06.
「漸く婚姻出来るな」
それから2年が経ち、エミリアの婚姻が間近となった。王太子は会う度に婚姻の事を口にし、エミリアとの仲を確認する様にアシュトンの反応を確認する。
何も出来る筈はない。関係としては聖女と護衛騎士、ただそれだけだ。
だが、あの雨の日に溢れた想いはもう器に収まる事なく垂れ流されている。何も起きていないのはエミリアの制止が今も効いているからだろう。
あの雨の日の指先がまだ、アシュトンをこの場に留めてくれる。消える事のない感覚が、騎士としての職務を忘れるなと叱責し続けていた。
「お前ともこれで最後かもしれんな」
嬉しそうに笑う王太子に対してアシュトンは表情を変えず、礼をする。下げた顔を思い切り顰めたのは許して貰いたい。
きっと王太子はエミリアがアシュトンと離れるまで疑い続けるのだろう。嬉しそうに口端を上げていても、瞳はいつもと同じ激しい嫉妬が見える。
もう結婚するのだから良いじゃないか、と澱む腹から低く唸る声が聞こえた。
「来月にはリアは王城に上がるのだからな。ああ、そうだ部屋を後で案内しよう。欲しいものがあったら言ってくれ」
楽しげな声はアシュトンにはナイフのようだ。もうお前は不要なのだと言われたも同然な言葉にゆっくりとアシュトンは頭を上げる。王太子の視線はもう既にエミリアに向けられていた。
エミリアは王太子の申し出に表情なく首を横に振ると平坦な声を発した。
「これから引き継ぎがあるんだ。またの機会にして欲しい」
音もなく、ティーカップを持ったエミリアはそれに口をつけ、静かにソーサーへと戻す。
そしてアシュトンへ目配せをすると王太子の名を呼んだ。
「デューク。申し訳ない。そろそろ、教会へ帰らなくては」
アシュトンに取っては地獄の様な時間、王太子にとっては天国の時間だろう。王太子はムッとした顔を一瞬したが、時計を確認すると諦めた様に溜息を吐いた。
自分が思っていたよりも時間が経っていたと思ったに違いない。エミリアをエスコートする為に立ち上がるとその手を座っているエミリアへ差し出した。
部屋の外までエスコートした王太子は名残惜しそうにエミリアの手を握っている。時折鋭い視線がアシュトンに突き刺さった。
どのくらいそうしていたのか。側近の咳払いに促され、王太子は漸く別れの挨拶を口にした。
「じゃあ、リア。またな」
そう言って王太子はエミリアに触れるだけの口付けをした。わざとらしくリップ音を響かせ、甘い言葉をエミリアの耳元で囁くのだ。
エミリアは特段反応はしない。いつもの事だ。
そう、いつもの事なのだ。いつからだったか、別れの挨拶を唇にし始めた王太子。初めて見た時の衝撃は忘れられない。
アシュトンには触れられないものに、あれはいとも簡単に触れて見せる。
アシュトンには唇に触れる事も、甘い言葉を囁く事も出来ない。何故なら騎士だからだ。婚約者でも何でもない、ただエミリアを好きなだけの男。
だからとても妬ましい。
自分はいつも触れられる距離にいる。少し手を伸ばせば届くのだ。抱き締める事も口付けをする事も可能だ。
しかし、あの日の指先と困った様な赤い顔が離れないのだ。だからアシュトンは騎士として此処にいる。一番近くでエミリアを見ているのだ。
だが、だが、それももう終わる。
エミリアが此処から消えるのだ。共にずっと居たのに。あの、表情なく淡々と仕事をしていたエミリアが消える。
あのアシュトンが恋した日に起こした奇跡、金色の粒、胸を締め付ける程に優しい光、全てが昨日の様なら思い出される。いや、昨日であれば良かった。過去のまま止まっていればずっと共に居れたはずだ。
あの場に、過去に留まっていればこんな苦しい思いをする事も無かった。
教会で過ごし、王太子など雲の上の存在だと生きていけたら、胸を掻きむしっても、抉っても治らない苦しみを知らずに生きていけたのだろう。
思い立ったのは突然だった。
ポンと浮かんだ考えにアシュトンは窓辺に座るエミリアを見た。
暑い夏の日差しを受け、銀髪が金色に輝いて見える。
もうこの景色を見る事は叶わない。
いや、一つだけ方法があるではないか。
共に逃げればこの先も、ずっと共に居られる。ずっと何年も何十年も。その銀髪が白くなっても、白く柔らかい指先が皺皺になり、カサつき始めても、
そう、共に逃げればずっと一緒だ。
「逃げると、言ってくれ」
だからアシュトンは傅き、エミリアに乞うた。一緒に生きたかったからだ。
アシュトンも馬鹿では無い。エミリアが自分に好意を持っている事を知っていた。だから逃げようと、逃げたいと言ってくれと縋った。
しかし、本当は最初から答えは分かっていた。
何年共にいると思っている?アシュトンはエミリアが誠実な人間だと知っている。だからその答えは分かっていた。
答えは「否」に決まってる。それでも賭けてみたかったのだ。
無理だという答えを言う為に襟足に手が添えられた。エミリアから触れられたというのにその熱が悲しい。添えられた手は僅かに震えていた。
そしてゆっくりと額に唇が落とされる。
決してアシュトンからは触れられなかった唇が涙と共に額に落ちてくる。
「ずっと聖女のままで居れたら、共に、ずっと、居れたのに」
離れた唇から溢れた声にアシュトンはくしゃりと顔を歪ませた。
どうか、どうか、神がいるのならあの日に戻して欲しい。空が金色に輝いたあの日に、永久にあの日に2人を閉じ込めて欲しいと、そうアシュトンは願い涙した。