ミツバチの見た世界・4
翌朝ご飯を食べるとすぐに莉々子はじっけんを言い始めた。
「いいよ。じゃあ準備のために、ちょっと散歩に行こう」
有麻と連れ立って出かけたと思うと、三十分ほどで帰って来た。莉々子の手にしたカゴの中には、小さな黄色い花のついた草が入っていた。
「草?」
どう見ても、その辺の野原に生えている雑草だ。
「草じゃない、ヘビイチゴとヤブヘビイチゴだ」
「二種類あるのか?」
「そう、見分けがつくか?」
有麻に問われて、カゴの中の花を見比べてみる。花びらの大きさが微妙に違うものがあるが、個体差のような気もする。
「わからん」
白旗をあげると、有麻は勝ち誇ったような顔で「さあ実験だ」と言った。
一階の空き部屋に入ると、有麻はカーテンを閉め切った。そこで莉々子にブラックライトを持って来るように言う。床に白い紙を敷くと、その上にカゴの中の花を並べていく。
「もってきたよ」
「よし、じゃあ、ライトをつけて、この花を照らしてみて」
ブラックライトで照らした花は、思いもかけないところが目立つようになる。花びらは存在感をなくし、中心やおしべの花粉の部分が蛍光に輝いて見える。
「ほら、この花とこの花、比べてみてごらん」
有麻が二つの花を摘まみ上げて、莉々子の目の前に持っていく。秀治も莉々子の頭ごしに覗きこんだ。
「あ、ちがう」
日の光の中では黄色一色に見えた花びらだったが、紫外線を当てると蛍光色の模様が放射状に伸びているのが、浮かび上がって見えた。もう一つの花のほうには、その模様がない。
「これが、ヘビイチゴとヤブヘビイチゴの見分け方だ。この、模様が見える方がヤブヘビイチゴ」
「でも、何のためにこんな模様が?」
秀治の疑問に莉々子もコクコクとうなずいている。
「花は人のために咲くんじゃない。虫のために咲くんだ」
虫を呼んで花粉を運んでもらう。花が咲くのはそのためだ。
「これはね、ミツバチの見ている世界だよ」
「ミツバチ?」
「そう。ミツバチは人間と見える色の波長が違うんだ。赤色の波長を感じることができないけど、紫色の波長を感じられる。チョウなんかもそうらしい。花の中にはこんな風に、紫外線を通して見ると、模様が浮かんだり色が濃く見えたりするものがあるんだ。色が濃い場所には蜜がある。ミツバチやチョウにここに蜜があるって教えているんだね」
有麻は場所を庭へ移すと、実験の続きを始めた。と言っても外なので、ブラックライトは使えない。口で説明するだけだ。
「ほら、モンシロチョウが群れてるだろう」
今が盛りの薄紫色のバーベナの周りに、五匹ほどのモンシロチョウが群れていた。
「多分あの中には、オスとメスの両方がいると思うんだけど、見分けがつく?」
ヘビイチゴの時と同じだけの難問だった。目を凝らしてチョウを見つめていた莉々子だったが、あきらめたように首を振った。秀治が見ても、羽の大きさも模様も同じで、まったく区別がつかない。
「でもモンシロチョウのオスは、ちゃんと間違えないでメスに求婚できるんだ。どうやって、オスとメスを見分けてるんだと思う?」
さっきのヘビイチゴの実験からの流れで、莉々子にもその答えがわかったようだった。
「しがいせん」
「そう。正解。モンシロチョウのオスの羽は紫外線を吸収して、メスのほうは逆に反射するんだ。つまりモンシロチョウの目で見たら、オスのほうは真っ黒に見えるわけだ」
「モンシロチョウなのに、黒いのか?」
「そもそもモンシロチョウと名付けたのは人間だ」
人の目で見ているから、モンシロチョウの羽は白く見える。それだけのことなのだ。
人の目には見えない紫外線を、チョウやミツバチは感じることができる。赤色が存在せず、紫外線が見える世界。
自分がいつも見ていて、確かにそこにあるはずの景色が、ふと揺らいだ気がした。ミツバチの目にはこの世界はまったく別のものに見えているのだろう。人の目には見えない花の模様は、ミツバチにとっては宝物への道しるべだ。
自分が何も知らず通り過ぎてきた場所にも、大事な印が刻まれていたのかもしれない。そんなことを、秀治は思った。
午後から莉々子と散歩に出かけ、あちこちの庭の木にあいさつして回った。この季節は次々と花が咲き始めるので、油断していると花の盛りを見過ごしてしまう。秀治は別に構わないけど、莉々子に怒られるのだ。
どうやら近所の木に咲く花達は、こぞって満開の時を秀治に見せたいと思っているらしい。自分の何が花達を惹きつけるのか秀治には見当もつかないが、莉々子に連れられるまま庭を回り、垣根越しに花を眺めては「きれいだ」のひと言を囁いた。
夜空の星のようなドウダンツツジに、薄紫色のライラック、豪華なドレスのようなシャクナゲ。どれもこれも秀治の姿を目にすると、恋する乙女のように恥ずかしそうなくすぐったそうな笑い声を漏らした。
「きれいだ」と秀治が囁くと、満足げなため息を漏らす。たったその一言だけで、花達は満足してくれるのだ。
家に帰ると莉々子は庭の隅でままごとを始めた。秀治はまた腕時計を手に嵌め、草むしりを始める。
ふいに誰かに呼ばれたような気がして、秀治は腰を浮かせた。だけど周りを見回しても、人の気配はない。莉々子は離れた場所で一人ままごとをしていて、秀治を呼んだ様子はない。遠くでハサミの音がしているから、有麻も近くにいないようだ。
思わず腕時計を確かめると、立ち上がった拍子にやってしまったのだろうか。バンドに木の枝が挟まっていた。花を終えて若草色の葉に包まれたユキヤナギの枝だ。枝を折らないように気をつけながらバンドを緩め、腕時計を外した。腰を伸ばして、莉々子の様子を見やった時だ。
莉々子のそばに、誰かがいる。
莉々子と向かい合わせにしゃがみこみ、一緒に遊んでいるらしき子供の姿だ。
二人でおしゃべりしているのか、かすかに笑い声の混じった声が聞こえてくる。
いつの間に、子供が入って来たのだろう。近所の子だろうか。
大人なら不審者かと身構えるところだが、子供だし、何より莉々子が楽しそうに話をしている。庭木にいたずらされない限り、放っておいても問題なさそうだ。
そう判断を下して、秀治はまたしゃがみこみ腕時計を元通り嵌めると、草むしりの作業に戻った。莉々子達のおしゃべりは、まだ続いている。
三十分ほど経った時だろうか。「のどかわいた」と莉々子がやって来た。
「おやつにしようか。あ、お友達は?」
「もう帰ったよ」
「ふうん、近所の子?」
莉々子が首を傾げて、わからないという顔をする。とにかく休憩にしようと、試作品のチョコチップ入りのスコーンとオレンジジュースをウッドデッキのテーブルに並べた。有麻にも声をかけて、大人二人分のコーヒーの豆を挽く。
挽き終わった豆をフィルターにセットして、お湯を注ぐ。カフェを始めようと決心して真っ先に手に入れたドリップポットで、粉が膨らむくらいのお湯を注ぐ。二十秒数えたら本格的にお湯を注いでいく。粉にだけかかるように気をつけ、お湯が落ち切る前に次のお湯を注ぐ。膨らんだ泡はコーヒー豆に含まれたアクなので、それをコーヒーの中に落とさないように気をつけなくてはならない。二人分のコーヒーが出来上がったら、お湯が落ち切る前にドリッパーをはずす。アクや雑味を混ぜないためだ。
カップにコーヒーを注ぎ終えた時、手を洗った有麻がやって来た。
チョコチップ入りスコーンは莉々子には好評だったが、有麻には甘すぎたようだ。
「プレーンのやつに、イチゴジャムつけて食べたい」
有麻の感想に、確かにと秀治もうなずく。大人にはその方がいいだろう。
「次はそれ、試してみるか」
コーヒーの香りを楽しみながら、さっきの子供について莉々子に尋ねてみる。
「で、さっきの子は、どこから来た子なんだ?」
「わかんない。お家、あっちの方って言ってたけど」
莉々子は南の方角を指さす。
「ちらっと見ただけだけど、男の子か?」
「うん、一緒に学校ごっこしたよ」
「へえ、おやつあげればよかったな」
聞いていた有麻がわずかに眉をひそめる。
「何だ? 男の子って」
「庭にいつの間にか子供が入って来て、莉々子と遊んでたんだよ」
「庭に入って来たって、裏口から?」
秀治はしばし考えて、首を振った。裏口は離れの近くにあり、そちらから入って来て莉々子の元へ行ったのなら、小道のそばで草むしりをしていた秀治が気づかなかったはずがない。
「いや、裏口から入ったら、俺の前を通ったはずだから気づかないわけない。表のほうだろ」
これにはきっぱりと、有麻が首を振った。
「僕は表の門の辺りの生け垣を剪定してたんだ。誰か入って来たら、気づかないはずがない」
そういえば帰る時も、いつの間にかいなくなっていたのだった。有麻が言うのなら、表の門は通っていないということだ。家の敷地は広いが、隙間なく生け垣に囲まれていて、子供でもすり抜けることはできない。
しかしこれだけ広い庭なのだから、植木に隠れながら秀治の視界に入らないよう移動すれば、裏口から出入りすることは可能なように思えた。
どうしてそんなことをしたのかわからないが、秀治自身散々この庭でかくれんぼしたのだ。隠れ場所は心得ている。
有麻にその考えを話してみると、納得したようだった。
「莉々ちゃん、今度その子が来たら、表から出入りするよう言っておいてね」
オレンジジュースを飲み干した莉々子は、「うん」とうなずいた。