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07.


 あの孤児院へ行った日、本当はアシュトンに口付けて欲しかった。だけど寸前で私は臆病風に吹かれた。


 それをしたら戻れない気がしたのだ。もうデュークの婚約者にも、聖女にも戻れない気がした。それでも良いと思ったから雨が降る時間に合わせ帰ったのに、現実はいつも突然私に問いかける。


 ――お前は良くてもその男はどうなる?


 自分ばかりだ。何が聖女だ。私はこんなにも浅ましい。


 だから寸前でアシュトンを止めた。指先で触れたアシュトンの唇は温かく、柔らかで止めた事を直ぐに後悔した。

 この唇で触れて貰えていたら、直ぐにでも死んでも良いとさえ思ってしまった。ただ指先で唇に触れただけなのに。

 そしてその考えに直ぐ自己嫌悪した。やはりお前は自分の事ばかりだ、と。



 なあ、アシュトン。私は毎日、あの日の事を思い出すよ。


 多分自分が初めて自ら計画を立て、起こしたからだろう。結果は失敗したけど、それでも私の中に消える事のない思い出が出来た。戒めの意味もあるのかもしれない。それでもあの熱を帯びた碧眼を私は生涯忘れないだろう。


 いつ雨が降るだろうと空を見続けた馬車の中。降り出した雨から守るように自分を犠牲にしたアシュトン。そしてあの部屋での出来事。


 触れられた頬から伝わるアシュトンの優しさがいつまでも残っている。


 ああでも、きっと今日この日も忘れられないのだろうな。


 逃げると言ってくれと言ったアシュトン。

 その言葉を何処かで待っていた気がする。逃げられるならば逃げたい。私だってアシュトンと逃げたい。でも現実を見ればそれは叶わない。

 

 別に私はデュークが嫌いな訳ではない。彼が私を愛してくれている事は痛いくらい分かっている。


 最初はそんなに良く思われてはいなかっただろう。

 だが、段々と私に想いを寄せてくれてのだ。それは奇跡の様な確率だと思う。当てがわれた人を好きなるなど本当に凄い事だ。


 だが、私の心はいつも背後の存在にあった。


 初めて会った時の疑う様なきつい物言い、馬鹿にした様な言葉。それでも一番私を心配してくれたのはアシュトンだった。

 優しいだけの教会の人達、それも有り難かったが、私自身を見てはいない気がした。当時の私は虚しかったのだと思う。


 突然こんなところに連れてこられ、家族に会えない。

 エミリアではなく「聖女様」と呼ばれる違和感。元々感情表現が上手い訳では無かったが、段々とどうやって感情を出せば良いのか分からなくなっていた。


 そんな時に来たのがアシュトンだった。

 真っ直ぐと私を見る存在。無関心に見えて、私をエミリアとして認識し手を差し伸べてくれる人。子供ながらに不器用な人だとも思った。しかし私はそんなアシュトンに恋をした。


 それはいつからだなんてもう思い出せない。徐々に徐々に落ちていった恋は気付いた時にはもう抜け出せないところまで来ていた。


 デュークとの婚約が決まった時はショックだった。だが、だからといって私がアシュトンと結婚する事は出来ない。アシュトンは聖騎士だ。その生涯を神に、聖女に捧げている。

 だから全てを諦めて受け入れた。結婚をせずに一生聖女となる道もあっただろう。だが私は臆病な人間で、それを主張もしなかった。それをして、アシュトンに「何故婚約しなかった」と聞かれるのが怖かったのだ。


 しかし、結婚が間近になれば成る程、あの時のことを後悔する。あの時言っていればアシュトンと離れる事はなかったのだろうか、と。


 私の手を握り、涙を流すアシュトン。流れる涙と共にもう一度、逃げようと口にした。


 それを私は再度首を振り、出来ないと答える。


 何度でも言おう。

 本当はアシュトン、あなたと逃げたい。違う、あなたと共に生きたい。

 でも私はその手を取れない。もう戻れないところまで来てしまったからだ。ここで逃げたら大変な事になる。沢山の人に迷惑をかけてしまう。


 子供ではなくなった私はもう枷を知っている。それはじわじわと自分の首を絞めるものだという事も。


 私はアシュトンを忘れる事が出来ない。

 彼も彼自身と共に起きた様々な事柄も。私はこの想いと共にデュークと結婚をする。きっとデュークも分かっていながら結婚をするのだと思う。時折見せる悲しい笑みがそれを物語っている。


 私は聖女だった日々を、アシュトンと共に居た日々を忘れない。

 だからアシュトンも忘れなければ良い。今日この日を、私を、私と過ごしたこの数年を。

 私の全てを持ってずっと生きていけば良い。

 

「知ってるか」


 私は涙を流すアシュトンの頬に手を伸ばす。流れる涙を指先で拭い、握られていた手を外すと両手でアシュトンの顔を軽く挟んだ。


「私も笑う事が出来るんだ」


 そう言って笑えば、アシュトンの目が見開かれ、更にくしゃりと歪められる。

 こうやって笑うのは何年ぶりだろう。親にはお前の笑顔は気が抜けると言われていた。少なくとも聖女となってからは笑っていなかった気がする。気を抜く事などきっと無かったからだろう。


 私はアシュトンの顔を固定させたまま、明るい声を出した。だが自分も泣いているからか声が震える。


「ねぇ、アシュトン? この先は共に生きれなくても、もっともっと先ではまた一緒に居てくれるか?」


 そう、せめて此処で無理ならもっと先、此処では無い何処かで一緒になれたらと思う。


 もし本当はそれが無理でも、今だけはそれを信じさせて欲しい。


「エミリア」


 アシュトンは頬に触れる私の手に自分の手を重ねる。カサついた手のひらはいつも私を守ってくれた証拠だ。何処もかしこもアシュトンには私と共にいた証がある。


「アンタが望むなら、アンタが許してくれるなら」


 この髪も瞳も、手も声も全て、全てが愛おしい。

 こんなにも愛しているのに私は彼ではない人と結婚をする。きっとデュークも私を幸せにしてくれるだろう。でも私の本当の幸せはアシュトンなのだと思う。


 私の全てはアシュトンなのだと思う。


「共に、共に居よう」


 アシュトンの流れる涙が私の手を伝い、床へと落ちる。そしてそこに私の涙も落ちていった。混じった涙は床に吸い込まれ、染みをつくった。この染みが一生消えなければ良い。愚かな私はそう思い、また涙を溢す。


「ずっと、ずっとすきだった」


 私はその日、愛する人に枷をつけた。

 ずっと彼が好きだった。ならばせめて最後くらい自分の気持ちを伝えても良いだろう。


 だって私はあの情欲に濡れた碧眼の先を、一生知る事は無いのだから。




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