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冷戦のホットスポット

冷戦のホットスポット


 世界を二分して続く米ソの政治的対立を冷戦と呼ぶ。

 人々はいつ冷たい戦争が熱核戦争に切り替わるのか、不安に感じながらも明日にも滅びるかもしれない世界で日々を過ごしていた。

 そうした不安は、1962年の10月のキューバ危機で頂点に達したが、人類絶滅戦争は回避された。

 しかし、それで米ソの対立が解消に向かうかといえば、それほど単純な話ではなかった。

 欧州においては、キューバ危機以降もNATO軍とОВД軍が睨みを続けていた。

 NATO軍の主力は米軍で、ОВД軍の主力はロシア軍だった。

 欧州の東西対立にソ連は基本的に傍観者的な態度をとっていた。

 東欧の盟主として振る舞いたいロシアとしては、ソ連に出しゃばってもらっては困るので、何かと理由をつけてソ連を欧州から遠ざけようとしていた。

 また、ソ連もロシアの非ソビエト的な態度に愛想を尽かしており、積極的に助けようとはしなかった。

 露ソは表面上は友好を装っていたが、関係は冷え切っていた。 

 なにしろ戦後ロシアは、社会主義の革を被った軍部独裁国家となっていた。

 1954年にレフ・トロツキーが死去するとその後釜に座ったのは、大戦の英雄ミハイル・トゥハチェフスキー元帥だった。

 ロシア最高評議会議長の就任したトゥハチェフスキーは、最高評議会のメンバーを次々と軍人に入れ替えていった。

 トロツキー時代の最高評議会のメンバーは8割が政治家(文民)だったが、トゥハチェフスキー時代には8割が軍人となり、もはや最高評議会=軍部という状態となった。

 ロシア共産党は軍部の事実上のクーデターに対して有効な手をうつことができず、次々に幹部が逮捕投獄されて、すっかり骨抜きとなってしまった。

 1955年にはロシア赤軍は、正式名称をロシア軍に変更した。

 以後、ロシアの国家軍という位置づけとなり、共産党の私設軍隊という歴史と決別することなる。

 既に高齢だったトゥハチェフスキーは、4年で最高評議会議長の座を降りたが、トゥハチェフスキーが敷いた軍国主義のレールは既に十分機能していた。

 後任のジューコフ元帥は膨大な量の通常兵器配備と核兵器製造に国家予算の6割を投じるなど、軍事偏重政策を推し進めていくことになる。

 同時期の二木田フルシチョフ大老が、あの手この手で軍事費を国家予算の20%に抑え込んだことを考えれば、ロシアの軍事偏重は明らかに異常だった。

 ちなみにアメリカ合衆国も状況は似たようなもので、1948年の大統領選挙で大戦の英雄ダグラス・マッカーサーが大統領に就任すると第2次中華南北戦争を経て、ほとんど戦時体制同然の軍事予算が組まれるようになっていた。

 1954年のアメリカの国家予算の軍事費が占める割合は、なんと7割に達している。

 その後も5~6割が軍事費という状態が続き、ソ連と同レベルになるのは1970年代末のことである。

 軍産複合体という国家を操る影の政府が民主主義の真剣な脅威と認識されるようになったのも同時代である。

 ロシアとアメリカは同じ穴のムジナだったと言えるだろう。

 ソ連も米露と同じ道を歩んでも不思議ではなかった。

 実際のところ、第2次世界大戦で大量に発生したソ連邦英雄達は、戦後の軍縮に強硬に抵抗していた。

 軍縮が成功したのは岡田真純大老の絶大な政治手腕に依るところが大きかった。

 岡田大老は、ソビエト幕府が軍国主義に陥る危険性を察知して、軍部に対しては厳しい態度で臨んだ。

 第2次中華南北戦争を処理した有畑大老時代には再び軍事費は増加したが、フルシチョフ大老時代に締め付けが行われた。

 民意の支持をとりつけた軍部が暴走してシビリアンコントロールが失われることを岡田大老やフルシチョフ大老は心底、恐れていた。 

 言葉の意味上では軍事政権であるソビエト幕府でシビリアンコントロールというのも奇妙な話だが、武の化身(徳川信忠)をトップにかかえているソビエト幕府にとって、シビリアンコントロールの維持は切実な問題だった。

 幕府という軍事政権であるからこそ、逆説的にシビリアンコントロールに神経質にならざるえなかったと言えるだろう。

 しかしながら、国家社会主義神道やソビエト現人神についてはもはやどうにもならず、神に等しい権力を持っていた岡田大老でさえ、


「どうかなにもしないでくれ」


 と祈って祭り奉るしかなかった。

 荒神の鎮め方としては、それが最適解なのだが、話が逸れるのでここでは記述しない。

 岡田時代やフルシチョフ時代に軍部をしっかりと首輪につなげたことが、戦後ソ連経済の健全な発展につながったことを考えれば、二人の功績はとてつもなく大きいと言える。

 また、皮肉な話だが、近代軍国主義発祥の地であるプロイセンを擁するドイツ民主共和国は、ロシアから全く信用されず国土防衛に必要最小限の軍備しか許されなかったことから、却って軽軍備となって経済が好調になり、欧州随一の経済大国となった。

 スペインやイタリアといった欧州の農業国だった地域でも戦時中にドイツから疎開した工場を受けいれたことで、戦後に工業化が進んだ。

 スペインではフランコ政権下で高度経済成長を経験し、


「日はまた昇る」


 という言葉どおりに、スペインは第二の黄金時代を迎えることになるのだが、それはまた後述する。

 一触即発の緊張が続く欧州正面と同様にアジアもまた緊張が続いていた。

 最も緊張の度合いが高いのは南北中国国境地帯で、1953年の停戦以来、黄河を挟んで睨み合いが続いていた。

 軍事力に関しては、南中国(創華国)が優勢だった。

 元々、中国は江南の力が強く、上海や香港を擁する南中国は西側経済に組み込まれて、急速に復興が進んだ。

 西側諸国は南中国を国家承認すると続々と企業を進出させ、中華市場に復帰したのである。

 特に中国市場に入れ込んだのはアメリカで、南中国に多額の財政支援を行っている。

 アメリカからの援助金はそのままアメリカからの武器輸入費として使われ、黄河に沿って多数のアメリカ製戦車や戦闘機が配備されることになる。

 対する北中国(中華人民共和国)は、停戦後に政変があり毛沢東はロシアへ亡命した。

 亡命というよりは事実上の国外追放だった。

 国家統一の英雄が、国家分裂の責任を負って国外追放されるというのは皮肉な話である。

 しかし、毛沢東の野心的な大躍進政策さえなければ、統一中華はアジアの大国として、ソ連の軛から逃れて、アメリカに匹敵する超大国にもなりえた可能性もあった。

 その芽を潰した毛沢東が死刑にされなかったのは、中華世界が示した統一英雄への最後の温情なのかもしれなかった。

 毛沢東追放後、中国共産党は分裂し、社会党と共産党に割れた。

 社会党を率いることになった鄧昇平は、政治のソビエト化を宣言し、1956年には総選挙が実施され、北中国に民主主義が復活することになる。

 選挙に敗れた共産党は少数野党に転落した。

 ちなみに毛沢東の追放後に共産党を指導した周恩来は、鄧昇平から社会党への移籍を打診されていた。

 彼にはその資格があったし、政治手腕も十分だった。

 しかし、


「彼が帰ってきたときに、共産党がないと寂しいだろう」


 と言われては、鄧昇平と言えども諦めるしかなかった。

 その毛沢東は1970年に失意のままモスクワで客死し、周恩来も1976年に毛沢東と再会することなく亡くなっている。

 鄧昇平は毛沢東の悪政と第2次中華南北戦争で滅茶苦茶になった北中国の経済を復興させるためにソ連に接近した。

 西側に接近するという選択肢もあったのだが、その場合は南中国に併合されるのが目に見えていたため不可能だった。

 北中国は自らソ連の軛に繋がれるしかなかったのである。

 鄧昇平は毛沢東の大躍進政策に近いロシア型社会主義ではなく、ソ連型の漸進的な社会主義を中国に導入すべきと考えた。

 鄧昇平の手腕によって、北中国は徐々に小康社会を取り戻していくことになる。

 同時期のソ連の指導者イェルマーク・サトウツカヤ大老は、北中国の転身を歓迎して多額の対中政府開発支援を行って北中国近代化を助けた。

 こうした援助外交は中国のみならずアジア各地で行われており、インドネシアやマレーシア、インドシナ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、西蔵、朝鮮や遠いアフリカ諸国もソ連からの援助を受け取っている。

 こうした政府開発援助は政治的/経済的な効果を狙ったものだが、第2次世界大戦におけるソ連の悪評を少しでも払拭するという意味もあった。

 やむにやまれず行ったこととはいえ、化学兵器や生物兵器を躊躇なく使用したことは、ソ連国内でもやりすぎたという反省があり、外交上の大きな失点であると考えられた。

 何をするか分(ケミカル・)からない危険な国家(バイオレット)などという悪評は払拭されるべきであった。

 多額のODAをつぎ込んだ結果は良好で、1970年代になると東側世界においては素朴な親ソ感情が育まれ、ソ連の悪評は殆ど払拭されることになった。

 もともと事大主義が強い朝鮮半島などは、気持ち悪いぐらいに親ソ国家となり、自らソ連加盟を望む国民運動が展開された。

 その先頭に立った金日生は、


「朝鮮半島はソ連によって統治されることで、初めて永久に生き延びられる」


 と自らの主権を全否定する演説をしてソ連世論を困惑させた。

 ソ連邦の構成国は基本的に江戸幕府の藩国か植民地だった地域であり、朝鮮半島はそのどちらでもなかった。

 最終的に北中国が朝鮮のソ連加盟に難色を示したことや、ソ連に利益もないことから朝鮮のソ連加盟は見送られた。

 東南アジア諸国の大半は、ソ連によって欧米の植民地支配から解放されて独立した国で、アジアにおける東側ブロックを形勢した。

 場合によっては大東亜共栄圏などといった表記もされることがある。

 ソ連主催の大東亜会議は1943年から連綿と続く由緒ある国際会議に成長した。

 21世紀現在でも毎年1回必ず開催され、アジア各国首脳がアジアの国際問題を議論する場として機能している。

 冷戦中において大東亜会議は基本的に対南中国封じ込め戦略を話し合う場だった。

 南中国に対するソ連の戦略は包囲網による封じ込めで、巨大な南中国を社会主義諸国で包囲することだった。

 NATOとОВДに二分された欧州とは異なり、アジアにおける社会主義陣営は圧倒的に優勢で、南中国は戦略的に孤立していた。

 ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア大統領の言葉を借りれば、


「南中国はアジアにおける資本主義のアラモ砦」


 ということになる。

 最終的にアラモ砦で陥落したことを考えると実に示唆的な発言であると言える。

 冷戦中、アメリカは多額の財政支援を行って南中国を支援したのは、そうしなければ南中国が東側に飲み込まれてしまうという恐怖があった。

 また、南中国も戦略的に包囲されている状況に危機感を抱いており、包囲網の打破を狙っていた。

 それが、ビルマにおける戦争へと結びついていくことになる。

 南中国がビルマに勢力浸透を図ったのは、ビルマが分裂状態にあり、自陣営に取り込み易い要素が揃っていたためである。

 また、ビルマの良港であるラングーンを確保することで、マラッカ海峡を通過せずに中東からの石油輸入が可能になるという目算があった。

 マラッカ海峡は999年シンガポールを租借しているソ連の厳重な監視下にあり、有事の際には機雷や地対艦ミサイルによって封鎖されることが確実だった。

 ソ連海軍は有事に南中国沿岸を機雷で封鎖する計画を立て、せっせと台湾や呂宋島に機雷と地対艦ミサイルを集積していた。

 戦略的要衝にあたる尖閣諸島などは、島の岩山をくり抜いて地対艦ミサイルが配備され、要塞島として一般人は立ち入り禁止となっている。

 ソ連は本州から沖縄、台湾、呂宋島、シンガポールのラインを第一列島線と名付け、各地に航空基地と地対艦ミサイル、中距離弾道弾などを配備した。

 本州は多数の航空基地を擁する不沈空母という位置づけだった。

 第一列島線はソ連の絶対国防圏であり、このラインでアメリカ海軍を食い止めることが戦後ソ連海軍の目標になった。

 また、同時に第一列島線は南中国の封鎖を意図しており、前述のとおり台湾や呂宋は南中国の喉元に突きつけられたナイフといえた。

 実際のところ、その気になればソ連はいつでも南中国経済を枯らすことができるのだった。

 文字通り四面楚歌の南中国が包囲網突破を画策してビルマに進出したのは、1958年のことである。

 ビルマにおける南中国のパートナーは、中国国民党残党(KMT/NRA)だった。

 ビルマは1942年5月に南部がソ連軍によって解放されたが、同年12月に蒋介石が降伏するまで国民党軍の占領下にあった。

 ソ連軍が国民党軍を徹底的に掃討しなかったのは、援蒋ルートさえ断てば枯れる軍隊だったからである。

 また、ビルマ北部のジャングル、山岳地帯は近代戦争をするには最悪の場所で、ソ連軍はそのような場所で戦争をする気はさらさらなかったし、その余裕もなかった。

 当時のソ連軍は殆ど兵力を欧州に派遣しており、ビルマの戦争は巨大な戦争計画のごく一部でしかなかった。

 労力と犠牲ばかりが多い掃討戦などしなくても、ビルマのジャングルとマラリアがやっかいな国民党残党を始末してくれるはずだった。

 ソ連の思惑が、ビルマの歴史にとって不幸となった。

 1942年12月に蒋介石が降伏しても、軍事力を残していた北ビルマの国民党軍はそのまま同地に居座ることになったからである。

 KMT/NRAは、北部の山岳地帯で麻薬(ケシ栽培)製造に乗り出し、それを資金源に、あとからやってきた中華ソビエトに抵抗を続けることになった。

 KMT/NRAの麻薬製造にはアメリカのCIAも一枚噛んでおり、彼らの秘密工作資金源にもなっていた。

 中華ソビエト軍による掃討作戦が何度か行われたのだが、大躍進政策による経済混乱もあり、全て失敗に終わった。

 新興国のビルマ軍だけではジャングルの深い山岳地帯で掃討戦を行うことは不可能で、ビルマ北部は政府の支配が及ばない無法地帯となってしまった。

 ビルマ北部はアジア最大の麻薬工場になったのである。

 中華世界が再び割れると南中国は新たな盟友としてKMT/NRAに接近した。

 また、国内の民族対立が創華学会の浸透を容易なものとした。

 ビルマは国民の6割がビルマ人で、残りのカチン、チン、カレン人に分かれる多民族国家であった。

 独立後のビルマでは、多数派のビルマ人が社会の主要なポストを占めており、非主流派民族は僻地に押し込まれて不満が溜まっていた。

 特にカレン人はビルマからの分離独立を求めて、武力闘争路線を選択したことから、ビルマ政府から弾圧された。

 民族対立には宗教問題も絡んでおり状況をより複雑なものとした。

 ビルマ人の主要な信仰は仏教だったが、カチン、チン、カレン人ではキリスト教の信仰が盛んで、キリスト教の亜種である創華学会とは親和性があった。

 非主流派民族の独立派と国民党残党(KMT/NRA)の麻薬ビジネス、さらに南中国の思惑が重なった結果、ビルマ創華戦線が誕生することになる。

 アメリカ合衆国はCIAを通じてアメリカ軍の秘密部隊をビルマに送り込み、兵員教育と兵器供与を行った。

 アメリカの支援でビルマ創華戦線は急速に軍事力を拡大し、ビルマ軍を圧倒するほどになった。

 1958年には数百人規模だったアメリカの軍事顧問団も、1963年には16,000人まで拡大し、戦車や戦闘機を装備する実質的な正規軍に発展した。

 所謂、北ビルマ軍事援助司令部(MACB)である。

 戦況は当初、ビルマ創華戦線が優勢だった。

 1963年までにビルマ創華戦線はビルマの中心都市であるマンダレーを陥落させ、暫定首都にした。

 創華学会は狂信的な学会員をビルマに送り込んで布教活動にあたらせた。

 ちなみに創華学会の布教活動は、基本的に「折伏」と呼ばれる相手を論破して、無理やり信仰を押し付けるやり方で行われる。

 これに武力が加わると布教活動とは名ばかりの破壊活動となる。

 マンダレーでは伝統的なビルマ仏教の寺院がダイナマイトで破壊され、跡地には創華学会の文化会館が建設された。

 仏僧が武装した学会員によって寺院から引きずり出され、創華学会への改宗を強要された。

 拒否した僧は容赦なく「浄化」された。

 尼僧も浄化の対象で、各地で学会員による性的暴行が行われた。学会員への奉仕や改宗を拒んだ場合は、容赦なく「折伏」か、「浄化」が行われた。

 創華学会にとって、他の宗教は全て「謗法」であり、抹殺の対象でしかなかった。

 これは南中国国内でも同様であり、中国の伝統的な道教寺院は全て破壊され、跡地には創華学会の文化会館が建てられるなど、創華国の宗教政策は徹底していた。

 ラジオやテレビ放送も厳しく統制されており、創華学会を批判することは許されなかった。

 創華国においては新聞社は一社しかなく、政府公認の聖教新聞しかなかった。

 聖教新聞は発行部数3,500万部を達成した世界最大の新聞としてギネスブックに乗ることになったが、政府の統制と南中国の人口を考えればこの数字は当然のことといえた。

 記事は教祖の成大柞と創華学会を礼賛し、ソ連や共産主義を悪しざまに罵る内容で埋め尽くされており、ソ連のアナリストはロシアのイズベスチヤのコピーと判定している。

 話をビルマ戦争に戻すと、仏教徒が大多数を占めるビルマ人からは創華学会は蛇蝎のごとく嫌われ、全土で抵抗運動の嵐が吹き荒れることになった。

 西比利亜における最大宗派の氷土宗も、法難宣言を打ち出しビルマ仏教の危機を訴えて、ソ連の軍事介入を支持した。

 1965年に社会党の政変で軍事介入に消極的だったフルシチョフ大老が失脚すると後任のサトウツカヤ大老はソ連軍をビルマに派遣した。

 ソ連の軍事介入の初期段階で重視されたのは、ラングーンの防空だった。

 ラングーンはビルマ政府の首都であり、同時にビルマ最大の港湾都市でもある。

 ビルマ創華戦線空軍(実態としてはアメリカ軍と南中国空軍)は、ソ連軍の流入を阻止するためにラングーンの港を激しく爆撃した。

 これに対抗するために、ソ連は対空火器を大量配備した。

 特に効果的だったのは、C-75防空コンプレックスだった。

 ソ連空軍は大戦末期の本州防空戦の経験から、アメリカ軍の戦略爆撃機を迎撃するために長射程の高高度防空地対空誘導弾の開発に熱心に取り組んだ。

 C-75のNATOコードはSA-2ガイドラインとなる。

 ソ連が開発した地対空ミサイルの大半は、C-75によって培われた技術が基礎となっており、まさに対空ミサイルのガイドラインというべきだろう。

 C-75は東側各国に採用され、21世紀現在でもいくつかの地域では運用が続く息の長い兵器となった。

 ちなみにロシアも防空兵器の開発には熱心だが、どちらかというと戦術的な、戦域防空に注力する傾向があり、ソ連とロシアは技術交換や共同開発体制を構築して棲み分けを図っている。

 C-75は高高度を飛行する戦略爆撃機を迎撃するミサイルであるため、ビルマ創華軍機(F-86の南中国ライセンス生産機)にはなかなか命中しなかった。

 しかし、対空ミサイルが発射されたら回避せざるをえず、敵機に爆弾を捨てさせて爆撃任務を失敗させる効果があった。

 さらにミサイルを回避するために低空飛行をすれば、対空砲の弾幕が待ち構えており、ラングーン空襲は危険になった。

 アメリカ軍はより高性能なF-105を投入したが、結果は同じだった。

 ソ連の強固な対空防衛網に直面したアメリカ軍は、電子妨害やワイルドウィーゼルといった新戦術で対抗したが、それ自体が膨大なリソースを消耗させることとなり、空襲の効率を低下させた。

 ラングーンの安全を確保したソ連軍は戦闘機部隊を展開し、南部ビルマの制空権を奪還した。

 主力となったのは、ソ連製のHr15Bisやロシア製のMig-17やMig-19といった機材だった。

 ロシア製のミグ戦闘機は性能の割に構造が単純で運動性が高く、しかも安価であったことから技術交換でソ連空軍にも採用された。

 地対空ミサイルと同じく、ロシアは戦闘機開発でも戦域防空や局地防空を重視する傾向にあり、ロシア製の戦闘機は航続距離が短く、前線での過酷な運用に耐えることが求められた。

 反対にソ連は直接、国境で敵対勢力と接していないため、時間に余裕があることや広大な国土を守るために戦略防空のための高性能で大型の戦闘機を開発した。 

 ビルマ戦争のような局地戦争では、ロシア製のミグ戦闘機が活躍し、新鋭機のMig-21が米軍機を圧倒した。

 Migー21はコストパフォーマンスの高さからソ連空軍にも採用され、ビルマ戦争を代表する戦闘機となった。

 Mig-21は基本的に戦域防空用の局地迎撃戦闘機なのだが、ソ連空軍のベテランパイロットによって操られた場合、恐るべき格闘戦戦闘機となった。

 前述のF-105は21世紀現在においてもアメリカ空軍最大の単発戦闘機で、小型軽量のMig-21と格闘戦に入って勝てるような機体ではなかった。

 格闘戦でMig-21に勝てる西側戦闘機はフランスの誇るミラージュ戦闘機か、アメリカ空軍の場合はF-16の登場を待つことになる。

 ただし、Mig-21にも弱点はあり、機首インテークのために大型レーダーが搭載できず、索敵能力やBVR戦闘能力に欠けていた。

 そこでソ連空軍はMig-21に中距離空対空誘導弾運用能力を付与するため、改造型のMig-21Bisをロシアと共同開発している。

 挿絵(By みてみん)

 機首のエアインテークを機首下部に移設し、大型レーダーを収めるレードムを機首配置したソ連製のMig-21Bisはロシア空軍ではペトルーシュカと呼ばれた。

 ペトルーシュカとはロシア版のピノキオのことである。

 ソ連軍戦闘機部隊と対決することになったアメリカ空軍機や南中国軍機は、次々に撃墜され大損害を被った。

 戦闘機のくせに爆弾倉を持つF-105などは鈍重すぎてまるで話にならなかった。

 F-104はさらに評価が低く、いったい何のために存在するのか分からないとまで酷評されている。ただし、F-104は航空基地への低空高速侵入爆撃に使用されるようになると評価が一変して危険な敵と認識されるようになった。

 空中戦で評価が高いのは南中国空軍のF-86で、亜音速機であるものの高い運動性によってマッハ2級のMig-21を撃墜する活躍を見せている。

 旧式機のF-86の意外な活躍や最新鋭のF-105やFー104の不振に驚いたアメリカ空軍はエネルギー空中戦理論に基づくF-15やF-16を生み出すことになるのだが、それは少し先の話となる。

 当座はアメリカ海軍機のF-4ファントムⅡにすがるしかなく、空母から下りた米海軍航空隊がビルマへと送られた。

 F-4ファントムⅡはアメリカ海軍が艦隊をソ連海軍の陸上攻撃機から守るために開発した艦隊防空戦闘機だった。

 8発の空対空誘導弾や最大8tも爆装できるF-4の投入によって、アメリカ軍はようやくまともに戦える状況となった。

 特にビルマ創華戦線が守勢に回った1968年以後は、防空に専念するF-4は持ち味を生かして戦えるようになり、ソ連軍機は苦戦を強いられた。

 GCIの誘導を受け、高高度で敵機を待ち伏せてBVR戦闘をしかけるF-4は強敵だった。

 ビルマ戦争後期に、ソ連がF-4に対抗して投入したのが、Hr20となる。

 Hr20は実用化されたソ連初の可変後退翼戦闘機である。

 挿絵(By みてみん)

 可変翼はアメリカ軍も研究していた技術で、ほぼ同時期にF-111を実用化してビルマに派遣している。

 F-111が戦闘爆撃機とは名ばかりの爆撃機であったのに対して、Hr20は純粋な戦闘機として設計開発された。

 両者の対決は1968年11月3日で、爆撃任務中のF-111をHr20が迎撃し、F-111は1機を撃墜されている。

 両者はデジタルコンピューター制御による可変翼やアフターバーナー付きのターボファンエンジンなど、似通った技術を用いながらも全く別の機体に仕上がっており、背景となる組織によって明暗が分かれることになった。

 ただし、F-111は戦術爆撃機として用いるなら優秀な機体で、戦争末期に投入された改良型の運用成績は高かった。

 F-111の活躍に触発されたソ連空軍ではHr20の地上攻撃機型のHr22を開発し、ロシア軍では非常によく似たSu-24を実用化している。

 アメリカ軍はF-111のデータを流用したF-14の実戦投入を急いだが間に合わず、F-4を主力として戦うしかなかった。

 Hr20とF-4の対決は、Hr20に軍配が上がり、目視外距離でのミサイル戦では互角で、有視界の格闘戦ではHr20に分があった。

 とくに加速性能でHr20が勝っており、低空での戦いはF-4を圧倒した。

 制空権を確保するとソ連軍は航空支援を受けつつ北上したが、ビルマ創華戦線はゲリラ戦に転じてソ連軍を苦しめた。

 ソ連は基本的に第2次世界大戦の経験を基にした軍隊で、特にヨーロッパでの戦いを意識した軍隊だった。

 よって湿度100%のジャングルや山岳地帯での戦いは考慮されていなかった。

 さらに大規模な正規戦向けの装備や戦術しかなく、ゲリラ戦のような非正規戦は最も不得手とするところと言えた。

 一撃離脱を繰り返して密林や人民の海に隠れるゲリラ相手に、ソ連軍は泥沼の戦いを強いられたのである。

 それがソ連軍にとって致命傷とならなかったのは、同盟国に恵まれていたからと言える。

 同盟国のインドネシア軍やインドシナ連邦軍はジャングル戦に長けており、ビルマでの戦いに大きな役割を果たした。

 インドシナ連邦軍の指揮官ボー・ブ・サップ将軍は、インドシナ連邦の赤いナポレオンとまで謳われた名将で、ソ連軍に対しても対等の立場で意見することができた。

 初期のソ連軍の戦いは、圧倒的な大火力と機械化部隊を投入した衝撃作戦で、ビルマ創華戦線のゲリラの居場所を掴むと高速で一撃離脱し、損害を避けるためすぐ撤退する方針だった。

 現場では、これはモグラ叩き作戦と呼ばれていた。

 どれだけ叩いても次々とゲリラが湧き出てくるため、正真正銘のモグラ叩きだった。

 サップ将軍が提案したのは、モグラを叩いてもすぐに撤退せず、完全に制圧したと判断するまで兵力を貼り付けて制圧を続けるというものだった。

 また、旧来的な意味で戦線を構築できなくとも、包囲殲滅戦は可能であるとして、独自にインドシナ連邦軍を率いて対ゲリラ戦をいくつも成功させた。

 こうした戦いかたは海軍の対潜水艦戦(ASW)に近い考え方で、いち早くサップ将軍の提案を取り入れた海軍歩兵はジャングル戦で大いに活躍することになった。

 海軍歩兵の手に握られたAK突撃銃はジャングル戦において、頼りになる相棒として絶賛された。

 ジャングルの泥に浸かり、グリスが切れて、砂に埋まっていても、戦車に踏まれてもなお確実に動作するAK-47を設計したのはソ連の銃器デザイナー、ミハイル・ティマフェービッチ・カラシレンコンだった。

 カラシレンコンは第2次世界大戦に従軍した戦車部隊の指揮官で、自身の戦争体験から銃器開発に興味を示し、戦後に銃器デザイナーとしての職を得た。

 欧州の最前線で戦った経験から、カラシレンコンは信頼性が高く、連射が可能な自動式小銃がソ連軍には欠けていることを痛感した。

 戦時中のソ連軍にも連射が可能な自動式小銃はなかった。

 ソ連軍の7.62mm弾はロシア帝国軍の7.62mmR弾を自動式火器に使用できるようにリムレス化したもので、機関銃に使用するには最適だったが威力が高すぎた。

 ソ連製の自動式小銃はフルオート射撃をすると制御不能になるため、セミオート射撃専門となり、弾着修正が楽なことから狙撃銃として使用されるに留まった。

 アメリカ軍のM1ガーランドも似たような理由でセミオート射撃が専門だったが、大戦後半からアサルト・ライフルという新兵器を使用するようになった。

 世界初のアサルトライフルを開発したのはアメリカに疎開したドイツ帝国のへーネル社のヒューゴ・シュマイザー技師だった。

 シュマイザー技師はM1カービン向けの.30カービン弾を使用したフルオート射撃が可能でプレス加工を多用した生産性の高い新式軽小銃を完成させた。

 この小銃はヒトラーから戦意高揚のためにシュツルム・ゲヴェーアの名を贈られ、そのまま英訳されてアサルト・ライフルと呼ばれるジャンルを確立することになる。

 制式名称は、M3シュマイザーである。

 300m以内の命中精度と近接戦の掃射性能を両立したM3はアメリカ軍で広く用いられ、ソ連軍に衝撃を与えた。

 ただし、M3は使用弾薬の.30カービン弾が威力に欠けていることから、アメリカ軍上層部は高性能なサブマシンガン程度にしか考えておらず、機関銃用の弾薬が使えるM14を採用することになった。

 これはビルマ戦争で完全な失敗であることが判明し、ビルマに派遣された米兵は旧式のはずのM3シュマイザーを倉庫からひっぱりだして使う羽目になった。

 M3シュマイザーの革新性を正しく評価したのはソ連軍である。

 1946年に、既存のボルトアクション式ライフルを置き換える目的で、新式の6.5mm弾を使用した銃器トライアルが実施された。

 新6.5mm弾は江戸時代の幕府陸軍が使用した弾薬で、本州弾と呼ばれたものを近代化改修したものである。

 7.62mm弾に比べると威力や射程距離は低いが、その分だけ連射時の反動制御が容易になることや、小口径化で携行弾薬が増えるというメリットがあった。

 このトライアルでカラシレンコンの提出した試作突撃銃が勝利し、1947年にはソ連の主力小銃となった。

 AK-47突撃銃は、ロシアや東欧諸国、アジア諸国に広く輸出された。

 生産数は世界一であり、M16やFALに並ぶ世界三大突撃銃の一角を占める。

 AK-47は1959年に改良型のAKMとなっており、ビルマ戦争にも投入されている。

 AKはその完成度の高さから、動作機構や使用弾薬が変更されることなく、強化プラスチックなどで軽量化を施されつつ、基礎はそのまま状態で21世紀現在も運用が続いている。

 カラシレンコンは、AK-47の開発とその功績でソ連邦労働英雄を2回受勲し、様々な特許を取得したことから、カラシレンコン長者となった。

 しかし、後に自身が設計した銃火器がテロや地域紛争、組織犯罪に使用される状況に心を痛め、カラシレンコン財団を設立して戦争難民や銃器犯罪の被害者遺族への奨学金給付事業を行うようになった。

 話をビルマ戦争に戻すと、海軍歩兵の成功を見たソ連陸軍もサップ将軍の提案を受け入れ、歩兵戦闘の抜本的な見直しを実施した。

 ソ連軍が戦術を変えると徐々に戦局は挽回に向かった。

 体制を立て直したビルマ軍とソ連軍は徐々にビルマ創華戦線の暫定首都マンダレーに迫った。

 マンダレー攻防戦はビルマ戦争最大の激戦で、創華学会の狂信学会員が退去勧告に従わずに街に立て籠もって徹底抗戦したため悲惨な市街戦となった。

 この戦いでは、少年少女の学会員までもが人間爆弾としてソ連軍に立ちはだかった。

 ソ連軍の中には戦争神経症を患って後送されるものが相次ぎ、戦争におけるメンタルケアの重要性が広く認識されるきっかけとなった。

 こうした状況に胸を痛めたソ連の医学博士アナトリー・パブロヴィッチ・ボルガはボランティアとして、最前線で洗脳状態の少年少女学会員の救出活動に奔走した。

 家族から引き離された上で、外界から孤立した文化会館で麻薬物質を利用して少年少女をトランス状態にして洗脳する創華学会の布教活動の実態や、学会員による少女兵達へのレイプの実態を告発するボルガ・レポートは世界の衝撃を与えることになる。

 なお、ボルガ博士は1969年に救助した少年兵の自爆テロによって死去した。

 件の少年兵は


「ボルガ博士、お許しください!」


 という叫びと共に自爆したと言われてる。

 全くもって戦争は悲惨である。

 市街地のような閉所では、戦車は対戦車火器の接近を許しやすくなり、アメリカ製のM72ロケット弾が猛威を発揮した。

 ロシアのT-54をライセンス生産したソ連軍のT-55は次々に撃破されたことから、慌てて車体や砲塔に土嚢やマットスプリングなどを積んでHEAT兵器対策を施した。

 ロシア製の戦車は小型軽量で安価という利点があったが、中東戦争でもイスラエル軍のM48やセンチュリオン戦車相手に惨敗するなど、兵員の練度を差し引いても欠点が目立った。

 ビルマ戦争でも軽量故にジャングル内の戦いでは重宝したが、対戦車火器の発展に対応しきれてない実態が浮かび上がり、ソ連の戦車開発に大きな影響を与えた。

 ソ連軍は苦労しながらも市街地に潜んでいる学会員を掃討しながら前進し、1969年7月11日にマンダレーの制圧に成功した。

 ビルマ創華戦線は首都を北部のミッチーナへ移転させたが、ビルマ中央に位置するマンダレーを失ったことで支配領域を2分されたため、急速に勢力が衰えた。

 さらにソ連軍はビルマ創華戦線の資金源になっている麻薬製造を止めるために、ケシ畑に枯葉剤散布を行った。

 枯葉剤散布によって、ビルマ北部における麻薬産業は壊滅的な打撃を受けた。

 ただし、枯葉剤に含まれるダイオキシンによって深刻な健康被害が発生したため、後にソ連は戦時賠償に応じて医療支援を行うことになる。

 ソ連軍は特殊部隊を投入し長距離潜入作戦を行って、ビルマ各地にあった麻薬工場を特定し、空爆で破壊していった。

 ソ連軍特殊部隊の活躍はめざましく、キルレシオは1対100にも達した。

 ちなみにソ連における特殊部隊スペツナズという語句は、「SAS」(イギリス陸軍)、「USASFG」(アメリカ陸軍特殊部隊群)などとは異なり、特定の部隊を指す語ではないので注意を要する。

 ビルマ戦争で活躍したスペツナズは、ソ連軍参謀本部情報総局に所属するGRUスペツナズである。

 9個旅団からなるGRUスペツナズは、輪番制でビルマに派遣され、常時1個旅団が様々な特殊作戦を実施した。

 この中でも映画になるほどの活躍を示したのが、山猫部隊であろう。

 山岳戦の訓練を積んだ山猫部隊は僅か1個中隊でありながら、ビルマの山岳地帯を縦横無尽に踏破して大戦果を挙げた。

 浸透中のビルマ創華戦線の1個連隊を捕捉すると10倍の戦力差を物ともせず夜襲によってこれを撃滅するなど、特筆すべき戦果を挙げている。

 スペツナズのキルレシオは1対100と述べたが、山猫部隊に限っては1対255という極端な数字になっており、戦争期間中に戦死した隊員は僅か3名だけという驚異的な記録を残している。

 ソ連軍において、”親衛”という名誉称号を与えられるのは概ね連隊以上となっており、山猫部隊は中隊で”親衛”の称号を与えれた唯一の例となっている。

 ちなみに中隊長はリボルバー拳銃と早打ちの名手と知られており、革命的な速度でリロードを行うことができた。

 もちろん何のタクティカルアドバンテージもないのは言うまでもない。

 話が逸れたが、1970年までにビルマ全土がビルマ軍及びソ連軍とその同盟軍によって制圧された。

 以後はパリでの和平交渉が2年に渡って続くことになる。

 麻薬産業が壊滅状態になったKMT/NRAはもはや死に体で、南中国も相次ぐ敗戦に意気消沈していた。

 特に南中国では、戦争期間中に派遣された兵士の間で麻薬汚染が深刻化し、国内にもビルマ産のアヘンが流入するなど、深刻な社会問題となった。

 アヘン汚染がここまで急速に南中国に広まったのは、CIAが軍資金獲得のためにビルマ産のアヘンを民間で流通させたためである。

 南中国において、今日ではビルマ戦争は阿片戦争と呼称されるほど、南中国の社会に深刻な傷跡を残した。

 南中国包囲網の打破という戦略目標も達成できなかったばかりか、戦時中に肥大化した軍備が南中国の経済に対する重しとなり、南中国の社会は深刻な停滞へと沈んでいくことになる。

 アメリカも同様にこの戦争で大きく傷つくことになった。

 大量の航空兵力を派遣し、膨大な軍事支援を与えたにも関わらずビルマでの戦争に勝てなかったことに国内世論は騒然となった。

 さらにビルマ国内で行われていた創華学会による異教徒弾圧や仏教徒への虐殺が明らかになると政府の責任を問う声が高まった。

 激化する反戦平和運動を受けて、アメリカ政府は世論の支持を失った。

 大きな盛り上がりを見せたアメリカの平和主義運動や黒人の公民権運動の影にはソ連のスパイ組織があり、政治的にアメリカ政府を追い詰めた。

 共和党のオズワルド・ニクソン大統領はビルマ戦争の関与を段階的に撤退させ、パリでの和平交渉を全面的に支持する方針を打ち出した。

 パリでの停戦条約が結ばれたのは、1971年1月23日である。

 あくまでビルマからの分離独立を求めるカレン民族解放戦線は和平を拒否して戦争を続けたが、それ以外の勢力はビルマ政府に合流した。

 袋叩きにあったカレン民族解放戦線が和平に合意したのは、2年後の1973年のことである。

 膨大な犠牲者と大量の戦争難民を生み出したビルマ戦争はようやく終わった。

 ソ連は勝利したものの、さして益のない長期に渡る戦争は、これまで考えたこともなかった妥協デタントの存在を教えることになった。




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― 新着の感想 ―
[一言] オセロットって一応アメリカのスパイだった気が (オセロットがmgs3でスネークに協力したことあったかなぁ(ヴォルギン戦以外で))
[一言] 軍事費サンキュー二木田と岡田。史実もそうですが宇宙開発と冷戦(軍事だけでなく同盟国への援助含む)と戦争を同時にやることでただでさえ膨大な金がかかりますし 第一列島線w ソ連がゲリラ戦で同盟国…
[一言] 当時のアメリカ 自国の総軍事費が 国家予算の七割 当然 公共事業や市民生活に直結する諸々は 計画倒れ で 人類の前衛たる自由と民主主義のソビエトの軍事費は 自国の三分の一 コレは メリケン…
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