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ミツバチの見た世界・3

 まだ新人のころ、会社の先輩に教わった言葉がある。

 新人は失敗をするのも仕事のうちだから、洒落になる程度の失敗はどんどんしろ。ただし、取り返しのつかない失敗だけはするな。その助言は、今でもありがたく胸に留めている。

 秀治は人生で一度だけ、取り返しのつかない失敗をしてしまった自覚がある。

 その結果、有麻が力を失うことになった。


 雪乃が家を出てから、とうとう一カ月が経ってしまった。

 もう戻る気はないのかもしれないと思いながら、秀治は警察へ行き捜索願の届を出した。届は出したものの、事件性がない限り実際に捜索してもらえるものでもないらしい。雪乃の場合自分から出ていったことが明らかだったため、事件性はないと判断された。

 カフェの開店準備は着々と進んでいた。

 有休を使ってあちこちの家具店や中古店を覗き、使えそうなイスを探して歩いた。カップとグラスは統一したデザインのものをオーダーすることにし、そちらの打ち合わせも進めていった。

 資金の目途がついたおかげで、工事も正式に依頼することができた。今月中には取りかかれるという話でまとまったところだった。

 お世話になった喫茶店のマスターにあいさつに行き、自分の店を持つ予定だと話をした。幾つかのレシピを使う許可をもらい、コーヒーの焙煎工房にも話を通してもらえた。

マスターから教わったレシピを再現するためと料理の手際を身に着けるために、毎食のようにコンロの前に立つようにもなった。

 ほんの数ヶ月前までは想像もしていなかった、怒涛のような日々が過ぎていった。忙しくても、やりたいことへ向けて走っているという充実感があった。会社での仕事では味わったことのない充実感だった。


「店名は何にするんだ」

 土曜日の午後のことだった。有麻は庭のコニファー類の剪定作業をしていた。秀治は地面にしゃがみこんで草むしり作業中だった。

 剪定された葉と一緒に降ってきた有麻の問いに、秀治はうなった。

「考えてるんだけどさあ、なかなかこれってのがなくて」

「まだ時間はあるんだし、ゆっくり考えろ」

 店名は、庭や緑や花にちなんだものがいいかと考えていた。しかし候補が多すぎて、絞りこめないのだ。

 有麻のハサミの音は心地よく庭に響いている。有麻が刈りこみバサミを振るうたび黄金色を帯びたコニファーの葉が降ってきて、地面から見上げると金の雨が降るようだ。

 有麻のハサミの音は、庭の木や花にとって子守歌のようなものだった。一定のリズムで響くその音は、庭を包み抱きしめていくようで、慈雨を浴びたように花や草木がくつろいでいくのが伝わってくる。

 御園生の庭は、大部分が芝生やグラウンドカバーと呼ばれる地面を覆うように生える植物でカバーされていて、土が露出しているのは木の根元程度だ。だけど雑草というものは、そういうわずかな地面を見つけては芽を出す。単体でいる雑草は、時々文句を言う。それを一々聞いていては切りがないから、秀治は腕時計を嵌めたままで草むしりをしていた。

 地面に近い場所で草と土の匂いを感じていると、子供時代を思い出した。あのころはいつだって、目線の先に花があって、地面のささいな変化にも気づくことができた。頭を下げなくても木の枝に引っかかったりせず、日が暮れるまで有麻とかくれんぼをしていた。

 目線を上げると赤い花が目に入り、ギクリとした。ツツジの植えこみの辺りに、赤い花が咲いているのが見える。まさか、あれは。

 ハサミの音がふいに止んだ。台に乗って作業していた有麻が、秀治を見下ろしている。

「どうした」

「赤い、ツツジが」

 逆光で、有麻の表情は読み取れない。暗いままの顔が、ゆっくりと横に動いた。

「違う。よく見ろ」

 恐る恐る近づいてみると、ツツジはまだ蕾の状態だった。その近くに赤い花が咲いている。ツツジとはまるで似ていない、秀治でも知っている花だった。

「ガーベラだ。すまない、植えた場所が悪かったな」

 胸を撫で下ろして、秀治はゆっくりと息を吐いた。笑えるほどに心臓の音が高鳴っている。油断すると足まで震え出しそうだった。

「この庭に、もう赤いツツジは咲かない」

 宣言するように、有麻が言う。有麻がそう言うのなら、彼が生きている限りそれは実行されるだろう。


 夕食の片づけを終えてお風呂に入ろうと莉々子を探すと、暗い廊下の隅に縮こまっている。暗い場所を怖がる莉々子がこんなところにいるのは珍しい。覗きこむと、青色を帯びた光が莉々子の足元を照らしていた。

「何だそれ」

 莉々子の手から受け取って、ブラックライトだとわかった。

「莉々ちゃん、お風呂入らないの?」

 背後からやってきた有麻が秀治の手元を覗きこんで「何だそれ」とさっきの秀治と同じ言葉をつぶやく。こういう瞬間、やっぱり血が繋がっているんだなと感じる。

「ブラックライト」

「何でそんなものが、ここに?」

「莉々子の荷物に混じって持ってきたのかな。雪乃が掃除する時に使ってたやつだよ」

「掃除って、これで?」

 秀治はブラックライトのスイッチを入れ、廊下を照らしてみせた。途端に細かなほこりや、手垢などの汚れが浮かび上がる。

「雪乃きれい好きだからさ、これ使って汚れのチェックしてたんだ」

 秀治からすると潔癖と言えるほどのきれい好きだった。このブラックライトで莉々子が遊びたがっても、掃除道具だからと言って決して触らせようとしなかった。

「なるほど、きれい好き……か」

 有麻のつぶやきには度を越しているというニュアンスが感じられたが、お互いそれ以上掘り下げるのはやめておく。

「さあ、お風呂だぞ」

「そうだ、莉々ちゃん、明日そのブラックライトを使って、ちょっと実験してみよう」

 有麻がそう言うと、莉々子は首を傾げた。

「じっけん?」

 言葉の意味がわからないのではなく、その内容を知りたがっているようだ。

「何をするかは明日まで秘密」

 明日の実験が待ち遠しいらしく、莉々子はお風呂に入る間もずっとじっけんを繰り返していた。

 ベッドに入る時に、莉々子が選んだ絵本はヘンゼルとグレーテルだった。お菓子の家が出てくるのは知っていたが、読み聞かせながらこんな話だったかと少しぞっとする。

 飢饉に襲われて食べる物に困った親は、ヘンゼルとグレーテルを森に捨てようとするのだ。母親が継母で子供達を疎ましく思っているという書き方がされているが、血の繋がった父親もそれに協力している。

 子供達は親の計画を聞いてしまい、森から帰る方法を考える。一度は小石を拾い集めて、それを道に目印に置いていき、月明かりを頼りに家まで帰りつく。だけど二度目の時は石を拾う時間がなく、パンくずを道に置いていくのだが小鳥に食べられてしまって、帰り道がわからなくなるのだ。

 そしてヘンゼルとグレーテルは森の奥でお菓子の家を見つけるのだが、そこで莉々子は眠りに落ちてしまった。


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