宇宙への道
宇宙への道
”西比利亜から来た男”二木田フルシチョフは、対米強硬論者であった。
これは1953年の大老選挙において、現職大老の有畑角二を破る上で、大きなファクターとなった。
第2次中華南北戦争での慎重な対応で有畑大老は世論の支持を失っていた。
京都原爆投下以来、ソ連国内ではアメリカを絶対悪とする風潮があり、アメリカへの譲歩や親米派と見られることは、政治的な死を意味していた。
有畑の慎重論は、今日では核戦争を回避したと肯定的に評価されているが、1950年代に日本においては全く逆の評価だった。
アメリカ帝国主義打倒を訴えて選挙戦に打って出た社会党のフルシチョフは、世論の風を掴み大勝利を収めたのである。
最終的にそれはフルシチョフにとって命取りになるのだが、それは後述する。
フルシチョフが選挙で訴えたのは、新しい勝利による米帝打倒だった。
確かにフルシチョフは対米強硬論者だったが、軍事力による米帝打倒を訴えていたわけではなかった。
そうした主張(対米報復核攻撃)をする者もいないわけではなかったが、1953年にソ連が水爆実験に成功すると軍事力による米帝打倒は水爆戦争を意味するようになっていた。
永く西側は、1953年8月13日にカザフスタンのセミパラチンスク核実験場で行われたソ連初の水爆実験を強化型原爆実験だと誤認識していたが、後の情報公開によって核出力1メガトンの水爆実験であることが確認された。
1メガトンの水爆があれば、理屈の上では関東平野を一撃で焦土にできることになる。
ソ連軍はニューヨークに投下した場合、1メガトンの水爆で即座に700万人が死亡すると推定していた。
「水爆戦争=人類絶滅戦争」
という認識に至るまで、それほど時間はかからなかった。
それでも「水爆供養」として、京都で鏖殺された同胞を弔うために、供え物をして、死者の冥福を訴えるものは少なからずいたのだから、京都原爆投下の恨みは根深いものがあった。
ちなみに原爆投下後の京都は100年は放射能によってペンペン草一本生えない不毛の土地になるだろうと思われていた。
しかし、その年の台風襲来によって放射性物質が洗い流されたため、早期に復興することになった。
復興計画は京都を完全計画都市として再建するもので、平安京は1,000年ぶりに1から作り直されることになった。
このとき、市中の寺社などは殆どが太秦に集められることになった。
生き残った歴史的な建造物の移築先も太秦であり、原爆投下前の京都が再現された。
歴史ある建造物が多数集まった太秦はその景観を利用するため、多くの映画会社が時代劇映画の撮影所を置いていたことで知られている。
話が逸れたが、水爆以前の原爆戦争であっても、京都原爆投下後に明らかとなった放射線障害の惨禍を考えれば、もはや政治的には簡単に使える武器ではなくなっていた。
各国の科学者や小説家や平和運動家などは、核兵器が大量に使用された場合、フォールアウトと日光量の減少によって人為的に地球は氷河期に突入し、人類を絶滅させる「核の冬」が来ると予想した。
そのような戦争は米ソどころか、全人類の共倒れでしかなく、非現実だった。
実際に、第2次中華南北戦争では参戦したアメリカ軍は原子爆弾を保有していながら、それを使用することはなかった。
アメリカ軍は戦局打開のために原爆投下を検討していたが、欧州諸国の猛反対によって投下に至らなかった。
欧州諸国はアジアで原爆が使用された場合、連鎖反応的にソ連の報復攻撃を呼び込むこととなり、ハルマゲドンが再開することを心底恐れていた。
ちなみに、棍棒代わりに核兵器を振るおうとするアメリカをイギリス人は核の夢の国と呼んでいた。
確かに実態を知ってしまうと甲高い声で笑うしかない。
結局、第2次中華南北戦争で原爆が使用されることはなく、核や大量破壊兵器の使用に高いハードルがあることが確認されただけで終わった。
フルシチョフは核兵器によって米ソ全面戦争はもはや非現実となったことを率直に認め、小規模な紛争に対応できる軍備があればいいと考えた。
軍縮によってソ連軍はコンパクトで維持費が安くなり、その浮いた予算を投資して経済発展と宇宙開発でアメリカを経済的・科学的に打倒すべきというのがフルシチョフの主張だった。
フルシチョフ自身は経済や科学技術には疎かったが、人を見る目があり、五カ年計画奉行に池田隼人を据えた。
経済官僚として優れた手腕を発揮した池田は、五カ年計画よりもより長期的な経済計画を立てるべきだと考えており、2倍の10年をスパンとする経済構想を抱いていた。
池田は10年間でソ連経済を2倍に成長させて、1970年頃にはアメリカ経済に追いつくことを目標とした「所得倍増計画」を立案した。
ちなみに1955年時点で、アメリカ合衆国のGDPは約4,200億ドルだった。
一人あたりのGDPは2600ドルである。
これに対してソ連のGDPはドル換算では約1,000億ドルだった。
一人あたりのGDPは700ドルである。
一人あたりのGDPが低いのはソ連の人口が多いためで、1955年時点で2億5千万人の人口を抱えていた。
ちなみに本州(約8000万人)の一人あたりのGDPは1,400ドルとなり、同時期のイギリスと同じぐらいの生活水準となる。
逆に言えば、如何に西比利亜の生活が貧しかったのかが分かる。
戦前から西比利亜は様々な公共投資が行われてきたが、それでも本州との経済格差は3倍程度あり、所得倍増計画ではこの格差是正が大きな目標となった。
また、本州は米軍が実効支配するマリアナ諸島から空襲を受けやすいため、より安全な西比利亜の開発が優先されることになった。
池田の「所得倍増計画」は、立案段階で多くの批判や否定に直面した。
経済学者は1950年代のソ連の経済成長は東欧やロシア、本州の復興需要を背景としたものであり、第2次中華南北戦争の特需も一過性のもので、既に景気は後退局面に入っていると主張した。
実際に、1956年は大幅な景気後退となり、戦争特需が終わったことを示していた。
しかし、経済の実相を知る事業家や労働者の感じていた好景気の波は1958年以降にウラル景気という形で、爆発的な好況となって現れた。
ウラル景気とは、ソ連の最も巨大な山脈であるウラル山脈のように長く続いた好景気のことで、1958年7月から1961年12月までの42か月の好景気だった。
所得倍増計画が発表されたのは1960年で、好景気にも陰りが見えていた時期である。
ソ連は京都オリンピックを控えており、池田は減税とインフラ投資、民間の豊富な投資意欲とソ連の資源と科学技術力があれば、経済のさらなる拡大は可能だと考えていた。
フルシチョフはアメリカを経済で打倒するという自身の政治的スローガンに合致した池田の構想を全面的に支持したのである。
所得倍増計画が継続した1960年代のソ連は細かい不況はあったものの、10年間に渡って平均して年率10%の経済成長が続いた。
ソ連のGDPは池田の予想した”倍増”を遥かに超えて1970までに5,500億ドルにまで拡大した。
ちなみに1970年のアメリカのGNPは1兆ドルである。
よって、国民所得を倍増させ、1970年までにアメリカに並ぶという池田の計画は半分成功し、半分失敗したと言えだろう。
ソ連とアメリカの経済力が並ぶのは1978年のことで、池田は米ソ経済が並び立つ日を見ることなく1965年に死去している。
1954年から1970年末までをソ連の高度経済成長時代と呼ぶ。
このような急激な経済成長が可能となったのは、いくつかの理由が考えられる。
一つは急激な技術革新があったことである。
第2次世界大戦やその後の冷戦対立で軍事的な優位に立つため、ソ連では広範囲に科学技術への投資が行われていた。
開発された軍事技術は適宜、民生技術へのスピンオフが行われており、ソ連の産業力を高め、特に電子産業の発展を支えた。
トランジスタ・ラジオに使用されるトランジスタは元々レーダーの真空管を置き換えることを目的として開発された軍事技術の一つだった。
ソ連でトランジスタの量産化に成功したのは、江戸通信工業である。
江戸通信工業は、現在のCOлYである。
COлYのトランジスタ・ラジオは、それまでラジオは卓上にあるものという常識を覆し、携帯可能なサイズまで小型化されていた。
発売と同時に大ヒットしたトランジスタ・ラジオはロシア、東欧、アジア各国といった東側諸国のみならずアメリカなどの西側諸国にも輸出され、COлYのブランド名を世界に知らしめることになる。
なお、対共産圏輸出統制委員会(COCOM)は1950年代から70年代半ばまでは民生品に関してはそれほど輸出入規制が厳しくなかった。
規制対象となったのは戦略物資や重要技術の類で、アメリカでも50年代や60年代は値段の割には高性能、高品質のソ連製品を普通に買うことができた。
これはCOлYには嬉しい誤算というものだった。
ブランド名のCOлYは、本来はSONY(社名は音を表す「SOUND」や「SONIC」の語源となったラテン語の「SONUS」と「小さい」や「坊や」という意味を表す「SONNY」が一緒になったもの)になる予定だった。
しかし、英語圏への輸出が困難という観測から、ロシアや東欧への輸出のためにキリル文字に置き換えたという経緯がある。
ラテン文字の「S」はキリル文字表記では「C」となるため、英語圏ではコミーと発音になってしまい本来の「ソニー」とずれてしまうのだが、今さらブランド名を変更するのは不可能だったため、COлYのままとされた。
また、コミュニストが作っている電化製品なのだから、コミーでもいいではないという意見もあった。
ただし、アメリカは後にソ連製の電化製品や自動車などに国内市場を荒らされたことから、COCOM規制を強化してソ連製品を市場から締め出しにかかった。
COCOM規制が全てのソ連製品を排除するようになるのは、米ソの経済力が伯仲するようになった70年代後半のことである。
ソ連製品の強制排除に巻き込まれたのがベータマックス・VHSのビデオ規格戦争だろう。
COлYは後に家庭用VTR用として、ベータ・マックス規格を完成させて、西側に売り込みを図ったが、COCOM規制にひっかかり輸出に失敗した。
ベータ規格が入らなかったアメリカや欧州ではVHS規格が普及し、2つのビデオ規格が東西冷戦によって長く併存し、終わらないベータ・VHSのビデオ規格戦争となった。
東側では一般化したベータだが、高性能だがやや複雑な動作機構のため、東側で使うなら構造の単純なVHSの方がふさわしかったと言われている。
話を1960年代に戻すとCOлYの電化製品に使用されるトランジスタは、西比利亜の農村から集団就職した若い女性達が産業用顕微鏡を覗き込みながら人海戦術で組み立てていた。
このような労働集約が可能だったのは、ソ連の豊富な人口と西比利亜という低開発地域を抱えており、人件費が安かったからである。
西比利亜で三種の神器としてもてはやされた電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ(白黒)も、やはり集団就職した若者たちの手によって大量生産されていた。
生産に必要な資源についても一部の例外を除けば、全てを領域内で確保されていた。
そして、豊富な内需を作りだしたのが、ソ連の巨額の財政赤字だった。
ソビエト幕府は所得倍増計画において、大幅な財政赤字を許容して減税を実施し、大量の赤字国債(通貨)を発行し、年率10%ずつ国家財政を拡大して、豊富な資金を市場に供給した。
特に政府支出拡大で重視されたのがインフラへの投資だった。
西比利亜では1950年代まで殆どの道が未舗装で、春の雪解けや秋の長雨で泥の海を作り出して、しばしば車が通行不能になった。
「スプーン一杯の水が、バケツ一杯の泥をつくる」
と言われるほど酷い泥濘であり、西比利亜のモータリゼーションを阻んできた。
所得倍増計画では、西比利亜横断高速道路(20,000km)の建設や、西比利亜の全国道のアスファルト舗装化が実施され、西比利亜に本格的なモータリゼーションの時代が訪れることになる。
ソ連のモータリゼーションは、本州が先行しており、戦前にはアメリカ企業と合弁したTOYOTAや日産が既に大衆車を販売していた。
しかし、道路整備の遅れていた西比利亜では車社会の到来は戦後のことになる。
また、道路の舗装化が進んだとはいえ、西比利亜の過酷な環境では本州メーカーの車では、厳しいものがあった。
西比利亜の大地に適応した西比利亜独自の自動車開発は西比利亜出身のビクトル・ホンダレンコによって成し遂げられた。
TOYOTA、日産、HONDAというソ連のビッグ3の一角を占めることとなるホンダレンコ技研工業は、戦後に興った純西比利亜資本の企業である。
ホンダレンコは戦前からソ連軍向けに小型軽量の自動二輪車を開発しており、戦後にその技術力と生産設備を用いて自動車メーカーに転身を図った。
ちなみにソ連軍向けに卸した小型軽量自動二輪車を改良した民生品版が、累計で1億台も製造されて、アメリカにさえ輸出された。
ホンダレンコの設計思想は、過酷な西比利亜でも決して壊れない極限の耐久性と悪路走破性を備えつつ、しかも貧しい西比利亜の民でも買うことができる安価な製品をつくることだった。
また、技術開発と企業宣伝のために積極的に国外の自動車・二輪車レースに参戦していることも特徴といえる。
他のメーカーが
「モーターレースなどブルジョワの遊び」
と切り捨てて大衆車や商用車、産業用トラックの製造販売に特化していたのに対して、ホンダレンコ社長のレース重視の姿勢は際立っていた。
ソビエト幕府はホンダレンコ社長の姿勢には批判的であり、人民のための車をつくるように”指導”を試みたが、ホンダレンコがフルシチョフの学友であったため、”指導”した役人が西比利亜に転勤することになり、以後”指導”は行われなくなった。
また、国外レースでHONDAチームが連戦連勝するに連れて、ソビエト幕府は国威高揚の手段としてモーターレース出場を奨励するようになった。
他のメーカーはレースに出場経験がまるでなく、恥を晒すだけに終わったため、HONDAは国を背負って立つことになる。
1980年代末には、ソ連チーム=ホンダレンコという状態で、F1で16戦中15勝(勝率93.8%)という狂気の記録を達成している。
あまりにもソ連チームが強すぎて、レースが成立しないため、HONDAを狙い撃ちにしたレギュレーション規制が発動された。
それにソビエト幕府が抗議したためF1は国際政治問題となった。
それは少し先の話になるので別の機会に後述することとし、整備が容易な空冷エンジンと悪路走破性に優れた4輪駆動を採用したHONDAは西比利亜におけるデファクトスタンダードの地位を獲得していった。
本州メーカーが西比利亜に進出するのは1980年代になってからであり、それまで西比利亜の自動車市場は事実上、HONDAの一人勝ちだった。
頑丈で整備が容易な空冷エンジンにこだわり過ぎたHONDAは液冷エンジンへの転換が遅れて苦戦することになるのだが、それは少し先の話である。
こうした産業の高度化や経済成長は、当然のことながら莫大なエネルギー消費を伴っており、エネルギー源の確保が求められた。
ソ連のエネルギーといえば、原子力である。
特に核兵器に密接な関わりがある原子力関係技術は、国策として莫大な資金が投入された。
ソ連の原子力発電の父といえば、ゴーリキー松太郎がまず挙げられる。
宣伝奉行として辣腕を振るったゴーリキーは、原子力発電委員会が設置されるとその委員長に就任した。
なぜ元宣伝奉行のゴーリキーが原子力発電委員会のトップかといえば、原子力発電推進のためには強力なプロパガンダが必要だと考えられたためである。
京都原爆投下以後、ソ連は原子力恐怖症に近い状態であり、特に本州においてはその傾向が顕著だった。
逆にいえば、2度と原爆を落とされないために、核軍備だけは強固であるべきというのが一般的な見解であり、原子力の兵器としての利用にはなんの躊躇いも躊躇もなかった。
しかし、原子力の民生利用となると、自分の家の近所に核関連施設が建設されるのは勘弁していただきたいというのがソ連の原子力恐怖症である。
本当に怖がっているのかどうかは今ひとつ分かりづらいが、同盟国のロシアが核武装した後に水爆を使って油田や運河を掘ろうとしたのを全力で止め行く程度には核の平和利用に慎重だった。
原子力発電委員会は、世論の喚起がなければ原子力発電遂行は不可能だと考えており、様々なプロパガンダを強力に実施した。
おそらくある一定以上の年代の人間なら、夏祭りで一度は踊ったことがあるであろう原子力音頭などは、ゴーリキーが各自治体に行わせたプロパガンダ作戦の一つである。
原子力とダンスの組み合わせは思いの外効果的なプロパガンダだったため、現在でも「ぐるぐるぐるぐるプルサーマル!」や「水分補給だ重水素!」という脳みそが軽くなりすぎるエクササイズ番組が国営放送で継続中である。
ゴーリキーは毀誉褒貶の激しい人物で、
「ソ連の死の灰は白雪のように美しく、アメリカの死の灰はどす黒く汚れている」
などという科学的な基礎知識の欠る発言が物議を醸したりもしたが、政治力と行動力に優れていた。
ゴーリキーの手腕がなければソ連の原子力発電は10年遅れていただろうと言われている。
ゴーリキーは義弟の佐藤チェルノブを新設された原子力発電・産業奉行に送り込み、強力な行政指導で1954年に早くも商業原子力発電に成功した。
ソ連初の商用原子力発電は、西比利亜の茶羅毘に建設された。
これは軍用のプルトニウム生産炉をベースにした黒鉛減速炉だった。
黒鉛減速炉は大型化が容易であり、ソ連式の黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)に発展した。
黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉は運転中に燃料棒の交換が可能であるため長期連続運転が可能で、しかも核兵器用のプルトニウム239の生産が可能という一石二鳥の原子炉だった。
比較的構造が単純であり、建造に高度な技術が必要でないという利点もあった。
ただし、低出力時は炉内の反応が不安定になるという欠点があり、建造は容易だが制御に高度な技術や習熟が必要になる。
特に低出力連続運転は、最終的に炉内が制御不能になる可能性があり、絶対禁止だった。
そのため、他国への輸出にはより制御が容易で核兵器用のプルトニウム239の生産に向かない加圧水型軽水炉が選ばれた。
ロシアや東欧へ輸出された原子炉は、全て加圧水型軽水炉である。
1978年5月から運転を開始したチェルノブイリ原子力発電所もソ連式の加圧水型軽水炉となっており、21世紀現在でもウクライナ最大の原子力発電所として運転を続けている。
ソ連も加圧水型軽水炉が完成すると欠陥の多いRBMKの新設は停止しており、21世紀までにRBMKの運転は全て終了する見込みである。
加圧水型軽水炉も一次冷却水喪失からメルトダウンを起こす可能性があり、スリーマイル島原発事故のような重大事故の発生は起こり得る。
人間原子力発電所の異名をとる佐藤奉行であっても、地震が多く、原子炉に冷却材を供給するポンプやそれを動かす非常用発電機が津波などによって破壊される恐れがある本州では原子力発電は不可能と断じており、本州に原子力発電所が建設されることはなかった。
西比利亜は土地が有り余っており、総じて原子力発電所は人が住んでいない無人地帯に建設され、そのそばには原子力発電所に勤務する労働者の町が0から造られた。
こうした原子力発電所関係の都市は国防のために地図から抹消された秘密都市となっており、21世紀現在でも西比利亜のあちこちに地図に存在しない町がある。
中には原子炉の廃炉によって、地図にはないままに廃墟となった町もあり、西比利亜を旅行してると唐突に地図に記載がないゴーストタウンが現れて、旅行者を恐怖のどん底に叩き落とすことがある。
ソ連は産油国であり、発電用の重油には事欠かないのだが、石油輸出による外貨獲得や資源保護の観点から原子力発電が推進された。
結果として、1970年代末までに、ソ連の電力供給の7割が原子力発電によって賄われるようになった。
西比利亜鉄道の完全な電化(1975年達成)は原子力発電によって成立したのである。
ロシアの指導者レーニンは、
「共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である」
と予言しており、全土の電化はソビエト幕府の手によって成し遂げられた。
1978年にソ連の高度経済成長時代は終了を迎えることなったが、それまでに本州との所得格差は完全に解消された。
戦後のソ連は多くの人々が豊かさを実感できる時代となり、
「3億総中流」
という言葉が生まれることになる。
実際には、ソ連の人口は2億7000万人(1970年)であり、3億人には届いていないのだが、あまねく物質的な豊かさと所得格差の小ささがそうした標語を作り出した。
しかし、中央アジアのソ連加盟国やフィリピンといった地域には開発が行き届いておらず、昔ながらの生活が続いており、80年代以降の課題となった。
それでもソ連の圧倒的多数の人々がカラーテレビや自家用車、家電製品に囲まれた生活を送ることができるようになったのは大きな成果と言える。
ソ連は世界で最も成功した社会主義国となったのである。
もちろん、社会主義の総本山であるソ連で社会主義は上手くいくのは当然のことであり、敢えて述べるほどのこととは言えないかもしれない。
しかし、同じ社会主義のはずであるロシアや東欧各国は70年代以降に深刻な経済停滞を迎えている。
ソ連もそうなっておかしくなかった。
確かにソ連は平等な豊かさを実現したが、ともすればそれは悪平等といった不平等を生み出すことになりかねず、経済や社会を停滞させる原因になりえた。
ソ連社会が停滞せずに済んだのは、やはり社会の前提として自由と民主主義がきちんと機能し、社会の前向きな発展が阻害されなかったことが大きいと言える。
社会の前向きな発展を支えたのは、経済的な豊かさの追求と宇宙への挑戦という正エネルギーが社会に満ちていたからだろう。
フルシチョフ大老が掲げる新しい勝利の両翼を構成するのが宇宙開発である。
ソ連は1957年に世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功し、西側世界に衝撃を与えた。
スプートニク1号を打ち上げたのは、ボストークロケットである。
そのボストークロケットを開発したのが、ソコロフ博士だった。
フルネームは、アンドレイ・パーヴロヴィチ・ソコロフで、生まれはウクライナだった。
ソコロフ博士はアメリカ合衆国で宇宙開発を推進したドイツ人科学者ルドルフ・フォン・ブラウンと共に冷戦期に宇宙開発を推進した双璧となる人物である。
ウクライナ人のソコロフ博士がなぜソ連で宇宙開発の主導することになったのかといえば、ロシア革命にその理由が求められる。
ソコロフ博士の生まれは旧ロシア帝国ではロシアとなるが、ドイツとイギリスの干渉で、ウクライナが分離独立したため、ソコロフはモスクワの科学アカデミーでロケット工学を学ぶ道が閉ざされることになった。
若き日のソコロフは、ウクライナでの学究に限界を感じて、ソ連とアメリカの何れかに留学を考えるようになった。
ロシアは論外だった。
ロシア革命後のプロレタリアート独裁体制を嫌って、自由なソ連やアメリカに亡命や移民するロシア人は数多かった。
アメリカに移民して世界最大級の回転翼機メーカーを立ち上げたシコルスキーなどはその代表例と言えるだろう。
ソコロフ博士がソ連を選んだのは、アメリカが遠すぎると考えたためである。
もしもソコロフ博士がアメリカを選んでいたら、冷戦中の米ソの宇宙開発は随分と違った様相を呈することになっただろう。
その場合は、ソ連の代表は糸川博士となったかもしれない。
糸川博士は固体ロケット燃料に拘りがあり、ICBMとしては画期的な性能をもつロケットを多数送り出している。
しかし、固体ロケットは出力制御が困難であり、核弾頭や人工衛星ならともかく人間を乗せて宇宙に飛び出すには不適当だった。
話を戻すとソコロフ博士西比利亜の磐梯国立大学でロケット工学を学んだ後に、ソ連に帰化して幕府の資金援助を受けて液体燃料ロケットの開発に従事した。
1944年にはソ連の秘密設計局OKB-754の局長に就任して、ソ連最初の液体燃料ロケットであるR-1の開発に成功した。
R-1の開発には1940年にロシア軍が占領したドイツ帝国陸軍のペーネミュンデ陸軍兵器実験場から入手された技術資料が用いられており、純ソ連製のロケットとは言えなかった。
しかし、改良が続けられ、R-2、R-3はソ連独自の設計に昇華され、マルチクラスターロケットエンジンとなったR-7(ボストークロケット)は完全なソ連国産技術となった。
スプートニク1号が打ち上げられたのは、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地である。
宇宙ロケットの打ち上げには赤道付近が最も効率的であり、バイコヌール宇宙基地はやや高緯度に位置しており、ロケットの打ち上げ場としては不満足な立地であった。
バイコヌール宇宙基地がソ連初の宇宙基地となったのは防諜上の理由である。
ソコロフ博士が求めた理想的な宇宙基地が完成するのは彼の死後で、フィリピンにレイテ宇宙基地が建設された。
レイテ宇宙基地はソ連最大のロケット発射場となり、5つのロケット発射台を擁し、殆ど毎月ロケットの打ち上げを見ることができる。
21世紀現在では、レイテ湾にロケット打ち上げ見物専用のクルーズ船が就航する程度に観光名所となっている。
それはさておき、スプートニク1号はアメリカ合衆国に深刻な衝撃を与えた。
宇宙空間に人工衛星を運ぶロケットに核弾頭を積めば、それはそのままICBMになるからである。
R-7はICBMでもあり、ミサイルとロケットに明確な区分はなかった。
宇宙空間から音速の十数倍の速度で落下する核弾頭を防ぐすべはなく、西比利亜からはソ連はいつでもアメリカ本土へ核攻撃が可能となった。
フルシチョフ大老は、
「ICBMをソーセージのように量産化してみせる」
と豪語しており、大量の核ミサイルが配備された。
所謂、スプートニク・ショックとミサイル・ギャップは米ソ冷戦を新たなステージに立たせることになり、宇宙開発競争が勃発した。
競争をリードしたのはもちろんソ連である。
ソ連はスプートニク1号に続けて、2号、3号を打ち上げ、柴犬やカラスといった生物を宇宙空間に送り届けることに成功し、1961年に世界初の有人宇宙飛行を成功させた。
人類で最初に宇宙飛行経験した加賀鈴中尉は、
「地球は青かったです」
というワンフレーズと共に一躍時の人になった。
なお、加賀中尉は女性で、世界初の宇宙飛行士となる共に世界初の女性宇宙飛行士というダブルタイトルホルダーとなっている。
ソ連が最初に宇宙に送り込んだ人類が女性だったことは、アメリカ合衆国のみならず世界各国の保守派に衝撃を与えた。
一応、男性の宇宙飛行士も用意されていたのだが、宇宙船内部の生命維持装置が大きくなりすぎて小柄な人間しか搭乗できなくなってしまったのである。
ソ連の戦車や戦闘機はしばしば人間工学を無視して、サイズダウンのために居住スペースを極小化する傾向があり、宇宙船も例外とはならなかった。
こうした例は第2次大戦中から既に見られており、ソ連の伝統と言えるだろう。
それでも最終候補まで男性の宇宙飛行士も残っていた。
加賀鈴が選ばれた理由は見た目だった。
「その年の西比利亜に最初に降った最も純粋な雪が、そのまま人の姿になった」
とまで謳われた加賀鈴は、プロパガンダに最適だった。
加賀鈴専用ブロマイドが撮影され、ソビエト全土で即時完売するほどの人気だった。
ブロマイド以外にも、加賀鈴ポスター、加賀鈴応援歌、加賀鈴音頭、加賀鈴テレビ、加賀鈴ラジオ、加賀鈴学習帳、加賀鈴マグカップ、加賀鈴饅頭、加賀鈴茶、加賀鈴抱き枕、加賀鈴布団、加賀鈴人形、加賀鈴住宅、加賀鈴自動車、加賀鈴飛行機、加賀鈴映画、加賀鈴幻想郷、加賀鈴月世界など、総数が把握できないほどのプロパガンダ作品が作成された。
加賀鈴プロジェクトは、現在でもソ連プロパガンダ史上最高傑作と認識されている。
何しろ、その後のソ連のプロパガンダは、全て加賀鈴プロジェクトのコピーか、オマージュに過ぎないからである。
美少女と政治的な主張を絡める手法はドイツやロシアでも行われていたが、加賀鈴プロジェクト以降のソ連は、それらとは一線を画する次元に到達した。
アメリカの同業者はソ連のプロパガンダ手法の模倣を試みたが、できの悪い劣化コピーしか作れなかった。
欧州の状況はさらに悪く、フランスは歴史的に日本文化に親和的だったことから、国家の明日を担う若者達がソ連のプロパガンダ作品に耽溺するほどになっていた。
危機感を覚えた西側諸国は、ソ連のプロパガンダ作品の所持を法律で禁止したほどである。
しかし、摘発される者はあとを絶たなかった。
ある違反者は隠し部屋の壁面にソ連のプロパガンダ作品を貼り付け、360度をプロパガンダ作品まみれにして、プロパガンダが印刷された抱き枕やカーペット、さらにはプロパガンダ・フィギュアに囲まれながら、密輸入したベータ・マックス規格のVTRでソ連のプロパガンダ作品(アニメーション作品)を視聴しているところをFBIに踏み込まれて逮捕された。
おぞましいソ連のプロパガンダ作品に塗れた隠し部屋はCNNやBCCの夜のニュースに晒されて、良識あるアメリカ人家庭のリビングを凍りつかせた。
西側の専門家は、
「ソ連のプロパガンダ作品には発芽性がある」
として、珍妙な注意を呼びかけている。
西側世界では、ソ連のプロパガンダ作品に通底する中心概念を正確に理解することができず、このようなトンチンカンな警告になったと思われる。
話が逸れたが、ソ連の宇宙開発はアメリカを大きくリードし、世論から絶大な支持を集めることに成功した。
特に若年層からの支持は圧倒的だった。
しかも、社会の支配的な階層からの支持も厚かったので、ソ連の宇宙開発を妨げるものは政治的には存在しなくなった。
社会の支配的な階層と呼ばれるソ連で隠然たる権力をもつ者たちの宇宙開発にかける意気込みは凄まじいものだった。
スプートニクの成功以前に、ソコロフ博士を支持し、多額の予算を与えて研究を続けさせてきたのは彼らだったのである。
1918年のソビエト維新を担った最後の生き残り達が宇宙開発を支持したのは、慈恩主義の衰退を憂いたためである。
西比利亜に捨てられ、過酷な自然を克服した棄民こそ、真の日本人であると考える慈恩主義は、1960年代以降急速に力を失っていった。
経済発展により、本州と西比利亜の所得格差は縮まり、西比利亜でも本州なみの消費生活をおくることができるようになると、絶対的な貧困を思想根拠としていた慈恩主義はもはや古臭いものとみなされるようになった。
これは慈恩主義の思想的な背景となった氷土宗も同じで、西比利亜の近代化と国家社会主義神道の浸透ともに共に信仰心が失われていった。
これに危機感を覚えたオールド・ボルシェビキの仕掛けたカウンターこそ、宇宙開発だったと言える。
彼らは、絶対真空の宇宙こそ、最も浄土に近い氷土世界と定義し、宇宙移民こそ慈恩主義の進むべき道だと考えた。
京都への原爆投下による破滅的な被害も新慈恩主義の思想的な根拠となった。
水爆戦争が起きた場合、人類文明は壊滅的な打撃を受け、核の冬によって人類が絶滅する可能性が想起された。
そして、実際に人類は水爆戦争の危機に直面した。
1962年10月に、キューバの革命政権に対してロシアが軍事支援の一貫として秘密裏に核ミサイル基地を建設していることがアメリカ軍のU-2偵察機によって発覚した。
アメリカ政府は、ロシアに核ミサイルの撤去を要求し、キューバを海上封鎖した。
カリブ海でアメリカ海軍とロシア海軍の潜水艦は一瞬即発の状態となり、ソ連もロシアからの支援要請に応じて、ICBMを即応体制に引き上げた。
ロシアが本国から遠く離れたキューバに核ミサイル基地を建設したのは、ロシアがICBMの開発に失敗し、アメリカ本土への攻撃手段をもっていなかったためである。
ICBMの開発には高度な技術と多額の資金が必要なため、大戦の後遺症に苦しむロシアでは必要な資金が調達できなかった。
高額のICBM開発を断念することは西側でも起きており、イギリスでは自前の開発を諦めてアメリカからポラリスSLBMを購入している。
ロシアはソ連にICBM輸出と技術移転を求めたが、フルシチョフから一笑に付されて終わった。
IRBMしか持たないロシアは、アメリカ本土からのICBMと欧州に配備されたIRBMの二重のミサイル網に包囲されており、国家安全保障に深刻な危険があると考えた。
そこでロシアはキューバにIRBMを秘密配備することで、アメリカと対等な立場に立とうとしたのである。
しかし、その代償は高くついたと言わざる得なかった。
ジョセフ・P・ケネディ・ジュニア大統領が海上封鎖のような強硬対応に出てくるとは予想していなかったのである。
ロシア海軍の準備は全く不十分だった。
陸でNATO軍と向き合うロシア軍は、まともな海軍力を整備できていなかった。
さらにアメリカ政府は、U-2偵察機によってロシアがICBMの開発に失敗していることも掴んでおり、ロシア人のはったりにびくともしなかった。
進退窮まったロシアはソ連に泣きつくことになる。
ロシア人の軍事的冒険に巻き込まれたフルシチョフは、ケネディ大統領と秘密交渉を重ね、トルコの旧式なIRBM撤去と引き換えにキューバからのIRBM撤去で交渉をまとめた。
ロシアはこの結果を不服としたが、ソ連が見返りにICBMを提供することで折り合った。
キューバのフェデラル・カストロ議長はこの交渉から完全に外されており、自国の運命をチェスの駒のように扱ったソ連への怨念を募らせた。
11月にキューバから全ての核ミサイルが撤去され、アメリカ軍の海上封鎖と警戒態勢が解除されたことでキューバ危機は終わった。
この事件をきっかけに米ソの政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話が設置され、翌年8月に部分的核実験禁止条約が締結されることになる。
危機管理方法の確立から、米ソは核不拡散などの利害を共有できるとの認識に至り、米ソデタントが模索されることになった。
しかし、現実はそれほど単純ではなかった。
アメリカと妥協したフルシチョフは、国内のタカ派から激しい攻撃を浴びることになった。
それまで対米強硬論を唱えていたフルシチョフがアメリカと妥協したことは、タカ派にとって格好の攻撃材料であり、フルシチョフの支持率は急落した。
特にフルシチョフの軽軍備路線に苦しめられてきた軍部は、マスコミに情報をリークしてフルシチョフを追い詰めた。
ソビエト社会党も、粗野でワンマン体質のフルシチョフに愛想を尽かしており、地方選挙での連戦連敗もあって、フルシチョフをこれ以上担ぎつづけることはできなくなっていた。
フルシチョフは1965年に失脚を余儀なくされ、3期目の任期を半分以上残して引退することになった。
大老が任期を全うせず職を辞すのはこれが初めてのことで、表向きは健康上の問題とされたが、実態としては社会党内部の政変だった。
フルシチョフが1965年まで命脈を保ったのは、1964年開催の京都オリンピックの最中に大老を引きずり下ろすという醜聞を避けるためだった。
ちなみに復興した京都を舞台とした京都オリンピックは、ソ連の高度経済成長を世界に喧伝する一大レビューであり、大成功を収めた。
原爆で更地となった京都で、五輪を成功させたことはアメリカ合衆国に対するこれ以上とない痛烈な皮肉であった。
アメリカ代表団は国家の威信を背負っていたが、居心地の悪い土地で結果を出すことは不可能であり、ソ連を超える選手団を送り込みながらも金メダルの数は16個に終わっている。
ソ連が44個の金メダルを確保したことを考えれば、その差は歴然としていた。
さらに幕府は事実上の国教となりつつあった国家社会主義神道を喧伝する場としてオリンピックを利用し、開会宣言も今上天皇によって行われた。
開会式の行進の際に行われた「右手を斜め横に掲げるオリンピック式」の挨拶は、非常に見栄えがよく、ソ連お得意のプロパガンダによって若干改変された国家社会主義神道式敬礼として天皇臨席の国事行為やソ連軍に大々的に採用されて一般化した。
国家社会主義神道式敬礼は、直立の姿勢で右手をピンと張り、一旦胸の位置で水平に構えてから、掌を下に向けた状態で腕を斜め上に突き出すジェスチャーであり、これは天皇への忠誠を意味している。
この敬礼を受ける唯一の存在である天皇は、挙手(賛意)でそれを答えることが習わしとなった。
ちなみにこのタイプの敬礼は既にローマ式敬礼として戦前から存在し、イタリアのファシスト党で使用されていたが、古代ローマの伝統という懐古趣味の範疇だった。
国家レベルのプロパガンダとして大々的に採用した例はソ連しかなく、国家社会主義神道の象徴的なアイコンとなった。
京都オリンピックは世界初の大々的なテレビ・オリンピックとなり、ソ連のカラーテレビの普及率をほぼ100%まで引き上げる原動力となった。
最晩年の征夷大将軍徳川信忠の姿も衛星中継によってソ連全土に放送された。
開会式に出席した信忠は、白髪の軍服姿で天皇のやや右手前に直立不動の姿勢で起立していた。
これは本来、天皇の禁衛が立つべき位置であった。
信忠の姿は見るものに去りゆく古き良き伝統ともいうべき感慨を抱かせた。
日本史上最後の武士の姿を私達は様々な映像媒体によって見ることができるのは京都オリンピックがあればこそと言える。
信忠は京都オリンピック成功を見届けるようにして1964年11月7日に死去した。
葬儀は国葬となり、東西両陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり、ソ連史上最大の国葬となった。
この葬儀委員として奔走したフルシチョフは、足元で始まっていた政変劇にまるで気が付かず、信忠と共に政治的に葬られることになってしまった。
大老が任期を残して死亡か、健康上の問題で辞職した場合、残りの任期は外国奉行が大老に昇格して引き受けるのがソビエト幕府の習わしである。
しかし、外国奉行の椎名真琴は大老就任を固辞(そういう打ち合わせだった)し、奉行衆の議論の結果として、イェルマーク・サトウツカヤ勘定奉行が、大老に就任した。
サトウツカヤ大老はフルシチョフ時代の経済政策を継続することで高度経済成長を背景に世論の支持を得つつ、絶妙なバランス感覚を発揮してタカ派に妥協した親軍政治を推し進めた。
党内左派は軍事費の急増によってソ連経済の拡大が危うくなることを心配したが、サトウツカヤは軍部の要求に小出しで答えることで軍事費は漸増するに留まった。
1960年代はソ連の高度経済成長時代であり、毎年経済が拡大していく中で国家予算に占める軍事費の割合は30%に留まった。
同時期のロシアが国家予算の6割を軍事費に投じていたことを考えれば、十分に常識的な範囲内と言えるだろう。
この数値は同時期のアメリカ合衆国よりも遥かに低い値だった。
ただし、サトウツカヤ政権はフルシチョフとは異なり、米国帝国主義の打倒のために海外への軍事支援を増やした。
特にビルマ内戦におけるソ連の関与はサトウツカヤ政権以後に飛躍的に高まり、創華国を押し返す原動力となるのだが、それは後述することとする。
話をソ連の宇宙開発に戻すと、キューバ危機によって、ソ連の宇宙開発は明確に水爆戦争に備えた地球脱出と宇宙移民を目指すことになった。
ソ連の宇宙開発を支えた宇宙慈恩主義、新慈恩主義はキューバ危機以後に、ソ連社会に浸透し、宇宙移民による人類の生存と革新がソ連の進むべき道となった。
端的にいえば、スペースコロニーをつくろうという話だった。
その前段階として、人類が長期滞在可能な衛星軌道上の宇宙基地建設が目標とされた。
ソ連が目指したのは月ではなく、衛星軌道だったのである。
結果として月世界旅行はアメリカの先行を許し、1969年7月24日にアメリカのアポロ11号が月面着陸に成功し、人類は初めて月面に降り立つことになった。
アポロ計画の成功は、アメリカにとってスプートニク・ショックを払拭し、宇宙開発競争の勝利者となる記念すべきマイルストーンだった。
しかし、繰り返すがソ連の目標は月面に行くことではなく、宇宙移民である。
後に糸川博士などはアポロ計画を
「金ずくで結果を出しただけの技術の無駄遣い」
と酷評している。
一部にはソ連も国威高揚を狙って月面を目指すべきだという意見もあったが、大勢とはならなかった。
宇宙開拓は、西比利亜開拓と同様に一日ではならないからである。
200年前に先祖が飢えと寒さを克服しながら着実にウラル山脈を目指したように、宇宙開拓もそのようにあるべきだと考えられた。
しかし、国威高揚も重要だったので、アポロ11号の成功をかき消すように1969年9月19日にある計画が実行された。
ソ連各地のICBM発射基地(ソ連の宇宙ロケットはICBMと兼用であり、硬化ミサイルサイロからも打ち上げ可能)から、12基のソユーズロケット及びプロトンロケットが打ち上げられた。
核弾頭の代わりに搭載された各モジュールユニットは、全自動的制御で衛星軌道上で合体し、一つの構造物を形成した。
13番目に打ち上げられたソユーズ宇宙船に搭乗した3名の宇宙飛行士が、乗り込んだその構造物の名はナディエージダである。
ソ連が大好きなカタカナ・ロシア語の意味は漢字で希望と書く。
これこそが宇宙移民の記念すべき第一歩となるソ連初の宇宙ステーションだった。