ミツバチの見た世界・5
次の日の日曜日は、有麻が莉々子を見てくれるということで、秀治は家具屋と中古品店巡りをした。使えそうなオークのイスを見つけ、頭の中で予算の計算をしながら家に戻る。
莉々子は午後のお昼寝中だった。買いこんだ細かな備品をチェックしていると、ソファで寝ていた莉々子が起き上がった。
「お、起きたか?」
お昼寝明けの莉々子は、いつもしばしの時間不機嫌になる。秀治にうなずいてみせただけで、しばらくソファでボーっとすると外へ出ていく。
「おい、一人で外に行くなよ」
「庭で遊ぶだけ」
そっけない返事に肩をすくめて、秀治は備品のチェックに戻った。今日も有麻は生垣の剪定をしているから、莉々子が外へ出ようとしたら見つけてくれるだろう。
備品の値札をはずし、空き部屋に片づけたところで、そろそろおやつにしようかと莉々子の様子を見に行く。昨日と同じ場所でままごとをしているだろうと覗いてみるが、そこにはいない。
「莉々子、どこだ?」
呼びかけながら、庭を一周してみる。莉々子の姿は、どこにも見当たらなかった。
「莉々子!」
呼ぶ声についつい力が入る。その声を聞きつけて、有麻がやって来た。
「どうかしたか?」
「莉々子を見なかったか?」
「お昼寝から起きたのか?」
「ああ、庭へ出ていったはずなんだけど。お前、どこにいた?」
「表の門の近くだ。あっちからは出てないな。家の中はちゃんと見たか?」
「いや。そうだな。知らないうちに家に戻ったのかも」
そうであってほしいと願いながら、秀治は家に飛びこみ莉々子の名を呼びながら、各部屋のドアを開けて回った。トイレにも洗面所にもいない。怖がりの莉々子が、一人で暗い部屋に入るはずがないとわかっていても、空き部屋を確かめずにはいられない。
秀治をからかおうと隠れているのかもしれないと、ベッドの下やカーテンの陰もくまなく探す。
もう一度庭に出て、植えこみの影を覗きこんでいく。そこへ有麻が表門から入ってくる。
「いたか?」
「いや、家の中にはいない」
「家の周り一周してみたけど、近くにはいなかった」
あの怖がりの莉々子が、一人で家を出ていったということだろうか。
それとも……。
「まさか、誘拐?」
青ざめた秀治の腕をつかみ、「落ち着け」と有麻が言う。
「まずは確かめよう。莉々ちゃんが一人で出ていったか、連れ出されたか」
「確かめるって、防犯カメラでもあったか?」
「カメラはないけど、見てたものがいるだろう」
有麻に腕時計をはずされて、ああ、と呑みこめた。この庭にカメラなどいらない。彼らが見ているのだから。
裏口へ周り、そのそばに生えている紫陽花の木に秀治は触れた。茶色く真っ直ぐな枝にはわずかに葉がつき始めている。
「莉々子を、見なかったか?」
その問いに返ってきたのは、声ではなく映像だった。紫陽花の目線の景色だろうか。
目の前を莉々子が通り過ぎていく。同じ背丈の男の子と手を繋いで。男の子は緑色の布の帽子をかぶり、表情は伺えないけれど、昨日秀治が見かけた子供のように思えた。
莉々子はお昼寝から目覚めた時と同じ格好で、手には何故か懐中電灯を持っている。いや、違う。莉々子が手にしているのは、昨日実験に使ったブラックライトだ。
「ブラックライト?」
つぶやいた弾みで、映像が途切れた。
「わかったか?」
心配げな顔で訊ねる有麻に、秀治は今見た映像のことを説明した。昨日の子供と一緒に、莉々子が出ていったこと。ブラックライトを手にしていたこと。
「昨日の子と……ブラックライトか」
しばらく思案していた有麻は、「一ついいか?」と聞いてきた。
「昨日その子供を見た時、お前は腕時計をしていたか?」
その状況を思い返し、秀治は冷たい指で背中をなぞられたような思いがした。
「いや。はずしていた」
正確にははずされていた。ユキヤナギの枝によって。
まさかあの時ユキヤナギは、忠告してくれていたのか?
あの子は、腕時計をはずさなければ、見えない者だったということだろうか。
有麻と視線が交わる。思っていることを言おうかどうしようかと迷っているのが、よくわかる。秀治も同じだからだ。
「一緒に言おう」
一つ息を呑んで、秀治と有麻は同時に言った。
「その子は人じゃない」
目の前に赤いツツジの花がちらつく。
閉じこめられた枝でできた檻と、その隙間から見えた景色。湿った土の冷たさと匂いと、ツツジの葉に生えた産毛の感触。
「秀治?」
肩を揺すられて、目の前にいる有麻に気がついた。
「あれは関係ない」
自分自身が確かめるように、有麻はもう一度口にした。
「あれはもういない」
そう、もうあれがいるはずがないのだ。莉々子を連れていったのは、別の存在だ。
何より秀治はもう、小さな子供ではない。
「莉々ちゃんを探そう」
有麻の言葉にうなずきながら、でもどうやって? と有麻の顔を伺う。
「お前はさっきの要領で、近所中の木に聞きこみをしてくれ」
やるべきことを示されて、初めて足に力が入った。
「僕は、ブラックライトを調達してくる」
「ブラックライト?」
こんな時に何を言ってるんだと混乱したが、今はとにかく有麻の言うとおり動くしかない。
「そうだ、木には人をからかったり嘘をつくものもいるから、言われたことを鵜呑みにするなよ」
出かける支度と家の戸締りをして、秀治と有麻は門の前で別れた。日が暮れるまでに莉々子が見つからなければ、警察へ行くことを決めた。
裏口を出て莉々子達はどちらへ向かったのだろう。まずはそこからだ。
家をぐるりと取り巻く生垣は当てにならない。枝や根が混然一体となり、集合体となっているのだ。表側が見た景色を裏側のものとして伝えてきそうだ。
裏口を出てまずは左方面へと歩く。生垣の高さがあるため、御園生の庭の木に道を歩く莉々子の姿は見えないだろう。
生垣が無くなったところで隣家の庭が現れた。こちらは低い板塀で敷地を囲ってあるだけで、その上から庭木が覗いている。
カエデの枝にそっと触れ、「莉々子を見なかったか?」と問いかける。カエデは静かに『知らない』と返事をくれた。
こちらに来ていないのなら反対側か。家の裏口へと戻って、今度は右側へと向かってみる。こちらの隣家は空き家で、時々管理業者が庭の手入れに来ている。と言っても、有麻とはまるで違う手入れの仕方で、雑草には除草剤が撒かれ、木は電動のこぎりや生垣用のバリカンで無造作に刈られている。
乱雑に刈られたコニファーは、見るだけで胸が痛む。表面が黄色がかった葉に触れると、人間に対する怒号が指先から流れこんで来た。これでは話になりそうにない。
仕方ないと、歩みを進めて隣の家へと移る。そこのライラックなら莉々子と顔見知りだ。薄紫色のライラックにそっと触れると、恥じらうように花が揺れた気がした。甘い香りに頭がクラリとする。
「莉々子がここを通らなかったか?」
『通った』という返事に小さくガッツポーズする。やっと一歩前進だ。
「ありがとう。今日もきれいだよ」
ほめ言葉をつけ足すのを忘れずに、道を進む。その先は十字路だった。
秀治の歩みは少しも進まなかった。十字路でまずつまずいた。目立った庭木のない道や、そもそも庭に何も植えない家もあり、聞くべき木を見つけられない。庭先にあるコンテナのパンジーに聞いてみると、それぞれが違うことを言い、更に混乱することになった。
やっと十字路を抜け出しても、その先にも分かれ道がある。莉々子がいなくなってもう一時間は経つのに、秀治はまだ御園生の家の近所をさまよっていた。
有麻も出ていったきり戻らない。このままでは、日が暮れてしまう。
ブロック塀越しに覗きこんだ庭先に、ツツジの茂みを見つけて思わず秀治は喉に手を当てていた。
そこに絡みつく枝の感触を、今でもはっきりと思い出すことができる。