逢瀬
「おいおい勘弁してくれよ。もうそんな年でもないだろうが」
夫はわたしの顔を見ることもなく、背中を向けてそう言った。
「たまにはいいじゃない」
できるだけ優しく、夫がその気になるように、わたしは夫に声をかけた。
しかし夫は何も言わず、背中でわたしを拒否し続けた。
持っている下着の中でも出来るだけ扇情的なものを身につけ。
いつもと違う石鹸で身体を磨き。
どこを見られても大丈夫なように肌もととのえた。
だけど、そんなわたしを、夫は見てくれさえもしなかった。
娘が生まれてから、徐々に夫婦生活は減っていった。
もちろんわたしにも非はあった。
育児に精一杯で、夫のことを顧みなかった時期があったのは事実だ。
でも、娘がある程度大きくなれば、また夫との甘い生活が戻ってくるものだと信じていた。
夫に背中を向けて、わたしもベッドに横たわる。
お互い触れそうで触れないわずか数センチの隙間。それが夫婦のあいだに広がる大きな距離なのかもしれない。
そんなことを考えながら、火照った身体をどうしようかと考えた。
もう夫は寝息を立てている。自分で慰めようと思えばできないことはない。
しかし、それではあまりに自分が惨めすぎる。
わたしは自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をした。
うん。大丈夫だ。
それに、明日になれば、彼がわたしを抱きしめてくれるのだから。
「これでいいかしら?」
わたしの差し出したお金を彼は黙って受け取った。
「こんなもの貰わなくたっていいんですよ?」
彼はそう言ってわたしを抱きしめた。
分かっている。その台詞が半分は本心で、半分はお世辞であることくらい。
「貴方の時間をわたしはお金で買ってるの」
男を金で買う。その事実をわざと言葉にしてみた。
それはある意味、浮気の背徳感以上の興奮をわたしにもたらせてくれる。
「昨日は旦那さんとどうだったんです?」
彼は責めるようにわたしに聞いた。
夫とのセックス禁止。
彼がこの前、わたしに命じたことだ。
「いつもどおりよ。わたしの下着姿を見てもくれなかったわ」
「下着姿を見せたということは、抱かれるつもりはあったということですね」
彼の目の色がすっと深くなった。
わたしの行動が気にいらなかったのだろう。
「同じベッドで寝てるんだもの。下着くらい当然でしょ」
「まあ、そういうことにしておきますか」
「そんなことより、はやく」
急かすわたしを焦らすように、彼はゆっくりとシャツを脱いでいった。
「駅まででいいですか?」
彼の車の助手席で、わたしは黙って頷いた。
彼との逢瀬で使っているラブホテルは、わたしが住んでいるところの隣町にある。
離れているとはいえ、どこで誰が見ているかもわからない。
「駅の少し手前でいいわよ」
「誰かに見られでもしたら大変ですからね」
「わかってるなら聞かないで」
彼は意地悪く笑って、駅の近くに車を止めた。
「ここでいいですか?」
「ええ」
「今日の……」
わたしが車を降りようとした時、彼は何かを言いかけて黙りこんだ。
その言葉を聞いて、思わずわたしは笑いかけた。
まったく、この人ったら。
「晩御飯のこと?」
「あっ、うん。ごめん」
「帰りにスーパーに寄ろうと思ってるから。何か食べたいものある?」
「君が作ってくれるなら何でもいいよ」
彼はそう言って手をふった。
いつもそうだ。
夫はわたしの作った料理を何でも美味しいと褒めてくれる。
夫の車が遠ざかるのを確認して、買われた男になりきろうとして最後に失敗した夫を思い出しておかしくなった。まったくドジで愛すべき夫だ。
外で夫と逢瀬を楽しむようになってからすいぶんと経つ。
最初は、同居する母に気を使って減っていた夫婦生活を復活させる手段だった。
ところがいつのまにか、その逢瀬に色んなシュチュエーションを混ぜるようになってしまった。
ある時は、元彼と偶然出会って流される人妻。
またある時は、昔の男に恥ずかしい写真で脅され、無理やりに関係を持たされる人妻。
最近では夫もノリノリで、昨日も妻に興味が無くなった薄情な夫を見事に演じてくれた。
それでわたしは外で男を買ってはけ口にする欲求不満の妻を堪能できたし、夫も他人の人妻を寝取る背徳感を味わえたというわけだ。
帰りのスーパーで、わたしは夫のことを考えながら今晩のメニューを考えた。
できるだけ精のつくものを食べてもらいたい。
だって、今夜のわたしは罪悪感に苛まれる人妻だし、夫は浮気した妻を責める嗜虐心で興奮することは間違いないのだから。