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氷州藤原氏



 氷州藤原氏


 元禄文化とは、18世紀初頭の日本の著しい経済発展とそれを背景とした富裕な都市生活者を担い手として育まれた芸術の潮流である。

 小説や浮世絵、歌と劇を巧みに組み合わせた歌舞伎や人形浄瑠璃は上方(京・大阪)を中心に全国へ伝播し、今日の豊かな日本文化の基礎を築くことになった。

 それを可能としたのは、幕藩体制の確立による国内の平和だった。

 戦国時代に軍人として活動していた武士は、長期の国内平和により立場を行政官に変えており、新田開発や商品作物の開発といった豊富な行政需要に従事することで国内生産力を大きく向上させた。

 四代将軍徳川信成はそうした豊かな時代に将軍となった幸運な男だった。

 信成は老中の合議制で行われていた幕府政治を将軍親政に切り替え、側用人を多用して独裁政治を行った。

 そのため、幕政の常道を歪めた将軍としてこれまで低く評価されてきた。

 しかし、近年では老中合議制が行き過ぎて行政能力が低下していた幕府の意思決定を将軍独裁によって迅速化し行政機能を活性化させたというプラスの面が評価されるようになっている。

 同時期にフランスで絶対王政を進めたルイ14世との類似性も指摘されており、日本の絶対王政として信成の治世を再評価されるようになった。

 両者の共通項として、文化事業への深い理解がある。

 ルイ14世の文化事業としてはきらびやかなヴェルサイユ宮殿の造営があげられる。信成も京都の聚楽第を大規模改装して、絢爛豪華な宮殿に作り変えた。

 聚楽第は元々、豊臣秀吉の京都における政庁でしかなかったのだが、一度解体された後に豊臣秀頼の居館として作り直された。

 その後は一貫して摂関家豊臣の館であり続けていた。

 豊臣家は幕府が朝廷に打ち込んだ楔であり、豊臣家を通じて幕府は朝廷政治に介入した。

 よって、その居館を改装することは信成の言によれば、


「幕府の威信を示す」


 ことになるのだが、実態としては妻(竹姫)の実家のかわいい義弟(豊臣秀行)のために何でもしてあげるという信成の底なしのワガママであった。

 ちなみに信成は両刀だったという説がある。

 1680年から1715年まで35年に渡って続いた聚楽第の拡張工事は、信成の死によって未完に終わった。

 しかし、完成度8割であっても巨大な揚水装置を使用した大量の噴水や日本初の動物園、ガラス張りの植物園を内包した広大な庭園、フランスから技師を招いて造らせたバロック調の宮殿建築は世界遺産に登録されるだけの威容を備えている。

 以上のように、信成は祖父の2代目将軍家宣に似た派手好きで、独裁志向の将軍だった。

 徳川将軍家は、奇数の将軍が初代将軍信康に似た堅実で合議制を重んじる将軍が多く、偶数の将軍はその逆で、家宣や信成のような派手好きの独裁志向な人物が多い。

 三代目将軍康秀は典型的な信康型の将軍だった。

 二代目将軍の家宣が祖父の織田信長に似た傾奇者であったことへの反発もあり、康秀の侘び寂び好みは徹底していた。

 また、吝嗇家でもあり、多額の経費を要する政策を次々に廃止した。

 将軍上洛もその一つである。

 将軍上洛とは大軍を伴った軍事的な示威行動である。初代将軍信康は朝廷や西国大名に睨みを効かせるために度々上洛していた。

 1607年の大阪城受取では、不測の事態に備えて10万の大軍を動員して上洛した。

 二代目家宣も幕府の力を誇示するために大軍を伴った上洛を行っている。

 しかし、三代目康秀の時代にもなると国内情勢は落ち着いており、統治体制確立もあって多額の経費を要する将軍上洛は行われなくなった。

 軍事的な示威がなくとも、幕府の権威は盤石のものとなっており、朝廷との関係も落ち着いていたことから、将軍上洛は不要になっていたのである。

 康秀の時代には、武力を用いた武断政治から法秩序に基づく文治政治への転換が進み、戦国遺風は殆ど払拭されることになった。

 しかし、信成に言わせてみれば上洛中止は誤りであり、幕府の目が西国に行き届かなくなる危険があった。

 実際のところは、上洛して改築中の聚楽第を見たいだけだったのだが、それを批判するものはいつの間にかどこかに行ってしまうのが通例である。

 信成は上洛すると聚楽第で能楽や歌舞伎、人形浄瑠璃などを興行を催し、公家や近隣の大名を招いて派手な宴会を催した。

 京都の町衆の手で行われてた祇園祭にも多額の下賜金を贈り、見物人に金配りを行って風流させた信成は、元禄文化のパトロンそのものであったと言えるだろう。

 将軍上洛のために東海道が整備され、大名の参勤交代制度も加わって近世日本における陸上交通網が確立された。

 また、聚楽第の造営や風流金配りなど、多額の政策支出で雇用が生まれ、元禄時代の経済成長が達成されたと言える。

 そうした信成の荒い金遣い(あるいは元禄文化)を支えたのは、蝦夷地や西比利亜からの豊富な鉱山収入だった。

 具体的に言えば、蝦夷の鴻之舞鉱山と西比利亜の小留舞鉱山である。

 江戸幕府は日本全国の大鉱山を直轄としており、豊富に産出する金銀から貨幣をつくること(通貨発行益)を国庫の柱としていた。

 しかし、17世紀も末になると本州各地の鉱山は産出量が頭打ちになるか、減少傾向になっていった。

 それに代わって幕府の鉱山収入を支えたのが、蝦夷地や西比利亜の金鉱であった。

 蝦夷地の金鉱開発は1609年の蝦夷地開拓令に始まる。

 関ヶ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開いた徳川家は戦乱の時代を終わらせた。

 そして、戦乱によって糧を得ていた傭兵の扱いに苦慮することになった。

 天下泰平の到来によって仕事を失った彼らは浪人(失業者)として、生活困窮から幕府に対する不満をつのらせ、その支配を転覆して戦乱の世に戻すことで望んでいた。

 徳川の支配を危うくする浪人を減らすため、信康時代には帰農令がたびたび出され、多くの浪人が当座の生活費や種籾を幕府から与えられ、農村に帰っていた。

 そうした帰農令の最終形態が蝦夷地開拓令であり、幕府は浪人問題の最終的な解決策として大阪や京都に屯していた浪人を強制的に捕縛し、蝦夷地へと追放することになった。

 そのための専門の役職として没衆人ぼっしゅうとが定められ、江戸幕府は組織的な棄民政策を展開した。

 1615年には、大阪だけで20万人の浪人が捕縛され、大阪湾から船で蝦夷地に送られた。

 海は凍り、地は氷土となり、全ての生物が死滅したかのように見えた。

 だが、浪人は死滅していなかった。

 しぶとく最初の冬を越えることができたものから蝦夷地大名が現れることになる。

 十勝に広大な農園を築いた宮本家がその典型であろう。

 宮本家の藩祖である宮本武蔵は最初の冬を越えるために日本刀でエゾヒグマを斬り殺してその肉を食らったという伝説がある。

 近現代に入ると、体重300kgを超えるエゾヒグマを日本刀で斬り殺すのは不可能であるとして、宮本武蔵のヒグマ斬りは創作と考えられるようになった。

 しかし、21世紀に入って最新の科学分析技術を用いて十勝城に伝わる件のエゾヒグマの頭蓋骨や毛皮を分析したところ、エゾヒグマの致命傷となったのは頭部への斬撃であることが判明し、伝説は事実であることが確認された。

 このことを受けて、某オンラインRPGゲームに英雄キャラクターとして登場する宮本武蔵(女性)の必殺技の攻撃力が上方修正された。

 それはさておき、幕府による棄民政策で蝦夷地に追われた浪人の多くは生存のために帰農を余儀なくされたが、それを拒否して砂金掘りに勤しむものもいた。

 先住民のアイヌ民族は砂金掘りで得た金で日本人と交易して米や鉄器を得ており、砂金掘りは蝦夷地の主要な産業の一つであった。

 それに目をつけた浪人衆が発見したのが鴻之舞鉱山だった。

 鴻之舞鉱山は蝦夷地でも特に環境の厳しいオホーツク海に面した蝦夷地北東部に位置し、アイヌであっても暮らしている者が少ない過酷な土地であった。

 そうであるがゆえに手つかずの砂金があると睨んだ浪人達が数多の犠牲の果てに砂金を持ち帰ったのが鴻之舞鉱山の始まりである。

 新たな金山の発見はまたたく間に日本全国へと広がり、蝦夷地は日本全国から有象無象が集まるゴールドラッシュの時代を迎えた。


「人が住んでいない蝦夷地には、手つかずの砂金が眠っている」

 

 人々はそのように考えたのである。

 また、幕府も鉱山収入を増やし、不満分子を追放する一石二鳥の策として、積極的にゴールドラッシュを煽った。

 金に目がくらんだ浪人達が蝦夷地を北上し、樺太に渡り、さらに海を越えて西比利亜に至ったのは1636年だった。

 同じ年にはコサックのイヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海へ至り、ロシア人によるシベリア横断を達成している。

 西比利亜の語源は、シビル・ハン国(1598年滅亡)であり、元はロシア語であった。

 当時の西比利亜は日本人とロシア人、さらにアイヌ人や清国人が雑居する土地であり、確定された国境線はなかった。そのため言葉や文化、習俗についても混交があり、西比利亜独特の文化が生まれ、いくつかは本州に持ち込まれた。

 例えば、イクラの軍艦巻きである。

 寿司は本州の文化であるが、イクラはロシア語で、イクラの軍艦巻きを発明したのはアイヌの寿司職人であった。

 17世紀半ばまで西比利亜は奥蝦夷地と呼ばれていた。

 1640年にアムール川河口に港と奉行所が建設され、幕府の公式文書では奥蝦夷地を改め、氷州とされた。

 ちなみにこの港が後の函館市となり、奉行所は要塞化され五稜郭となる。

 本州では、21世紀現在でも西比利亜を氷州と呼ぶことがある。

 しかし、西比利亜では氷州は植民地時代を想起させる意味が強いので旅行で行く場合には発言に注意が必要である。

 それはさておき、西比利亜に最初に渡った日本人の一団の長が、後に氷州藤原氏を開くことになる藤原信久である。

 信久の出自については諸説がある。しかし、藤原姓については完全な詐称である。

 ここでは後に明らかとなった藤原信久の本姓である島津信久と表記するものとする。

 島津信久の出生年については1604年が有力である。関ケ原の合戦の翌年のことであり、生まれは岐阜の大垣であることが判明している。

 信久の父は関ヶ原の戦いで全滅したはずの島津隊の生き残りだった。

 氏名は不明だが、島津豊久とするのが有力である。

 信久が島津を名乗っていた時期は短く、藤原姓を詐称したため信久が島津氏であることが判明したのは20世紀半ばのことである。

 藤原姓を詐称した理由は定かではないが、砂金と馬で財を成して奥州に覇権を築いた奥州藤原氏にあやかったものとする説が有力である。

 関東に覇を唱えて北条姓を名乗った伊勢宗瑞(北条早雲)という例もある。

 信久は西比利亜に渡った時点ですでに壮年となっており、本州にいたころは大垣の富農の主人だったと言われている。

 本州での安定した生活を捨てて信久が西比利亜へ渡った理由は幕府の島津狩りが迫って身の危険を感じたためという説が一般的である。

 西比利亜に渡った信久は開拓村を築き、女真族やロシア人の襲撃を退けて、砂金を手に入れるとまたたく間に西比利亜に勢力を広げることになった。

 これが氷州藤原氏の基礎となった。

 ちなみに、信久は島津氏の子孫であるが、生まれは岐阜の大垣ということもあって、薩摩の風土にふれることはなく、島津家の伝統についても誤解している部分があった。

 西比利亜に広まった氷精流の根本は薩摩の示現流を基本としているが、気合の掛け声が本州と西比利亜では異なり、西比利亜では「チェリオ!」となっている。本州では「チェスト!」となっており、本来は「チェスト!」が正しい。

 なぜこのような誤チェストが広まったのかは不明である。

 しかし、近年の歴史研究の発展により、岐阜生まれの信久が誤解して覚えた示現流を西比利亜に広めたことが原因という説が支配的になってきた。

 正しく伝わった薩摩の風習もあり、火縄に点火した火縄銃を部屋の中心に吊るした上で車座を組んで酒宴をひらく奇習や、罪人の生き肝を取り合う残酷な処刑方法はまことに残念なことに正確に伝わっている。

 最近ではあまり見られなくなったが、犬を食卓に供することも西比利亜では20世紀後半まで地方にいけば普通に見ることができた。

 信久の軍勢は特に鉄砲火器の運用に秀で、伏兵戦術の運用に神がかった采配を奮った。

 即席の組織で高度な軍事運用が可能だったのは、西比利亜に追放された人々は大半が浪人(失業軍人)だったことが大きい。

 戦国の遺風が残る時代であったこともあり、日本人の西比利亜開拓は極めて荒々しい流血を厭わないものであった。

 はっきりといえば、蛮族の侵略であった。

 勃興期で民族的な高揚感に包まれていた清でさえ、西比利亜に進出した日本人を日本鬼子と呼んで非常に恐れ、相手にするのを避けた。

 なお、中国において鬼とは邪悪な存在やつまらないものといった否定的な意味が強く、力の象徴と扱う日本とはまるで意味が異なるので注意が必要である。

 西比利亜で日本人とかち合うことになったロシア人も似たようなニュアンスで、日本人を小悪鬼ゴブリンと忌み嫌った。

 西洋においてゴブリンとは、邪悪な人間に対立する人型生物で、独自の言語などを持ち、粗野な部族社会を形成する種族とされることが多いが、これは西比利亜に進出した日本人そのものである。

 ロシア童話の勇者エゴーリィの物語では、ゴブリンは罠や毒、人質を用いるなど狡猾で邪悪、黄金と人間の頭蓋骨で悪趣味な装飾品を作り、女をさらって孕み袋として飼うなど人間に敵対する害獣の極みとして描かれている。

 ちなみに物語においてゴブリンは地下に巣を作ったところを毒気や火攻めで全滅させられるなど、英雄の物語にしては卑怯なやり方で皆殺しにされている。

 物語が作られた時代にロシア人が日本人をどう思っていたかよく分かる話である。

 ちなみに前述の毒や罠、人質を用いる下りは概ね歴史的な事実であり、黄金と人間の頭蓋骨で作った装飾品(髑髏杯)も函館の国立博物館に実在している。

 最後の孕み袋については流石に事実だとは思いたくないが、やはり歴史的な事実であることが判明しており、現代に生きる我々としては心苦しく、下半身に訴えるものがある。

 弁解するならば、当時の西比利亜では日本人の女性人口が極めて少なかったことが原因といえる。

 西比利亜に渡った日本人の大半は男性であった。

 これは過酷な西比利亜では女性が生き延びることが困難と考えられていたためである。

 浪人は西比利亜に渡る前に妻や子を実家に帰すことが一般的だった。

 西比利亜送りとなった重犯罪者(殺人、強盗、放火犯など)も男性率が高く、女性で西比利亜送りとなることは稀であった。

 そのため18世紀半ばまで西比利亜の日本人は異様に男性率が高く、性欲を発散するために清やロシア、遊牧民の村を襲って女性を誘拐し、村の共有財産として飼う(孕み袋)といったことが行われていた。

 こうした痕跡はDNAに残されており、20世紀後半のDNA解析技術の発展により、当時の西比利亜で起きていた野蛮な血の交雑の実態が判明した。

 その結果として、西比利亜の日本人は本州の日本人の特徴を残しながらも、体格や風貌が大きく変化し、髪や目の色にも独特の色彩を持つものが多くなった。

 金髪はもちろんのこと、銀髪(白髪ではない)や緑や赤、桃色といった他の人種ではありえない髪や瞳の色彩を持つものが多いのは、こうした事情がある。

 西比利亜の一部地域では、狼や犬、猫由来と思われる遺伝子も観測されており、一体何とナニをしていたのか気になるところである。

 また、20世紀初頭まで外部との交流がない西比利亜の農村では、成人の儀式として村の女性が童貞の少年と集団で性交を行うといった奇習も存在した。

 西比利亜の樋上地方では、氷に閉ざされた閉鎖的な土地で1世紀単位で複雑な血の交雑が行われた結果として、樋上顔という瞳が大きい童顔の日本人が生まれ、樋上地方出身者によって21世紀のアイドルグループの構成員をほとんど独占されるに至るのだが、それはまた別の話である。

 話を戻すと氷州藤原氏は、1685年にはロシア帝国からアルバジンおよびネルチンスクの要塞をロシアから奪った。

 信久のあとを継いだ藤原忠宗も名将と名高く、アルバジンの要塞を包囲すると見せかけ、ロシア軍をおびき出して待ち伏せ戦法で包囲殲滅した。

 さらに漁夫の利を狙った康熙帝(清朝最優の皇帝として名高い)の清軍をも退けて、アムール川以北の土地を切り取るなど、東西比利亜における日本の覇権を確立した。

 この時、藤原氏が動員した兵力は7万騎に及んだ。

 このような大規模な騎兵集団が運用可能になったのは、西比利亜に散らばった開拓村の存在が大きい。

 開拓村といっても、土塁や空堀を張り巡らせた小さな要塞のようなものである。

 それぞれの村は武士団という形でまとまっており、その組織形態は鎌倉時代のそれに近い。

 所謂、西比利亜武士団である。

 元禄文化が華やかになりし17世紀末であっても、近世的な常識が通じるのは幕府の奉行所がある函館周辺のみであった。

 当時の日本でも、 


「一里進むごとに1年遡る」


 という警告があり、函館から100里(約400km)西比利亜を歩けば、そこは戦国時代さながらの紛争地帯であり、さらに100里進むと室町時代となり、三日月湖(バイカル湖)周辺にもなれば、鎌倉時代であった。

 鎌倉武士の生活については、インターネットなどでその蛮族ぶりが紹介されて久しいが、17世紀末の西比利亜にも鎌倉武士はいたのである。

 孕み袋のようなことをしない分、鎌倉武士の方がマシという説もある。

 西比利亜武士団は御恩と奉公という単純な主従関係を藤原氏と結び、動員がかかればいざ函館として、騎馬武者となって馳せ参じる。

 西比利亜武士団と鎌倉武士団の大きな違いは、鉄砲火器の装備率であり、古の鎌倉武士が弓矢を主兵装としたのに対して、西比利亜武士は鉄砲で武装していた。

 ロシア帝国は西比利亜武士団排除のためにコサック騎兵やロシア正規軍を送り込んだが、1つや2つの村を潰すことができても、その後に略奪目当ての武士団が群がってきて、逃げ帰るのが通例であった。

 あまりにも損害が大きいため、ロシア帝国は17世紀末までに東西比利亜から撤退を決めて、西西比利亜の防衛に専念することとなる。

 北清も秋になるとアムール川を越えて略奪にやってくる武士団に手を焼き、辺境警備に多大な国費を浪費することになった。

 17世紀以後、中華世界が南北に分裂したのは、北に蛮族の侵略を抱えて南北を挟まれた清朝が南明を攻めきれなかったことが大きかった。

挿絵(By みてみん)

 氷州藤原氏は本州の江戸幕府に莫大な砂金を上納することで、氷州における支配的な地位として氷州探題を認められた。

 砂金の代わりに本州から送られたのが米である。

 馬鈴薯やライ麦、燕麦のような痩せた土地でも育つ穀物があっても、西比利亜の食料自給率は低く、米作は不可能であった。

 不足する分はロシアや清の村を襲って略奪するか、本州からの下賜米で補われた。

 氷州藤原氏は膨大な献上品と引き換えに幕府から下賜米を手に入れ、その分配を握ることで西比利亜武士団を支配したのである。

 元録時代にもなると本州では貨幣経済の発展から米が通貨として使われることは殆どなくなったが、西比利亜では米を通貨とする米本位制のままであった。

 生存に直結する部分であったことから、米を巡って殺し合いになることは日常茶飯事であり、米泥棒の眼球を潰して晒し者にするといったことが行われていた時代がある。

 西比利亜では現在でも米を粗末にする子供に「目が潰れる」と脅す躾が行われている地域があるが、これは歴史的な事実を下敷きにしたものである。

 また、米を大量に消費する日本酒の製造は西比利亜では不可能で、日本酒は貴重品であった。

 どれだけ日本酒が貴重品であるかといえば、西比利亜を支配した藤原氏であっても日本酒が飲めるのは婚礼の儀か、正月のどちらかしかなかった。

 代わって乏しい食料をやり繰りして醸造されたのが、焼酎のたぐいであり、馬鈴薯や雑穀を原料としたアルコール度数の高い酒が好まれた。

 これらの酒は体を温めるという実用目的もあったが、貧しく、死が近い生活をおくる西比利亜の棄民にとって過酷な現実から逃避するための酒でもあった。

 17世紀から伝わる西比利亜の伝統的な焼酎「強力すとろんぐ」や「ぜろ」といった酒はあまりにも酒害が多くなりすぎ、飲酒に寛容な日本であっても幕府から禁令がでるほどであった。

 「強力」や「零」は製造の過程でフレーバーとして幻覚作用のある薬草が混入されており、20世紀初頭には一旦製造禁止となっている。

 また、中央アジアから流入したアヘンや大麻もたびたび幕府によって禁令が出されるほど西比利亜では広まり社会問題となった。

 現在でも野生化したケシの花や大麻草が西比利亜ではあちこちに自生しており、保健所が出動して刈っているが、国土が広すぎるため都市部以外は野放しという現状がある。

 マルクスは宗教はアヘンと述べたが、まさにアヘンのように精神を弛緩させて自己を守るために西比利亜では宗教が嗜まれた。

 その中でも最大の宗派となったのが、氷土宗である。

 氷土宗とは西比利亜に広まった仏教である。

 浄土宗の僧侶であった慈恩院安慈が永久凍土で念仏業を務めていたところ、阿弥陀如来が現れ、安慈に悟りを授けたことを起源している。

 氷土宗の教えでは一心に念仏を唱えれ(専修念仏)ば、死後に阿弥陀如来の慈悲によって極楽浄土に導かれるという点では浄土宗と大差ない。

 大きな違いは、氷土宗は苦界(現世)は二種類あり温土と氷土に別れ、氷土がより浄土に近いと主張した点である。

 氷土とはすなわち西比利亜であり、西比利亜に住むものはより浄土に近いという逆転の発想が見て取れる。

 たしかに西比利亜は様々な意味で本州よりも死(浄土)が近い場所であり、容易く人は死んでいったが、敢えてその過酷さを肯定し、西比利亜の棄民こそ浄土に近い者(覚者ニュータイプ)であるとしたことから、氷土宗は爆発的に西比利亜に広まった。

 なお、前述の「宗教はアヘン」というマルクスの言葉は、宗教否定ではなく(マルクスは宗教を批判しても否定したことは一度もない)、アヘンのようなもの(宗教)がなければ成り立たない社会状況を批判し、変革の必要性を喚起するものである。

 ただし、後の世ではマルクスの言葉は曲解され、単純な宗教否定になってしまい、宗教を必要とする社会の歪みは放置された。

 話を戻すと、西比利亜の膨大な米需要は本州における米価の安定に寄与するところが大きく、大名や旗本、御家人を土地に封じる封建制度の維持に都合が良かった。

 基本的に武士の収入は領地からの年貢(米)に依存しており、新田開発で米の生産量が増えると米価値が下落して、武士の収入が減ることになる。

 米価の変動には、西比利亜の下賜米が大きく関わっており、その年の下賜米の量で大阪堂島の米相場が決まった。

 下賜米の量は毎年10月15日に発表されたことから、これをいち早く大阪の堂島に伝えるために早馬が用いられ、18世紀末になると腕木通信システムが動員された。

 幕府は米の価格が下落すると下賜米を増やして、米価の値崩れを阻止した。

 幕府は下賜米をコントロールすることで西比利亜を間接統治し、旗本や御家人といった軍人官僚の生活を保証したのである。

 経済感覚に優れた御家人や旗本などは、扶持米を全て西比利亜に売り、その代金で豪奢な生活を送るものが現れた。

 富裕な武士や商人は米を使って西比利亜に独自に荘園を築き、新たな貴族階級が形勢される一端にもなった。

 米と砂金の交換レートは明らかに不平等なものであった。

 しかし、米以外にも様々な生活物資が西比利亜では不足しており、本州から輸入に全面的に依存したため逆らうことはできなかった。

 砂金の他にもモンゴル馬や満州馬、後に木材や鉄などの工業資源が加わり、西比利亜は日本の植民地として搾取の下部構造へと組み込まれていった。

 極寒の西比利亜に追いやられ、搾取された棄民達は幕府を恨んだが氷州を統べる藤原氏は、そうした怨嗟の声を弾圧し、棄民を西へ西へと追いやることで封じ込めた。

 17世紀末の華やかな元禄時代を支えたのは西比利亜の犠牲だったといえる。

 西比利亜の流通を支配した氷州藤原氏は、信久、忠宗、久治、頼久の4代に渡って栄華を誇った。





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― 新着の感想 ―
[一言] 髪色とか遺伝子で?となったけどいたる顔でシベリアだけエロゲー時空だったと理解しましたw 前話の時点では気づきませんでしたが、蝦夷地棄民からソヴィエトに繋がるわけですね 島津が生き延びて東シ…
[一言] チェリオと言うなの飲料メーカーで後年作られそうだw コサックの間で勇者エゴーリィじみた立派なチェリオスレイヤーが量産されそうだわ。 試される修羅の大地でニュータイプが生まれるとかもう宗教か酒…
2020/07/25 16:12 退会済み
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[良い点] 蛮族オブ蛮族(震え声)
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