ソ連海軍と新冷戦
ソ連海軍と新冷戦
1980年代の新冷戦と呼ばれる米ソ2超大国の相克において、その主役を飾ったのは両国の海軍艦艇達だった。
ペルシャ湾で、ソ連の戦艦解放とアメリカ合衆国の戦艦アイオワがお互いに主砲を向けあったまま至近距離ですれ違う様は衛星放送によって、全世界が目撃することになった。
アメリカ合衆国大統領レオナルド・リーガンは1981年に600隻艦隊構想を発表し、大規模な艦艇建造、アイオワ級戦艦の現役復帰等によって15個航空機動群と4個水上打撃群を1989年までに整備するものとした。
600隻艦隊構想は、スターウォーズ(SDI)計画に並ぶリーガン大統領が掲げた「強いアメリカ」の象徴だった。
ソビエト幕府大老の大曽根康弘は、1982年に八八艦隊計画と宇宙世紀構想を発表し、アメリカに真っ向から決闘状を叩きつけた。
八八艦隊計画は、ソ連初の空母8隻と戦艦解放など保管状態の戦艦4隻の現役復帰及び新造巡洋戦艦4隻、さらに随伴する膨大な補助艦艇を整備するという、ソ連海軍史上空前絶後の計画だった。
宇宙世紀構想とは天使の輪という意味で、遠心力を使用した人工重力発生装置を装着した宇宙ステーション建設計画のことである。
米ソの宇宙開発競争については後述するとして、ここではソ連海軍が目指した八八艦隊計画について記述していくものである。
まず、八八艦隊計画にふれる前に、ソ連海軍の成り立ちについて述べる。
ソ連海軍は1922年に江戸幕府海軍の資産を引き継ぐ形で建軍された。
この時点で、ソ連海軍が引き継いだ資産は超弩級戦艦4隻、弩級戦艦8隻、前弩級戦艦11隻という膨大なものだった。
しかし、そうであるがゆえに革命直後のソビエト幕府にこれらの艦艇を維持するために予算を捻出することができなかった。
ソ連は革命と内戦によって荒れ果てていたからである。
ただちに軍縮と復興事業を行わなければ、国家が立ち行かないほど1920年代のソ連は追い詰められていた。
内戦を悪化させたのは第1次世界大戦の膨大な軍需を満たすために西比利亜の各地に建設された軍需工場が各勢力の手に渡り、大規模戦闘が可能なほどの武器供給が行われたことや、ソ連の弱体化を図った外部勢力による武器援助が原因だった。
また、経済力が回復したとしても、船を動かす水兵が致命的に不足していた。
海軍艦艇の乗員の多くは内戦中に陸戦転用され、死傷していた。
陸軍の大半が寝返った江戸幕府にとって、信頼できるのは海軍だけであり、陸戦が続く内戦で使いみちのない海軍艦艇から信頼できる兵士を下ろして使うのは常識的な発想である。
しかし、江戸幕府は経験を積んだ水兵が簡単に手に入るものではないことをよく知っており、艦艇乗員の陸戦転用は苦渋の決断であった。
最終的にその努力は無に帰して、江戸幕府も瓦解することになるのだが、それを責めるのは公平とは言えないだろう。
幕府海軍の水兵は、陸戦は不得手であっても軍としての統率は優れていた。
青い縞模様のシャツを着た海軍水兵は劣悪な装備でありながらも、革命軍をたびたび打ち破り、最後まで江戸幕府に忠を尽くした。
精鋭海軍歩兵の伝統はソ連海軍に引き継がれ、第2次世界大戦においては3個海軍歩兵旅団が南方作戦に参加している。
水陸両用戦部隊、空挺部隊としての訓練を受けた海軍歩兵は、第2次世界大戦における渡洋侵攻で重要な役割を果たし、ソ連の進撃に貢献した。
話を1920年代に戻すと、ソビエト幕府は空洞になったソビエト海軍を急速に復興させる必要性に迫られた。
特に海上治安維持活動に適した小型艦艇の復旧は急務だった。
ソビエト幕府が海軍再建を急いだのは、その広大なシーレーンが無法地帯になりつつあったからである。
内戦で幕府海軍の活動が停滞した結果、フィリピンや本州近海は密輸や海上賭博などを取り仕切る反社会勢力の草刈場になりかけていた。
内戦で親を失った子供や若い女性を誘拐して海外に性奴隷として輸出する人身売買事件が多発しており、海の治安回復は急務だった。
ソ連海軍は大戦中に大量建造した駆逐艦等の小型艦艇に優先して予算を割り当てた。
戦艦が港で錆びるに任せられたのも、当時の状況を考えればやむを得ない選択だった。
結果としてソ連海軍は小型艦艇が多数の弱小海軍に転落した。
ソ連海軍がまともに海軍戦略というものを考えられるようになるのは、1920年代末にもなった頃であり、ソ連の戦後復興が一段落ついた時期だった。
ソビエト幕府は1928年から第1次五カ年計画を発表し、1931年には世界恐慌からの回復を図って、第1次計画を拡張した第2次五カ年計画を開始した。
第2次五カ年計画には軍備の近代化計画も含まれており、大型艦艇の新造が決まった。
この時建造されたのが、第2次世界大戦において通商破壊戦で活躍した知辺級大型巡洋艦で、霧塞級軽巡洋艦や佐久級駆逐艦といった新鋭艦が続々とソ連海軍に供給された。
しかし、それを操るのは徴兵された水兵達だった。
徴兵期間は2年であり、2年過ぎると退役してしまうため、常にソ連海軍は未熟な兵員を抱えることになった。さらにソ連各地から極めて平等に徴兵が行われたことから、日本語が喋れない中央アジアやモンゴル高原からも兵員が集められた。
ソ連海軍は艦内意思疎通のためにまず小学校から始めなくてはいけなかった。
結果として、ソ連海軍は艦艇だけは立派だが、中身は海の素人集団となった。
ソ連海軍は最低限でも日本語能力がある者を選んで徴兵するか、可能なかぎり志願制にするように幕府に求めた。
海軍とは巨大な機械の集合体を動かす科学技術者集団であり、プロフェッショナル集団でなければならなかった。
少なくとも江戸時代の海軍はそうだった。
しかし、幕府の回答は否だった。
岡田大老はソビエト海軍の急速な拡張が必要だと考えていたからである。
世界情勢は悪化の一途をたどっており、残された時間は僅かでしかないというのが岡田大老の現状分析だった。
よって中身が最低レベルの素人集団であっても、ソ連海軍は他の列強海軍に対抗できるだけの艦艇を急速配備する必要があった。
これは英断である。
もしもソ連海軍が育成に時間のかかるプロフェッショナル集団を志向していたら、1941年の開戦までに史実の半分の兵力も用意できなかっただろう。
そもそも開戦に踏み切ることさえできたかどうか怪しかった。
まず、数を充足させるという岡田大老の方針は完全に正しかったと言える。
問題は質の向上に必要な訓練を実戦で積むという過程であり、プロフェッショナル集団のイギリス海軍やアメリカ海軍にソ連海軍(特に潜水艦部隊)は煮え湯を飲まされ続けた。
1942年のインド洋では、勤務拒否で射殺される潜水艦乗りが現れるほどであった。
しかし、膨大な犠牲と絶え間ない補充の果てに、ソ連海軍潜水艦部隊は1944年には質・量ともに世界最大最強の海狼の群れとなりおおせた。
生き残ったベテラン達が操るI200型水中高速潜水艦は連合国軍の商船を次々に血祭りにあげ、対潜艦艇を誘導魚雷で返り討ちにした。
戦後にソ連海軍が潜水艦を重要視したのは当然の判断と言えるだろう。
残念ながら水上艦艇は、大戦後期になると存在感を失っていった。
水上艦は潜水艦と異なり、潜水して航空機をやり過ごすことができないため、強大な米空母機動部隊が太平洋に現れると成すすべがなかった。
航空機に為す術がないことはアメリカ海軍の水上艦も同じだったが、彼らには移動する航空基地である空母の護衛という役割があった。
米ソ海軍の決定的な違いは空母の有無であった。
別に空母を保有していない列強海軍は珍しいものではなく、イタリア海軍のようにアメリカから貸与艦を得るまで空母を持っていない列強海軍は存在した。
ドイツ海軍やフランス海軍も、空母の戦力化には失敗しており、第2次世界大戦で空母を戦力化できたのは英米海軍だけである。
ソ連海軍が空母を持てなかったのは、空母の発展期である1920年代に冬の時代を迎えてしまったことが大きかった。
また、岡田大老が空母に無理解で、戦艦や巡洋艦を好んだことも無視できない。
岡田大老は究極的には英米海軍にソ連海軍は勝てないと考えていた節がある。
実質的だが勝利には手が届かない空母のような地味な兵器よりも、プロパガンダや外交の駆け引きに使える見栄えのいい戦艦や巡洋艦の方が政治的には有用、という判断は政治レベルでは間違いと言い切ることはできない。
むしろ、戦争を政治や外交の延長と考える立場からすれば、大正解とさえ言える。
岡田が戦艦や巡洋艦を偏愛したのは事実だが、そこには政治的な利用価値判断があったのである。
しかし、戦後になって解放級戦艦2番艦の革命を就役させたり、1948年にもなってまだ巡洋戦艦を新造しようとしたのは、さすがにナンセンスだった。
大戦中に建造中止になった剣級巡洋艦戦艦3番艦、4番艦の建造再開は、後任の有畑大老によって即座に中止された。
戦後、岡田大老という巨大な存在から解放されたソ連海軍は、すぐに空母建造計画に着手した。
戦後ソ連海軍が50年代初頭に計画した空母は、40,000tクラスで油圧カタパルトと装甲飛行甲板を持った艦載機80機の大型艦だった。
ソ連海軍空母計画の技術的な根拠となったのは1942年にシンガポールで鹵獲されたイギリス空母のインドミタブルである。
イギリス軍の手で爆破処分されたインドミタブルの残骸は艤装品や艦内構造に関するデータ収集には活用された。
損傷した富士級戦艦の秋津洲と瑞穂から船体後方の4、5番砲塔を撤去して飛行甲板と格納庫を備えた航空戦艦に改装された際にはインドミタブルのデータが使用された。
航空戦艦秋津洲と瑞穂はIt43の艦載型を20機搭載することが可能で、油圧カタパルトと着艦制動装置によって100m足らずの飛行甲板でも航空機を運用可能だった。
航空戦艦1隻でおよそ軽空母1隻分の航空戦力が運用可能になったのは、ソ連海軍にとって大きな一歩だったと言える。
ただし、アメリカ海軍はソ連海軍が大きな一歩を踏みしめている間に10歩以上は前進しており、エセックス級など空母19隻を擁する第57任務部隊を編制して、本州を空襲するほど強大な存在になっていた。
航空戦艦2隻では全くどうにもならず、連合艦隊の主力として沖縄救援に赴いた秋津洲と瑞穂はアメリカ海軍の航空攻撃で撃沈された。
セント・クリスピンの虐殺と呼ばれることになる連合艦隊の突撃には、後にソ連大老となる大曽根康弘が、戦艦解放の乗員として参加していた。
大曽根大老は大戦時を次のとおり振り返っている。
Q:戦艦解放について
「軍艦解放は西比利亜のように大きな船だった。解放で勤務できたことは嬉しかった。自分が急に大きくなったように思えて、何でもできる気分になったものだ。ほとんどの者がそうだったと思う。解放はソ連の精神が形になったかのような船だった」
Q:当時、何をしていたのか?
「短期現役将校だった。短現とはスペアのスペアみたいなものだ。本物の将校が戦死すると、次席の将校がそれに代わる。次席の将校が戦死するとようやく出番がくる」
Q:沖縄沖海戦時は何をしていたのか?
「僕は短現の者たちと一緒に艦内の待機所にいた。空襲が始まって、爆弾や魚雷が命中するたびに、一人また一人と呼び出されていった。最後に僕の出番が来て、電話が鳴ったときにはいよいよ本物の漢になる時がきたと思ったよ」
Q:海戦中の解放の様子は?
「後楼にいって応急修理の指揮をとれと言われて向かったが、火災が酷くて通路が通れなくなっていた。だから甲板に出て後楼に向かうことになった。その時、爆発音を聞いて振り返って、其の場で転倒したんだ。甲板は血の海で、滑るんだよ。だから砂を撒いておくんだが、それでも血の脂で滑ってしまう。這いつくばって見上げると前楼が松明のように燃えていたのが見えた」
Q:秋雲GF長官の戦死について
「GF長官が戦死していたことは知らなかった。そんな余裕はなかった。知ったのは佐世保に帰港したあとのことだった。なんだか無性に悔しかったね。ぼろぼろになった解放を見てこう思ったよ。この船では奴らには勝てない・・・まさか50年後にまたその船に乗ることになるとは思わなかったけどね」
連合艦隊の全ての艦艇をすりつぶして行われた突撃作戦は失敗に終わったが、その犠牲は無意味ではなく、基地航空部隊の反撃の一助になっている。
連合艦隊の全部を使った壮大な陽動は成功し、陸上基地からの航空飽和攻撃でソ連軍は米空母機動部隊撃退に成功した。
戦後に、ソ連海軍が、
「空母さえあれば」
と考えるのは当然といえば、当然だった。
しかし、1950年代に立案されたソ連海軍の空母計画が実現することはなかった。
空母が非常に高価な兵器だったからである。
ソ連海軍はアメリカ海軍に匹敵する空母機動部隊を編制しようとしていたが、1950年代のソ連にそんな財政力はどこにもなかった。
ロシアのように国家予算の6割を毎年、軍事費につぎ込めば可能だったかもしれないが、民主主義国のソ連でそれは不可能だった。
また、岡田大老は過大な軍備を持つことで軍部が増長し、政治に介入することを極度に嫌っていた。
ソ連軍の連隊や大型艦艇にやたら”親衛”や”名誉”といった前置詞がつくのは、軍人たちに名誉や恩典を与えて政治から遠ざけるための術策であった。
後の情報公開で、軍部の過激勢力に岡田大老を暗殺して、徳川信忠を担ぎ上げることで新徳川幕府をつくる計画があったことが暴露された。
トライアングル・アローと妙な横文字で銘打たれたこのクーデタ計画は、中心人物の服部卓四郎が不審死を遂げたことで闇に葬られることになった。
ソ連の軍事政権化は岡田大老の手腕によって阻止されたが、アメリカ合衆国は軍人のマッカーサーが大統領になったため、野放図な軍拡が進んだ。
アメリカ合衆国の1955年の国防費は国家予算の7割にも達しており、アメリカ経済の正常な成長を阻害することになった。
1960年代にソ連を指導した二木田フルシチョフ大老は、軍縮によって経済発展と宇宙開発に力を注ぐ方針を堅持してソ連の高度経済成長を作り上げた。
ソ連の軍縮を実現したのは核兵器とICBMという非常に低コストな組み合わせであり、そこに海軍の出番はなかった。
ソ連海軍の象徴でもあった戦艦解放も、フルシチョフ時代に予備役に回され、呉でモスボールされることになった。
フルシチョフはICBMと核兵器さえあれば抑止力として十分だと考えており、海軍は平時に活動する最低限の規模で十分だと考えていた。
しかし、潜水艦から発射するSLBMが開発されるとソ連海軍の立場は大きく変化した。
ICBM、戦略爆撃機、SLBMは核抑止力の三本柱である。
海軍は戦略ロケット軍、空軍に次ぐ核兵器運用者となり、軍部における序列を大きく向上させた。
また、1962年のキューバ危機も海軍の立場を強化する方向に働いた。
ロシア海軍はアメリカ海軍の海上封鎖に対して無力であり、通常兵器の優位・不利がそのまま外交駆け引きを左右することになった。
さらにビルマ戦争の経験は、ソビエト幕府に核戦争以前の段階での闘争が存在することを示したのである。
確かに核抑止は第3次世界大戦の発生を阻止したかもしれないが、その平和はソ連にとって望ましい形ではなかったと言える。
核抑止に組み込まれたソ連海軍は、1960年代に新たな海軍戦略を策定した。
それが第1列島線戦略である。
奥千島半島から千島列島、蝦夷、本州、沖縄、台湾、フィリピンを第1列島線とし、各海峡や島嶼基地に配備した原子力潜水艦、通常動力潜水艦、基地航空部隊、陸上発射型対艦巡航ミサイル、機雷等によって、米空母機動部隊の接近を阻止というものである。
ソ連海軍の水上艦は全て対潜艦艇となり、水中から我が方のSSBNを狩りに来るアメリカ海軍のSSNと対峙することになった。
1960年代に配備された燕寅級巡洋艦は、船体後部を飛行甲板とし、大量の対潜ヘリコプターを運用できる対潜航空巡洋艦だった。
燕寅級巡洋艦は航空戦艦秋津洲の発展型とも言える船で、同時期配備された賀左級駆逐艦と共に対潜掃討グループを編制した。
燕寅級巡洋艦1隻と2~3隻の賀佐級駆逐艦だけで、1時間に250km四方の海域を対潜捜索可能であり、アメリカ海軍の初期型SSNでは一度捕捉されると逃れることは不可能で、しつこく追い回され、最後は浮上を余儀なくされた。
燕寅級や賀左級には強力な対空兵装が与えられたが、基本的には基地航空部隊の支援を受けて活動するものであった。
また、水上戦闘は基本的に回避して、敵艦隊との戦いは陸上攻撃機や原子力潜水艦に委ねる方針だった。
これは1944年の沖縄攻防戦の戦訓によるものである。
ソ連海軍航空隊は、多方向同時飽和攻撃のために厳密な中央統制を受けて行動し、秒単位での分進合撃や超低空攻撃を磨き上げた。
ソ連のSSN は水中雑音が多いという欠点があったが、これは高速の米空母機動部隊を確実に捕捉して核魚雷を打ち込むという戦術上の要求に応えた結果である。
1970年代に入るまでソ連SSNの基本戦術は待ち伏せ状態から最大戦速で米空母機動部隊へ突貫して、核魚雷で刺し違えるという事実上の片道特攻だった。
以上のように70年代後半まで、ソ連海軍の基本戦略は防御であった。
第1列島線を絶対防衛ラインとして要塞化して、アメリカ海軍の空母やSSNの接近を拒否するという発想である。
実際のところ、島と島を線で結んで一つの防衛ラインを設定するという考えは概ね陸軍の発想であり、海軍戦略として褒められたものではなかった。
アメリカ海軍が空母機動部隊で行ったパワープロジェクションといった発想は皆無だった。
しかし、海域の広大さとソ連海軍に与えられた予算から逆算して、実現可能な戦略としてはこれが限度だったのである。
そうした状況が変わり始めるのが70年代に入ってからだった。
高度経済成長で経済力をつけたソ連は、世界各国に資源や工業製品を供給する立場となり、シーレーンは世界中に拡散した。
また、財政力も拡大し、大海軍編成の素地が完成したのである。
1975年に就役した武笠級航空巡洋艦は、変わりゆくソ連海軍を象徴する船と言える。
武笠級はソ連初のVTOL機搭載軽空母である。
ただし、ロシアと協同開発したYak-38では哨戒機を追い払うのが限界で、主力兵装は対艦巡航ミサイルと対潜ヘリコプターだった。
Yak-38はソ連海軍初の艦載ジェット戦闘機であり、大きな前進であった。
しかし、武笠級はアメリカ海軍のエンタープライズのような原子力空母とは異なり、あくまでヘリコプターやVTOL機を運用できる巡洋艦という位置づけだった。
しかし、限定的とはいえ艦載機を搭載することで哨戒機の類を独力で排除する能力を備えたことは、ソ連海軍の行動可能性を大幅に高めた。
ソ連海軍は嘗て江戸幕府が保有していた”外洋海軍”への道を確実に歩んでいたのである。
それを後押ししたのが、南方領土問題である。
また、未だに法的には終わっていない第2次世界大戦において、アメリカの軍事占領が継続するマリアナ諸島の回復は、ソ連の政治的な命題だった。
しかし、それが軍事的に可能かといえば、彼我の海軍力の差を考えれば不可能だった。
基地航空部隊やSSNはたしかにアメリカ海軍の接近を拒否するには有用だったが、こちらから攻めていくには不十分だった。
島嶼領土奪還において、必要不可欠な上陸船団の防衛には、制空権確保のために空母が絶対に必要だったのである。
1982年に発表された八八艦隊計画は、ソ連海軍の最終回答だった。
八八艦隊計画は航空母艦8隻とミサイル戦艦8隻を中核とする艦隊を10年間で整備するというもので、ソ連海軍を完全な外洋海軍に変化させるものだった。
中核となる航空母艦として、建造されたのが赤城級航空母艦となる。
赤城級はアメリカ海軍の原子力空母に比べると固有兵装が多い傾向にあったが、対艦巡航ミサイルは装備しておらず、航空機の運用に特化した空母らしい空母となっていた。
さらに赤城級を拡大発展した原子力空母”富士”は基準排水量80,000tという巨艦となり、遂にソ連海軍は半世紀に及ぶ悲願を達成した。
既存の武笠級4隻も対艦巡航ミサイルを撤去して、スキージャンプ付きの軽空母に改装され、超音速VTOL機であるYaK41とKa51攻撃ヘリを配備して、上陸する海軍歩兵を直協することになった。
もちろん、空母15隻というアメリカ海軍に対抗するにはこれだけでは不足であり、補完兵力として戦艦解放、革命、剣、礼文は徹底的な大改装が施され、大量の対艦巡航ミサイルを搭載するミサイル戦艦となった。
戦艦解放の改装は大曽根大老の肝いりであり、機関をガスタービンエンジンに全換装するといった徹底したもので、主砲を軽量鋼製の60口径41センチ砲へ換装し、キンジャール短SAMや130mm連装自動砲12基、複合CIWSや、重巡航ミサイルが装備された。
さらに新造の巡洋戦艦金剛級4隻が建造された。
金剛、榛名、霧島、比叡の4隻は世界初の原子力巡洋戦艦である。
原子力動力による有り余る電力を活用し、超大型フェイズドアレイレーダーを装備した4隻は大量の電算機を搭載し、全ての戦闘システムを連接・自動化したことにより、迅速な捜索・判定・対応が可能となっていた。
西側のイージス・システムを超える能力があると言われており、ソ連海軍はこれをオモイカネ・コンプレックスと自称した。
ミサイル戦艦群の目的は米空母機動部隊を対艦巡航ミサイルで撃破することであった。
長射程の対艦巡航ミサイルには発射から命中までのタイムラグがあり、移動する米空母に命中させるには中間誘導という課題があった。
従来は中間誘導は艦載ヘリや陸上基地から発進する洋上偵察機が使用することになっていたが、アメリカ海軍の防空能力を考えると実現可能性には疑問があった。
そこで新世代の対艦巡航ミサイルでは、妨害が不可能な衛星誘導方式が採用された。
COSMOSやGLONASSといった衛星観測システムの実用化によって、新世代の巡航ミサイルは前進観測機が不要になったのである。
また、電波妨害などで衛星誘導が不可能になっても、高度な自立判断プログラムによって、搭載した対水上レーダーによって独力で目標まで自己誘導し、他のミサイルを呼び寄せて全自動攻撃することが可能であると言われている。
これらの衛星システムと接合した新世代の巡航ミサイルとミサイル戦艦群は、もはや徴集兵では運用不可能であり、プロフェッショナルな契約軍人で構成される完全志願制海軍への移行は不可避であった。
改装工事を受けて現役に復帰したミサイル戦艦群は、順次ペルシャ湾に派遣されて、西側諸国にお披露目された。
冷戦最後の代理戦争となったイラン・イラク戦争はソ連軍の介入でイランが巻き返し、1982年4月にイラク領内に逆侵攻を果たした。
イランに派遣されたソ連軍は、陸軍1個軍(3個師団基幹)及び航空部隊、防空ミサイル連隊で、イラク軍は超大国ソ連の本気の精鋭部隊には全く無力だった。
ただし、ソ連軍はイラク領内への侵攻までは考えておらず、イラン領内からイラク軍を叩き出すと礼儀正しく停止した。
戦争を続けたかったのはイラン首脳部(イスラム保守派政権)だった。
このまま戦争が終わって、緒戦で惨敗してソ連に助けて貰ったという結果だけが残っては、次の選挙が危ういと考えた彼らはイラクから賠償金を取り立てることを考えたのである。
イラン軍が殺到したのは、イラクの石油積出港のバスラだった。
バスラはイラク石油輸出の積出港であり、バスラ失陥で石油輸出が止まれば、イラク経済は壊滅する。
イラン軍がバスラに迫ると、イラクをイランに対する防壁として使っていたサウジアラビアが軍事介入した。
ただし、直接に参戦はせず、義勇軍を派遣した。これにはCIAや米軍も一枚噛んでおり、実質的には米軍の裏口参戦であった。
イラクに派遣された第88義勇航空兵団(米軍秘匿名称エリア88)は、サウジアラビアのオイルマネーで雇われた西側諸国のパイロットと最新機材で編成されており、バスラ上空でイラン空軍と激闘を繰り広げることになった。
第88義勇航空兵団の装備機材は異次元に豊富で、F-4ファントムⅡやF-5タイガー、A-4スカイホークといった西側のオーソドックスな機材はもちろんのこと、F-16ファイテンファルコンやF-15イーグル、F/A-18ホーネット、A-10サンダーボルトⅡといった最新機材や、B-1爆撃機やイスラエル製のクフィルやミラージュF1、ミラージュ5やBAEライトニング、トーネード、ハリアーといった欧州機、果ては”どこからともなく”調達されたF-14Aトムキャットまで持っていた。
どう見てもサウジ空軍です。本当にありがとうございました。
ちなみにサウジ空軍の主力戦闘機はF-14で、イラン空軍のMig25Rの領空侵犯に怒り狂ったサウダイ国王の勅命により導入を決定したものだった。
制空戦闘機のF-15よりも迎撃戦に適したF-14は、フェニックスミサイルで高高度をマッハ3の速度で飛行するMig25Rの撃墜に成功している。
また、米軍の試作機なども実地試験代わりに投入され、F-20やX-29のような制式採用されなかった機体も砂漠の基地に持ち込まれた。
第88義勇航空兵団はサウダイ王家から給料が出ている傭兵部隊であり、基本給と出来高払いで月に100万ドルも稼ぐパイロットもいた。
主にアメリカ軍のパイロットがアルバイトで出向していたが、ドイツやフランス、さらには第3世界の空軍からも高額報酬につられてパイロットが集まった。
イスラエルはアラブ世界と対立関係であったが、イラクとイランができるだけ派手に潰し合ってほしいと考えており、イスラエル空軍からパイロットを送っている。
その中でももっとも有名なのはG大佐だろう。
イスラエル軍はテロ対策でパイロットの氏名を公表していないため、これは仮称である。
イラクはイスラエルからの支援を絶対に認めようとしなかったが、後にG大佐はマスコミのインタビューに応じた際に第88義勇航空団に在籍していたことを認めている。
ちなみにG大佐の乗機は本国から持ち込んだクフィルで、後にF-15にも乗っている。
コールサインはGALM1であった。
イラン空軍はやたら腕の立つパイロットが乗ったクフィルを危険視し、未熟なパイロットにはクフィルに遭遇したら格闘戦に入らずアフターバーナー全開で即座に離脱するように指示している。
ただし、G大佐がF-15に乗るようになるとアフターバーナー全開でも逃げられなくなったので、
「死ぬ気で戦え、神は偉大なり」
などという絶望的な指示を出している。
冷戦終結後に第88義勇航空団の戦いはハリウッドで映画化された。
映画になった際は、ハリウッドとサウダイ王家の都合によって航空団司令は白人のアメリカ空軍退役少佐となっているが、実際の司令官はサウダイ王家の王子でエースパイロットという現実がリアリティを喪失している人物であった。
さらに親友に裏切られて無理やり入隊させられた日本人傭兵のエースパイロットについてもなかったことにされており、作品の評価は微妙だった。
第88義勇航空団が展開したバスラ上空は鉄壁の守りだったため、イラン軍は直接攻撃を諦め、ペルシャ湾上でのタンカー攻撃にシフトした。
1983年から1988年の停戦まで続いたタンカー戦争の始まりである。
バスラから出港したイラク産原油を積載したタンカーは全てイラン軍の攻撃対象となり、ソ連製の対艦ミサイルを抱いたイラン空軍機の攻撃を受けた。
報復にイラク空軍もアメリカ製対艦ミサイルを抱いた戦闘機を飛ばすようになり、それぞれのタンカーへの攻撃を強めた。
イラクもイランも海軍力には乏しく、タンカー護衛は同盟国海軍に頼るしかなかった。
結果として、全長約900km、幅はおよそ240km、水深平均100mしかない近代海軍にとっては猫の額ほど狭い海域で、米ソ両海軍の最新鋭艦艇が角逐することになったのである。
そして、冒頭のとおり米ソの巨大戦艦が主砲を向けあってすれ違うという新冷戦のハイライトを演出することになった。
アメリカ海軍は最新鋭のイージス・システム搭載のタイコンデロガ級巡洋艦を投入して、タンカーをミサイル攻撃から防御した。
対艦ミサイルは航空機発射だけではなく、陸上発射もあり、イージス・システムはその高い防空能力をフル稼働させて、尽く攻撃を跳ね除け続けた。
ソ連海軍は偽装漁船を使って偵察を行っており、その防空能力に驚嘆した。
ただし、どれだけ高度な科学技術の所産であっても、人間的な錯誤からは逃れることができず、イラン航空655便撃墜事件を引き起こしている。
これはバンダレ・アッバース発ドバイ行きイラン航空の旅客機を軍用機と誤認して撃墜した事件で、アメリカは非を認めて遺族に賠償金を支払っている。
ソ連海軍がこのような事件を起こすことはなかったが、吉良級駆逐艦の堂河がイラク空軍のF-4が発射したエグゾセ対艦ミサイルの直撃を受けて大破するなど、大きな犠牲を払っている。
堂河の苦難は、イラン航空655便撃墜事件の直後に発生した。
アメリカ海軍の失敗から極度に神経質な状態になっていたソ連海軍は、ペルシャ湾上の艦艇に対して接近する全ての航空機へ厳重な警告とスクリーミングを実行するように指示しており、イラク軍機の襲撃を許すことになってしまった。
現代航空戦は秒単位で進行し、一つの対処誤りが重大な結果を齎すことになるため、ペルシャ湾のような平時と戦時が混在する緊張した海空域での対応の難しさが浮き彫りになった。
米ソはその強大な経済力で、イ・イ戦争を行う傍らで、海軍拡張競争と膨大な核軍備をレイズし続けた。
最終的に東西両陣営は人類を9回滅ぼせるだけの核兵器を保有した。
核兵器の究極系としてソ連が完成させたのが、宇宙爆撃機ポリウスだった。
ポリウスは第2世代型宇宙ステーション”ザフトラ”を軍事転用したものである。
SDI計画と同様にエンジェル・ハイロウ計画は1980年代の科学力では実現不能だったが、ソ連はその前段階としてザフトラを完成させた。
ザフトラはロシア語で明日を意味している。
開発はロシアとソ連の共同で行われ、プロトンロケット及びエネルギアロケットを使用して、大量の建造資材が打ち上げられた。
ザフトラは完全なモジュール構造となっており、適宜古くなったセクションを破棄して施設を更新することが可能だった。
燃料や水、食料といった消耗品はソユーズかプロトンロケットで打ち上げるプログレス自動補給船でほぼ自動的に補給されており、超長期間の宇宙滞在が可能となった。
一応、ザフトラは宇宙ステーションということになっていたが、実際には地球軌道から離脱して惑星間航行が可能であり、実態としては惑星間航行宇宙船だった。
実際に1989年12月1日に月まで行って無事に帰還している。
1972年のアポロ16号以来、19年ぶりの月世界旅行である。しかもザフトラは2週間も月軌道に滞在し、様々な学術調査を行った。
アポロ宇宙船の月面滞在は3日だったが、ザフトラの着陸船はほぼ3倍の10日間も月面で調査活動を行っている。
西側メディアでは殆ど無視されるか、アポロ計画の二番煎じとディスインフレーションされたソ連の月世界旅行は、NASAを絶望させた。
アメリカの宇宙開発はアポロ計画を全盛期として退潮するばかりで、1986年にはスペースシャトル・チャレンジャー号が爆発事故を起こしてからは停止状態だった。
アポロ宇宙船を打ち上げたサターンVロケットはスペースシャトル計画に予算が吸われて、ロストテクノロジー化しており、月世界旅行など夢のまた夢だった。
さらに絶望的だったのは、ソ連がその気になればザフトラには火星でも金星でも好きなところに行けるだけの能力があるらしいということだった。
実際に、ザフトラには火星と地球を往復できる程度の能力があり、1989年の月世界旅行は火星旅行のためのデータ収集が目的だった。
その程度のことができなければ、ソ連の宇宙開発を牛耳る宇宙慈恩主義者を満足させることなどできるはずもなかった。
宇宙慈恩主義者が目指すところは、宇宙移民なのである。
アポロ宇宙船は基本的に使い捨てだったが、地球軌道に帰還したザフトラは自動補給船から消耗品を受け取るとそのまま軌道上に留まって、通常業務に復帰した。
スペースシャトルでは、そんなことは逆立ちしても不可能だった。
そして、アメリカが誇りにしたスペースシャトルでさえ、ソ連がエネルギア・ブランを完成させると完全に追いつかれてしまった。
西側のマスコミはプライドを守るために、ブランをソ連版スペースシャトルとして、デッドコピー扱いしたが、実際の構造は全くスペースシャトルとは異なる。
NASAのスペースシャトルは再利用可能な強力なメインエンジンを装備し、スペースシャトルと補助ブースターの力で地球の重力から離脱するのに対して、ブランは姿勢制御の小型ロケットしか搭載せず、重力からの離脱は専ら強大な推力をもつエネルギア・ロケットに委ねる方針だった。
ソ連はブランを量産化し、スペースシャトルより1機多い6機でブラン・フリートを編成した。
ブラン・フリートには八八艦隊計画に匹敵する予算が投入されており、宇宙大国ソ連の威信がかかっていたが、開発元のソ連宇宙開拓事業団ではブランをさほど評価しておらず、使い捨てのソユーズの方がコストパフォマンスに優れると考えていた。
しかし、国防に必要な宇宙爆撃機のためにエネルギア・ロケットを維持する必要があり、そのスピンオフとしてブラン・フリートが作られたという経緯がある。
話を宇宙爆撃機に戻すと、ポリウスはザフトラの予備機と言える。
ザフトラの打ち上げが失敗した場合に使用される予定だったが、成功に終わった結果、使用されなかった予備機に様々な軍事モジュールを搭載して再利用することになった。
軍事モジュールは最高機密であるため公開されていないが、多弾頭水爆と思われる。
ポリウスは、自動補給船から燃料補給を受けて静止軌道で待機し、有事においてはアメリカ本土への軌道爆撃を行うと推測されている。
この時、ポリウスは自分自身を巨大な弾頭と化して北米大陸に落下すると見込まれており、内部に満載した水爆をショットガンのように北米大陸に撒き散らすことになる。
ソ連はポリウスについて一切の情報公開を拒んでおり、その正体は21世紀現在においてもなお完全に不明である。
しかし、ソ連は90年代以降、ICBMやMRBMの開発を大幅にトーンダウンさせて、ロケット技術開発のためのエクスキューズかアメリカとの付き合い程度にしか考えていないところを見ると、
「ポリウスだけあれば十分」
という言葉には恐ろしい説得力を帯びることになる。
西側メディアは代理戦争や宇宙開発、建艦競争や核軍備競争など、金のかかることばかりをしているソ連はいずれ無理が祟って財政崩壊すると予言したが、ソ連の財政が崩壊するなどありえなかった。
何しろソ連は完全な自給自足経済を実現しており、必要なものがあれば幕府が通貨を発行すれば、いくらでも調達可能だった。
むしろ世界経済の方がソ連製の自動車や船舶、航空機やコンピューター、機械部品や電子部品を欲しており、外貨が向こうからやってくる状況だった。
アメリカは自国産業を守るため、ココム規制を拡大解釈して一切のソ連製品をシャットアウトしたが、インドネシアや北中国を経由して入ってくるTOYOTAやHONDAにフォードもGMも連戦連敗だった。
「余裕の音だ、馬力が違いますよ」
などと言ったところで、一般大衆がほしいのは壊れなくて、燃費が良くて、しかも安い労働者大国製の大衆車だった。
西側諸国はタンカー戦争の影響でコストプッシュインフレで割高になっており、産油国ソ連の安い工業製品に価格面で全く太刀打ちできなくなっていた。
好調な輸出によって為替は常に円高方向に振れ続けるため、輸出産業のために幕府がたびたび為替介入しなければならなかったほどである。
ソ連経済は軍拡と宇宙開発という政府支出によって大量の通貨が供給され、家計支出や企業の設備投資は拡大しつづけ好景気に湧いていた。
1980年代のソ連経済の最大の問題は人手不足だった。
企業はあまりにも人手が足りないので、人口増加が著しいフィリピンやカザフスタンの大学にリクルーターを送り込み、新卒者を江戸ディズニーランドにつれていくという名目で拉致して、他の企業の採用担当者から隠すなど、強引な手を使って人材収集に励んだ。
それでも足りないので、同盟国のロシアやイラン、東欧各国からの出稼ぎも推奨した。
90年代の駅前で一部の不良イラン人やロシア人が、小遣い稼ぎに偽造テレフォンカードを1束500円で売っていたことを覚えている人も多いだろう。
「ソビエト アズ ナンバーワン」
というタイトルの本がアメリカで出版されるなど、ソ連経済の輝きははちきれんばかりであった。
アメリカも状況は同じであり、軍拡により政府支出の拡大によって軍事ケインズ経済が成立し、好景気となっていた。
問題は米ソ以外の同盟諸国だった。
特に経済が低迷していたロシアは米ソの強烈な軍拡に追随することができなくなっていた。
新冷戦に対応してロシア軍は軍拡と装備更新を進めたが、その殆どがソ連との共同開発か、ソ連製の装備の国産化モデルという有様となっており、軍事大国ロシアの面目はルーブル価格のように下落する一方だった。
ロシア最高評議会議長ユーリー・アントノフは、苦渋の決断としてそれまで軍備保有を厳しく制限していたドイツ民主共和国に対して、国防に必要な範囲内での軍備拡張を許可した。
この場合の許可とは実質的な命令であり、世界第3位の経済大国ドイツに自国の軍拡を肩代わりさせるものであった。
この命令に対して、ドイツは積極的に賛成したばかりか、ロシアが許可した以上の陸海空軍を編成した。
1989年までにドイツが編成した陸軍兵力は72万に達し、これはロシア軍の即応体制にある第1線級部隊(カテゴリー1)に匹敵する規模であった。
装備の大半はロシアかソ連製のライセンス生産品か、輸入品だったが潤沢な予算に支えられた軍の練度はロシア軍を完全に凌駕していた。
表面的にドイツはロシアに忠実な同盟国と振る舞ったが、クレムリンはドイツの機嫌をとることに終始する羽目になった。
どちらが主人か分からなくなった欧州東側陣営を崩壊させたのは、1988年の3月21日の渡辺蓮子中尉不時着事件であった。
事件の概要は、ソ連空軍のHa160戦略爆撃機がブリテン島のアバディーン郊外に不時着したというものではある。
不時着の直接の原因は、機体の整備不良だった。
給料未払いでヤケになったロシア人整備兵によっていい加減な整備が行われた結果、訓練飛行中にエンジンが全停止するという信じられない事故が発生した。
ソ連空軍の欧州派遣部隊では、あまりにもロシア軍の士気低下が酷く、本国の整備部隊を呼び寄せる決定を下しており、その矢先に発生した事故だった。
当時、蓮子中尉のHa160はロンドン急行と呼ばれるブリテン島への核攻撃ミッションの模擬訓練を実施しており、マッハ3の速度でブリテン島に向かって飛行中だった。
エンジン全停止でマッハ3で落下する石ころになった機体をかろうじて不時着させたのは、フライ・バイ・ワイヤ技術と蓮子中尉の驚異的な操縦技量が生み出した一種の奇跡だった。
東側の最新鋭爆撃機がブリテン島に不時着したことは、マスコミを通じて全世界に伝わり、危機の到来を告げた。
当初は亡命を疑われたが、パイロットの蓮子中尉が機体に接近しようとした地元のテレビレポーターに威嚇射撃し、機内に籠城したため亡命ではないと判明した。
副操縦士でモンゴル人のハーン軍曹と共に機内に立てこもった蓮子中尉の孤独な戦いは事故発生から1週間も続くことになる。
直ちに国際連盟安全保障理事会が開催され、ソ連は事故の発生を説明し、イギリス政府に機体とパイロットの引き渡しを要求した。
イギリス政府は機体とパイロットの引き渡しを受け入れたが、ソ連が要求した機密保持のための軍部隊派遣は拒否した。
Ha160戦略爆撃機は秘密のベールに包まれた東側の最新鋭機であり、MI6などはネジ一本まで分解し尽くしてから返却するのが当然の礼儀作法であると考えていた。
1976年にもイギリスにはロシア空軍のMig25が亡命飛行しており、その時もネジ一本に至るまで機体を分解し尽くしてからロシアに返還している。
しかし、このときは相手は化学兵器狂戦士ではなく、田舎者のロシア人だった。
鉄の女と知られるヨーグレット・サッチャー首相は、
「この内閣に漢は一人もいないのですか!?」
と慎重論を唱える閣僚を一蹴し、一歩も引かない姿勢を見せていた。
パイロットを射殺して機体を確保するため、不時着地点にSASが展開していたことが後の情報公開で判明している。
サッチャーの強硬な態度に激怒した大曽根大老は、
「よろしい、ならば戦争だ」
と発言し、奉行会議を凍りつかせたことで知られている。
機密保持のためにソ連軍は破壊作戦を立案し、戦略爆撃機部隊を展開したが、これは西側の連鎖反応を呼び起こした。
アメリカ本土では水爆を搭載したB-52やB-1、B-2爆撃機がそれぞれの基地から離陸し、空中待機態勢に入った。
ソ連海軍連合艦隊は各地の港から緊急出港し、それに呼応して米太平洋艦隊も洋上に出た。
その様子は各地でテレビカメラを構えていたマスコミによって放送され、多くの米ソ国民がテレビに映る米ソ海軍の大艦隊に、世界の終わりを幻視することになった。
米ソ軍はオフレコで非常呼集を行っていたが、各地で涙の別れを告げる家族の姿が目撃されたことから、オフレコにしておく意味は殆どなくなった。
米ソの戦略ロケット部隊はICBMに液体燃料を注入し、即時発射態勢に入った。
ソ連の各テレビ局には、いつでも幕府の緊急特別放送に対応できるように、クラッシック音楽と緊急放送が録音されたカセットテープが配布されている。
カセットテープは後に回収されたが、回収を免れた幾つかが後にテレビ放送された。
ベートーベンの交響曲第8番に続けて開戦と核攻撃開始を放送するそれは、正しく世界の終わりを告げる調べであった。
渦中の渦中に立たされたイギリスでは、大都市でパニック買いが発生してスーパーの棚が空になり、核攻撃に備えて田舎に退避する都市住民によって高速道路は大渋滞となった。
ロンドンの金融街では株価が大暴落し、13人の自殺者が出ていた。
不用意な準備行動からソ連の破壊工作部隊がスコットランド・ヤードによって一網打尽にされたが、押収された武器の中には化学兵器が含まれていた。
逮捕・尋問の結果、持ち込まれた化学兵器は1つや2つではないことが判明した。
漸くサッチャーは、相手が何をするか分からない奴らであることを思い出した。
また同盟国アメリカから、先制核攻撃の相談も来ていた。
ちなみに後の情報公開で、時のアメリカ大統領レオナルド・リーガンは高齢による認知症であったことが明らかにされており、リーガンは正常な判断ができる状態ではなかった。
サッチャーは同盟国が半世紀ほど前に原子爆弾を棍棒代わりに振り回した前科者だったことを忘れていたことに気づいたが少し遅かった。
世界は破滅の淵に立たされていた。
米ソと共に心中するつもりなどさらさら無かったドイツが裏切ってくれなければ、人類の歴史はそこで終わっていたことだろう。
ドイツのルートヴィッヒ・コール議長は、条約機構の指示を無視して、ドイツ軍の臨戦態勢を解除し、事件の外交的解決を訴えた。
このまま開戦となれば戦術核兵器で国土を焼き尽くされることが目に見えていたドイツは、ぎりぎりのタイミングで造反に踏み切ったのである。
イギリスのサッチャーもこれに同乗する形で、再交渉の受け入れを表明した。
ドイツの造反は極度の緊張状態にあった米ソに対して一種のショック療法として機能した。
ぎりぎりのところで米ソは理性を取り戻したのである。
最終的に不時着したHa160はソ連の駐英武官の立ち会いのもとで焼却処分され、パイロット4名(うち2名は不時着時に死亡)は、無事に本国へ帰還することになった。
事件解決の余波は中東にも及び、長引く戦争に疲れ果てたイラン国民がイスラム政権に愛想をつかし、総選挙でイスラム政権が退陣してイ・イ戦争は停戦に至った。イスラム政権への期待が大きかったイランでは反動から脱イスラム化が進むことになる。
核兵器こそないもののロシア軍に匹敵する通常兵器を整えたドイツは条約機構から離脱し、祖国統一に邁進することになった。
これはイタリアも同様であり、独伊は政治的な連携を深め、1990年に念願の祖国統一を果たすことになる。
ロシアはドイツの造反を予期していながらも経済苦から軍事的な自立を許し、予期したどおりに裏切りに遭い、東側世界で権威を失墜することになった。
アントノフ議長は面子を失って失脚し、後任には戦後初の文民政治家のコンスタンティン・ゴルバチョフが選出された。
改革派で知られるゴルバチョフの議長就任は、ロシア改革の始まりだと受け止められた。
しかし、ゴルバチョフが就任したとき、ロシア経済は既に手遅れの状態だった。
1990年3月、ロシアは対外債務の支払い停止を宣言した。
冷戦終了のお知らせである。