ナポレオンと慈恩主義運動
ナポレオンと慈恩主義運動
1789年7月14日、パリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃した。
この争乱はフランス全国に飛び火し、フランス革命の幕が上がった。
フランスが革命に至った原因については複合性がある。
ルソーの社会契約論、人権や平等主義、自然権といった啓蒙思想の普及や、資本主義の発展、フランス王国の財政状況の悪化、さらにアイスランドのラキ火山噴火による降灰といった自然現象が組み合わさった結果といえる。
とくに最後のラキ火山噴火は世界規模で日照時間の低下をもたらし、農業生産を減少させ深刻な食料危機をもたらした。
「パンがなければお菓子を食べればいい」
と言ったのは、実は処刑されたマリー・アントワネットではないのだが、飢えて追い詰められた人々はたやすく暴発する状態になっており、そこに政府の様々な不作為や不手際が重なって革命がおきたと解釈するのが適当だろう。
フランス革命は、フランス国王ルイ16世の処刑で最高潮に達した。
国王処刑はイギリス、オーストリア、スペイン、サルデーニャ王国などの君主制国家に強い危機感をもたせ、干渉戦争を誘発した。
イギリスを中心に第一次対仏大同盟が結成され、ヨーロッパは激動の時代へと突入していくことになる。
それに対して東アジアは比較的、平穏な時期だった。
18世紀の半ばまで東アジアは中華南北朝の動乱が最も激しかった時代で、1735年に北清で乾隆帝が帝位に就くと南北統一を掲げて南明へ親征を繰り返した。
乾隆帝の南征は10回に及び、1755年には南京を陥落させている。
今度こそ南明は滅亡かと思われたが、またもやしぶとく生き残り、台湾へ遷都した後に逆襲に転じて1758年には南京を奪還している。
北清の敗因は制海権がないことだった。
南明海軍の主力はジャンク船で北清と技術的には大差なかったが、経験値と数が段違いであった。
海外貿易の富を重視する南明としては海軍重視は当然の論理的な帰結であり、騎馬民族国家の清には決して真似できないことだった。
制海権を確保した南明は海路で日本や欧州各国から武器を買い集めて戦い続けることができたのである。
日本は南明を支援して大量の武器弾薬を輸出すると共に、西比利亜武士団に青田刈り令を出して、アムール川を越えて略奪を行わせた。
乾隆帝は悲願である南北統一を果たせなかったばかりか、大規模な軍事行動を繰り返した結果として北清の財政を悪化させ、失意のうちにこの世を去った。
戦争で疲弊した北清は、19世紀に入ると衰退期へ向かうことになった。
南北動乱は日本にも大きく影響を与えており、南京陥落を前後して大量の亡命者(華僑)が来日している。
江戸や大阪、長崎の中華街は概ね18世紀の南北動乱で亡命してきた漢人によって建設されたものである。
漢人の一部は西比利亜にも向かったが、生存に適さない環境であったことから東南アジアや北米西海岸に向かうことになった。
また、漢人以外にも戦乱で南明にいられなくなったヨーロッパ人が多数、来日して日本で活動するようになったことも、その後の日本史に大きな影響を与えた。
ヨーロッパ人が日本に求めたのは陶磁器や漆器、浮世絵(木版画)といった芸術品や茶、毛皮、絹織物であった。
18世紀に入ると日本各地では商品作物の栽培やそれを加工する工場制手工業が発展した。
水力式の紡績機械は17世紀からさらに改良発展したものとなっており、一部の鉱山ではイギリスから輸入した蒸気機関の運用も始まっていた。
江戸幕府は基本的に自由貿易を掲げており、外国からの文物の流入は早かった。
日本国内においても、藩庁がある一部の城郭や鉱山、重要な産業拠点や禁足地に指定された寺社を除けば外国人の出入りは自由であった。
蒸気機関の売り込みのためにジェームズ・ワットが1785年に来日して、江戸の品川で蒸気機関の公開実験を行っている。
品川は江戸の港町で大量の外国船が出入りしており、大阪の神戸や堺に並ぶ一大貿易港であった。
この蒸気機関公開実験は大盛況に終わり、その時の様子を書き写した葛飾北斎の名画が「品川歳時記」である。
この時、公開されたのは鉱山用の排水ポンプ用の蒸気機関で、黒い煙を吐き出す煙突や排水口から水を吹き出す蒸気機関の様子が、面白おかしく描写されている。
同時期、日本に来日して同じものを書き写したのがフランス人画家のジャン=バティスト・デブレである。
後日、デブレは北斎の品川歳時記に衝撃を受け、北斎の作品を大量にフランスへ持ち帰った。
それを見たオランダ人の画家が来日して、ひまわりと富士山の絵を書きまくることになるのだが、それは少し先の話となる。
話がずれたが、江戸幕府は基本的に自由貿易の開国主義であったから、フランス革命の情報が伝わるのは早かった。
幕府はイギリスとの協議の末、対仏同盟への参加を決めた。
基本的に軍事政権である江戸幕府にとって市民革命は論外であり、国王弑逆は悪夢でしかなかった。
イギリスは当初、戦争の先行きを楽観しており、日本との同盟については念のためにというレベルだった。
幕府としても、まさかイギリス、スペイン、オーストリア、サルデーニャ王国といった欧州の大同盟がフランス一国に負けるはずがないと考えており、すぐに戦乱は収まるだろうと考えていた。
しかし、反仏大同盟の各国は自国の利害を最優先し、全く協調して軍事行動をとっておらず、各個撃破された。
イタリア戦線ではナポレオン・ボナパルトが大胆な攻勢に出て、サルデーニャ王国を下し、オーストリア軍に大打撃を与え、反仏大同盟を瓦解させた。
オランダは本国を占領され、フランス衛星国のバタヴィア共和国となり、東南アジアのオランダ植民地もまたバタヴィア共和国の元に降った。
オランダは長年に渡る日本の友好国の一つだったが、ここに至っては長年の友誼もご破産にするしかなかった。
本州の南にいきなり敵性国家が現れるなど幕府にとってはまるで想定外だった。
フランス革命戦争の時代を担った10代将軍徳川康春は決して無能な将軍ではなかったが、相手が真の軍事的天才であるナポレオンだったことが不運だった。
幕府は慌てて本州各地の海防を強化すると共に幕府海軍の増強を開始するなど、右往左往することになり、見込みの甘さを露呈して権威を低下させた。
日本人の多くが先行きに不安を抱えたが、これを好機と考えるものもいた。
西比利亜植民地の西の果てに位置する西比利亜大名の慈恩である。
本州からもっとも遠く離れた植民地である慈恩藩は、氷州藤原氏の初代藤原信久と共に西比利亜に渡った慈恩院安慈を藩祖とする。
安慈は元は浄土宗の僧で、後に氷土宗の開祖となった。
その布教活動はもっぱら物理的に行われたと伝わっている。
伝承では、安慈の身の丈は六尺五寸で43貫の巨漢である。
さらに法術を極めたことにより、木石や鎧武者を触れるだけで粉砕し、狼の群れを素手で打倒したと伝わっている。
その狼の死体を片付けていたところ、雌狼の死骸から狼の赤ん坊が生まれ、不憫に思った安慈が拾って蓮喜と名付けて可愛がったのが、西比利亜蓮喜犬の始まりという伝説もある。
それはともかくとして安慈は立藩する気はなかったが、西比利亜に捨てられた人々のために生きる糧を求めて大地を拓くうちに家が建ち、村が生まれ、寺がたつことになった。
それが慈恩院であり、安慈が亡きあとに檀家長の座尾山家が慈恩藩を建てた。
座尾山家が立藩の際に藩名を慈恩藩としたのは安慈のカリスマを肖ったためである。
慈恩藩は一種の宗教国家で、救世二元論を藩論とした。
救世二元論とは、あくまで藩は救世を目的として王道楽土を目指すが、救世のためには武力行使(生殺与奪)を厭わず実施することである。
これは17世紀の殺伐とした西比利亜で氷土宗の教えを守るための必要悪という側面があり、氷土宗を守るための理論武装であった。
西比利亜武士団やそれを束ねた西比利亜大名家は、だいたい蛮族と理解して差し支えないが、救世のためにロシア人の村を焼くのは慈恩藩だけで、一番性質が悪いという説もある。
ちなみに藩と表記しているが、西比利亜において藩とは本州とは異なり、武士団の連合体であり、近世的な大名家の統治機構とは意味が異なるため注意が必要である。
藩といっても特定の知行地や封土を持っているわけではなく、より良い生活のために本拠地を変えることは珍しいことではなかった。
実際に慈恩藩は立藩後も拠点をたびたび変えている。
藩主の座尾山家は元々、安慈の教えに深く帰依していたこともあり、宗教的な情熱で救世(武力行使)を実施し、ロシア人の村を焼きながら西へと移住していった。
18世紀末までに慈恩藩は、帯川のほとりに安住の土地を見つけ、そこに落ち着くことになった。
それが西比利亜の最大の中心都市となる磐梯市である。
さて、フランス革命戦争で幕府の右往左往を見た慈恩藩では、独立の機運が芽生えることになった。
慈恩藩は本州からすでに5,000kmも離れており、徳川家に対する忠誠心は希薄だった。
むしろ、住み心地のよい本州から西比利亜を支配する幕府に対しては反感しかなかった。
こうした不満は18世紀末になると西比利亜に普遍的に見られたものである。
18世紀末までに日本列島は居住可能な人口が飽和していた。
新田開発も頭打ちになっており、人口の捌け口が必要になっていた。
日本の全人口は4,500万人に達していたが、そのうち本州に住むのは3000万人程度で700万人が蝦夷地で暮らし、800万人が西比利亜にいたと推定されている。
本州では土地が得られなくなった農村から都市部に人口が流出し、それを幕府の没衆人が捕らえて西比利亜に送る流れがつくられていた。
幕府による西比利亜移民(棄民)は、17世紀中は幕府によって都合の悪い浪人(失業者)や犯罪者が対象となっていが、18世紀に入ると人口の飽和から経済構造の下部や末端に位置する貧困層が対象となっていた。
こうした棄民政策は、本州と西比利亜の間に意識の断層を生んだ。
17世紀において、幕府は米の流通を支配することで、西比利亜を支配していた。
しかし、18世紀にもなるとそうした体制にも動揺が見られるようになっていた。
特にアムール川流域や三日月湖周辺、帯川流域での大規模耕作は、米以外の穀物の自給自足を可能としていた。
元が熱帯の植物である米は西比利亜では栽培不能だったが、小麦や大麦、ライ麦、燕麦、じゃがいもやトウモロコシは西比利亜南部なら栽培可能だった。
幕府は米を西比利亜に送り、氷州藤原氏はその分配を支配することで西比利亜を統治していたが、食料の自給自足はそうした支配構造を揺るがした。
本州から最も遠く離れた慈恩藩では、米は非常に高価で食べることは不可能だった。
よって、
「米を食べることは贅沢である」
という認識が一般的であった。
それが18世紀末にもなると、
「本州に住むものは米飯に魂を惹かれ堕落している」
という価値観の逆転現象が起きることになった。
それどころか厳しい環境に生き抜き、西比利亜に根付いた自分たちこそ真の日本人であり、温かい本州で暮らす者たちは劣等種であるという選民思想が蔓延することになった。
こうした選民思想は氷土宗の思想を基にしている。
21世紀現在、西比利亜では品種改良により超寒耐性を獲得したオーロラニシキが栽培されるようになり、街角の牛丼チェーン店では普通に牛丼が食べられるようになっている。
しかし、200年前は、米は国家や思想を揺るがす一大事だったのである。
慈恩藩では、米食は堕落であるとして小麦を食べることを奨励しており、小麦を使った料理の中でもうどんが奨励された。
うどんは乾燥させれば日持ちがよく、たびたび飢饉に見舞われた西比利亜では保存食に適していた。
さらに大河が多く水資源が豊富な西比利亜ではうどんを茹でる水の確保も容易であり、酷寒の冬には温かいうどんを食べたくなるのが人情だろう。
なお、本州のうどんと異なり内陸の西比利亜では鰹節や昆布が入手困難であるため、本州の讃岐うどんなどを思い浮かべると西比利亜のうどん文化は理解不能である。
西比利亜のうどんは家畜の骨を煮込んで出汁をとり、カロリーを補給するため油脂類を豊富に投入するところに特徴があり、どちらかといえば支那そばに近い食べ物である。
それはさておき、食の自立が慈恩の背中を後押したと言えるだろう。
さらに国家独立の裏付けとなる武力についても、慈恩は特別に幕府から許可をうけて、武器の自作が認められていた。
幕府は西比利亜の植民地が反乱を起こすことを警戒しており、基本的に武器の自作を認めていなかった。
各種生活用品についても同様であり、砂金や資源と交換で供給することで西比利亜が経済的に自立することを阻害してきた。
18世紀に入っても西比利亜の各藩は工業製品を自給できておらず、特に衣料については毛皮で作った自作の粗末なものを着るか、本州で生産された高品質な綿製品や絹製品を着るか、どちらかしかなかった。
こうした生産阻害による植民地支配は、インドや東南アジア諸国でも見られた政策である。
特に武器については厳格に適用されており、西比利亜で自作が許されたのは刀剣までだった。
しかし、慈恩藩は例外だった。
本州から遠く離れており、しかも紛争多発地域であったことから本州から武器が届くのを待っていることができないため、武器の自作が幕府から公認された。
ただし、武器を他藩に移転、販売することは禁じられた。
それでも自前で武器を生産できることは慈恩の地位を飛躍的に高め、独立に必要な軍事力を養うことが可能となった。
慈恩藩7代目藩主座尾山綺麗は、この特権を活用し、北清と対立するジュンガル帝国やロシア帝国の支配に抵抗するカザフ・ハン国に武器を密輸して、慈恩・ジュンガル・カザフの秘密同盟を作り上げた。
さらにカザフ・ハン国を経由してヨーロッパから最新の鉄砲火器を手に入れ、幕府軍が持っていない後装式ライフル銃(イギリス軍のファーガソンライフル)を模倣生産することにも成功している。
天候に左右されることや構造的な弱点といった問題があったものの、ファーガソンライフルは毎分6発という画期的な高速射撃(当時としては)が可能であり、慈恩の軍事的な優位を拡大した。
それでも、慈恩の人口は45万人に過ぎず、当時の日本の人口が4,500万人であったことを考えると国力の差は歴然としていた。
それでも慈恩が独立戦争の道へと進んだのは、フランス革命と同じく食料問題が根本にあった。
前述のとおり18世紀末は火山の噴火により地球規模の寒冷化、異常気象が見られた時期であり、日本でも天明の大飢饉(1782~1788年)がおきている。
幕府は東北地方で発生した食料問題を解決するために西比利亜への棄民を加速させた。
餓死するよりは、西比利亜に行く方がマシだとして東北の農村から大量の棄民が西比利亜に渡ったが、元々食料の自給が不安定だった西比利亜にとっては大きな負担であった。
慈恩も例外ではなく、移民を大量に受け入れたことで食料供給が逼迫していた。
食料を求めるデモ(打ちこわし)が本州の江戸や大阪でも発生していたが、慈恩はそれを飛び越えて一気に独立戦争へと進むことになる。
ちなみに打ちこわしは単なる暴動ではなく政治的なデモンストレーションであり、打ちこわし前には家人を避難させ、火事予防のために全ての火を消した上で、米や家財道具、金品などの略奪は厳禁として、主催者によって厳しく統制された上で、実施されている。
やっていることは破壊活動であるが、可能なかぎり礼儀正しく、秩序を保った上で行われており、正しく政治的なデモンストレーションといえるだろう。
もちろん、西比利亜にはそんな生ぬるい発想はなく、政治的な意思表明とは戦を意味する。
ただし、血気盛んな慈恩藩といえども、国力の差が絶望的であることは理解しており、そうであるがゆえに決起の機会を伺うことになる。
その機会は意外にも早く訪れた。
皇帝ナポレオンのロシア遠征である。
革命で国王を処刑したフランスでは、なぜか国会の議決と国民投票を経てナポレオンが皇帝となり、フランス周辺諸国を打倒して大帝国を築いていた。
ナポレオンは抵抗を続けるイギリスを経済的に追い詰めるために大陸封鎖令(1806年)を衛星国、同盟国にイギリスとの貿易を禁じた。
しかし、産業革命の進んでいたイギリスの物産が入らなくなったヨーロッパ各国は逆に経済的に疲弊することになった。
ナポレオンに付き合いきれなくなったロシア帝国は大陸封鎖令から離脱し、イギリスとの通商を再開した。
封鎖令に違反したロシアにナポレオンは開戦を決意し、同盟諸国兵を加えた60万の大軍でロシアに侵攻した。
これは慈恩にとって好機だった。
慈恩藩は極秘にフランス帝国と接触し、ロシアを背後から攻撃する準備を整えた。
なぜ独立戦争のためにロシアを攻撃するかといえば、戦争するための軍需物資を確保するためであった。
慈恩の食料備蓄は極めて少なく、国庫も軍備拡張のために払底している状態であったから、独立戦争のためにロシアから金や食料を略奪する必要があった。
独立戦争の戦費を調達するためにロシアと戦争をするという実に倒錯した戦略であったが、慈恩には勝算があった。
というのも、江戸幕府はナポレオンがフランス皇帝に座につくと日和見的な態度を取り始めていたのである。
幕府は市民革命を認めることはできないが、ナポレオンが皇帝になって君主制が復活したのだから、それでいいのではないかという意見だった。
反仏同盟の盟主であるイギリスは王政復古の必要性を説き、貿易やフランス海外領土の割譲、最新式蒸気機関の提供といった飴玉を並べてなんとか日本を反仏同盟につなぎとめていたが、幕府は露骨にやる気を失っていた。
幕府は早期に反仏同盟に加わったものの長年の友好国だったオランダを敵に回すことになり、焦って旗幟を鮮明したことを後悔し始めていた。
慈恩はそうした幕府の態度を見て取って、ロシアに攻め入っても幕府は黙認するだろうと読んでいた。
そして、ナポレオンのロシア遠征が始まると電撃的に西西比利亜へ侵攻したのである。
1812年7月のことであった。
この攻撃は完全な奇襲となった。
ロシアは日本が反仏同盟に加わっていたことから、軍備をヨーロッパ側に集中しており、最低限の軍備しか西西比利亜においていなかった。
慈恩が用意した兵力は12万だった。
うち2万はジュンガル帝国とカザフ・ハン国から秘密同盟で雇い入れた傭兵で、慈恩兵は約10万だった。
人口45万人の国家で10万の兵力を動員するのは尋常なことではないが、国民皆兵の慈恩は根こそぎ動員を行って兵力を集めた。
10万の慈恩兵には少年兵はもちろんのこと、老兵も含んでおり、しかも3分の1は女性兵であった。
これは当時のヨーロッパ各国軍や東アジアにおいても考えられない特異な軍制であったが、西比利亜においては当然の選択であった。
酷薄な西比利亜の大地に捨て去られし棄民の末裔達にとって、性別の違いで社会的な身分を区分けするようなことは許されない贅沢であった。
男女の分け隔てなく重労働に従事しなければ、西比利亜で生き延びることは不可能なのである。
西比利亜は21世紀現在でも、女性の首長や政治家の割合が50%を越えており、男女平等は社会に広く受け入れられている。
もちろん、戦争においても男女の区別はなく、最前線にも女性兵は投入された。
それどころか慈恩左翼軍を率いるのは座尾山家長女の理亜姫であった。
左翼軍の魁として馬上で剣を振るう理亜姫を見て奮い立たない慈恩兵は一人もいなかった。
ロシア帝国軍においても、
「騎士理亜姫」
として、その勇姿が謳われるほどである。
入念な情報収集と戦争準備を済ませていた慈恩軍の侵攻は凄まじく一日30kmの速度で西西比利亜を疾走した。
これはナポレオンの大陸軍の1ヶ月の侵攻速度であり、慈恩軍はナポレオンの30倍の速度で進軍することができた。
これは慈恩軍が全員、騎兵であったことが大きい。
また、補給部隊を持たず、食料や武器弾薬の全てを敵からの略奪によって賄う方針だったことから軍の機動は極めて軽快であった。
慈恩には大砲もあったが、対ロシア戦では野戦軍の捕捉殲滅と迅速な略奪のために砲兵は動員されなかった。
西西比利亜のロシア軍は西へ逃亡を図ったが、慈恩軍は斥候として大量の軽騎兵を展開し、自由に追撃させたため、殆どは殲滅されるか、捕捉されたのちに本隊にすり潰されて全滅することになった。
慈恩に占領されたロシアの都市や村落は悲惨で、住民は根切りとされた。
越冬用の食料まで根こそぎ奪った以上、酷寒の中で餓死、凍死するよりは安楽な死を授けるという慈悲の精神の現れだった。南無阿弥陀仏。
西からはナポレオンの軍が迫り、東からは慈恩軍が攻めて来る状況に、ロシア帝国はパニックに陥った。
一部の貴族の中には、
「アイエエエエ! モンゴル!? モンゴルナンデ!?」
と叫ぶものもいた。
モンゴル軍ではなく慈恩軍なのだが大体のロシア人はモンゴル人と日本人の区別がついておらず、西比利亜の日本人は新手のモンゴル人だと考えていた。
モンゴル人と日本人は容貌に共通点が多く、やっていること(略奪、放火、強姦)も同じだったことから、区別する必要はないと言えばなかった。
時のロシア皇帝アレクサンドル1世の毛髪はさほど豊かではなかったが、モンゴル来襲の報を聞くと残りの毛をかきむしり、心労のあまり毛量が0となった。
ロシアをタタールのくびきにおいたモンゴル人ほど、ロシア人に怖いものはなかった。
アレクサンドル1世は、ナポレオンとモンゴルのどちらかと講和できないかミハイル・クトゥーゾフ将軍に相談している。
クトゥーゾフ将軍は、
「モンゴルとの講和はありえない。なぜならば、彼らには死か、服従のどちらかしかない。古事記にもそう書かれている」
と答えてアレクサンドル1世を絶望させた。
クトゥーゾフは、西西比利亜を放棄してウラル山脈を天然の防壁とする戦略を立てた。
しかし、慈恩軍はロシアの思惑とは関係なく、ウラル山脈の手前で冬営に入った。
騎兵軍の慈恩に山越えは困難であったし、越冬や今後の戦争に必要な物資はすでに十分に手に入ったことからこれ以上、西進する必要はなかった。
慈恩の予定表では来年の春にウラル山脈を越えてくるナポレオンと握手することになっていた。
そして、膨大な占領地と精強な軍、フランス帝国の武力を後ろ盾に、幕府に独立を認めさせることが慈恩にとってのゴールだった。
歴史のIFで、1812年に慈恩が西進を止めずにウラル山脈を越えていたら、ロシア帝国はナポレオンと講和し、欧州はフランスによって統一されていただろうと言われている。
クトゥーゾフはウラル山脈で慈恩軍を防ぐつもりだったが、実際には守備兵は殆ど皆無であり、越えようと思えば簡単に越えられたのである。
ウラル山脈を突破されたら、あとはモスクワまで平原が続いており、慈恩の騎兵を遮るものはなかった。
だが、ウラル山脈で慈恩が止まったことで、ロシア帝国は踏みとどまり、ナポレオンからの講和要求を拒否することができた。
結果として、焦土作戦で補給線が伸び切ったフランス大陸軍は酷寒の中で大撤退を開始し、ロシア軍の追撃を受けて全滅することになった。
ロシアでの敗北で、ナポレオンの権威は大きく揺らぎ、凋落への坂道を転げ落ちていった。
困ったのは、ナポレオンが勝つ予定で戦略を立てていた慈恩だった。
春になってもナポレオンは来ないどころか、軍を見捨てて本国に逃げ帰っていた。
欧州ではイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立し、フランス包囲網が敷かれた。
江戸幕府もこうした流れから日和見的な態度を改め、フランス帝国に宣戦布告し、フランスの同盟国となったスペインの植民地フィリピンへ侵攻した。
さらに慈恩を正式な幕敵と認定し、討伐の兵を派遣した。
大戦略が瓦解した慈恩だったが、今更あとには引けず、国号を慈恩公国に改めて1813年7月4日、江戸幕府に対して独立を宣言した。
7月4日は1776年にアメリカ独立宣言が公布された日でもあり、アメリカに続き、植民地からの独立を果たそうという慈恩の民の強い意志表明だった。
慈恩は左翼軍を西の守りに残し、右翼軍5万の兵力で幕府との決戦に赴いた。
流雲川会戦は、幕軍15万と慈恩5万が激突した大規模会戦で、江戸幕府にとっては関ヶ原以来の戦争らしい戦争といえた。
この戦いで、幕軍は大敗を喫することになった。
幕軍の敗因は総大将の板倉常長にあった。
本州から派遣された板倉は西比利亜には不慣れであった。しかも板倉家は奉行職を歴任した名家であったが、大軍を指揮した経験は皆無だった。
そもそも幕府は100年以上、10万以上の大軍を動員したことがないため、誰が派遣されていたとしても結果は同じだったという意見もある。
幕府は板倉の巧みな調整能力で西比利亜の諸大名をまとめあげ、戦争そのものは植民地人にまかせておけばよいという考えだった。
だが、それは戦争の実相を忘れてしまった平和な本州の机上の空論でしかなかった。
兵力に劣る慈恩はさらに細かく兵力を分散し、騎兵の機動力を駆使して幕府軍を翻弄した。
こうした機動戦、遊撃戦は素早い判断の連続となるため、実戦経験のない板倉には対処不能だった。
対して、慈恩右翼軍を率いる座尾山友鶴は、11歳から戦場で暮らし、対ロシア戦でも大戦果を挙げた生粋の戦人であった。
幕府軍の鈍さを感じ取った友鶴は幕府軍を挑発して、流雲川の湾曲部におびき出し、背水の陣を布いて幕軍を待ち構えた。
こうした誘導に、戦なれした西比利亜の諸大名は罠の匂いを嗅ぎ取っていたが、板倉は彼らの意見を無視した。
植民地人の風下に立つことなど、名門板倉家のプライドが許さなかったのである。
結果として、幕軍は流雲川湾曲部(三方を水で囲まれ、正面攻撃しかできない守りに適した地形)に陣取った囮軍に正面から突撃し、背後を慈恩本隊に突かれて包囲殲滅されることになった。
この敗報は西比利亜を駆け抜け、幕府に衝撃を与えた。
植民地が宗主国に反抗して勝利することは既にアメリカ独立戦争で果たされていたが、まさか西比利亜の小大名が幕府軍に圧勝するとは思わなかったのである。
慈恩の勝利は西比利亜独立の可能性を示した。
しかし、それに続くものは少数だった。
根本的に国力の差がありすぎるため、一つの会戦に勝利したところで幕府の支配が揺らぐとは思われなかったのである。
その後、慈恩は本国の安全を図るために東進作戦を行って、領地を拡大したが人口の少ない慈恩にとってさらなる占領地の拡大は自滅への道でしかなかった。
幕府軍のさらなる増派と西比利亜諸大名家の大動員によって50万の大軍が押し寄せるともはやどうにもならず、慈恩は首府の磐梯を失って滅亡した。
それでも慈恩軍は幕府軍に大損害を与え、氷州藤原氏4代目の藤原頼久を討ち取るなど、幕府を心胆を寒からしめる力を示した。
後部装填式のファーガソンライフルは、防衛戦では絶大な威力を発揮して幕府軍を寄せ付けなかった。
国民皆兵の原則から、女子供までライフルや刀剣を手に捨て奸(西比利亜ではポピュラーな戦術)を敢行し、慈恩軍は文字通り全滅するまで戦ったのである。
さらにロシア占領地を守っていた左翼軍は軍を解散して、遊撃戦に転じたため慈恩残党勢力が西西比利亜各地に広がり、幕府を悩ませることになった。
独立宣言をした1813年7月4日から1年で慈恩が滅亡したことから、一連の戦いを1年の役と呼ぶのが一般的である。
その後も西比利亜では独立を求める闘争は続き、西西比利亜は10年に一度は慈恩残党が武装蜂起する紛争多発地域となっていった。
幕府の弾圧にも関わらず慈恩の理想を掲げるものは増え続け、独立の志士は慈恩主義者と呼ばれることになった。
慈恩主義は西比利亜の思想的な潮流となり、19世紀を通じて西比利亜各地へと広まっていくことになる。
事態を重く見た幕府は西比利亜に対する支配力を強めるために当主が敗死した氷州藤原氏から氷州探題の地位を取り上げ、直接支配に乗り出すことになった。
その尖兵となったのが、西比利亜奉行直轄の悪名高い偵探衆である。
慈恩主義抹殺のため、偵探衆は幕府から斬り捨て御免状(殺人許可証)を与えられており、武力で慈恩主義者を次々に抹殺した。
さて、ナポレオンの総決算である。
ナポレオン打倒に主導的な役割を果たしたイギリスは産業革命による工業力の拡大も相まって、世界帝国の道をかけあがっていった。
その後ろを追うことになるのが、日本(江戸幕府)だった。
幕府は慈恩残党討伐の名目で西西比利亜全域に軍を展開し、ロシア帝国領西西比利亜を横領し、さらにスペイン領だったフィリピンを軍事占領した。
こうした領土拡張は戦後欧州のウィーン体制を正面から否定するものだったが、日本はそもそもウィーン会議には招かれていなかった。
東アジアの黄色人種国家である日本は欧州秩序のアウトサイダーだった。
ロシア帝国は今回の件でモンゴル恐怖症(MRS)を発症し、ウラル山脈の向こう側にあるものには関わらない方向に舵を切り、西比利亜横領を黙認した。
スペインはルソン島が戦前から経済的に日本に組み込まれていたこともあって、マニラ港の使用権を条件に日本の支配を容認した。
むしろ、スペインはフィリピン南部のイスラム系現地国家との果てしない地域紛争に嫌気が差しており、不良債権を押し付けたというのが実相に近かった。
日本はヨーロッパが戦争にかまけている間に世界中に商品を売りさばくことで産業革命を進め、イギリスに匹敵する広大な植民地を有する大国へと浮上したのである。