サンショウとハーブティー・1
サワサワという、花の聲が聞こえる。
それはまるで潮騒のように体を包みこんできて、言葉を拾おうとしなければ、空気のように当たり前にそこにあるものとして感じられた。
秀治は、そっと目を開けた。
まぶしさに、一瞬目の前が白くなる。そして徐々に見えてきたのは、たくさんの枝に囲まれた世界だった。
緑色の葉を茂らせた茶色い枝が、格子のように秀治を取り囲んでいる。隙間からさしこむ朝日が地面に細く伸びていて、秀治はそっと光に指を差し伸べた。
ああ、またここか……。
そっとため息をつくと、ツツジの葉がサワサワと揺れた。
そう、ツツジだ。
秀治は、ツツジの檻に捕らわれているのだった。
ツツジの檻の外は明るい。蜂蜜色の朝日が降り注ぎ、葉と枝の隙間から、勝手知ったる庭の、楽園のような景色が見える。
サクサクという音がした。庭の地面に広がる、グランドカバーを踏みしめる足音だ。それはだんだんツツジの檻へと近づいてきて、秀治の目の前まで来ると、足を止めた。
見覚えのある青いスニーカーだった。いつも庭にいるせいで、土にまみれている。
秀治が目線を上げると、隙間から覗きこんでくる彼と目が合った。
栗色の髪と透ける瞳。いつも庭にいるくせに、少しも日焼けしないなめらかな肌。人形じみた表情に乏しい顔。
「有麻」
名前を呼ぶと、彼はコクリとうなずいた。その手に、鋭く光るものが握られているのが見えた。
「ダメだ、有麻」
秀治の叫び声に、有麻はゆっくりと首を振った。そして意を決したように、手にしたハサミを開く。
「やめろ!」
有麻のハサミが冷たい音を立てたと思った時、夢は終わりを告げていた。
「パーパ、起きて」
ゆさゆさと揺すられて、御園生秀治は薄目を開けた。カーテンの隙間から注ぐ光が、夢の中の景色を思い出させる。
横には腕組みした娘が立ちはだかっていた。栗色のフワフワと波打つ髪と栗色の瞳。秀治には遺伝しなかったその特徴が、どういうわけか娘には受けつがれている。
「ああ、おはよう、莉々子」
「何が、やめろ、なの?」
「はあ?」
「パパ、寝ながら言ってたよ。やめろって」
「いやな夢見たんだよ」
「いやなの? おばけ出た?」
「そうそう、こわーいおばけだ。さて、ママは……」
言いながら隣の布団を見ると、すでにもぬけのからだった。先に起きたんだろうと考えたが、そのわりには家の中に気配が感じられない。
「よし、ママを探そう」
「さがそう!」
結婚してからずっと住んでいる、2LDKのアパートの部屋は、正直隠れられる場所などない。キッチン、トイレ、洗面所、バスルーム、リビングと巡り、とうとう残り一部屋となってしまった。
そこは、莉々子が大きくなったら子供部屋にする予定の部屋だった。今は物置部屋になっている。
「ママみーっけ」
叫びながら、莉々子は勢いよく引き戸を開けた。だけどそこにも、妻の雪乃の姿はなく冷え冷えとした空気があるだけだった。
「ママー、どこー?」
莉々子は棚の影や机の下を一つ一つ確認し、最後に押入れの引き戸に手をかけた。
「ここだー!」
だけどそこも、季節用品でいっぱいで、人の隠れる隙間などなかった。あきらめきれないように莉々子はスーツケースに手をかける。
「危ないぞ」
「この中も、見るの」
言い出したら聞かない五歳児は、なだめるよりもつき合うほうがまだ楽だということを、秀治も学んでいる。旅行用の大きなスーツケースを引き出し、床の上に横たえて開けて見せる。
「ほら、空っぽだろ?」
スーツケースの中身を確認した莉々子は、もう泣きそうな顔になっていた。
「ママどこ行ったの?」
「そうだなあ、どこ行ったのかな」
土曜日で保育園も秀治も休みの日だが、こんな朝から雪乃が一人で出かけなければならない用事は思い浮かばなかった。
「買い物、かなあ」
テーブルの上にメモは見当たらないし、スマホを確認してもメッセージは入っていない。
胸がスカスカとしていくような嫌な感じを覚えながら、秀治はとにかく朝の仕度をすることにした。
「じゃあ、今日はパパご飯だ」
「莉々ね、メガネさんのめだまやき」
「何だそれ」
「めだまがふたつあるやつ」
しゃべりながら莉々子をトイレに連れていき、服に着替えさせ、痛いと文句を言われながら髪をとかしてやる。
フライパンを温めて、注意深く卵の殻を割り、どうにか二つの卵を着地させる。少しでも黄身が崩れたりすると、莉々子は食べてくれないのだ。
牛乳を温めてトーストを焼いて、ほどよく火の通った目玉焼きを皿に乗せ、テーブルに並べる。莉々子はお姫様のように秀治の働きぶりを眺めていた。
莉々子が大人しく食べ始めたのを確認して、秀治も自分の朝食に取りかかる。トーストを焼きながらコーヒーを豆から挽き、トーストをかじりながらコーヒーを淹れていく。
「もう、お腹いっぱい」
半分も食べないで、莉々子がそう宣言する。予想通りだったので、残りを秀治が引き受けることになる。目玉焼きは二つとも黄身だけがなくなっていた。
「白身も食べろよな。栄養が偏るぞ」
「たべたもん」
確かに白身もわずかずつ欠けている。へりくつ言いやがってと胸の内で悪態をつきながら、いつも雪乃が座っているイスを眺める。
莉々子がテレビに夢中になっている間に、秀治は雪乃に電話をかけた。おかけになった電話番号は……という無慈悲なメッセージが流れるだけだ。朝から何度もメッセージを送っているが、一向に既読はつかない。
莉々子の様子を伺いながら、秀治は妻の持ち物を点検してみた。いつも使っているバッグがない。スマホの充電器がなくなっている。それに、旅行用のバッグが一つ。タンスの中身に穴ができているのを見ると、服もなくなっているのだろう。
嫌な汗が流れ出るのを感じる。
記憶を総ざらいしてみても、雪乃が一人で旅行に出かけるとか、法事のために実家に帰るとか、言った覚えはなかった。
雪乃は平日はコンビニでアルバイトをしている。もしかしたら突然シフトが入ったのかもしれないと、すがるように店に電話をかけてみた。
出たのは店長だったが、秀治が名乗った途端不機嫌そうな声になった。
「ああ、雪乃さんの。うちも困ってるんですよ。昨日突然辞めるって電話かかってきて。急に言われても代わりのバイトなんて、簡単に見つからないんですよ」
混乱する頭を抱えながら、気がつけば秀治はひたすらすみませんと繰り返していた。
「パパ、誰に謝ってるの?」
莉々子に言われて我に返ると、とっくに電話は切れていた。
ひどく疲れて、倒れるようにイスに座りこむ。
この状況が指しているのは一つしかなかった。
雪乃は、家出したのだ。