがした。そのころの秀治にはわからなかったけど、今ならば髪形や格好の年代が古いのだとわかる。
何だかおかしな人だと思ったのは、その人がツツジの木の真ん中に立っているからだった。ツツジの枝は隙間なく伸びて丸い形を作っているのだから、その真ん中に立てるはずがない。
その人の姿をよくよく見つめて、腰から下が透けていることに気がついた。あ、と思った。あれがユーレイというものだ。
秀治と目が合うと、その人はフワリと微笑んだ。おばさんみたい、と思った。
その人の姿が見られるのは、赤いツツジの咲いている間だけだった。ツツジの花が枝から落ちてしまうと、その人もそこからいなくなる。いなくなるのか、見えなくなるだけなのかは、秀治にはわからなかった。
いつしか秀治は、その人が現れるのを心待ちにするようになった。桜が咲くころになるとソワソワし始めて、ツツジの蕾が膨らんで色づくようになると、会えるのは今日か明日かとツツジのそばから離れられなくなる。
最初の一輪が花開いて彼女が姿を現すと、今年も会えたうれしさで胸が幸福で満たされた。彼女もまた同じ気持ちでいてくれるのだということが、その微笑みから伝わってきた。
赤いツツジの花が咲くとそのそばを離れなくなる秀治を、有麻は心配していた。
『あれは、よくないものだよ』
有麻はどうやらその人を、怖がっているらしかった。
有麻にはわからないんだ、と秀治は思った。家に帰ればいつだって母親がそこにいてくれる。その安心感を当たり前のように受け入れているから、そのありがたみがわからないのだ。
秀治の母親が仕事から帰ってくるのは、いつも日が落ちてからだった。帰っても自分のことに忙しくしていて、秀治の話に耳を傾けてはくれない。
普段の世話をどれだけしてくれていても、やはりおばさんはおばさんだった。有麻の母親であって、秀治の母親ではなかった。
母親に注ぎたくても注げないものを、秀治はその人にぶつけた。花が咲いている間は、彼女はそこにい続けてくれる。母親に聞いて欲しかった話を、彼女が全て聞いてくれた。いつでも微笑みながら、秀治を見つめてくれていた。
最後の花が落ちると、彼女は寂しそうに微笑みながら姿を消していった。枝の下に落ちた花を、秀治は拾い集めていった。中のしべを抜いて花をひもに通して輪っかにしてツツジの枝にかけてやる。粘りのあるしべが気がつけば体のあちこちに貼りついていた。
秀治が小学生になった五月のことだった。ツツジの花が開くと、いつもどおり彼女が現れた。
秀治はツツジの木の周りに彼女に見せたいものを並べて、その時を待っていた。ランドセルに黄色い帽子。教科書とノートと筆記用具。
秀治が語る小学校の話に、どういうわけか彼女は悲しそうな顔をした。秀治が語れば語るほど、泣きそうな顔になっていく。
花が満開になったころ、初めてその人は秀治に声をかけてきた。
『私とずっと一緒にいたい?』
この先に何が起きるのかと想像もせずに、秀治はうなずいていた。秀治の求める母親の役目を果たしてくれているのは、この人のほうだった。子供の秀治には生活を支えてくれる母親よりも、そばにいて愛情を満たしてくれる彼女のほうが魅力的だった。
その瞬間、彼女に抱きしめられたと思った。だけど秀治の体を包んでいたのは、ツツジの枝だった。
気がついた時には秀治は、ツツジの茂みの下にいた。周囲はツツジの枝に覆われていて、枝の先は土へと深く突き刺さっている。枝で出来た檻の中に捕らわれていたのだ。
檻の中は、秀治がしゃがめるほどの隙間ができていた。格子のように秀治の自由を奪っている枝は、手でつかんでもびくともしない。
途方に暮れながら枝の向うに広がる庭を眺めていると、有麻の靴が見えた。靴が茂みの前で止まったと思うと、有麻の顔が茂みの中を覗きこんでくる。秀治の姿を確認すると、その顔に怒りが浮かんだ。
『何をしたんだ』
本気で怒っている有麻を見たのは、その時が初めてだった。庭の木と同じように穏やかで大抵のことは受け流してしまう有麻が、目が吊り上がるほどに怒りを表していた。
秀治は恐る恐る説明した。彼女に言われたことと、それに対する自分の返事。それを聞いて有麻の顔はますます険しくなっていった。
『お前は、僕達を捨てていくのか』
その時初めて理解できた。自分が何を選択してしまったのか。
彼女はもう死んだ人だ。彼女とずっと一緒にいるということは、死者の仲間入りをするということだった。
彼女か母親かという二択ではなかった。秀治は彼女を選んだことで、自分のそばにいる人達を捨てたも同然だったのだ。
『そんなつもりじゃなかったんだ』
何を言ったところで、言い訳がましく響くだけだった。
大人達が事態に気づき、ツツジの周りに祖父やおばさんもやって来た。母親も仕事を早退して帰ってきたらしかった。
母親は枝を切るように祖父に訴えていた。聲を聞ける祖父は彼女の事情も知っていたのだろう。手荒な真似をしたくないと、彼女の説得を試みていた。
そうしているうちに夜になり、枝の隙間から水とおにぎりとが差し入れられた。母親が握ってくれたおにぎりを、秀治は久しぶりで口にした。力加減がわからずギュウギュウに握られたそれには、母親の思いも握りこまれているようだった。
薄い毛布にくるまって、秀治は夜を明かした。寝ている間夢を見た。自分は知らない男の子になり、彼女と共に暮らしていた。病院の白いベッド。その横に飾られた黒いランドセル。その辺りで男の子の意識は途切れる。何があったのか秀治にもぼんやりと理解できた。
死にたくはなかった。だけど彼女をこのまま一人にもしたくなかった。
枝の隙間から朝日が差しこんで来た時、露を載せた芝生を踏みしめながら歩いて来る青いスニーカーが見えた。自分の体の半分ほどもある刈りこみばさみを抱えて、有麻はツツジの前に立ちはだかった。
『戻ってきたいか?』
有麻の問いかけに、秀治は答えられなかった。自分の中の天秤は、枝の向うとこちらとで揺れ続けていた。
『もういい。お前が選べないのなら、僕が決める』
有麻がハサミを両手で広げるのを見て、思わず叫んでいた。
『ダメだ、有麻!』
彼女を守りたいという気持ちもあった。それ以上に、それをしてしまったら、有麻の中に一生消えないものが残ると思ったのだ。
『やめろ』
叫んだ秀治の首に絡みつくものがあった。ツツジの枝だ。有麻には渡さないと言いたげに、秀治の首を締め上げていく。
声を出すどころか、息もできなくなった。ハサミが朝日を反射してギラリと光ると、バチバチと音を立てて秀治を捕らえていた檻を切りはらっていった。
悲鳴を聞いた気がした。だけどツツジの枝は秀治を離さなかった。新たな枝が秀治の腕や足にも絡みつき、肌に食いこんでくる。
『秀治!』
表の枝を切りはらって茂みに入りこんで来た有麻は、木バサミを手にしていた。
『行かせない』
目を吊り上げ必死の形相で、有麻は秀治に絡みつく枝にハサミを入れた。たやすくは切れないそれに、両手でハサミを持って立ち向かっている。
『お前が行きたいって言っても、そっちには行かせない』
バチンという音とかん高い悲鳴とが同時に響いた。秀治の首に絡みついていた枝が切り落とされたのだ。
続けて有麻は秀治の腕と足に絡みつく枝にもハサミを入れていった。足を捕らえた枝は固かった。秀治が自由になった瞬間、有麻の持ったハサミのネジが弾け飛ぶのが見えた。ハサミがバラバラになったのをあざ笑うように、枝が有麻に向かって伸びていく。
有麻の首に絡みついた枝は、有麻の首を締め上げていった。有麻の手からハサミの残骸が落ちるのを見て、秀治は立ち上がった。
有麻が表の枝を切りはらうのに使った大きな刈りこみバサミが地面に落ちている。それを両手で抱えて、ツツジの木に向き合った。
彼女は、変わらずツツジの木の中央に立っていた。有麻の首を締め上げながらも、秀治にはいつものような微笑みを見せていた。
『ごめん、お母さん』
ハサミを閉じ、両腕を頭上に掲げる。振りかぶって、その勢いのままに閉じたままのハサミを彼女に向かって突き立てた。
ハサミは、彼女の体を通り抜けていった。そしてツツジの茂みの真ん中に突き立った。
耳をつんざくような悲鳴が沸き起こった。彼女の声なのかツツジの聲なのか、わからなかった。
ツツジから伸びていた枝は力なく地面へと落ちた。有麻も枝から解放されて、起き上がる。
悲鳴が止むことはなかった。それは庭じゅうに響き渡り、有麻と秀治を呪うように叫び続けた。
ふと、悲鳴が止んだ。耳に温かな物を感じて振り向くと、有麻が後ろから手を伸ばして秀治の耳をふさいでいた。
あの時どうして自分は、有麻の耳をふさいでやらなかったのだろう。
後から何度も後悔した。
秀治は彼女から目を離せなかった。
秀治が見つめる前で、ツツジの枝からハラハラと葉が散っていった。枝中についた赤い花もボタボタと地面に落ちていき、見る間に木の下は花びらで赤い血だまりのように染められた。
ツツジの枝は茶色く枯れたようになり、地面にへたりこんでいく。その中心にいる彼女の姿は朝日に溶けていくように消えかけていた。
最後に見えた彼女は、悲しそうな目で秀治を見つめていた。『ぼうや』と聞こえた気がした。
彼女の姿が消えた時、ツツジの木も茶色く縮れたようになって地面に這いつくばっていた。赤い花だけが色を保っていて、痛々しかった。
有麻の手がゆっくりと、秀治の耳から離れていく。
もう悲鳴は聞こえなかった。
終わったのだと、思った。