02.
エミリア。それが女の名だった。
平民の生まれな為、姓はない。いや、元々はなかったと言うべきか。今は『エミリア・ファティフ・セフィリアン』という大層な名を授けて貰っている。
女は聖女だ。
12年前、予言を元に教会へ連れて来られた哀れな女。
啓示を受けた神官が見つけた女は本屋の娘だった。暗い店内で店番をしているところを連れ去られる様に教会へ迎え入れられたらしい。
『らしい』というのはアシュトンはその時まだ教会に所属していなかった為、噂で聞いた程度の話だ。だが、恐らくそれは真実だろう。
エミリアが聖女となって2年後、アシュトンは護衛騎士の任を受けた。
その時から女は既に光のない瞳を持ち、何の感情もない真っ暗な瞳で人々に光の慈悲を与えていた。
アシュトンよりも7歳下の女はまだ12の子供。子供である筈なのに、子供特有の無邪気さも天然さも無垢さも何も無く、あるのは虚無のみだった。
―――なんと哀れな
最初の感情は同情だった。
文句も言わず、言われた通りの事をこなす姿を人形だとも思った。就任してから直ぐのアシュトンでも気づいたのだ。教会の人間も当然気付いていたが、何をしても彼女の感情が表れる事はなかった。
神官達が蔑ろにしているのか?とアシュトンは最初こそ考えたが、護衛となり四六時中共にいればそれは無い事がわかった。寧ろ丁寧に、壊れ物の様に世話をされていたのだ。
これは女の性格故かと思う様になり、それからは業務上必要最低限の会話しかせず仕事をした。
アシュトンが護衛をして4年、聖女エミリアが16歳となった時に流行病が王都で猛威を奮った。
最初こそ貧民街で1人2人だったが、場所が場所であり情報が遅れ、あっという間に広がっていった。確か2週間程で街に人が消えたと記憶している。尋常ではない速さに国王も教会も後手後手に回り、冷や汗をかきながら対処に追われていた。
当然聖女も礼拝堂を国民の為に開け放ち、寝る間も惜しんで治療をしていた。
一人一人丁寧に、なんて事はなく礼拝堂全体に聖なる力を放ち、治療を行なっていたのだ。これには教会も王宮の者も度肝を抜かせていた。それはそうだ。こんな大技をやった聖女は歴史上いなかったのだから。
だが、それでも患者は増える一方だった。聖女は一日に何度も規格外の力を使い国民を癒していたが、ある日突然神力が底をつき気絶をしてしまった。当然の事だと言えば当然のなのだが一度も神力切れを起こした事がなかったのでアシュトンは勿論、周りの教会関係者は真っ青になった。
神力が切れれば最悪死が待っている。祈る気持ちで聖女を見守っていれば、聖女はたった2時間で目を覚ました。
そして起き抜けにこう言った。
「国全体に聖なる力を放ち、浄化する」
すくっと誰の手も借りず、ベッドから立ち上がると聖女は引き留める声も無視し、早足で教会の外へ出た。
そして両手を握り、祈りのポーズを取ると聖女の手から金色の光が溢れ、空を覆って行ったのだ。何処までも広がる金色の光は聖女の言う通り国中を覆い尽くし、流行病は収束した。
国を覆う程の力を使った聖女はその後、気を失い倒れる。アシュトンはそれを片手で受け止めると足早に部屋へ急いだ。あまりにも真っ白な顔だった為、今度こそ神力切れによる死を意識したからだ。
こんなにも人間離れした偉業をすれば、死ぬ事くらい聖女本人も分かっていた筈。だが、聖女は臆する事なく力を行使し命を削ったのだ。
その精神が聖女と言われる由縁だと言われたらそこまでだが、アシュトンはこんな少女がこれを決断しても良いとは決して思わなかった。こんな、ほんの子供から少しはみ出ただけの少女が死を恐れない等、死を受け入れる等、可笑しな事だと思いもしたし気味が悪いとも思った。
寝台に寝かした聖女の顔を見れば真っ白な顔ながらゆっくりと呼吸を繰り返している。これならば死にはしないかも知れないとアシュトンは部屋へ同時に駆け込んで来た神官からエーテルを受け取ると、それを聖女へ飲ませた。
頑な口を開ける為、顎を持ち開かせ、その隙間からエーテルを流し込む。半分は口から溢れたが段々と顔色は戻っていき、2本目の半分を消費した位には赤みが戻っていた。
意識も戻ってきたのか、僅かに動いた瞼がゆっくりと薄く開き、小さく何かを口にした。何と言っているのか分からず、アシュトンは顔を近付けると聖女は掠れる声を出す。
「じょうか、できてた…?」
じょうか、と力なく言う姿にアシュトンは大きく頷いた。
「ああ、もう大丈夫だ」
「よかった…」
聖女はそう言うとふにゃりと笑い、そのまま眠りについた。全ての表情筋が弛緩した様な柔らかな笑みにアシュトンは目を奪われる。
―――こんな顔も出来るのか
まだ幼さの残る顔にかかる銀髪をそっと退ければ、感じた事のない感情が沸き起こった。歓喜にも似た、でも憎しみにも似たもの。ふつふつと湧き上がる御し難い感情にアシュトンは見守りを神官に頼み、部屋を出た。
胸が早鐘を打ち、耳の奥に心臓が出来た様にドクドクと音が頭に鳴り響く。
こんな感情はいらない。落ちそうになる其れを捨てようと髪を掻き毟れば少し気分が紛れた。
アシュトンはふと、あの黄金色の空が見たくなり、開かれた教会の扉から空を見上げた。まだうっすらと残るそれは暖かく、降り注ぐ光は全てを溶かす様に心に平穏を与える。
聖女の命の祈りとはこんなにも美しいものなのか。アシュトンは落ちる光の粒をひとつひとつを瞼に刻み付ける様に見つめていた。
手を空に伸ばす。
光の粒が掌に落ち、はらりと消える。暖かさを感じたそれは、消そうとした感情を腹に留めさせ―――ストン、と落ちた。
「これから大変な事になるぞ」
いつの間にか隣にいた大神官は黄金色の空を厳しい顔で見ていた。そしてアシュトンの肩をポンッと叩くと大神官は教会の階段をゆったりと降りていく。その姿は何処か哀愁が漂っていた。
アシュトンは大神官の言葉を暫し反芻し、ああ、と小さく笑った。そういう事か、と。乾いた声が意志と関係なく零れた。
力ある者は権力者に囲われるのがこの世の常だ。つまり、聖女は今後権力者のものとなる道が出来てしまったのだ。
落ちた瞬間、期待する前にそれが終わったのだとアシュトンは自嘲するしかなかった。
はらはらと舞い落ちては、ふっと消えていく光の粒、はらりはらりと翌日の朝に消えた。
その空は雨上がりの後の青空の様であった。