デタントの始まりと終わり
デタントの始まりと終わり
デタント(フランス語: Détente)とは、戦争の危機にある二国間の対立関係が緩和することを意味する。
1960年代末から70年代を通じて米ソの緊張緩和が進んだ。
1973年5月に戦後初めて訪米した田中カクウェイ大老をアメリカのオズワルド・ニクソン大統領が空港まで出迎えに現れ、にこやかに握手を交わす姿は全世界に中継され、雪解けの訪れを演出した。
デタントの背景には、米ソの力の均衡があった。
1950年代から60年代を通じて、ソ連では高度経済成長が進み、世界第2の経済大国となった。
ソ連では流通革命が進み、西比利亜の地方都市の百貨店やスーパーでも、本州なみの商品が並ぶようになり、大衆消費社会となった。
このような豊かさをもった敵との戦いはアメリカ合衆国にとっては初めての経験であり、ビルマ戦争の失敗から従来の封じ込め戦略の限界が論じられるようになった。
さらに1973年にはオイルショックが発生し、安い中東原油に依存してきた西側経済が大打撃を受けたことが決定打となった。
産油国のソ連やロシアはオイルショックで膨大な外貨を獲得し、さらに経済力を拡大したため、米ソ経済伯仲の時代が訪れることになった。
ソ連においても、増え続ける軍事費を抑止する必要性が論じられるようになっていた。
フルシチョフ政権下で進められた核ミサイル開発は、サトウツカヤ政権でも継続され、ICBMの大量配備を実現した。
1960年代後半には、ソ連では1,200発前後の核弾頭が配備されており、核軍備維持のために膨大な軍事予算が投じられるようになっていた。
ソ連の戦略核兵器の中には、タイクーン・ボンバァーと呼ばれるものがあり、核出力100メガトンに達していた。
1961年の爆発実験では衝撃波が地球を3周してもなお空振計に記録され、遠く離れた本州の測候所でも衝撃波到達が観測された。
ソ連軍の一部では米帝殲滅爆弾と呼ばれており、若干改良されたものが重ICBMに搭載されてアメリカ本土の各地に照準をつけていた。
もちろん、これらの核軍備に莫大な予算が投じられたことは言うまでもないことである。
ビルマ戦争が最高潮に達した1970年には、軍事費が国家予算の3割を超えて、過大な軍備に対する国内批判が高まった。
また、それまで10%前後の経済成長が続いていたソ連では70年代に入るとインフレーションが進んで高度経済成長が止まり、6%前後の安定成長時代に入ったこともデタントを後押しした。
それまで右肩上がりの経済を背景に強気の外交戦略を展開してきたソ連にとって、経済成長の鈍化は微妙な影響を与えることになった。
また、国内政治の世代交代もデタントを後押しした。
1964年11月7日に征夷大将軍徳川信忠は江戸城で死去した。
信忠の葬儀は国葬となり、全世界から弔問の使者が訪れた。出棺の際には江戸中心部の全交通が停止され、葬儀の列には30万人が参加している。
これは当時世界最大の国葬であった。
なお、徳川家の墓所は慣例では天台宗の寛永寺か、浄土宗の増上寺のどちらかとなっているが、信忠の墓所は遺言により、比叡山となった。
徳川将軍が比叡山に葬られた例はなく、この遺言は物議を醸した。
比叡山は京都の鬼門を抑える国家鎮護の寺地である。
信忠は最後まで京都への原爆投下を阻止できなかったことを悔やんでおり、死した後は護国の鬼となって王城を守護すると遺言に書き残したのである。
最後の言葉は、
「ただひたすらに狂るおしきは、アメリカを討てぬことなり」
という凄まじいもので、信忠の強烈な復讐感情を読み取ることができる。
信忠は最後までアメリカへの報復核攻撃を諦めていなかったと言われている。
新たに征夷大将軍に就任した徳川康忠はどちらかといえば母親似であり、青い瞳とブロンドを持つ新世代の征夷大将軍だった。
アメリカに対する悪感情はあったものの、全人類を巻き添えにしかねない報復攻撃には否定的だった。
これは母親のアナスタシアも同様である。
何しろ、アナスタシアの実家であるロマノフ王家はロシア革命後はスウェーデンに亡命し、第2次世界大戦前にアメリカ合衆国に渡っていた。
これは戦前の米ソ蜜月時代の下敷きにもなっており、王家の歴史や伝統を持たないアメリカにとってロマノフ家は重要な外交資産であった。
康忠の叔父にあたるアレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ(アレクセイ4世)はアメリカで健在であり、母方の実家があるアメリカに水爆を投下するなど狂気の沙汰だった。
ソ連が核武装に成功しても、アメリカへの報復核攻撃に踏み切らなかったのはアナスタシアが頑強に反対していたからという説もある。
第2次世界大戦後、アナスタシアと実家のロマノフ家は絶縁状態だったが、信忠の死後に復縁を果たした。
ヨーロッパの王室は殆ど全てが婚姻外交で親戚状態であったから、ロマノフ家との復縁はそのまま徳川家が王室社交界に復帰したことを意味していた。
ソビエト幕府の王室外交は1960年代後半から機能しはじめ、デタント実現の大きな原動力となった。
なお、康忠は1960年代後半の時点で、
「冷戦にイデオロギー対立は存在しない」
という非常に先駆的な意見を述べている。
これは当時の政治学的な議論においても(非常に少数だったが)同じ論旨の主張があった。
デタントのアメリカ側の交渉窓口となったマンフレート・キッシンジャー大統領補佐官もほぼ同じ意見の持ち主だった。
ソ連とアメリカは共に社会の大前提として、基本的な人権の確立と自由と平等を掲げており、世界最大規模の大統領(大老)選挙を行うデモクラシー(ソビエト)国家だった。
アメリカにおけるフロンティア・スピリット(開拓精神)に相当するのが、シベリアの厳しい自然を超克してきた慈恩主義である。
最終的に宗主国(江戸幕府・イギリス)と戦って独立を勝ち取ったところもほぼ同じだった。
ソ連のそれはやや屈折しているところはあるが、巨視的な観点から見れば誤差の範囲内といえた。
社会が多民族国家であることを前提としていることも同じである。
イデオロギー対立という点では、ロシアとアメリカの方が深刻といえた。
経済においても同じことが言える。
ソ連経済の顔といえば、TOYOTAや日産、HONDAといった自動車産業やCOлYやインターナショナル電器といった家電製品、IHIのような造船や民生用航空機のNCH(ノースケープ・ホルテン(又は北崎ホルテン重工))といった私企業だった。
ソ連経済を動かしているのは市場原理であり、官僚の経済統制ではなかった。
ソ連は膨大な数の国営企業を抱えていたが、それは建設やインフラ、資源開発、軍需といった国家の基幹や公共の福祉に関する部門に限られていた。
国営企業はアメリカ合衆国にも存在し、アラスカ鉄道やAMTRAKやテネシー川流域開発公社といった例がある。
ソ連経済に占める国営企業の割合は3割もあったが、インフラや資源開発、建設業といった重厚長大産業を国営化して抱えているのであれば当然といえた。
ソ連の社会主義(或いは修正資本主義)とアメリカの資本主義に違いがあるとするならば、それは経済の中心に社会(公共の福祉)があるか、それとも資本の論理があるかの違いでしかなかった。
前述のソ連国営企業は全てが赤字経営である。
資本主義であれば即座に事業を停止するか改革・改善で黒字化を図るところであるが、ソ連では国営企業の赤字は称賛されるべきことだった。
なぜならば、インフラ(電気・ガス・水道・医療・交通・防災)経営が”黒字”になるということは、国民生活が”赤字”になることであり、利用者(国民)から不当に高い料金を徴収していると判断されるためである。
さすがに私企業はソ連といえども利潤を追求し、黒字でなければ破綻してしまうが、会社の所有者は出資者である株主であっても、社長や会社員の権利が法的に強く設定されていた。
ソ連は労働者の国であり、不動産収入や株式配当といった不労所得は
「働かざるもの食うべからず」
というソ連の倫理観においては最も忌むべきことをされていた。
ソ連の一般的な私企業倫理は、
「従業員の首を斬る経営者は、腹を切れ」
というように労働者の保護や生活を保障することがが正しいこととされてる。
前述の公共の福祉を、社会全体の利益と言い換えば、ソ連が追求しているのは社会全体の利益であり、アメリカが追求しているのは資本家の利益と極論することもできるだろう。
しかし、社会全体には資本家も当然、構成要員として含まれていることから、社会全体の利益の追求には資本家の利益も含まれることになる。
最終的にはバランスの問題、利益配分の問題と言えなくもない。
イデオロギー的な違いを敢えて主張するならば、ソ連は最終的に共産主義という高次元社会を目指しているのに対して、アメリカは資本主義を墨守すると謳っている点があげられる。
しかし、共産主義者であっても共産主義社会(高次元社会)は「資本主義的な特徴をもたない」という風にしか表現できていない現状では観念の域を出ていない。
アメリカと経済イデオロギー的に完全に相克しているのはロシアで、私有財産制の否定や生産手段の共有化は資本主義の全否定だった。
結局のところ、米ソの対立は1945年の京都原爆投下と報復対米化学兵器/生物兵器攻撃であり、怨恨に根ざしていると言える。
しかし、戦後生まれの若者たちにとって、そうした怨恨は無縁のものだった。
若者世代を中心に学生運動が広がり、平和を求める声を高まったことも幕府の軌道修正を促した。
大戦後に生まれた若い世代は、アメリカを絶対悪とするしかなかった親世代への反発から親米・リベラル・平和主義に傾れていた。
60年代に世界を席巻したイギリス・リバプール出身のロックバンドグループは1970年に解散していたが、ヒッピー文化と共にソ連に輸入された。
西比利亜の大学ではベルボトムのデニムパンツを履いたロン毛の学生が、フォークギターを担いで闊歩し、学生食堂でボルシチを食べるのが日常的な風景だった。
原爆投下直後に、ソ連中でアメリカ製のGパンが集められて焼かれたことを思えば、別の国の出来事だとしか思えない有様である。
ソ連製のヒッピーが待望したマクドナルド・ハンバーガーの進出が実現したのは1971年のこととなる。
1971年7月20日に江戸の銀座にオープンしたソ連マクドナルド1号店では、連日大盛況となって、ソ連マクドナルドは大成功を収めた。
ソ連マクドナルドは都市部に集中的に出店するという戦略的を展開し、都市化が進むソ連経済の中で、モダニックな都会文化というイメージを獲得した。
これはアメリカ本土のマクドナルドにはない特徴である。
米マクドナルドは基本的に郊外型の店舗でドライブイン、ドライブスルーを基本とする。
そのためソ連マクドナルドは、
「100%失敗する」
と米本社から酷評されていたが、蓋を開けてみるとソ連マクドナルドの方針こそが大正解だった。
江戸は東側世界の国際都市であり、ロシアやドイツ、東欧、中華人民共和国やアジアの社会主義国などからの渡航者も多く、ソ連マクドナルドで初めてハンバーガーを食べてアメリカ文化に触れたものも多かった。
抑圧的なロシア型社会主義が広まった東欧やドイツでは、江戸に留学した若者が社会主義の総本山であるソ連で、ヒッピーがアメリカのロックバンドグループをヒューチャーして、マクドナルドをパクツイているのを見てそれまでの価値観を崩壊させた。
ロシアや東欧でも、親世代への反発から学生運動が盛んになり、仲間内で隠れて西側のロックバンドグループのレコードを聞くことが流行っていたが、それはあくまで隠れて楽しむものだった。
ロックは反体制ということでロシアや東欧では当局から厳重に監視されていたからである。
社会主義の総本山とされたソ連で、ロックミュージックが大ヒットして、しかも大っぴらに流通している現状を目の当たりにした留学生たちは、
「実はロシアの社会主義は間違っているのではないか?」
という深刻な疑問を抱えて帰国することになり、後に東欧革命の原動力になる。
ちなみにソ連マクドナルドは本来1970年の大阪万博に併せて開店する予定だったのが、ロイヤリティ交渉で揉めてしまい大阪万博には間に合わなかった。
1970年の大阪万博はデタントの機運の中で、西側諸国からも大勢の観光客が訪れた。
テーマは、「人類の進歩と調和」である。
大阪万博は経済大国となったソ連の発展を宣伝するイベントとして開催された。
ソ連のパビリオンのコンセプトは「宇宙世紀」である。
ソユーズ宇宙船や各種宇宙ロケットや衛星の実物が一般公開されて長蛇の列ができたが、その半数は西側のスパイ組織やNASAの職員だったと言われている。
対抗してアメリカ館ではアポロ計画で持ち帰った月の石を公開されており、こちらも物珍しさから長蛇の列ができた。
ソ連パビリオンは宇宙技術だけではなく、来たるべき宇宙世紀の一般市民の生活についてもコンセプトモデルを発表しており、サインシステム、ICカードシステム、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、パーソナル・コンピューター、テレビ電話、携帯電話、デジタルカメラなどが公開された。
発表されたコンセプトモデルの殆どが実現されたが、リニアモーターカーのように技術難易度から未だに実現していないものもあった。
来場者数は約1億人で、ソ連の全人口の3分の1が来場した計算である。
大阪万博を見るために本州はもちろんのこと西比利亜全土から人が集まり、西比利亜鉄道や第2西比利亜鉄道では万博ダイヤが組まれた。
国営のソビエト・アエロフロートでは、この万博に間に合わせるために世界初の超音速ジェット旅客機Ha144が就航した。
Ha144は世界初のSSTであり、ソ連の技術力を誇示する目的もあって海外路線にも順次就航していった。
しかし、同じコンセプトのコンコルドと同じくコストがかかりすぎるため、商業的には振るわなかった。
しかし、アエロフロートのフラグシップということで、21世紀現在でも近代化改修をうけた16機によって運行が続いている。2003年にコンコルドが運用停止になったことから、世界初にして、世界唯一のSSTというタイトルホルダーにもなった。
Ha144以外にも、アエロフロートは万博にあわせて膨大な量のジェット旅客機を就航させて、ソ連におけるジェット航空輸送網を確立させた。
ソ連のジェット旅客機を製造・販売したのは北崎ホルテン重工だった。
現代ではノースケープホルテンという方が知られているだろう。
ノースケープホルテンは、レーダーに映りにくいという電波ステルスを最初に意識して開発されたジェット戦略爆撃機HoX13の開発元で、ソ連初の民間航空機メーカーだった。
戦前のソ連航空機産業は基本的に国営であり、政府機関の各設計局で設計開発して国営工場で生産を行う体制となっていた。
これは戦前の民間航空産業がほぼ皆無に近く、採算性がなかったためである。
しかし、戦後は技術発展で採算性のある民生用航空機も製造可能であると考えられるようになった。また、戦時中に大量につくった軍用航空機生産設備を民間転用する必要性があり、戦前・戦中にライセンス生産したDC-3を置き換える目的で半官半民体制でYS-11が開発された。
YS-11は民生用旅客機としては正直、微妙な性能だった。
YS-11の設計はソ連の各設計局のエースを集めたオールスター体制で行われたが、誰も旅客機の設計を行ったことがないという致命的な弱点があったのである。
しかも、製造販売体制が空中分解するなど、プロジェクトとしては手痛い教訓ばかりが残る結果に終わった。
最終的にYS-11は北崎ホルテン重工が引き取ることになり、改良と発展型が作られた。
ジェット化したYS-21や胴体をストレッチして4発化したYS-22、3発ジェット化したYS-33などがあり、YSシリーズはソ連の翼と広く認知されるようになった。
YS-33は3発ジェット旅客機というソ連航空路線のディフェクトスタンダートとなる機体で、4発のボーイング707と双璧を成すことになった。
YS-11やYS-22は設計技術の未熟から旅客機としては過剰な強度が与えられており、軍事転用機体のベースとしては最適だったことから電子偵察型や対潜哨戒機が作られている。
ソ連で旅客機を運行するアエロフロートはソ連空軍の密接な関係があり、多数の軍用輸送機の定期便運行も代行するなど、半軍半民の組織である。
ソ連唯一の航空会社として、国際/国内路線の運行のみならず、地方路線や建設現場でのヘリコプター投入やレシプロ機を使った農薬散布といった業務も行っており、保有機は10,000機を超えている。
そのため、世界最大の航空会社としてギネスブックに登録された。
ちなみにアエロフロートの機内サービスは、西側水準からするとありえないほど悪いが、これはアエロフロートがソ連の交通インフラであり、誰でも飛行機に乗れるようにするため最低限の料金しかとっていないためである。
広大な国土をもつソ連にとって、航空輸送は生活ライフラインという認識であり、西側諸国のバス路線程度に利用できるものでなければならなかった。
西比利亜の僻地では、救急搬送=ヘリコプターという地域が殆どで、場合によっては通学・通園にもヘリコプターが使われたほどである。
新しく分校を建てた方が安いことに気がついたので、ヘリコプター通学が行われたのは僅かな期間だったが、アエロフロートの搭乗受付には通学・通園の項目が今でも残されている。
通学・通園目的でなくとも、生活必需品の輸送にヘリコプターが使われている地域は西比利亜では数多く、1円でも安い運賃が求められるアエロフロートでは、今後も最低限の機内サービスしか提供されないと思われる。
話を1970年代の国際情勢に戻すと、欧州ではドイツ民主共和国で政権交代があり、西方外交を展開した。
戦後ドイツはラインハルト・ハイドリヒ国家評議会議長が独裁体制を敷いていたが、1967年にハイドリヒが死去するとヴィルヘルム=ブラントが後継者となった。
ハイドリヒは賛否の分かれる人物で、1940年のドイツ帝国崩壊時には元海軍将校という経歴があるだけの地方警察の署長でしかなかった。
戦時中にハイドリヒはロシア軍の治安部隊に接近して、治安維持作戦をいくつも成功させ、同胞であるドイツ人パルチザンを残酷な方法で狩り出して、ロシア軍に引き渡した。
ハイドリヒは裏切りものだったが、それで権力を得たハイドリヒが戦後ドイツを復興させたことは衆目一致しているところである。
ドイツがロシアから政治的に全く信用されていないことを逆手にとって、ハイドリヒ議長はドイツ軍を10万人まで削減し、国防をロシア軍に丸投げするという軽軍備路線を打ち出した。
これは戦争の荒廃からドイツを復興させる上で、極めて有効に機能した。
実質的に軍事費が無料同然になったのである。
戦後のドイツは国土が戦場になった上にロシア人の略奪や英米軍の戦略爆撃で徹底的に破壊されており、餓死者がでるほど困窮していた。
しかし、1956年には、
「もはや戦後ではない」
とハイドリヒが言い切るほど、戦後ドイツ経済は戦前を超える発展を遂げた。
また、政治体制には自身に権力を集中させるロシア型社会主義を採用し、経済は市場原理で動くソ連式社会主義を用いるなど、露ソの微妙な関係を巧みに利用してロシアとソ連の両方から復興資金をせしめている。
戦後ドイツがハイドリヒなしに成立しないのは、ハイドリヒの対パルチザン作戦で家族を殺された者であっても認めざるをえなかった。
ちなみにハイドリヒの葬儀は国葬となる予定だったが、本人の希望で家族葬となり、遺骨はバルト海に散骨されている。
これは死後に墓を暴かれることを恐れたための処置だと考えられている。
ハイドリヒの遺産を引き継いだブラント議長は、ハイドリヒ政権時代には存在を認めていなかった(したがって交渉もしない)西ドイツを国家として認めるという大転換を図った。
ドイツの西方外交はオイルショックによる西側経済が混乱していた時期ということもあり、概ね歓迎された。
冷戦対決の正面に立つフランスなどは膨大な軍事費を使っており、オイルショックで経済がマイナス成長に転じると軍事費の削減が急務となっていた。
イギリスやスペインといった他の西欧諸国も状況は同じだった。
西方外交の最大の成果は、ドイツ基本条約とヘルシンキ講和条約の締結である。
ドイツ基本条約で東西ドイツは相互国家承認にいたり、欧州における東西冷戦の推進力となってきたドイツの分断状態を一先ず終わらせることになった。
また、ヘルシンキ講和条約で欧州における第2次世界大戦は法的に終了し、ドイツはアルザス・ロレーヌ地方を正式にフランスへ割譲した。
アルザス・ロレーヌ地方は普仏戦争から続く独仏対立の焦点の一つで、第2次世界大戦後はフランスが実効支配していた。
フランスはドイツがアルザス・ロレーヌ地方奪還のために攻めてくると考えており、ドイツの領土放棄は欧州における緊張を大幅に緩和した。
また、ヘルシンキ講和条約はロシアの東欧支配を認め、合法化するものだった。
これはロシアにとってデタントの大きな”成果”であると言えた。
それまで西側諸国は東欧の亡命政権を囲って、東欧の共産主義政権を非合法政権として攻撃していたから、ヘルシンキ講和条約でそれは封じられることになった。
しかし、合法化して準戦時体制を解除した結果としてロシアは東欧各国に対して、これまでのように安易な武力弾圧ができなくなるというジレンマに陥った。
これまでロシアは東欧各国の民衆蜂起に対しては武力弾圧を常套手段としており、ヘルシンキ講和条約は最終的にロシアの手足を縛る枷となった。
「東欧革命は、ヘルシンキ講和条約から始まった」
という歴史学者さえいるほどである。
しかし、当時のロシアはデタントに対して極めて前向きだった。
ロシア経済は軍部の集団指導体制とロシア型社会主義体制によって停滞しており、特に農業政策の失敗と物流網の老朽化は国を揺るがすほどになっていたからである。
豊かな穀倉地帯であるウクライナを併合したことで、ロシアの農業生産は戦後に大きく拡大したが、機材や農法の更新には失敗していた。
さらに農業インフラの老朽化によって生産力は縮小する一方だった。
また、物流網の老朽化と陳腐化によって、農産物が流通途中で”消失”する事例が多発し、広範囲に闇市場が形成されることになった。
工業においても、資金難から設備が老朽化しても更新されず、旧態依然の状態が続いた。
こうした状態はロシアのプロパガンダと書類の改ざんによって巧妙に覆い隠されており、ロシアの社会主義体制は盤石であるかのように喧伝されていた。
同時期にソ連からの渡航者が、ロシアの国営市場の商品棚が空っぽなのを見て、
「泥棒にでも入られたのか?」
と驚いて質問をしたところ「これが平常運転である」と店員に説明されてさらに驚くといったことがしばしば起きた。
70年代以後、ロシアでは国家が泥棒そのものになりつつあったと言えるかもしれない。
1960年代まではドイツやフランスなどから強奪した技術を消化することでロシアでも技術革新や経済発展が進んだが、それ以降は野放図な予算が投じられた軍事関係以外は停滞した。
特に民生品、軽工業の分野では停滞が著しかった。
ロシアでも様々な家電製品が生産されていたが、故障や製造不良ばかりだった。
特にテレビの性能が酷く、火災に備えて消火器とセットで買うのが推奨されるほどだった。
ソ連家電産業の帝王と称される松下雪之助は、あまりにも程度が低いロシアの家電製品を見て、ロシアが永く保たないことを悟ったというエピソードは有名である。
ただし、松下はロシア経済の凋落をビジネスチャンスとも考えており、ロシア政府高官に多額の”顧問料”を支払って、自社(インターナショナル電器/松下電器産業)の製品を積極的に売り込んでもいる。
「町の電気屋さん」というフレーズと共にロシアの田舎町にさえ進出したインターナショナル・ショップの強力な販売網は1970年代に築かれたものである。
インターナショナルブランドはブランド名がずばりロシアの国歌ということもあって、広くロシア人に受け入れることになり、COлYに先じてロシア進出を果たすことになった。
他のソ連企業がロシアに進出していくのも、ロシアの社会主義経済が明らかに停滞するようになった70年代に入ってからである。
1973年のオイルショックは産油国のロシアにとって、経済再生のチャンスだったのだが、ロシアでは改革の動きがなかった。
手に入れた多額の外貨を農業再生や産業再生に使うことなくソ連からの食料輸入に浪費した。
ソ連もオイルショックで多額の外貨を得ているのは同じだった。
ソ連が外貨で買ったのは欧米で研究が進んだ省エネルギー技術や低公害技術だった。
ソ連のガソリンといえば、レギュラーで1L35円程度であり、低燃費化する恩恵はあまり感じられなかったが、本州では輸送費の関係でガソリン価格は上昇傾向だった。
また、低公害技術は経済発展で公害病が深刻化しているソ連にとっては、緊急対策が必要と認識されており、外貨を使ってでも導入する意義があった。
モーターリゼーションが進んだ西比利亜の都市部では大気汚染が深刻化しており、呼吸器疾患が爆発的に増えていたのである。
水質汚濁や土壌汚染も深刻な問題であり、水銀やカドミウム汚染で死亡者が続出して公害訴訟が相次いでいた。
1960年代のソ連最大の環境破壊はアラル海縮小で、綿花栽培や工業用水の利用でアラル海の面積が大幅に縮小した。
干上がった海底から、塩分や海底の汚染物質を含んだ砂が飛散するようになり、深刻な健康被害を齎すことになった。
ソ連は1967年に公害対策基本法を制定し、公害対策を幕府や各藩、企業に義務付けており、アラル海再生はソ連の国家事業として多額の国費が投入された。
灌漑事業や工業用水の取水制限は当然必要だったが、クリークのコンクリート化や地下化が推し進められ、水の利用を徹底に効率化することでアラル海の水源回復を目指した。
一連の対策は徐々に効果を現し、アラル海の水位は回復していった。
それでもアラル海の塩分濃度上昇と水質汚濁によってアラル海の固有種のいくつかは絶滅に追い込まれており、それに依拠した地元の伝統文化や芸能も滅びることになった。
アラル海サケはアラル海の固有種で1960年代に絶滅したと考えられていた。
しかし、21世紀になりソ連のテレビ番組の人気タレント同志リーヴィくんが、アゾフ海で番組収録中に絶滅したはずのアラル海サケを発見した。
アラル海サケは1940年代に一部が養殖のためにアゾフ海に移入されて、定着に失敗して全滅したと思われていたのだが、現地で密かに生き延びていたことが判明した。
アゾフ海で採取されたアラル海サケは人工孵化によって数を増やした上で、アラル海に放流され、40年ぶりにアラル海サケは復活することになった。
アラル海沿岸では復活したアラル海サケを地元の特産品とする計画もあり、功労者の同志リーヴィくんは環境奉行賞を受賞している。
話が逸れたが、ロシアや東欧の経済が停滞し、ロシア型の社会主義モデルが求心力を失っていく中で、ソ連は各地への経済進出を強化していった。
元々ソ連はロシアや東欧の非ソビエト的な政治体制に不満があり、ロシアが弱った隙を突いて経済面からソビエト化を図ったのである。
ソ連の経済進出の旗振り役となったのはカクウェイ大老だった。
後にカクウェイは、
「えー、まぁ、あれはですね。えー、一種のバルバロッサ作戦だったと思います」
とインタビューに答えている。
ちなみにバルバロッサ作戦とは幻に終わったドイツ帝国による対ロ奇襲作戦のことである。
カクウェイはロシアや東欧各国に膨大な経済界要人を引き連れて訪問を重ねて、トップセールスで急速な経済進出を実現させた。
ソ連のロシア・東欧の経済進出は、第3のモンゴル襲来と表記されることもある。
700年の前の襲来ではモンゴル軍は馬に乗って現れ、30年前の第2次襲来では戦車に乗ってやってきた。3度目の襲来では、アエロフロートのジェット旅客機に乗った礼儀正しいソ連のビジネスマン達がやってきたのである。
西側企業には強面の各国政府の行政官僚や秘密警察も、社会主義の総本山から来たビジネスマン相手には分が悪かった。
そもそも、なぜ社会主義の総本山から資本主義の権化のようなビジネスマンがやってくるのか、完全に意味不明だった。
ルーマニアの独裁者ゲオルギー・チャウシェスクはカクウェイの外交使節団を迎えて、
「あれは政治家の格好をした訪問販売員だ」
とカクウェイ大老のエコノミックアニマルぶりをこき下ろした。
経済を最優先するカクウェイ大老の姿勢は、既存の政治家という枠組みで捉えればどうしもない俗物だったが、21世紀現在ではむしろこちらの方が自然に思えため、カクウェイ大老の先見性は際立っていたと言えるだろう。
当時のロシアや東欧の指導的な地位にあったものは、政治家というよりも商人に近いカクウェイのトップセールスを鼻で笑ったが、豊かで高性能なソ連製品に触れた民衆の中には、自分たちの信じていた社会主義が根本的に間違っているのではないかという疑念が生まれた。
当局はソ連企業の進出を阻止しないと危険だと考えるようになったが、ソ連からの輸入を止めたら自分たちも困るため、次第に思考停止状態になっていた。
ソ連製品の洪水は、ソ連低開発地域にも押し寄せており、中央アジアのソ連加盟国やルソン島にも安い人件費を求めてソ連の企業団地が進出した。
ソビエト幕府も工場の地方移転を積極的に推進した。
デタント時代に大老を担った田中カクウェイは、ソ連の国土の均一なる発展を目指した「ソ連改造計画」を発表し、地方への産業分散を推進した。
ソ連改造計画は純粋に経済的な側面から立案されたかのように思われているが、核攻撃の被害を分散するという国家安全保障の要求も兼ねていた。
核攻撃を受けても、国家基盤を分散しておけば、ソ連が生き残れる確率は飛躍的に高まるからである。
ソ連全土で都市鉄道の地下化が進んだのもソ連改造計画の時期で、これは交通渋滞解消という意味もあったが、内部は核シェルターとなっていた。
ソ連での鉄道旅行で都市部の景観を楽しむことが殆ど不可能なのは、冷戦時代の名残といえる。
ちなみにソ連の政治首都である札幌には全市民を避難させられるだけの地下鉄駅(核シェルター)が建設されたが、この地下鉄には路線図にはない2号線があると言われている。
札幌地下鉄2号線を発見したのはソ連の鉄道マニア達で、通気口や配電設備の設置位置から逆算して地下鉄2号線のほぼ正確な位置を割り出したが、ソビエト幕府は公式には2号線の存在を認めていない。
地下鉄2号線は大老や幕閣専用と考えられており、最終戦争時は地下にある最高司令部へ避難するために存在すると考えられている。
話が逸れたが、カクウェイ政権が推進したソ連改造計画は、中央アジアやフィリピンに近代化をもたらした。
これらの地域はソ連においても低開発地域として取り残されており、70年代後半でも20世紀初頭とさほど変わらない生活を送っていた。
ソ連改造計画では低開発地域の開発が進められた。
ケースモデルとなったのは、カクウェイの出身地である西比利亜南部のニーガタ地方だった。
ニーガタは非常に乾燥した地域で荒れ地が広がり、点在するオアシスにへばり付くような形で人々が昔ながらの生活を送るソ連が誇るザ・田舎だった。
しかし、カクウェイの出世に伴って次々に鉄道や高速道路、山間を抜けるトンネルなどが建設され、用水パイプが敷設されて大規模な農園が拓かれるなど大きく発展することになった。
こうした利益誘導政治や土建屋政治は後に批判の対象となるのだが、ソ連の未開発地域の生活を向上させたこともまた事実である。
しかし、この手の近代化が必ずしも全て歓迎されたかといえばそうとも限らなかった。
近代化に反発する保守派の巻き返しが世界各地で始まっていた。
最初の衝撃はイランからやってきた。
中央アジアをさらに南下すれば、ソ連の同盟国であるパフラヴィー朝のイラン社会主義王国という赤く染まった立憲君主制社会主義国があった。
イランはソ連の南部に位置するという地政学的な重要性から、1940年代からソ連の援助が入り、ソ連式社会主義体制が続いていた。
アラブ諸国がロシア式社会主義国を採用し、中東戦争を経て軍事独裁体制へと堕ちていったが、イランは中東戦争とは距離を置き、政治のソビエト化を達成して国情は安定していた。
イランではソ連の支援で石油産業の国有化が達成され、さらにソ連から輸入した最新式の採掘・精製施設を導入することで、中東世界で最大の経済力をもつに至った。
ソ連同盟国の優等生とされたイランで、1978年12月に選挙に政権交代がおきた。
新たに政権を担うことになったのは保守派のイスラム政党だった。
世界初のイスラム主義政権が、選挙で誕生したことは大きな波紋を世界に投げかけた。
イスラム法に基づく政治刷新を求める政党が政権交代に成功したのは、イランで石油利権にまつわる汚職が多発していたからである。
同様の事例はソ連でも発生しており、国営企業の腐敗はカクウェイ大老の命取りとなった大疑獄事件(ロッキードの変)の舞台ともなった。
こうした緩みは長期政権によって生じたものであると言える。
永くソ連の政権与党を担ってきた社会党は腐敗し、マンネリズム化して人々から飽きられはじめており、70年代に入ると、変化を求める野党の保守党に追い上げられていた。
地方選挙でも政治改革を求める保守党候補が勝つ例が増えており、連邦議会でも保守党が議席を伸ばして保革伯仲となった。
同様の事例はイギリスでも発生しており、戦後に長期政権を築いた労働党政権が下野して、保守党のヨーグレット・サッチャーが首相となっている。
サッチャーは過激自由主義(西側では新自由主義という)という極端な政治を推し進め、社会保障の大幅な削減や国営企業の私物化、労働者組合の弱体化や所得税、法人税の引き下げといった富裕層優遇政治を行った。
サッチャーは、
「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」
と放言して、ソ連の社会主義を全否定する態度をとったため、英ソ関係は戦後最悪のものとなった。
1980年代には過激自由主義は、リーガノミックスという形でアメリカにも伝播し、21世紀初頭に西側世界を席巻するイデオロギーになるのだが、これは後述する。
ソ連はイランの政権交代には驚いたものの、軍事介入の予定はなかった。
もしも、イスラム勢力が武力で政権奪取を図ったのなら、即時に介入していただろうが、選挙で政権交代が起きたというのならそれは民意というべきだった。
実際にそうした計画が全くなかったわけではなく、ソ連軍の一部にはスペツナズを使った斬首作戦によるクーデタ計画があった。
ただし、カクウェイ大老が待ったをかけたため実行に移されることはなかった。
カクウェイは民意の支持を受けた政権を武力で転覆しても、中国の毛沢東のように決して成功しないと考えていたのである。
イランの新政権もソ連との関係には注意を払っており、イラン国内世論も、ソ連との関係を悪化させることは望んでいなかった。
しかし、中東世界ではソ連とイランの関係が後退したと映った。
これを好機と捉えたのが、イラクの指導者サッダート・フセイン大統領だった。
フセイン大統領は、予てからイラン・イラク国境問題の武力解決の機会を窺っており、イランとソ連の関係後退をその機会と考えたのである。
また、世界初のイスラム主義政権が穏当な選挙で誕生したことは、アラブ世界にとって大きな脅威だった。
何しろアラブ世界の国々は大抵は王朝国家か、軍部独裁国家のどちらかだった。
特に前者の代表であるサウジアラビアは、イランのソビエト政治は脅威でしかなく、しかもイスラム主義政党が選挙で勝つなど、悪夢でしかなかった。
自分達の支配の正当性(サウダイ王家)を存在しているだけで全否定しているのだから、ことは深刻である。
イランはソ連という強大な後ろ盾をもっていたが、イランとソ連が離間したというのなら、それは介入の好機だった。
しかもイランはイスラム世界ではシーア派の大国であり、スンニ派の盟主サウジアラビアとは予てからの宗派争いがあった。
イラクはサウジアラビアとイランの中間地点にあり、国民の過半数はシーア派だったが、フセイン政権を支えるバアス党はスンニ派という捻じれがあった。
イラクでは少数派のスンニ派が権力を得ているのは、サウジアラビアの後援がなければ考えられない話だった。
サウジアラビアはイランからソビエト主義やイスラム主義が拡散することを極度に警戒し、イラクをその防壁にしようとしていた。
サウジアラビアの財政支援や膨大なオイルマネーよって、イラク軍は急速に軍備を拡張していった。
また、イラクの石油欲しさや、外貨獲得のために東西両陣営がイラクに武器を売却し、フセインの野望に手を貸すことになった。
1980年9月23日、イラク空軍の奇襲攻撃でイラン・イラク戦争が始まった。
緒戦は奇襲に成功したイラク軍が大きく前進し、イランは航空戦力の大半を失うなど、窮地に立たされた。
ソ連は即時にイラクの侵略を非難し、軍事顧問団派遣をイランに提案している。
しかし、イランのイスラム政権はソ連軍事顧問団派遣を拒絶した。
イラン軍部は世俗主義を掲げており、イスラム政党の新政権とは折り合いが悪かった。
ここでさらにソ連の軍事顧問団を受け入れた場合、政権を武力で覆されるのではないかという恐怖があったのである。
結果としてイラン政府の戦争指導は支離滅裂となった。
政府が軍部を全く信用していないのだから、当然といえば当然だった。
イラン正規軍の代わりに前線で戦ったのはイラクの独裁者からイスラム政権を守るために立ち上がったイスラム聖戦士だった。
民兵に毛が生えた程度のイスラム聖戦士は宗教的な熱狂により士気は高かったものの突撃以外の戦術を知らず、イラク軍の機甲部隊の前に死体の山を築くばかりだった。
テヘランにまでイラク軍が迫ると杜撰な戦争指導に批判が集中し、イスラム政権は軍部との関係修復を図ると共にソ連に軍事顧問団の派遣を要請した。
ソ連の軍事介入によって、イラン・イラク戦争は中東での米ソの覇権争いという色彩を帯びることになる。
ソ連の介入と同期するかのように、アメリカ合衆国では「強いアメリカ」の再建を訴えてアメリカ合衆国第40代大統領に就任したレオナルド・リーガンによってデタントの時代は終わることになる。
強硬な反共主義のリーガンはソ連との軍事的対決のためにSDI構想を打ち上げると共に、アメリカ海軍の大幅な増強を発表した。
所謂、600隻艦隊構想である。
600隻艦隊構想は質的にも量的にもソ連海軍が対抗不能な艦隊を建設することで、軍事力の優位を確定させる狙いがあった。
アメリカ海軍が大拡張に転じたのは、ソ連海軍の拡張が背後まで迫ったためである。
量的にも拡大が続いていたが、質的向上も著しく、ソ連海軍は悲願であった完全志願制に移行し、練度の低い徴兵海軍からプロフェッショナル集団に転進した。
1973年のソ連海軍の完全志願制への移行は高度な科学技術を用いた装備の運用には、徴集兵ではもはや不可能であるという現実認識の結果だった。
逆にいえばソ連海軍の装備はプロフェッショナルでしか扱えない水準に達していることを意味していた。
リーガン大統領から、
「世界征服を企み化学兵器を撒き散らした悪の帝国」
と名指しされたソ連では1982年の大老選挙で対米強硬派の大曽根康弘が選出された。
大曽根大老はアメリカの挑発を真正面から受けて立ち、ミサイル戦艦8隻と航空母艦8隻を中核とする八八艦隊構想を発表し、
「京都に原子爆弾を投下したアメリカこそ悪の帝国である」
とテレビ演説を行って一歩も引かない姿勢を国民に示し、支持を訴えた。
二人の特異な個性を持つ指導者の登場によって、米ソ冷戦は最後の夏を迎えることになった。