日明貿易と中華分裂
日明貿易と中華分裂
徳川幕府二代目将軍徳川家宣は、織田信長の孫である。
そういう意味では、織田家は家宣の征夷大将軍就任により、天下をとったといえるかもしれない。
一応、織田信長の嫡孫である織田秀信もいるのだが、関ヶ原の戦いで西軍に組みしたことから改易となり、高野山に追放されていた。
世は無常である。
それはさておき、信長の孫である家宣は若き日から信長に瓜二つで有名だった。
大坂城で晩年の秀吉と面会した際に、秀吉が思わず固まったという逸話がある。
本人もそれを自覚しており、信長の口癖を真似して
「であるか」
と発言して、老秀吉にひきつけを起こさせた逸話がある。
すぐに父、信康に折檻されたため、しばらく自重していたが、長じるとこの口癖は復活した。
そのため、世間では将軍の家宣を
「であるか様」
と称して、からかった。
失言を犯したものは、しばらくするとどこかにいなくなったため、人々は苛烈な性格の家宣を第六天魔王の再来だと考えるようになった。
信長の孫であると同時に徳川家康の孫でもあるはずなのだが、家宣は家康にはまるで似ておらず、派手好きの傾き者であった。
父親の徳川信康もそれなりに洒落者であったが、家宣ほど派手ではなく、どちらかと言えば千利休の侘び寂びを好んだ。
信康は死後に神号を贈られ、東照大権現として日光に祀られることになったが、日光東照宮が安土・桃山時代の極限ともいえる華麗さを誇るのは家宣の改築命令によるところが大きい。
当初の計画では、東照宮は質素で小規模なものになるはずだったのだが、
「そんな湿気た廟を拝む身にもなれ」
と家宣が計画を変更したため現在の形になった。
アーチ構造など、キリスト教の教会建築を取り入れた日光東照宮は、木造建築としては世界最大級の規模を誇り、今日では世界中から観光客が集まる観光地となっている。
それはさておき、家宣は慶長10年(1605年)に父の信康から将軍職を引き継いだ。
といっても26歳の青年にいきなり天下国家の切り盛りなどは不可能な話であり、政治の実権は大御所の信康が握っていた。
家宣の将軍就任は対外的に徳川家が征夷大将軍を世襲することを示すためのものだった。
将軍就任のために上洛した家宣は、京都で関白就任のために上洛した豊臣秀頼と面会した。
青年の家宣は利発な秀頼(当時12歳)に好感を持ったと言われている。
秀頼の関白就任はあまりにも若すぎるのだが、豊臣家を公家化するために信康は朝廷に莫大な寄進をして無理やりねじ込んだ。
秀頼の上洛には加藤清正や浅野幸長の軍勢が付き添い、秀頼はそのまま大阪に戻らず再建された聚楽第に入り、以後摂家として関白を輪番で担うことになった。
信康は家宣の二代目将軍就任と秀頼の関白就任を同時に行うことで豊臣恩顧の大名たちに徳川の天下を認めさせ、融和を図ったと言えるだろう。
ちなみに生母の淀君は秀頼が大阪に戻らず聚楽第に入ったことを知ると半狂乱になり、城に放火して自害しようとしたため捕縛された。
信康やその正室の岡崎御前(徳姫)は、全く淀君を評価せず秀頼にいらぬ知恵を吹き込む毒婦だと考えており、秀頼の若すぎる関白就任は毒親から秀頼を引き離すために加藤清正や浅野長幸らと共謀して仕組んだ茶番とする学説が現在では支配的である。
将軍となった家宣だったが、国内の統治や幕府の機構整備は父の信康と叔父の徳川秀忠が担当しており、家宣の役割は新将軍として外国の使者と面会することや親書の作成といった外交であった。
外交といっても、今日のようにインターネットや国際電話などで即時通信が可能なわけではなく、外国の使者も帆船ではるばる海を越えてやってくるため、外交は閑職といっても差し支えなかった。
そのため外交は家宣が外国奉行を設置する前は、老中が片手間に処理する程度の扱いだった。
また、明や朝鮮との国交回復のような重要案件は大御所である信康の決裁がなければ話が進まなかった。
日本と李氏朝鮮の国交回復は、慶長12年(1607年)のことである。
家宣は朝鮮通信使と謁見し、その労をねぎらっている。
明との国交回復は難航した。
当時、明は倭寇の被害に苦しんでおり、日本を倭寇の根拠地であるとみなしていた。
明は文禄の役、慶長の役で日本と交戦したばかりであり、日本に対する信頼は0であった。
また、明は朝貢貿易という形でしか貿易再開を認めておらず、日本に臣従を要求していた。
過去に日本で朝貢貿易を行った足利義満は明から日本国王という地位を与えられた。
これは明に対する屈従と理解され国内で大きな問題となった。
大御所の信康は貿易の利益の方が大きいと判断していたが、国内が固まっていない段階での朝貢貿易は不測の事態を招きかねないとして否定的だった。
そのため、日本と明の貿易は、東南アジア各地で出向いて出先で品物を交換する出会貿易の形をとるしかなかった。
日本からの輸出品は刀や漆器といった工芸品の他に、硫黄や銅、銀が盛んに輸出された。
反対に明から生糸や陶磁器や漢方薬などが輸入された。
特に生糸は国内の平和により莫大な衣料需要が生じており高値で取引された。
東南アジアの各地には出合貿易のために日本人商人が集まり、それが日本人町へと発展していった。
日本人町は肥大化していくことになり、現地人との衝突が増えていった。
そうなれば武士の出番であり、国内で仕事がなくなった傭兵達が火縄銃や槍を抱えて東南アジア各地へ出張することになった。
こうした日本人傭兵としては、シャムで活躍して領地を得ることになった山田長政や呂宋の傭兵隊長として名を馳せた吉本信行が有名だろう。
吉本家は呂宋に土着し、広大なプランテーション農園を築いた。
現代でもスーパーで気軽に購入できる廉価なバナナといえば、殆どが呂宋産の吉本バナナである。
家宣も輸入される東南アジアの果物を食べることを好んだ。
お気に入りはパパイアで、浦賀のスペイン商館から定期的に届けられた。
浦賀はスペインの開港地とされ、キリスト教の布教が解禁されると大量のスペイン船が押し寄せた。
家宣は将軍になったあとも浦賀に出向いてスペイン商館で珍しい海外の文物に触れることを楽しみとした。
スペインは国家としては衰退期に差し掛かっていたが、太平洋航路は未だにスペインのものであり、新大陸から多数の物産を日本に持ち込んでいた。
家宣が物珍しさから大御所の信康に贈ったジャガイモ(ポテト)もそうした物産の1つである。
信康はジャガイモを受け取るとすぐに隠居所の駿府城から浦賀へ出向いて、ジャガイモを全て買い占めさせ、日本全国に栽培を奨励した。
ジャガイモは救荒作物として優れた特質をもっていた。
痩せた土地でも大量の収穫が見込める上に、地中に実ることから寒さや病害、鳥害にも強かった。
ジャガイモが蝦夷地開拓に果たした役割は大きく、ジャガイモがなければ蝦夷地は100年経っても不毛の大地のままであったと言われるほどである。
冷涼な気候で稲作が不可能な蝦夷地では小麦の栽培を主体とせざるえないが、小麦は土地を傷めるため、休耕が必要であった。
しかし、そこにジャガイモを挟むことで効率的な農業生産が可能になった。
さらに飼料用作物として重要なとうもろこしも新大陸からスペインの貿易船によって日本に持ち込まれたものである。
自給用の作物として小麦やジャガイモを育て、次にトウモロコシを植えることで冬の間の飼料を確保することができるようになった。
家畜を大量に越冬させることができるようになったことは、日本人の食生活や衣料事情を大きく変えていくことになる。
エンバクやライ麦もスペイン船で持ち込まれたものであり、冷涼な奥州や蝦夷地の重要な農作物として広まっていった。
また、スペインはカトリック布教再開の返礼として、南米のポトシ銀山で行われていた水銀アマルガム法を日本に伝えている。
水銀アマルガム法の導入により、廉価に低品質な鉱石から銀を抽出することができるようになった。
日本製の粗銅には銀や金が含まれていたが、スペインから水銀アマルガム法が伝わるまでは分離することができなかった。
明商人やスペイン商人は日本で安い銅を買い付け、金銀を抽出することで大儲けしていたのである。
日本でも水銀アマルガム法が行われるようになると幕府が経営する各地の鉱山は飛躍的に収益性が高まった。
特に石見銀山の生産拡大は大きく幕府財政を潤した。
家宣は返礼として浦賀に巨大な天主堂を建て、イエズス会に寄進してる。
これが世界遺産の浦賀天主堂で、アジアにおける現存する最古のキリスト教教会となる。
信長に瓜二つで、信長を真似ることを好んだ家宣はキリスト教に保護を与え、天領の各地にキリスト教会を建立した。
こうした教会建築はもっぱらスペイン人の技師によって行われたが、それが日本人にも伝わって日本における西洋建築術の萌芽となった。
江戸時代以前の日本では、木造の高層建築や大型建築は宗教建築や城塞建築ばかりだった。しかし江戸初期に西洋建築術が入ると日本各地に木造2階建て、3階建ての家屋が増えていくことになる。
寛永3年(1626年)に信康が死去すると信康と家宣による二元政治は終わり、家宣は親政に乗り出すことになる。
ただし、国内政治についてもほぼ統治機構が完成されており、政務は殆ど老中の合議制となっていた。
そうした中で、将軍親政と呼べるものは軍事や外交に限られており、家宣は水軍衆の再編成と日明貿易の復活に熱中した。
初代将軍の信康はスペインから造船技術と航海技術を取り入れ、横須賀に日本初の西洋式造船所を開いた。
初期の徳川水軍の主力は主に500tクラスまでのキャラック船だったが、家宣の時代になると1,500tクラスのガレオン船まで作られるようになっていた。
家宣が水軍増強に熱心だったのは倭寇取締のためであった。
前述のとおり、明は日明貿易の復活の条件として、倭寇の取締強化を要求していた。
東南アジアにまで出かけて貿易を行う出会貿易よりも、明と直接取引を行う方が効率的なのは自明の理である。
何しろ博多から上海は、博多から江戸よりも近いのだ。船賃を考えれば出会貿易は非効率的であった。
また、幕府を開いた偉大な父親と比較されることが多い家宣は、父の果たせなかった日明貿易を復活させることで、父親を超えようとしていた。
日明貿易復活のためには徳川水軍の拡張は不可避であり、シナ海を睨む軍港として佐世保が開かれた。
徳川水軍拡張のため、佐世保には松浦党の生き残りが集められた。
佐世保だけでは足りず、さらに安芸の呉浦にも軍港が開かれ、村上水軍の生き残りが集められた。
これで幕府海軍三大軍港となる佐世保と呉、横須賀が揃うことになる。
併せて名称が水軍から幕府海軍となり、正式に幕府海軍奉行所が設置された。
浦賀に海軍奉行所がひらかれた1629年5月27日は、幕府海軍始まりの日として現在では海軍記念日となっている。
17世紀の海軍生活は過酷の一言であった。
長期保存が可能な食料が少ないため、しばしば腐敗した食品やそれに集る蛆虫を食べる必要があった。
ちょっとした悪天候でも船は簡単に沈み、航路は未開拓で常に座礁の危険と隣り合わせだった。
船底一枚下は人の生存を拒否する死の世界であり、水上生活は死と上手に付き合うことを学ぶことであった。
そのため人的資源の消耗が激しく、常に水夫を補充し続ける必要があった。
武士階級が徐々に文弱化して行く中で、幕府海軍は常在戦場の職場として尚武の気風が残り、実力さえあれば農民や町民の子であっても出世して士分になることができるため、江戸時代の身分制度の抜け道としても機能した。
船の上で生活する以上、水夫や船長に封土や給与として米を現物支給するわけにもいかないので、家宣は幕府海軍に限っては給与を金銭で支給する貫高制を復活させている。
幕府海軍の給与の支払いは、もっぱら日明貿易の収益から捻出された。
そのため幕府海軍の将兵は生活のために死にもの狂いで商船を守り、海軍とは商船を守るために存在するという意識が育まれた。
日明貿易の復興は寛永7年(1630年)のことである。
徳川将軍家は明国から冊封を受けることになった。
この時、足利義満の例にならって、交換する外交文書には日本国王と記述される予定であったが、家宣はそれを嫌って「日本国大君」に差し替えさせた。
以後、大君は征夷大将軍の外交称号として用いられることになる。
これはスペインやオランダ、イングランドとの外交文書にも踏襲され、欧州各国は日本の征夷大将軍を"Tycoon"(英語)と呼んだ。
家宣が大君と書き直させたのは、天皇の家来である征夷大将軍が他国より王爵を得たという批判が来ることを予測して、それを回避するためであった。
また、王という文字を回避することで、明朝との従属関係を曖昧にする意味もあったと言える。
それでも一部の国学者などは天皇への背信であるとして家宣を批判している。
しかし、それが支配的な世論になることはなかった。
幕府を批判したものは、いつのまにかどこかへいってしまうからである。
日明貿易の再開と幕府海軍の増強で、私貿易や倭寇は衰退していった。
明の沿岸を荒らし回っていた後期倭寇は私貿易業者の副業のようなものであったから、正式な日明貿易が復興すると急速に資金源を失って排除されたのである。
また、東南アジア各地の日本人町も出会貿易(私貿易)の衰退により、縮小していった。
明と直接取り引きができるなら、わざわざ遠い東南アジアに出向いて取引する必要などないからである。
江戸幕府が呂宋島から南へ勢力圏を拡張しなかったのは、日明貿易の再開が最大の原因というのが歴史家の中では支配的な意見である。
明は国家としては末期的な状態であったが、それでもその経済力は17世紀世界最大であり、その豊かな物産だけで日本の貿易需要を満たすには十分であった。
中国の生糸を集めて日本に卸していたスペインやポルトガル、オランダ商人は日明貿易の再開で大打撃を受けた。
直接、明から生糸を買えるなら、中間搾取する南蛮人に利益を与える必要はなかった。
家宣が日明貿易の再開にこだわったのも、南蛮人による中間搾取を排除して廉価に生糸を輸入するという意味があった。
収益の悪化により、日本に来航するスペインやオランダの貿易船は減少し、それに伴ってキリスト教の布教も下火になっていった。
スペインが日本侵略をどこまで本気で考えていたのか不明であるが、日本との取引が利益にならないとわかると日本イエズス会に対する支援からも手を引いている。
家宣の保護にも関わらず日本においてそれほどキリスト教が浸透しなかった。
やはり金の切れ目こそ、縁の切れ目ということだろう。
スペインとの関係はその後も続いたが、関係が後退したことで、日本は太平洋の向こうにある新大陸への関心を持つこともなくなった。
そんな遠いところまで行かなくても、日本の貿易需要は満たされているのだから、当然といえば当然だった。
また、スペインも新大陸に日本人が来ても困るため、
「新大陸は魔境」
だとか、
「新大陸は修羅の国」
といった嘘の情報を流布したため、幕府は新大陸を危険地帯と認識して日本人の渡航を制限するようになった。
日明貿易の主要輸入品は前述のとおり生糸や陶磁器である。
生糸は衣料として需要が大きかった。
徳川家は木綿専売で財をなしたが、上流階級の衣料といえば絹であり、平和の到来で華美な生活を送るようになっていた武士階級では絹製の衣料品が好まれた。
日本産の生糸が明産に並ぶ品質となるのは2世紀後の話であり、19世紀半ばに偶発的に誕生した国産品種の「裳刷」の登場まで待たなくてはならない。
陶磁器に関しても同様である。
すでに国内では有田焼(初期伊万里)の生産が始まっていたが、彩色技術で景徳鎮には敵わず2流品と考えられていた。
派手好きの家宣は大量に仕入れた景徳鎮で茶室を飾り立て、客人に見せびらかすことを好んだ。
黄金の茶室を作って見せびらかした豊臣秀吉に近いメンタリティと言えるだろう。
父親の信康が千利休の侘び茶を好んだことに対する反発とも考えられる。
家宣は功績のある家臣に惜しみなく輸入した絵皿を下賜したことから、家宣好みは当時の上級武士や公家、大商人の中で大流行することになった。
また、陶磁器とセットに流入した中国茶が日本で流行した。
特に烏龍茶のような手間暇がかかったものは高値で取引された。
ただし、日本では烏龍茶と共に点心を食べるような飲茶文化を一般化せず、あくまで茶が喫茶文化の中心であり続けた。
日本からの輸出品は銅や銀、それに武具だった。
銅は明では銅銭需要が豊富にあり、銀も年貢の支払いに利用される重要な貴金属だった。
さらに明が清の圧迫を受けると武具の需要が増大した。
特に重要なのは鉄砲と大筒であった。
一度は、平和の到来で下火になった日本の火縄銃は、日明貿易再開によって息を吹き返し、大陸情勢の混沌化によって活況を呈した。
寛永年間だけでも、10万丁の鉄砲が明に輸出された。
装飾を廃して高度な分業体制を構築して大量生産に徹した国友筒は、大量に輸出され、現在でも中国では国友銘の火縄銃が骨董品として大量に発見される。
国友筒の中でも特に高い性能から垂涎の品となったのが巴村産の鉄砲で、高い命中精度を誇り、明の将兵がこぞって買い求めた。
巴村産の鉄砲に勝るとも劣らないとされたのが真見村産の鉄砲で、巴村と真見村といえば国友筒の2大ブランドとなった。
また、明軍では優れた鉄砲射手に巴村と真見村の鉄砲を優先的に与えたことから、優れた鉄砲射手は巴真見と讃えるようになった。
優れた巴真見はしばしば清軍の指揮官を狙撃して射殺して清の侵略を跳ね返した。
しかし、狙撃はそれ自体が名刺となっており、狙撃兵は捕虜になれば必ず処刑される運命で、斬首され果てた巴真見も多かった。
1640年代になると明の退潮は決定的となった。
豊臣氏の朝鮮出兵に対抗して大軍を派遣した明朝は戦後に財政難に陥り、飢饉や農民の反乱が相次いだことから清に対抗する力を失っていた。
明が日明貿易の再開や倭寇対策を強く要求したのも、貿易により財政再建を果たそうという考えがあった。
それは部分的に成功し、明は大規模な農民反乱である李自成の乱を鎮圧することに成功し、一度は清軍の北京侵入を撃退している。
しかし、北京は戦乱によって荒廃し、首都機能を失ったことから、崇禎帝は南京に遷都(1645年)を余儀なくされた。
清は廃墟となった北京を占領し、中国大陸は北京の北清と南京の南明(後明国)の2つに分裂した南北朝時代へ移ることになった。
崇禎帝は猜疑心が強く、優れた部下を危険視して粛清するなど、人品は決して善良というわけではなかったが日本との関係を修復し、海外貿易で悪化していた財政を立て直すなど、優れた政治手腕で明朝の延命に成功した。
崇禎帝のあとを継いだ明悼帝は父親の失敗からよく学び、鄭成功らの有能な重臣をよく用いて清の南下を阻止し、逆に北京を一時的に奪還するなど、異民族による中原制覇を阻止した。
明悼帝は今日では漢民族の英雄と名高い。
しかし、戦費調達のために海外貿易に傾斜したことから外国勢力の介入を招いた負の側面もあった。
特にスペインやポルトガル、オランダといったキリスト教国との貿易のためにキリスト教を保護したため、南明ではキリスト教徒が爆発的に増加した。
やがてキリスト教勢力は明の政治に介入するようになり、明朝そのものを左右するほどになるのだが、それは19世紀半ば以降の話である。
なお、江戸幕府は明と冊封関係にあったことから、一貫して南明を支持し、北清との関係は最低限度のものとした。
北清は一時期、日明貿易による武器流入を止めるために江戸幕府と外交交渉を持ったが、北清は日本人が求める物産を全く用意できなかったために大失敗に終わった。
日本人が求めていたのは生糸と陶磁器であり、その産地は南に偏っていたことから北清には用意できないものだった。
北清は北京を占領した後、急速に漢文化化したが、経済力や文化の面で南明を超えることはできなかった。
中華世界が2つに割れた結果、それぞれの王朝は外部へ力を展開することが不可能になり、海の外に窓を開いていた日本人勢力の拡大を許すことになった。