Ⅲ CHESS FAMILY
内にくすぶる熱は相変わらず消えない。
お互いに自己紹介を交わした現在、小屋の中にはポーンとルーク、そしてビショップと僕の四人だけだ。三人組の自衛隊は、クイーンを抱えて一度去った。
「あの人達も一緒なの……?」
心配そうにルークが呟く。
「大丈夫。それに、色々と聞きたいことがあるんだ。工場のこととかね」
膝を抱いて考える。普段の僕ならすぐにでも保護を願って、言う通りに山を下るようビショップたちへ説得に回るところだ。だけどどうしても納得できなかった。
何故、クイーンのみならず元から僕らを殺そうとする悪逆非道な人間が表の世界で生きていて、それぞれに問題を抱えながらも必死に前を向こうとしている僕らはそれを許されないんだろう。
僕はずっと内も外も完璧な人間だからこそ認められて大人になっているんだと信じていた。
現に母はそう僕に教えたし、だからこそ試験も、その結果によって病舎へ連れていかれることも素直に受け入れることが出来た。
だが実際は、人を殺すために笑顔を被ったり、なんのためらいもなく心臓を弾で撃ち抜けるような人間が町中を平然と歩いている。子供を無視したり、理由を付けて暴力を振るうような親が子の人格形成に影響を及ぼし、結果としてまともな道を進めなくしている。『完璧』と名のついたサングラスを外してみれば、見えてくるのは非道で醜い私利私欲ばかり。裏切られた気分だ。
「で? ポーンはなんでコレ持ってたんだよ」
ビショップはライターを手にポーンへ迫っていた。ポーンはライターを取り上げるとズボンのポケットに押し込み、忙しなく鉛筆をノートの上に走らせる。
「なになに? えー……注射されそうになったらすぐに相手へ火をつけなさいって、お母さんが?」
ゆっくりと書かれていく字を読み上げているため、ビショップは通常に比べると亀のような喋り方になった。
「なんだそれ、注射って」
恐らく彼の母が危惧したのは、病舎で新薬を打ち込まれたり、実験台に使われるときの事だろう。よっぽどポーンを気にかけているようだ。何かしてきたら相手を燃やせというのは些か過剰な手段に思えるけど。
「てか作戦はどうするんだよ。アイツらが戻ってくる前に決めちまおうぜ」
「いや、大体うっすらとはもう思いついてるんだ。もちろん、君達の考えも聞きたいけど」
「は? もったいぶらずに言えよ」
ポーンとルークまで僕を取り囲むようにして座りだす。顔を見ればソワソワとしている。こういう、大人のいない場所で自分達だけで決めるという秘密ごとをよほど好いているようだ。
僕は咳ばらいをした後に話はじめる。
「まず、奇襲でいこうと思う」
「きしゅー?」
「いきなり攻撃して驚かせるって感じだよ」
「なんだよ、正面から突破すりゃいいのに」
「正面から突破は難しいと思う。向こうは銃を持ってる。突き付けられた時にビショップは全く動けなかっただろ?」
うっ、とビショップは言葉をつまらせた。嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。
「飛さん達のように、いきなり驚かせる形で攻めた方が僕らにとってはいいかもしれない。それに僕の力も、そっちに向いてるからね」
ポーンとビショップが同時に納得し、やはりルークは首を傾げる。ルークは最初の方はあまり興味などないという態度を取っていたから紹介も聞いていなかったのかもしれない。
「僕の力は、敵だと思った相手の傍へ瞬間移動できるものなんだ」
ルークは「ああ~」と頷く。聞いていなかったわけではなく単純に忘れていただけなのか。
「……あと、ポーン。君には頑張ってもらわないといけない」
ぴん、とポーンの背筋が伸びる。
「君もチェスを少しは知っているんだろ? ポーンは一マスずつしか進まないし、正面に敵が来たら動けなくなる駒だから存在感は薄いけど、実は最初はニマスも進めるし、斜め前の駒はとれる。極めつけはプロモーションだ」
ポーンは頷く。ルークとビショップは想定通り、全く理解できていない顔をしている。
「君には、最奥の……。あのフードで顔を隠している男の人の後ろに回って、クイーンと同じ力を使ってほしいんだ」
「クイーンの力……? 何言ってんだ、どうやって使うんだよ」
「普通のチェスだと、ルール上ポーンの駒は相手の陣地の最奥へとたどり着いた場合にのみ、他の駒に変身することが出来るんだ。もちろん、ビショップにもルークにもナイトにも。だけど、敵へ一撃を食らわせるならきっとクイーンの力が一番だ」
ポーンもゆっくりと頷いた。だけど普通のチェスと違い、僕らの場合は少しハードだ。ポーンは彼しかいない。代わりなどいないのだ。敵に真正面へと回られればポーンは動けなくなる。つまり……。
「ビショップと僕とで敵の注意を引きながら、そして飛さん達に護衛してもらいながら、ポーンは男の後ろになんとか回らないといけない……」
「……つまり、敵をポーンのとこへはやるなってことか?」
「そういうことだね。……ポーン、頑張れそうかな?」
彼はいくらか前のページを捲って、トントンと指で指す。
【みんなを信じる じぶんも信じる】
そしてパラパラと次のページを捲った。
【がんばるよ!】
さらに次のページ。
【みんなで やりかえそう!】
相変わらずその目元は髪に隠れて見えなかったが口元の綻びを見て、きっと両親と同じように優しい目つきをしているんだろうと感じた。
ビショップはポーンの肩に手を回し、「その意気だ! ぶっ殺してやろうぜ、ポーン!」と大口開けて笑う。悪役のように笑うのはやめて頂きたい。
「だから殺すのは駄目だってば」
注意していると袖を引かれた。ルークだ。
「わ、私、私も、がんばる……。なにすればいいの」
小さな声で一生懸命聞いてきた。
「ルークは……大変かもしれないけど、ここで僕らが帰ってくるのを待っていてほしいんだ」
ルークは僕の言葉をしばらく理解できないような顔で固まる。
「よっ、ただいま。うぇ、ってかやっぱくさっ。マジで誰の臭いだよ、コレ」
嫌なタイミングで三人組が戻ってきた。金さんの持つレジ袋の中から漂ってくる匂いにビショップは目を輝かせる。直後にルークは大声で叫んだ。
「なんでっ!?」
まだ外にいた銀さんと飛さんも慌てた様子で中に入ってくる。ポーンも視界の隅で立ち上がっている。
ルークは縋るように服を掴んできた。
「なんで置いていこうとするのっ!? なんでっ! やだ! 連れてってよぉ! 私はいらないの!?」
ボロボロと涙を流し始めるルーク。僕は首を振って否定する。
「違うよ、ルーク。いらないんじゃない。君は使いどころによっては戦車のように強い力にもなる。けどね、動かさない方がいいんだ。キングのためにも、僕らのためにも」
「なんで!? 分かんない! やだよ! 怖い!」
この中で最年少の彼女は首を振って、「連れてって」を繰り返す。一人になるのが怖いのかもしれない。まだ会って間もない頃はそんなこと言いもしなかった。学校でも家でも、車から逃げ出すときでさえ、一人には慣れていたのかもしれない。それなのに――やはり嵐の夜の事が相当堪えたのだろうか。僕はルークの変化に戸惑った。
「君は……僕らの帰る家を守らないといけないんだ。絶対に帰ってくるから信じて待っててほしい」
チェスのルールを考えるとルークは安易に動かせない。彼女は大事な塔だからだ。そもそも僕らの力はキングから借りているもの。キングに万が一何かあった場合、僕らは力を使えなくなってしまうかもしれない。だからキングの切り札としてもルークはおいていかないといけないのだ。
「やだっ! 帰ってこなかったらどうするの!? 帰るって言って、クイーンみたいに死んじゃったら!? みんな戻ってこないじゃん!」
ルークはたちまち大声で泣き出してしまった。そうだ。彼女はそのトラウマを抱えている。残るといって送り出した僕とクイーンたちに起こったこと。帰ってこなくなったクイーン。彼女はそれを安全な場所でただ見ているしかなかった。大きな傷となってしまったのだろう。
「俺らが死ぬわけないだろ! 舐めんなバカ! 返り討ちにして戻って来るって!」
ビショップも慌てて力強く言い、ポーンはルークの頭を撫でる。それでも収まるどころか余計に大きくなってしまう。
「……分かったよ、ルーク。もう少し考えてみる」
後ろ首を掻きながら僕はそう返すしか他に思いつかなかった。
ルークは声さえ抑えたものの、飛さんに頭を撫でてもらうまで暫くずっと泣いていた。
飛さんは僕達に折り畳み式のナイフを配った。護身用に貰ったそれをビショップははしゃいで振り回そうとしたのですかさず取り上げる。どうせビショップには必要のないものだ。というより彼がコレを手にしたら本当に誰かを刺し殺しかねない。予想通りビショップは拗ねたし飛さん達は心配した。
「工場まで行ったって話ですけど、そのことは上の人に話したんですか?」
「ああ、もちろん。報告はしたよ。本来なら警察に動いてもらうって話だったんだけど、なんかトラブルで動かせないらしくって」
「トラブル?」
「……なんか普通に会話が噛み合わないらしい」
ドーナツを口に押し込みながら「ま、ラッキーだけど」と飛さんは笑う。
警察に何かあったのだとして心当たりはやはり赤い服を着た男にありそうだ。彼に触れられた二人の警官は目を真っ赤にして放心状態になっていた。まさか感染のように広がっていくものなのだろうか。
「で、どうするつもりなの? 私ら合わせるよ」
気軽な調子で突っ込んできた。ひとまずルークのことは置いておくと決めた以上、そこに触れない形で話していくしかない。手元のドーナツを一口齧って咀嚼し、飲み込んでから口を開く。
「奇襲の作戦でいこうかなと思ってます。僕らは工場の中を知らないので、赤い服の男が外に出るまで待機して、出てきたところで一斉に襲いかかろうかと」
飛さんは頷いた後、思いだしたかのように持ってきた紙袋の中からクリアファイルを取り出し床に置いた。
「その赤い服の男については全く掴めなかったんだけど、それ以外の人物の情報は出てきたから一応」
「ああ、そうそう。この女、めっちゃ可愛い顔してんだよなぁ」
「おい、金」
金さんはすかさずファイルを手に取り、一枚書類を抜く。隣で銀さんが咎めた。
「どいつ」
二人の後ろからビショップが顔を出す。書類に載っている写真を見たのか「ああ」と頷いた。
「俺ソイツ二回蹴ったんだぜ」
さらりと自慢をし始めるビショップに双子の兄弟は声を揃えて凝視する。
「け、蹴ったの?」
「おいおい、顔面は蹴ってないだろうな!?」
「顔面は蹴ってないけど……俺様なら余裕でタコ殴りにできるぜ」
腕を組んで威張ることでは決してないのだけれども。金さんは大きな溜息を吐く。
「普通、こんな可愛い子には躊躇するもんだぜ」
「だっせぇなオッサン達」
「オ、オッサン……」
やっぱりビショップにはきつく注意をしておくべきかもしれない。最初に出会ったころに比べれば、丸くなったように感じるけれど、まだ大人に対する棘は抜け切れてない部分がある。いや、クイーンの一件もあるし仕方ないのかもしれないけど。
「次はコイツに憑りついてみるか」
ビショップは金さんから書類を奪い取った。
僕は飛さんへと視線を戻す。
「あの、明日なんですけど。ポーンを出来得る限り守ってもらいたいです」
「うーん……その子はどうしても連れて行かないといけないの?」
話す順序を間違えたかもしれない。キングの話をするのは抵抗もあるけれど、一応全て話しておくべきだろう。秘密ごとにしておきたそうな三人には悪いけど。
★
「竜奈さん、昨日の子供たちの話、信じられます?」
紅葉を踏んづけ歩きながら、隣で銀は眉を顰めながら竜奈へ問いかける。
彼女は「まあ、信じた方が面白そうだけどね」と肩を竦めた。
昨夜語られた内容というのも、魔法使いから特殊な力を貸してもらっているという話だ。
赤い服の男も恐らく魔法使いの一人で、目を合わせるのは危険だとか。金は鼻で笑っていた話だった。あまりにも信じがたい内容だったが、それを語っているのはビショップでもルークでもなく、ナイトだ。この期に及んで嘘をつく理由もない。だが信じるにはやはり実際目にする方が早いだろう。
竜奈は小屋の扉をノックしてから開く。
「おっと、やっぱり起きてる奴は起きてるし、寝てるやつはぐっすりだなあ」
差しこむ陽光に顔を顰めて寝返りを打つビショップ。入口の前で寝ていた。
そっと中に入ると、隅の方で既に起きていた三人がこちらへ顔を向ける。
真ん中に座るルークの瞳が赤く腫れているように見えた。また喧嘩でもしたのだろうか。
「おはようございます飛さんと銀さん。……金さんは?」
「おはよう。アイツはまだ車ん中で寝てるよ。……それより、どうしたの? 昨日もだけど。なんでその子泣いてるの?」
銀が直球で尋ねる。ナイトは後頭部を掻いて「そのことで少し話があるんですけど……」と言いづらそうにする。「珍しい」と竜奈は実直な感想を抱いたし口にも出した。
「何? 結局その子も連れて行きたいってこと?」
「いえ。そうじゃなくて。ポーンとビショップだけ、車で送ってくれませんか? 僕は後から向かうので」
「えっ、でも場所分からないでしょ?」
「いや、力を使うので大丈夫です」
銀は困った顔でこちらを向く。竜奈は「分かった。じゃあ二人だけ連れていくよ」と淡々と返す。昨日ナイトの話した作戦は例の魔法の力なしでは成り立たないものだった。実在すればその通りに事は進むだろうし、嘘であったとしても竜奈は無力な子供を奪っていく連中に負けるつもりなど無い。
極悪な犯罪者を捕まえた後は、ここにいる子供達を保護して施設へと送り届けるだけだ。自分の目の前で子供に傷はつけさせない。絶対のプライドがあった。
「ポーン、男が出てきたらすぐに手を上げて。ルークはそれを見たら僕に言うんだ」
ポーンは力強く首を縦に振り、ルークは相変わらずの涙声で「わかった」と呟く。
ナイトは立ち上がってビショップへと近づいた。起こすのかと思えば、体の上に小さな生き物を置く。
(鼠……?)
ビショップの体の上に置かれた鼠はくったりと横になる。ナイトは再び尻尾を掴んでポーンの元へ移動した。人間に掴まれているというのに無防備に眠りこける鼠はポーンの手に渡る。
「二人をお願いします」
とナイトは頭を下げた。ビショップは相変わらず大の字で眠りこけているようだがポーンは竜奈と銀へ掌の上で眠る鼠を見せつける。
「まさか、その鼠が」
「ビショップです」
「え、えぇ……」
竜奈は口に手を当て笑い転げるのを必死に抑えた。
「そ、そうか。それがっ、ビショップ……」
「竜奈さん笑ってる場合じゃないでしょう! どうするんですか! 鼠ですよ!?」
「まあまあ。面白そうだし、いいじゃん」
不安がる銀の肩へ手を置きながら外へ出るとポーンが鼠を手に外へとついてきた。
【一人がこわいらしいので すこしの間、いっしょにいてあげるそうです】
車の後部座席でポーンはノートを広げて見せてきた。掌で眠っていた鼠も今ではすっかり彼の肩の上で大人しくしている。ルークは小屋の中で一人になることを嫌がって泣いていたというわけだ。だったら一人くらい一緒に残ってあげても良かったろうに。
助手席では銀が金の分まで装填している。動いていく景色にポーンではなく、いつの間にか彼の頭上に移動していた鼠が釘付けになっていた。
★
歩田金子はかつてないほどの衝撃を受けていた。
早朝、角野雨竜に呼び出された彼女が工場の裏口のドアを開けて外へ出ると、青い制服の警備員が真っ赤な血の池を作って倒れていたのだ。
「ひっ」
大の男の俯せに倒れた死体に彼女は短く悲鳴を上げた。
「ああ、金子さん。おはよう。ごめんね朝早くから呼び出して」
真っ赤なバールを引きずって、負けないくらい赤い服を着た角野が歩いてくる。
珍しくフードを被っておらず、銀の長い髪とその下から覗く黄色い瞳がより一層鮮明に目に飛び込んできた。片目は充血しているのか真っ赤だ。金子はその赤い瞳に思わず見入りそうになり、さっと視線を外す。
「あの、角野さん……」
視線を下げて気付く。彼の服の一部が濃くなっていることに。
「これは一体……?」
「モグラ叩きだよ」
「モグラ……?」
「ああ、今は私がハンマーを持っているからね」
子供を迎えに行くのを中止したりと昨日から様子が変だと思っていた。金子は喉を鳴らす。
強張った顔に気付いたのか角野は人の良い笑顔を浮かべる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。そうだ。ようやく私もモグラになる番が回ってきたかもしれないんだ。いざその立場に回るとなんとも複雑な気持ちだね」
ほんの少し口早に話す彼は、何か興奮しているようにも感じた。
「でも、私はまだモグラを潰しきれていない。このままモグラになるのは惜しい。だから金子さんにもちゃんとハンマーを握らせてみようかなと考えてね」
「えっと、ハンマーって……?」
先刻から目の前の男の話す内容がしっかりと頭に入ってこない。
「君は自分がみんなの足を引っ張ってばかりいると、いつも気にしているだろう?」
金子は目を見開く。心の内を見透かされている。その通りだった。前に子供を逃してしまったことをずっと気にして、次こそは役に立てるようにと意気込んでいたのだ。もし、目の前の男からもういらないと言われてしまったらどうしよう。金子の胸は嫌なほど早鐘を打った。
「君だけがハンマーを持っていないからなんだよ。私はもう少し待ってみてもいいかと思ってたんだけどね。どうも、時間がないようだから」
「ま、待ってください! わ、私……もうあんなヘマはしません!」
レインコートの裾を握りしめる。角野は「ん? ヘマ?」と首を傾げた。
「こ、子供を逃がしたりなんて絶対にしません!」
「ああ、そうだね。きっと次は逃がさず捕まえられるよ」
肩に手を置かれ、金子は顔を上げてぎょっとした。
彼は両目とも充血していたのだ。気味の悪さに無意識に後退ろうとした直後――割れるような痛みに頭を抑える。
「使う度に頭の痛みは少しずつ長引いてくるから気を付けてね」
「つ、使う度……?」
遠のいていく痛みに息を吐く。
「そう。君は自由に行きたい場所へ移動できる力を手にしたんだ。それを使えば子供なんてあっという間に捕えられる」
角野は満面の笑顔を浮かべると、フードを指先でつまみ目深にかぶる。
「じゃあ次も頑張ろうね、金子さん」
男はそのままバールを引きずって工場の中へと戻っていく。
(そうだわ、私もここに居ちゃダメじゃない)
残された金子はあまりの頭の痛みに角野の話をすっかり忘れてしまっていた。
(工場の中に)
そう考えた途端、また頭痛に襲われる。
「えっ! あれ? 金子さんいつの間に……」
ふとそこにいないはずの香車の声が聞こえてきた。
ガンガンと痛む側頭部を抑えながら顔を上げる。
きょとんとした香車と目が合う。見渡すと見慣れた工場の中だった。
振り返る。裏口はずっと遠くだ。ここまで歩いてきた記憶はない。
『自由に行きたい場所へ移動できる力』……?
慌てて角野の姿を探して首を回したが、彼の姿はそこになかった。
★
「変わったね……」
膝を抱いて目を瞑った状態でルークはそう言った。
僕はビショップかポーンのことをいっているのだろうかと首を捻る。
「ナイト、聞いてる?」
拗ねた声に名を呼ばれてぴんと背筋を伸ばす。
「……もしかして僕に言ってたの?」
「当たり前じゃん! バカ!」
「ごめん……でも変わったって何が?」
「顔」
言われて顔を擦る。環境の変化に顔の形が変わったということだろうかと輪郭を確認した。異常はない。顔の色が変わったとか?
「ちょっと!」
「聞いてるよ。でも鏡がないから自分では分からないんだ」
「じゃあ今度描いて見せてあげる」
「ありがとう」
彼女は暫く黙った後「だから」と続けた。
「絶対戻ってきてね」
「うん。絶対戻ってくるよ」
ルークは相変わらず瞳を閉じたままだったが口元に笑みを浮かべる。
一時の沈黙が訪れた後、次は僕から声をかけた。
「ルーク」
「なに」
「僕の顔って、ぶすってしてるの?」
「それは教えない。戻ってきたら教えてあげる」
ルークは意地悪に笑うと、さっと片手を上げる。
「行ってらっしゃい、ナイト」
目を閉じて浮かんでくるのはクイーンを撃った男の姿だった。
空気の流れが変わる。腐った生ごみの匂いなんて優しいものだ。一嗅ぎで絶対によくない匂いだと分かる。真横に赤色を見た僕はすかさずナイフの刃を向けた。
★
魔法使いは入枝小学校の校舎の窓に頬をくっつけている。
一階の廊下を通る生徒たちはこれを見るや否や叫んで先生を呼びに走るのだが、外にいる青年にはわからない。
「ん~~???」
漸く顔を離した魔法使い――キングは首を捻る。
目的は単純にクイーンの妹を一目見にきただけだった。
付近の小学校は此処以外に見当たらずキングは躊躇せずに閉じられた門の上を飛び越えて校内へと踏み入れたのだ。通常なら十分に不審者の所業なのだが、キングに常識は通用しない。
「入って探すか」
入口を探してウロウロと歩き始める。
「にしてもクイーンの姉ちゃんって本当クイーンにそっくりだったなぁ」
ようやく真正面の扉まで辿り着くと、キングは目を凝らす。
心ここにあらずという様子で入口の前で立ち尽くす警備の赤い瞳。
「……なーるほどねぇ」
キングは呆れて溜息を吐く。そのまま歩み寄り、退かして中に入ろうとする。
が、中々動かせない。このままでは中に入れない。つまり妹の姿を拝めない。
キングは大きく息を吸った。「地球」の時間を巻き戻すだけでも十分な禁忌を犯している。
その上、力を勝手に使わせて、十分に干渉しすぎてしまった。あまりこれ以上は歴史を変えない方が良いのだろう。だが――。
キングは男の肩を掴んだ。数秒経って手を離す。ぱっと消えた。
「おじゃましまーす」
扉を開いて中に入ると想像以上に賑やかな声で溢れかえっている。キングは両耳を塞ぎながら歩いた。一歩先にもやはり真っ赤な目をした教師が立っている。キングは後ろ首を掻きながら肩に触れた。同じ方法で次々と消していく。巻き戻した場所で今頃呆然としているだろう。
噂をすれば先刻の警官が慌ただしげにキングの横を通り過ぎていった。
何食わぬ顔で平然と歩きながら赤い瞳をした人間の時間を巻き戻していく。
その大半が青い制服を着ていたり、バインダーを手にしている教師だった。
★
突っ立っている赤い服の男の真横に何の前触れもなくナイトが姿を現す。
それを目にしたポーンは走り出し、竜奈も小銃を手に続く。
男は指笛を吹いた。工場から残りの三人が姿を見せる。竜奈は彼らの隣の壁へ向けて発砲。脆い建物はすぐに崩れ眼鏡の男は黒髪ショートの彼女を庇い避ける。
「絶対、逃がさない……!!」
赤いレインコートの女性が鬼気迫る表情でポーンへと駆け出していた。
銃口を女性の足下へ向ける。しかし女性はこちらが牽制に出る前にふらりと倒れた。急激な睡魔に襲われたかのように……。竜奈の頭に、ナイトから聞いたポーンの能力の話が横切る。
(……まさかな)
銀が倒れている女性へと駆け寄り拘束しに列を離れていく。ポーンは気にも留めず女性たちの傍を横切った。
「どうしたんだよ香車!」
背後で男性の動揺を交えた怒声が上がる。竜奈はポーンの後ろに続きながら昨夜の話を思い返していた。
ナイトが姿を見せたらそれを合図とし、一斉に突撃。竜奈たち三人はポーンを援護しながら男のところまで向かわせる。絶対に敵に回り込まれてはいけない。ナイトとビショップは敵を引きつける。竜奈は速度を上げてポーンの肩を覗き込む。鼠の姿はなかった。
★
側頭部に当たる銃口。
男は僕が隣に現れてもさして驚く素振りを見せなかった。
ナイフの刃先を向けると、間を置かず凶器で僕の側頭部をコンと軽く殴ってきた。
男は余裕綽々とした態度で周囲の状況へと目を向ける。脇腹に刃先を突き付けられているというのに気にもしていない。
「いやあ……すごいなあ」
まるで他人事のように感心している。
「あなたは僕達の事を最初から殺そうとしていたんですね」
視線は合わせないように真正面へ固定して僕は彼の気を引く。
「もちろん。君達が逃げ出す前はそう考えてたよ」
「逃げ出す前は?」
「ああ。場合によっては病原体でも埋め込んで暴れさせてやってもいいかなって」
徐々に話し方や嗄れた声が若さを取り戻していく。もはや隠す気も無いのだろう。
「私はレオン・バースト。気付いていると思うけど、君に力を貸したのと同じ魔法使いさ」
レオン・バースト。病原体……。急速に回っていく頭の中に見えてくるそれは想像を絶する醜さだった。
「イーヴィルバースト症候群。これはあなたの力だったんですか?」
「察しがいいなあ。そうだよ、あれは私の力の一つ。アレのお蔭で随分と面白いものが見れてね」
ふつふつと腹の中から煮えたぎって燃え上がる何か。ある一つの衝動に駆られそうになり、僕はそれを押さえつける。あくまでポーンの時間稼ぎなのだ。
「……あなたはなんのためにここへきて、そんなことをしているんですか?」
「もちろん、暇つぶしさ。向こうは窮屈で仕方ないからね。こっちに来たからには何かして遊びたいし。その時、私を楽しませてくれたのはモグラ叩きだったんだよ」
「モグラ叩き……?」
「そう。今まで叩かれてばかりだった私がハンマーを握って出てくる頭を打っていくんだ。とても愉快でね。これだと思って」
レオンは愉快に話し始める。彼が見たいものはただ虐げられてきた弱い立場の人間が強い権力を持つ者達を倒していくところだった。それを見るためには、力を与えるべきだと考え、レオンは「イーヴィルバースト症候群」の病原体を次々に三十歳未満の若者へ与えていったらしい。特に感情の希薄な者や、一つの感情に突き動かされるような人間は扱いやすいという。
ただあまりに楽しくて病人を増やし過ぎたとレオンは後悔した。結果的に今では子供や若者は大人たちにとっての脅威となったのだ。上下が入れ替わっただけ。面白くなくなったから次は大人の見方をすることに決めたという。あくまで暇つぶしのために。
僕はそっとレオンを見上げる。容姿こそ年を取っているように見えるが実際は僕より若いのではないかと疑う。いや、そうと考えてみたところで何一つ理解も共感も、まして許すことなど到底できそうにない。クイーンは暇つぶしに殺されたのか?
「あなたは、上下関係の問題に苦しんでいながら、立ち向かおうとはしなかったんですね。結局逃げてきただけなんでしょ?」
僕の口から出た言葉は予想以上に棘が多かった。
「そうだ。私は逃げた。その場にいても虚しく苦しいだけ。だから逃げた。でも君達だってそうだろう? 嫌だから逃げたんだろう?」
息を大きく吸う。ポーンの気配を強く感じた。
「……一緒にしないでください。僕らは逃げたんじゃない。こうしてあなたにも立ち向かえる。何かを恐れて逃げたわけではありません」
そっと刃先を引く。ちょうど、彼の斜め背後には前髪で瞳を隠した男の子が立っている。
ポーンが駆け出すのと僕がレオンに突き飛ばされるタイミングは同じだった。
――待て、何故突き飛ばした?
よろけながら後ろへ下がると、誰かにその体を支えられる。
振り返ろうとして首筋にひやりと冷たいものが当たる。
「つ、捕まえた……。ぜったい、逃がさないから……!!」
女性の憎むような棘の加わった声。レオンが笑う。彼の手に握られた拳銃。口はポーンの頭についている。
「さて、私も鬼じゃない。例の女の子について恨みがあるなら、左胸を撃ってくれても構わない。ただ、それには条件がある」
目の前に人質。首に当たる刃物。完全に動きを封じられた。レオンは人差し指を立てる。
★
「私は脇腹を刺されようと左胸を撃たれようと構いはしない。だけど私が死ぬのは君が殺されたあとだ」
レオンの腕の中でポーンは微かに震えている。容易に力を使って逃げろと言えない状態にあった。
「そして君がもし自分の命を差し出せないというのなら、私はこの子を殺す」
竜奈は小銃を構えて動きを止めている。少し離れた距離で金もそうしていた。銀はというと、いきなり自分の腕から消えた女性がナイトの後ろにいることに驚いているようだ。勿論、それは竜奈達も同じだが、これくらいのピンチは想定内だ。
「…………」
ナイトは暫く黙り込んだ。そういえば、と竜奈は耳を澄ませた。後方でもめている様子だった男の声がすっかり止んでいる。
「僕は別にあなたに死んでほしいなんて思っていませんよ。それより、何か勘違いをしているようですが。僕に死んで欲しいなら、あなたにも飲んでもらわないといけない条件があります」
すぅうとナイトの息を大きく吸う音。
「―――この、ゴミクズムシ野郎! 一生歩けなくなって踏まれ続けろ!!」
上がる罵詈雑言。竜奈は思わず噴き出しそうになる。
「……はぁ? ……っ!?」
赤い男の気が完全にナイトへ逸れていた。黒髪ショートの若い女性が隣から体当たりをかます。男は銃口を反射的に向けたものの発砲はしない。
それが仲間だからなのか、それとも顔の良い女性だからか、使い勝手のいい駒だったからなのかは定かではないが確実に生まれた隙を子供達は逃がさない。銃口の狙いが逸れたことから、ポーンは目にもとまらぬ早さで、レインコートの女性へと突撃し、ナイトはその腕の中からとっくに姿を消していた。
「……くっ!」
男は女性に倒されてもなお、銃口を傍に現れたナイトへと突き付ける。すかさず竜奈はその手を撃った。パァンと弾ける音。
「えっ」
竜奈は息を飲んだ。彼の手は粉々に砕け散り、手に持っていた拳銃も地面へ落ちた。
ただし血は噴き出さない。ナイトの頬が破片で少し切れた。彼はさほど驚いた様子を見せず、有言実行とばかり手に持っていたナイフで男の足首を突き刺した。勿論そこからも血が噴き出すことは無かった。彼の中ではもしかしたら「魔法使いだから」で片付けているのかもしれない。
金が拳銃を拾い上げる。男は呆気ないほど大人しくなり抵抗をしなくなった。
数分と待たずして鳴り響くパトカーのサイレンの音に竜奈達は大慌てで振り返る。
青い制服の警察の人間が工場の中に続々と入ってきた。
これには流石のナイトの表情も怪訝なものに変わっている。捕えられた男が忌々しそうに舌を打った。
★
見上げると恐ろしいほど憎らしい笑みに出くわす。
工場の屋根の上で魔法使いが腕を組み胡坐を掻いて見世物のようにこちらを見下ろし笑っている。警察にかけた洗脳を解いたのもあの男だろう。男は私の視線に気付くと、掌を振った。
私はその笑みに舌を打った。ここで抵抗をしても虚しいだけだ。虚しく苦しいことからは逃げた方がいい。
今すぐ警察に言うことを聞かせて逃げるという手も考えたが振り払った。折角モグラに回ったのだから、もう一度ハンマーを握るその時までは叩かれてやろう。我を取り戻した香車は私へ助けを求めて叫び、金子は俯いて泣いていた。桂馬に至ってはタンカーで運ばれるほど、酷く殴り込まれている状態だった。
車へ押し込まれる前に私は例の少年へと振り向いた。丁度目が合う。そう、目を合わせたのだ。
以前会った時は感情を持ち合わせていないように見えた。再会すれば怒りの感情にのみ突き動かされている。つくづく扱いやすい。最高の素材だ。私は嗤って少年を指した。
「アレは必ずイーヴィルバーストを発症させる。バケモノになる。そうすれば、また悪夢が生まれるぞ。ははっ、あはははは!!」
車内へ押し込まれてもこみ上がる笑みは止まらない。監獄での暮らしなど程々にして私はまた必ずあの少年へと会ってやる。そうすれば、今度はお前が私に叩かれる番だぞ、魔法使い――!
★
僕の隣で銀さんの体に憑りついたビショップは胸に手を当てて何度も呼吸を整えていた。
「サ、サツに捕まるかと、思ったぜ」
「ぶっ!! ははは!! 銀の姿でっ!! その口調!! ははは!!」
金さんは失礼にも笑い転げてその隣で飛さんまで肩を震わせている。銀さんに少し同情した。
そしてきっとビショップは警察に捕まるべきだったと思う。パトカーの次に救急車まで来た時は、ビショップの本体を殴りたい気分だった。
【まさか けいさつが来るとは 思わなかったね】
「うん、そうだね……」
アレから暫く考えた。レオンが魔法を自ら解いたのか。それにしては警察の動きが早すぎる。もっと前から――。だとしたら解ける人物など一人に絞られる。
【こわかったね】
ポーンには本当に重役を任せたと思う。ある程度ピンチになることは考えていた。だけど流石に女性に捕われることは予想外だった。僕の大声を聞いたらすぐビショップに飛び蹴りをしてもらう予定だったのだが。なんだかんだビショップにも恐怖心はあったのか、体当たりで抱き付く形になっていた。まあ奇襲としては成功なのかもしれないけど。
「さて、このまま銀さんの体を借りているわけにもいかないし。アリとかいないかな」
「おい待て、アリとか弱いのはぜってぇナシ! 俺様に似合う虫なんかやっぱカブトムシくらいだろ」
「俺様って……っ!! ははははは!!」
大人は揃いも揃って腹を抱えて笑い転げている。
【カブトムシって夏じゃないの?】
「夏だね。あ、ほらアリが嫌ならダンゴムシとかどう?」
ビショップが今までお世話になっていた鼠はどうやら崩れた建物の下敷きになって死んでしまったらしい。ちゃんと成仏してほしい気持ちもあるけど一方で、しっかりとビショップを呪ってくれてもいいと思っている。
ビショップは渋々ダンゴムシに憑りついてくれた。そのお蔭でようやく銀さんは元に戻ったのだが、暫くは二人に茶化されることになるのだろう。可哀想に。
「とりあえず、一旦小屋まで送るよ。あの子が待ってるでしょ?」
飛さんの言葉に頷く。
「ありがとうございます。でも、あと一日だけ小屋の中で過ごしても良いですか? みんなと話がしたいんです」
『つかぜってぇ保護とか嫌だし』
ダンゴムシになったビショップの声は飛さん達には聞こえていないようだ。
飛さんはほんの少し黙った。僕とポーンの顔をじっと見つめてから頷く。
「うん、じゃあ明日の朝、すぐ迎えに行くから。それまでね」
★
坂を登って、ようやく見慣れた小屋を目にする頃には疲れ切っていた。ダンゴムシになったビショップはなんにも言わないし、もしかしたら肩の上で寝ているのかもしれない。そうだったら振り落としたい。なんて数日前の僕では思いもよらない暴力的な考えが浮かぶ。きっとビショップのせい。そういうことにしておこう。
薄暗くなってきた夜闇に、泣き叫ぶ少女の声と影。それは徐々にこちらに迫ってきていた。ポーンの肩へとダンゴムシを避難させてやる。
「うわぁああん!! ばかぁ!! 遅いよぉ!! ふざけんなぁ!!」
彼女の口からも暴言が飛び出した。僕とポーンを抱きしめたルークはそのあと手をグーの形にして胸を殴ってくる。これもきっと全部ダンゴムシのせいだ。
「ごめん……ただいまルーク」
「こわかったぁ!!」
『うるっせぇわ!! なんだよマジで!! 死……寝ろ!』
ダンゴムシの暴言タイム。寸でのところで死ねというのを抑えたところは疲れが取れたら褒めてやりたい。そして今のタイミングで怒鳴ったということはきっと今まで寝ていたんだろう。
ルークは暫く僕の胸をタオルのようにしてぐしぐしと涙や鼻水を拭っていたが、ふと顔を上げて慌てて小屋を指す。そういえば開いた扉から光が漏れている。でも不思議だ。ライターは確かポーンがズボンのポケットに入れていたはずだ。じゃあ、一体どうやって火を――。
「キング! キングが帰って来てるの!」
地を蹴り上げ、足を叱りつけながら僕は走った。
扉を全開にして部屋の中に飛び込む。
キングは素知らぬ顔で寝転んで欠伸をしていた。
「おっ。おかえりー兄ちゃん達」
「…………」
僕は何度も口を開いた。出て来る言葉は無い。
キングは目の前で黙り込んでしまった僕をじっと見て、「ふーん」と笑う。
やがてその場に体を起こして胡坐を掻いた。
「で、どうだった? 力。役立っただろ?」
「……うん」
「なあ、俺もクイーンの力使いたい!」
体を元に戻したビショップが我儘を言う。ニシシとキングは満足そうに笑う。
「キング、あの」
胸の内の熱はすっかり消えていて、かわりに鉛の玉に胸を押しつぶされているような痛みを感じる。
僕はそれでも言葉にした。
「クイーンの時間を、死ぬ前に戻してほしいんだ」
キングの瞳はこぼれんばかりに大きく広がる。
ポーンの息を飲む音、唾を飲み込むビショップ、しゃっくりを上げるルーク。
「…………」
キングはじっと、僕を見つめた。少しして「出来るぜ」と返す。その癖、ちっとも笑っていない。
「でも、たとえ何度、生きている頃に時間を戻したところで、クイーンは同じ状態で死ぬぜ」
ゲホッ、僕は咳き込んだ。ポーンは背中を擦ってくれた。それでも苦しくって涙が出て来る。
鉛の玉に胸を引き裂かれたのかもしれない。痛いし苦しい。ずっと咳き込んでいると、ルークが「深呼吸!」と叫ぶ。僕は必死に息を吸って、吐いた。だんだん落ち着いてくる。
「うぅ……っ」
呼吸は落ち着いても今度は涙が止まらなくなった。
彼女はもう戻ってこない。たとえ復讐したって、時間を戻したって。
かえってこない。この小屋には、二度と。
暫くして落ち着いてきた頃、キングは唐突に言った。
「お前達の学校に行ってきたんだぜ!」
腕を組んで自慢気に。
「なんで行ってきたんだよ」
ビショップに訊ねられ、キングは少し唸った。
「んーーーー。こう、えっとな。うーん。とりあえず会いたいヤツがいたから、ちょっと?」
キングにしては歯切れの悪い言い方だ。
ビショップとポーンにキングが問いただされている間、ルークは僕の隣でポーンから貰った紙切れに鉛筆で絵を描いていた。
肘で突かれて覗き込む。
「まず、最初はコレ。ぶすっ」
左の顔を指す。口はきつく閉じられ、丸い瞳は何も見ていないような、そんな何もない顔だ。
「そしてこれ」
右の顔。左と違って平行線だった眉は少し吊り上がっている。口がへの字になっていて、目も少し尖っていた。
「全然違うね」
「でしょ? ナイト、ずっとムスってして、怒ってた」
ルークは顔を上げてもう一度僕の顔を覗き込んで、くすくすと笑う。
「今はキョトンってしてる! 面白い!」
面白い――。さっきまでずっと痛かった胸中はほんのりと温かくなる。
痛みとも熱さとも違って、あまり嫌な気持ちはしなかった。
「あーー? 何笑ってんだよ、手前。キモいぞ!」
キングへの質問攻めはやめたのか、ビショップが駆け寄ってきて、頭を軽く叩いてくる。
「人を叩くのは良くないよ、ビショップ」
「あーうるせぇうるせぇ」
両耳に指を突っ込んで何も聞いていないふりをしてきた。叩くためにわざわざきたのだろうか。
「なあ」
ふといつも通り傍観に徹していたキングが声を上げる。僕らの視線はキングに集った。
「結局、知らない場所に行くことにしたのか? なんだっけ、大人の言うこと聞いて、ほーりつのルールってのに従ってさ」
僕らは顔を見合わせる。真っ先にビショップが否定した。
「誰が大人のいうことなんか聞くかよ」
「私も、帰りたいし。お母さんに見てもらえるようにいっぱいがんばる」
【でも、今かえってもメイワクかけるよね】
「そうだね、今の状況だとね」
僕の言葉に目に見えてポーンとルークが沈む。
「でも、僕らにはそれを打ち破る力があるだろ」
僕の中では既に、ルークの元へ戻る時から決心はついていた。
「僕らの力は一つだと全くでも、合わせれば強いものになる。一人ひとりが完璧じゃなくたって、ないものを補い支え合えば、僕らは完璧になれる」
例え血の繋がりなどなくても。それを教えてくれたのはキングだ。僕は彼に向き直る。
「だからキング、僕らは病舎には行かない。行く必要がないんだ」
キングの緑色の瞳は日光でも差しこんだかのように輝いていた。
「ああ、でも、ずっとここに居るわけにはいかないから、移動しはじめないと」
法律に違反した僕らにきっと国や大人は黙っていないだろう。一緒に協力してくれた飛さん達ですら敵に回るかもしれない。だって僕は嘘を吐いたんだ。朝になって僕らの姿がなかったら必死に探すだろう。逃げ続け、身を隠しながら生きるのは大変かもしれない。それでもいつか全員で認めてもらえるように。
夜更け、僕らは小屋を出た。キングはランプを手にして無邪気な笑顔で叫んだ。
「ファミリー万歳!」