ミツバチの見た世界・2
柴田家での一件の後、秀治は仕事を辞める決意をした。
ハーブティーを卸してもらえることになったのだから、カフェの開店に向けて舵を切ることを決めたのだ。
不安材料は山積みだった。たった一人で、店を切り盛りできるのか。住宅街のここに、お客さんが来てくれるのか。資金面の不安も大きかった。
一番の不安は、やはり雪乃のことだった。
思い切って、仕事を辞めること、カフェを開店しようと思っていることを、メッセージで報告したが、既読がついただけで返事はなかった。嫌味の一つでも欲しいのが本音だった。
とにかく決めた以上は、進むしかない。
五月いっぱいで辞める旨を会社に伝えてからは、出勤した時は引き継ぎ作業に追われ、有給消化に努める毎日だった。
今日も有休を取って、朝から離れの掃除と必要な備品のリスト作りに励んでいたところだ。
祖父が存命だったころは、仕事関係の人を招いて月に一度はガーデンパーティを開いていたものだった。そのおかげでテーブルと食器はひととおり揃っている。オーク材の風合いを帯びたテーブルに合うイスを見つけなければならなかった。
カップやグラスも、統一感のある物を揃えたいところだ。
離れには簡単な流しがついているだけだが、水道が引かれているだけありがたいと思うべきか。ここに厨房設備を入れ、目隠しと客席のためのカウンターも設置しなければならない。冷蔵庫を始めとした、家電も必要だろう。
床は幸い傷んでおらず、ワックスで磨き上げれば味のある風合いになるはずだ。ウッドデッキは塗り直しと補強が必要かもしれない。それから、真っ白なだけの壁もどうにかしたいところだ。
ある程度のリストアップができたところで、お昼を食べに有麻が帰ってきた。ハムとチーズのホットサンドと、作り置きのコールスローをウッドデッキのテーブルに並べ、食べながらミルで豆を挽きコーヒーを淹れる。
秀治が働いていた喫茶店のマスターは、一杯ごとにハンドドリップでコーヒーを淹れるスタイルだった。秀治もそのスタイルを引き継ごうと思っている。
コーヒーの粉にお湯を細く、のの字を書くように注ぐと、ふっくらと膨らんで香りが放たれる。この瞬間が、やはり好きだ。
「ところで、庭の花達は、お客さんがここに入ること、嫌がらないかな?」
「まあ、芝は踏まれて文句を言いそうだが……言わないだろ?」
有麻の答えに秀治はうなずく。芝や雑草やススキといった群れている植物というものは、もはや集合体の意識となっていて、個々の意識というものがないのだ。だから一部が踏まれたからといって、文句を言ってきたりもしない。
「花は、誰かに見てもらってきれいだって声をかけてもらえれば、それだけで半日は寿命が延びるよ」
「そうか」
コーヒーを飲みながら、秀治はリストを手に開店に必要なものを読み上げていった。
「資材系は、店舗専用の中古店で揃えるっていう手もある」
「ああ、俺もそれは考えてた。棚や調理器具は中古でもいいかな。イスは中古っていっても、アンティーク系の、あのテーブルに合うようなのが欲しいんだけど」
「店を回って探すしかないな。オーク材なら数はあるだろうから。内装工事はどうする?」
「まず、カウンターが必要。片方は調理用で片方を客席に。あとはガスコンロだろ、壁を塗って、ウッドデッキも塗り替えたほうがいいだろ。これくらいか」
指を折りながら説明した秀治にうなずくと、有麻は席を立った。家の中に入り、ファイルを手に戻ってくる。ファイルの中身は名刺だった。その中から一枚の名刺を取り出し、テーブルに置く。
「内装や設備工事なら、この人が信頼できる」
設備工事会社の社長の名刺だった。秀治も耳にしたことがある、地元では有名な会社だ。
「この社長、大豪邸に住んでなかったか? そこの庭もお前が手入れしてるのか?」
「まさか。庭だけで五百坪だぞ。手入れは造園会社がやってる。僕はそこから頼まれて、松の枯れの相談に乗ったことがあるだけだ」
坪で話をされても、秀治には具体的なイメージがわかない。とにかく広いんだろうなと思うだけだ。
「社長に直接交渉しろって?」
「僕の名前を出して、社長から信頼できる人を紹介してもらえばいい。値引きしてくれるかはわからないけど、ぼったくられることはないだろうから」
昼食後すぐに名刺の番号に電話をかけて、社長に繋いでもらった。御園生という苗字が珍しいおかげで、向こうから有麻と知り合いかと訊ねてきた。甥だと名乗り、内装工事の相談に乗って欲しいと頼むと、ひとしきり有麻への感謝の言葉を聞かされた。
父の形見とも言える松の木が枯れかかった時、助けたのが有麻なのだそうだ。
社長お墨付きの社員を紹介してもらい、早速午後から担当者が離れを見に来ることになった。
現れた担当者は秀治と同年代の男性で、タブレット片手に離れの中を歩き回り、あちこちをデジカメで撮影している。秀治の希望を聞くと、担当者はうんうんとうなずいた。
「カウンター設置と、ガス設備と、壁とウッドデッキの塗装ですね。詳細な見積もりを出すには、少々お時間を頂きますが」
「あのー、ざっとでいいんで、幾らくらいになるか教えてもらっていいですか」
担当者が口にしたのは、秀治が覚悟していた額と大きく変わらなかった。
「銀行、貸してくれますかねえ」
「銀行で融資を受けるには、事業計画書を提出して審査を受けなければなりませんね」
営業用スマイルのままで、担当者はさらりと口にした。事業計画書と聞いただけで、気持ちがくじけそうになる。
来週には見積もりを提出すると言う担当者を見送って、秀治は大事なものをまとめてあるカバンから、銀行の通帳を引っ張り出した。
そこに記された残高は、さっき聞いた額とほぼ変わらない。だけどその貯金は、いつか自分達家族が家を持つ時に頭金にしようと貯めていたお金だった。
貯金は秀治の給料から貯めたものではあるが、雪乃が家事や育児をしてくれていたからスムーズに働けていたという側面もある。夫婦の共有財産となるこの貯金に、雪乃の承諾なしに手をつけるわけにはいかない。
離れの床を磨きながら資金繰りを考え続け、その夜莉々子が寝静まった後、空き部屋にこもった秀治は意を決して電話を掛けた。相手は母親だ。
秀治の母は、今は九州の会社で働いていた。年に一度この町に帰って来るか、という生活ぶりで、電話で話をするのもいつ以来かわからないくらいだった。
「なんかあった?」
成人してからというもの、母親に電話をかけるといつも返って来る第一声はこれだ。こう言われるせいで、用がない限り電話をかける気にならないのだ。
「あった」
取りあえず雪乃が家を出ていった経緯から秀治は話し始めた。雪乃が莉々子と秀治の持つ力に気がついたこと。今は御園生の家で有麻と共に暮らしていること。子育てをしながら働くには、今の会社では難しいこと。御園生家の離れを使って、カフェを開きたいと考えていること。
「会社にはもう、退職届を出した」
「お金の相談?」
秀治が母親に頼もうと思っていたのは、離れを使うことへの承諾と、できれば融資を受ける際の保証人になって欲しいということだった。
「えっと、まずは離れを使う許可を欲しいんだけど」
「はい、許可します。後は」
「銀行から融資を受ける際、保証人になって欲しい」
「銀行から借りるつもりなの? 審査を通るの大変でしょ。利子もつくんだし」
「でも、お金借りないことには内装工事ができないんだ。雪乃が帰らないうちは貯金に手をつけるわけにもいかないし」
「そうね。離婚となったら、財産分与の対象になるでしょうし」
シビアな現実を、母はさらっと口にした。
秀治が幼かったころの母は、伏し目がちに世間の目を気にして、自分から意見も言わないような人だった。
それがシングルマザーとして、仕事にのめりこむうちに、母はどんどん強い人になっていった。内面が変わったのかはわからない。秀治にはカブトムシのように固い表皮をまとって、世間と戦う術を身に着けていったように見えた。
今の母ならもう、秀治が何を口にしても泣きそうな顔はしないだろう。秀治に嘘をつくことも強いないだろう。
「幾ら? 開店に必要なお金」
秀治が金額を口にすると、しばらくの沈黙の後で母は言った。
「二つ選ばせてあげる」
「何?」
「銀行の保証人になるか。私が直接お金を貸すか」
「か、貸してくれるのか?」
「独り者だから老後の資金は今からコツコツ貯めてるのよ。老後までにしっかり返してくれるのなら、別にいいわよ」
「お、お願いします」
銀行の審査のことを考えるだけで胃が痛くなる思いをしていたので、こんなありがたい申し出もなかった。
「じゃあ借用書送るからサインして送り返して」
資金面の問題が余りにもあっさりと解決してしまって、拍子抜けしてしまった。
「本当にいいの?」
「何、もう決めたんでしょ。カフェやるって」
「何で、そんなあっさりお金貸してくれるの」
五秒ほどの沈黙が続いた。その静寂で思い出してしまったのは、母親の悲しげな目だ。
「私には雪乃さんの気持ちが、わかるもの。痛いくらいに」
痛いくらいにという言葉で、母親もまた痛かったのだと思い知った。
世間体を気にするあまり、秀治を傷つけたことを母も覚えているのだ。秀治が普通ではないことに、秀治と同じだけの傷を負ってきた。
あの当時の母親の気持ちがすんなりと理解できることに、秀治自身驚いていた。秀治が親となり同じような力を持つ子供を育てているからこそ、わかるようになったことだ。
「あなた達の血は私譲りなんだから、こうなったことにも責任があると思って」
『私はいつだって、仲間外れなんだなって感じてたわ』
ふいに、雪乃の声が蘇る。母もまた、同じ思いを抱いていたのだろうか。祖父と有麻にはある力を自分は持たずに、この家で暮らすのは息苦しかったのではないか。だから今でも、この家に寄りつかないのだろうか。
「お父さんから聞いたことがあるのよ」
ほんの少し母の声が若返った気がした。自分の少女時代を思い出しているのかもしれない。
「そのお屋敷の元々の持ち主のイギリスの旦那様がね、幼いお父さんに言ったそうよ。その力を荷物にするかギフトにするかは、お前次第だって」
「荷物って?」
「重荷って意味かしら」
言葉自体が鉛のような重みを持って、秀治の胸に居座ったようだった。
重荷にするかギフトにするかは、自分次第。
「もっと早くその言葉の意味を考えてみるんだったって、今さら思うようになって。あなたがそれを重荷だって感じるなら、それは私のせいよね」
何も言い返せないでいると、「じゃあね」と電話を切る気配が漂った。
「莉々子の育て方は、間違えないで」
子育ての先輩からの助言は、重たかった。母は間違えたと思っているのだろうか。
秀治の育ち方は、間違ったものだったろうか。