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05.


 いつもと同じ日常。ただいつもと違うのは自分の想いが相手に知られているという事。


 エミリアはアシュトンが自分に懸想していると分かっているのに護衛を辞めさせない。


 そしてアシュトンも分かってきた。

 エミリアも憎からず思ってくれている事を。


 いつからだっただろう。エミリアは椅子から立ち上がる時や、部屋から出る時、視線を交わしてくれる様になったのは。

 表情こそはいつもと同じだが、見られる事が多くなった事に心が躍った。


 そして部屋で些細な話も出来る様になった。天気の話や任務の話、本当に些細だが前よりも心を感じ、嬉しかった。


 だが、それが苦しくもあった。もう鍵はとっくに壊れてしまったのでしていない。だからこそ、どうにもならない状況に心が軋んだ。

 触れようと思えば触れられる、奪う事も出来る距離なのに何も出来ない。触れたら壊れる関係をいかに長続きさせるかをアシュトンは常に考えていた。




「アシュトン、雨が降りそうだ」


 それは孤児院訪問の帰り道、エミリアが走る馬車の中でそう話しかけて来た。エミリアの言葉にアシュトンも外を見る。確かに黒い雲が辺りに広がり、今にも雨が降り出しそうである。

 もしかしたら雷も来るかもしれない。そんな雲を見てアシュトンは前に向き直る。


「まだ教会まで距離があるから、着く前に降り出すだろうな」


 激しく降る前に教会へ着ければ良い、そんな思いは直ぐに降り出した雨によってかき消された。


 降り出した雨は思ったよりも直ぐに激しくなり、馬車の屋根を打ち付ける。まるで石でも落ちているのかと思う程の音が馬車の中に鳴り響いた。


 すると緩やかに馬車が止まり、雨にうたれ、ずぶ濡れとなった馭者が申し訳なさそうに声を掛けて来た。


「この先はいつも雨が降ると悪路で……良ければ少し戻ったところにある村で雨宿りをさせて貰えれば」


 雨が降る前に戻れば良いとは思っていたが、この後の予定などない。何より悪路だというのであれば先を行くのは得策ではないだろう。アシュトンはエミリアを一瞥した後、その申し出に頷いた。


「問題ない。そうしよう」


 申し訳なさの中にもほっとした気持ちを滲ませた馭者は「ありがとうございます」と勢いよく腰を折ると前へと戻って行く。その間にも雨は勢いを増し、窓から見える景色も打ち付ける雨により不明瞭だ。それでも窓の外へ視線を向けるエミリアの横顔をアシュトンはじっと見続けた。


 暫くすると馬車が止まり、扉が開かれる。アシュトンは先に降りるとエミリアを雨から守るように左肩にかかるペリースを広げた。


 その意図を理解したエミリアは差し出すアシュトンの手に自身の手を乗せる。ぐっと手を引かれあっという間にエミリアはアシュトンの胸の中に納まった。抱き締めてはいない。だが、それと同じような密着感に自分でやっておきながらアシュトンの胸が大きく跳ねる。


(思春期か、俺は)


 自嘲を飲み込み、アシュトンはエミリアを濡らさぬように室内へと急いだ。仕事でどうしようも無い事なのに歓喜するこの胸をどうかしてほしい。アシュトンは胸の近くにいるエミリアにこの心音が気付かれぬ事を祈りながら足を動かした。


 

 通された部屋は村にある教会の一室だった。

 小さな村だが、信仰が深いのだろう。建築から大分経っている事が分かる造りだが綺麗に整備されていた。


 基本、孤児院などに行く際は侍女が付かない。その為、アシュトンが教会に手配し、タオルを貰う。アシュトンは貰ったタオルをエミリアへ渡すと自らも雨で濡れた髪を拭いた。服も脱ぎたいところだったが、替えの服がない状態で脱げる訳もない。


 アシュトンはエミリアへ視線をやった。

 エミリアはアシュトンが庇ったお陰でそれ程濡れてはいない。だが、少し足元が濡れたのだろう。靴を脱ぎ、ポンポンと裸足の足を拭いていた。それを見て驚いたのはアシュトンだ。いくら護衛だとしても同じ部屋にいるべきではなかったと後悔をした。

 

 エミリアは聖女だ。故に露出がほぼ無い服を着ている。それが素足をさらけ出しているのだ。元は平民だったからか足を出すことに抵抗がないのだろう。アシュトンが驚き目を見開いていてもエミリアは平気な様子で足を拭いていた。


「廊下にいる。用があったら呼べ」


 白い足から目を逸らしたアシュトンは返事も待たず、扉に手を掛けた。だが、それを止めたのは他ならぬエミリアだった。


「何故? 此処にいれば良い」


 白い足を出したまま、小首を傾げるエミリア。それを見てアシュトンはどうするべきか悩んだ。出ていこうとした為、手は扉に掛けられている。このまま押せば廊下へ出る事が出来る。しかし、エミリアの言葉でいとも簡単にアシュトンの行動を止まった。


「わかった」


 短く答え、扉から手を離す。アシュトンはエミリアから離れた椅子へ腰掛けると視線を窓へと向けた。


 いまだ振り続ける雨、だが先程よりは雨脚が緩くなっている気がする。しかしどちらにしても今日は教会へは戻れまい。この先は悪路なのだから。


 エミリアもアシュトンの視線を辿り、窓の外を見る。そしてアシュトンの名を呼んだ。


「本当は今日、雨が降って帰れない事が分かっていたんだ」


 淡々と聞かされる言葉にアシュトンは視線をエミリアへ移す。


 どういう意味するなのか、それを頭が理解するよりも先に体がそれを理解した。ずくんと鳴った胸をそのままにアシュトンは席を立つ。


 本当はその場から動かない方がいい事は分かっていた。しかし、足が勝手にエミリアへと向かったのだ。黒い瞳がアシュトンの動きを追うように動き、ピタリと止まる。


 アシュトンの目の前にはエミリアが居た。椅子に座り、こちらを見上げる様に見ているエミリアが。


「その意味分かって言ってんのか?」


 黒い瞳は肯定も否定もしない。目を伏せもしないし、逸らしもしない。真っ直ぐにこちらを見る瞳に胸が昂っていく。


 しかし、アシュトンは聖騎士だ。しかも聖女の護衛騎士である。何も出来やしない。したら最後だという事もわかっている。だがエミリアの黒い瞳に見られると欲情した心が忙しなく騒ぎ出す。


 いいじゃないか、と。


 エミリアもそれを望んでいる。だからこのような事を言ったのだと。


 もし本当にそうだとして、事に及んでもエミリアは後悔をしないのだろうか。アシュトンはエミリアが王太子に恋情が無い事を知っている。だが、これとそれは別である。


 エミリアは聖女であり、王太子の婚約者だ。


 そこを裏切る事などただの騎士であるアシュトンに出来ようか。


 しかし、人というものは些細なきっかけで関係が崩れるもの。必死に理性を保っていたアシュトンだったが、たった一滴の雫でそれが狂わされた。


 完全に乾いていないアシュトンの髪から雫が落ちたのだ。ぽとりと垂れたそれはエミリアの首筋へと落ちていく。ただそれだけの事。だが突然の水滴にエミリアはびくりと体を揺らした。表情は相変わらず無いが恥ずかしそうに紅潮した頬に、アシュトンの中で何かがぷつりと切れた。

 

「アシュトン、」


 アシュトンの逞しい腕が伸び、エミリアの赤く上気した頬が大きな手で包まれる。恥ずかしさからだろうか、潤んだ瞳が驚いた様に見開かれた。薄く開いた唇が扇状的で目が逸らさない。


 アシュトンは引き寄せられる様にエミリアの唇に顔を寄せた。アシュトンの濡れた髪がまた、しとりしとりとエミリアを濡らしていく。折角雨から守ったというのに、だ。


 鼻と鼻が触れ合う程の距離に近付き、あと少しで唇が触れ合えるというところでエミリアの手が突然それを制止する。


「駄目、やっぱり駄目だ」


 柔らかく白い指先がアシュトンの唇に触れる。唇と錯覚しそうになった。しかし、目の前の他でもないエミリアが赤い顔で困った様に目尻を下げているのを見てアシュトンはハッとして体を後ろへ下げた。


 エミリアはアシュトンから離れた指先を自分の膝に戻した後、一瞬だけその自身の指を見た。そして視線をアシュトンへと向けると首を横へ振る。


「やっぱりこれはしてはいけない事だ」


 アシュトンは自分が何をしたのか分からなかった。ただ、そう。アシュトンの髪から垂れた雨がエミリアの首筋に落ちる様を見たらどうしようもなくなったのだ。


 赤い顔で名を呼ばれ、黒曜石の様な瞳で見られ、そうしたら彼女を恋い慕う気持ちがタプンと溢れた。もう限界だと思っていた器、そこが決壊し気持ちが溢れて止まらなくなった。


 アシュトンはもう自分が限界を迎えている事を知っていた。頭では駄目な事だと理解していても、心が暴走をする。しかし、それでも離れる覚悟など出来なかった。


 困った様に名を呼ぶエミリアの姿が瞼の裏にいつまでもこびり付き続けた。




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