サンショウとハーブティー・11
「こわくないよ。これね、アゲハの子供」
レオンに声をかけられて、莉々子はゆっくりと秀治の体から手を離していった。
「アゲハって、ちょうちょ?」
「そう、バタフライ」
芋虫は枝の上でモクモクと体を動かしている。そっとそれを覗きこんで、莉々子はのけぞった。
「その、おっきな目が怖いの」
「これ、ほんとの目じゃないよ。デザイン。目に見せて鳥をおどかすの」
秀治も知らない知識を披露して、「それとね」とレオンは地面を見渡した。何かを探しているようだ。
「これ、使う?」
有麻が差し出した木の枝を見て、「それ! サンキュッ」とレオンは叫んだ。さっきまで母親のスカートの影に隠れていたのが嘘のような元気さだ。
有麻が渡したのは、細い棒きれだ。そんなものを何に使うのかと見ていると、レオンは木の棒をそっと芋虫の体に近づけていった。その棒の先でちょんと幼虫の頭をつつくと、緑の体の先から突然ピンク色の角が突き出してきた。
「つのが出た!」
怖いよりも驚きと好奇心のほうが勝ったのだろう。莉々子は芋虫に顔を近づけていく。
まるで漫画の鯨が吹いた潮のように、芋虫の頭の上からきれいに弧を描いて二つの角が出ていた。しげしげと観察していた莉々子が、突然鼻を押さえる。
「くさい。パパ、来て来て」
莉々子に手招きされて、秀治も芋虫に顔を近づけてみる。途端にみかんの腐ったような臭いがつんと鼻をついた。
「くさっ、これ、昨夜の」
「ね、このにおい」
昨夜部屋に怪しい者が現れた時に漂っていたのと同じ臭いを、この幼虫が出している。
(ああ、化け物の正体はこいつか)
この小さな幼虫を大写しにすれば、昨夜見た影になる。
「この臭いはね、えっと」
説明し始めたレオンだったが、専門用語を日本語に置き替えられなかったのだろう。困ったように英単語を繰り返すのに、有麻が代わって説明した。
「臭角って言いたいのかな? この角は敵に襲われた時に出すもので、この臭いで敵を追い払うんだよ」
「昨夜の臭いの正体は、これだ」
「うん、そうだと思った」
何もかも想定通りという顔でうなずくと、有麻は「柴田さん」と離れた場所に佇む彼に声をかけた。
柴田さんがサンショウの木に歩み寄って来る。険しい表情は変わらないが、レオンへと顔を向けた。
「こっちの上の方に、もっと小さいやつがいる」
「え、二歳の子供?」
「二齢っていうんだ。そら」
伸び上がって上の枝を見ようとするレオンを、柴田さんは抱き上げた。レオンがはしゃいだ声を上げる。
レオンを抱き上げたままの柴田さんに、有麻が語りかけた。
「僕がお孫さんが男の子だと聞いて納得したのは、こういうわけなんです。サンショウの木にはアゲハやカラスアゲハが卵を産みに来て、生まれた幼虫は葉を食べて育っていきます。小さな男の子は虫が好きな子が多いですからね。お孫さんが遊びに来た時に、こんな風に見せてあげたいと思って、記念樹にこの木を選んだんじゃないですか?」
柴田さんは顔をしかめたままだが、有麻の説明に反論はしなかった。
今までの有麻の言動や、自分と莉々子が聞いた木の聲とが、すっと一つに繋がっていく。
小百合さんが送っていた手紙を、読んでいると思うと有麻が発言したこと。『会いたい』と訴えたこのサンショウの木。小百合さんに息子さんを連れて来ても大丈夫だと、有麻がメールを送ったこと。
『会いたい。……それが本音だ』
昨夜の有麻の声が蘇る。
娘と孫に会いたい。それが、柴田さんの本音だったのだ。だから孫の誕生を知って、サンショウの木を植えた。
「お父さん」
傍らで有麻の話を噛みしめるように聞いていた小百合さんが、歩み寄って来る。
「ああ、重い。腰がやられてしまう。あんた代わってくれ」
柴田さんはレオンを秀治の腕に押しつけてきた。女の子とは違うずしりとした重みを、秀治は引き受ける。レオンはまだまだ枝の上にいる幼虫の観察を止める気配はなかった。
「御園生さんの言ったこと、本当?」
父親の様子を伺いながら、小百合さんが尋ねる。
「たまたま植えた木に、たまたまアゲハが卵を産みに来た。そこにたまたまお前達がやって来た。それだけのことだ」
ニコリともせず言った柴田さんに、小百合さんのほうが笑みをこぼした。
有麻と秀治を見て「こういう人なんです」と小声でささやく。
「ああ、喉が渇いたな。たまたま来たお前達、お茶でも飲んでいくか?」
「家に上がってもいいの?」
父親の言葉に、小百合さんがパッと顔を輝かせる。百合の花が開く様を、秀治は思い浮かべた。
小百合さんの笑顔に、柴田さんの表情もやわらいだ気がした。その眼差しに、父親の愛情が滲んでいる気がする。
「あんた達も、お茶飲んで行くか?」
柴田さんの顔は、秀治と有麻に向いている。有麻と目配せで確認し合い、申し出は辞退させてもらうことにした。
「ありがとうございます。でも今日は、家族水入らずのほうがいいんじゃないですか? 積もる話もあるでしょうし」
有麻の丁重な断りの言葉にうなずいて、柴田さんは家に向かって歩いていく。抱えたレオンを小百合さんにバトンタッチして、秀治は莉々子の手を引く。
庭の中ほどで、柴田さんは振り向いた。
「有麻さん、カモミールが足りない。あんたの庭に植えといてもらえるか?」
「ハーブティーを増産してくださるんですか?」
「喫茶店、開くんだろ?」
ポカンと二人の会話を聞いていた秀治だったが、有麻の目線がおじぎをしろと訴えて来るので、慌てて頭を下げた。下げながらやっと気がついた。柴田さんは、秀治の店にハーブティーを卸してもいいと言ってくれているのだ。
「ありがとうございます!」
大声でお礼を言うと、柴田さんはもう家へと向かって歩き出していた。それでもこちらに向かって、ヒラヒラと手を振ってくれた。
「さて、帰るか」
ふと思いついて、秀治は腕時計を外した。それを有麻に手渡し、そっとサンショウの枝に触れてみる。
伝わってきたのは、『やっと会えた』という、満足げな聲だった。
「よかったな」
葉の先を撫でて、秀治は続ける。
「もう、ついてくるなよ」