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ハルマゲドン

 

 ハルマゲドン


 1944年に入り、ヨーロッパは戦争5年目に突入した。

 社会主義陣営はヨーロッパの大部分を解放することに成功していた。

 ヨーロッパで赤く染まっていないのは、スイスやスペイン、さらにスウェーデンといった中立国だけになっていた。

 その中立国も国境でロシア軍、ソ連軍の大軍に接しており、いつまでその圧力に耐えていられるか分かったものではなかった。

 世界中の共産主義者、社会主義者が世界革命に最も近づいた瞬間として1944年を掲げているのはこのためである。

 しかし、ロシアは長引く戦争に疲れが見え始めていた。

 近代戦の趨勢を左右する航空戦力に関しては高性能な米軍機の前にロシア空軍機は泥人形のように打ち倒されるばかりになっていた。

 ロシア空軍も新鋭のYak-7やYak-9、La-5といった新型機を送り出していたが、P-51やユーロファイター・タイフーン、P-47といった欧米連合軍機には見劣りした。

 また、これまでの戦いで多くのベテランパイロットを失っており、続々と送り込まれる補充パイロットは水平飛行さえままならない未熟なものばかりになっていた。

 ロシア軍は国力の限界から、本来なら長期戦には耐えられなかった。

 ポーランドやドイツ、低地諸国を電撃的に占領してストックを奪うことで、ここまで戦ってきたが本質的に短期決戦志向だった。

 大兵力の動員も、縦深攻撃戦術も、短期間で戦争を終わらせるための方法論といえた。

 何しろ先の大戦では国土が戦場となり、その後の革命戦争で1,500万人が死亡していた。これは1918年時点のロシアの全人口の15%という恐るべき数字だった。

 ロシアはその後遺症から未だ回復しておらず、消耗戦争に耐えられる状態ではなかった。

 機材の生産は欧米連合軍の爆撃機が届かないモスクワ周辺で行うことで問題なく行われていたが、それに乗せるパイロットが消耗に追いつかなくなっていた。

 また、教官パイロットなどを前線に度々投入してきたことから教育体制そのものが崩壊しかかっており、航空戦力を著しく弱体化させることになった。

 昼の空はB-17やB-24といった米軍の戦略爆撃機に支配され、ロシア空軍機は機数だけは膨大な迎撃機を発進させたが、連合国軍のエースパイロットにスコアを稼がせるだけに終わっていた。

 夜空を担当したのはソ連軍で、こちらはモスキート夜戦やP-61に激闘を繰り広げながらも多数のランカスターを撃墜しており、ソ連とロシアでは格が違うことを連合国軍に示していた。

 ソ連空軍の夜戦部隊の主力となったのはDo45といった開戦以来の双発多用途機だったが、1944年夏からはジェットエンジンとマイクロレーダーを装備したDo108夜戦が投入されて大きな戦果を挙げた。

 Do108は本州防衛が優先され、欧州戦線では貴重だったことから多数のP-51Dが護衛につく昼間作戦には使用されず、欧州では夜戦に投入された。

 RAFはランカスターの損害が激増したことから、1944年10月以降度々、夜間爆撃を停止しており、夜空におけるソ連軍機のプレゼンスは絶大なものがあった。


 夜ぐっすり眠れるようになったことは銃後の民の精神状態を多少マシなものにしたが、昼間は米軍機の大編隊に成すすべないという現状は最後まで変わらなかった。

 昼間の制空権も絶望的だったが、制海権はさらに破滅的な状態で損害の多さからロシア海軍は潜水艦作戦を停止するほど追い詰められていた。

 欧州の海において殆ど絶対的な制海権を確保している連合軍は、その気になればいつでも欧州のどこにでも上陸することができた。

 欧米連合軍の反攻作戦を予期して北フランスやオランダ、ベルギーからデンマークに至る広大な海岸線に沿岸要塞を建設する計画は軍事官僚の妄想の域を出ていなかった。

 フランス方面軍司令官田宮デグチャレフ大将は、ワルシャワの条約機構軍本部において、


「敵が、ずぶ濡れになって、泥の中で藻掻いているその瞬間にしか、我々の勝機はない」


 と述べたように一度上陸を許して橋頭堡を築かれると排除は難しいという認識があった。

 太平洋の戦いによってサイパン島や硫黄島のように強固に要塞化した島嶼陣地であっても、アメリカ軍の強襲で突破されることが示されたため、ペーパープランだった沿岸要塞建設は破棄された。

 代わって、沿岸への戦車部隊の配置と迅速な突進が計画された。

 条約機構軍は大きな地上戦を抱えていなかったから、地上兵力には余裕があり、沿岸部への戦車部隊はそれほど問題ではなかった。

 しかし、制空権のない状態での機動戦は困難が予想されたので、泥縄式であったが対空戦車や対空自走砲などが損傷車両や鹵獲車両から再生生産された。

 戦後にロシア軍やソ連軍は膨大な数の対空ミサイル車両を装備して、ハリネズミのようになっていくが、それは1944年以降の経験が基礎になっている。

 また、根本的な問題として敵がどこに上陸してくるのか分かっていなかった。

 連合軍はフランスの協力を得て北アフリカのアルジェリア、モロッコに多数の拠点を建設して、大軍を展開しつつあり、南フランスへの上陸が予想された。

 ブリテン島もアメリカ軍の大部隊が展開しており、北フランスのどこに上陸しても不思議ではなかった。

 また、エジプトのアレキサンドリアやシチリア島にも多数の艦船が入港しており、ギリシャ上陸やイタリア上陸もあり得る話だった。

 ソ連はお得意の諜報活動でアメリカから情報を得ようとしていたが、防諜体制が厳しくなっており、アメリカ民主党の協力者の口も重くなっていた。

 ソ連軍関係者の予想は、北フランスのノルマンディーだった。

 ブリテン島から30kmのパド・カレーは先の大戦でイギリス・アメリカ軍が上陸しようとして失敗した場所で、同じ愚は避けるだろうというのがソ連の分析だった。

 カレーよりは遠いものの最も戦力の集積が進んだブリテン島からも近く、上陸作戦の好適地が揃っていた。

 ロシア軍の分析では南フランスのマルセイユが最も危険と考えていた。

 太平洋の戦いから、地中海を渡るのはアメリカ海軍にとって造作もないことであり、大規模な港湾がある南フランスは上陸後の戦線拡大にも対応できるという利点があった。

 結論としては、そのどちらも間違っていた。

 1944年7月11日、連合軍が上陸したのはスペインだった。

 地中海方面からはバルセロナに上陸し、大西洋方面からはビルバオに上陸した。

 スペインは連合国として参戦し、連合軍に港湾の使用と領土内通過を許可した。

 条約機構軍は完全に奇襲された。

 これまで中立を標榜してきたスペインが参戦を決意したのは、シチリア島に脱出したイタリアの統領ベニート・ムッソリーニの説得によるものだった。

 スペイン内戦に勝利したフランシスコ・フランコ将軍は内戦中に多大な援助を受けたイタリアに大きな借りがあった。

 しかし、スペインは内戦で荒れ果てており、とても対外戦争に乗り出せる状況ではなく、世界大戦にも中立を標榜していた。

 実際には経済立て直しのために欧州各国から疎開工場を受け入れ、労働力を提供するなど、欧州連合よりだったのが、一応は中立となっていた。

 そのスペインが参戦したのは、このまま戦争が赤色陣営の勝利で終われば、次に踏み潰されるのは自分という強い危機があった。

 また、世界大戦の特需で経済立て直しが進み、疎開工場の受け入れで急速な工業化に成功していたこともスペインの背中を推すことになった。

 もちろん、参戦を拒否すればスペインのカリブ海植民地を米海兵隊が革命勢力から保護するために占領するという素敵な脅迫があったことも重要なファクターだろう。

 先の大戦において敵前上陸に失敗し、今次大戦においても大損害を出しているアメリカ軍はブラッディな敵前上陸を避けたいと考えており、ムッソリーニの説得を受け入れる形でスペイン進駐を承諾した。

 条約機構もスペインの奇襲参戦には一応、警戒していたのだが連合国軍はノルマンディーとマルセイユに多数の偵察機を送り込むなど、陽動に努めておりスペインの奇襲作戦をソ連のスパイから隠し通した。

 フランコ将軍に出し抜かれたことに気づいた条約機構軍はすぐにスペイン国境を踏み越えたが、連合国軍の展開の方が早く、スペイン空軍の航空基地にはP-51やP-47、スピットファイアが展開して制空権を確保した。

 スペイン軍共にピレネー山脈を駆け下りた連合軍は制空権を失った条約機構軍を各地で撃破していった。

 交通網の破壊で、撤退も増援もままならくなった条約機構軍は戦線を固守しようと試みて、却って傷口を広げた。

 ツゥールーズ・ポケットと呼ばれる包囲戦では、戦車や各種車両1,200台が撤退中に連合軍のヤーボにつかまり、全滅するという悲劇に見舞われた。

 その中には条約機構軍最強戦車と称されたトロツキー重戦車も含まれていた。

 トロツキー重戦車の122mm砲はいかなる連合軍の戦車も撃破可能だったが、空からの攻撃には無力だった。

 戦車同士の戦いならトロツキー重戦車は無敵だと思われていたが、実際にはM26を相手に撃ち負けることがしばしばだった。

 連合国軍は既存のM4中戦車に代わって、M26重戦車が大量配備されており、既存のT-34やパンテル戦車では対抗不能になっていた。

 アメリカ軍は当初、M4中戦車があればそれ以外の戦車は不要で、とにかく大量のM4を生産配備することが最良だと考えていた。

 これに異議を唱えたのはドイツ帝国陸軍のハインツ・グデーリアン大将だった。

 ドイツ帝国が本土を失陥した後、ドイツ帝国陸軍機甲総監に就任したグデーリアンは、ドイツ戦車部隊の再建を果たすために、機材の調達に奔走し、アメリカに渡航した。

 M3中戦車やM4中戦車といった機材の調達に成功したグデーリアンは、より強力な戦車の開発と生産を求め、アメリカ陸軍地上軍管理本部(AGF)と大激論となった。

 兵器生産の統一と効率化を進めたいAGFにとって、グデーリアンの要求は非合理的なものだったが、グデーリアンにしてみれば作ろうと思えばいくらでも作れるM26を造らず、敢えて弱い戦車を大量生産するなど理解不能なバカとしか言いようがなかった。

 実際の戦場ではM4中戦車が防御力不足でフランス戦線で多数撃破され、T-34やKV-1重戦車に対して火力不足が明らかになった。

 さらにアドルフ・ヒトラー首相とウィルキー大統領の直談判によってAGFトップのマクネアー中将が更迭され、AGFは敗北を認めてM26重戦車の量産配備にサインすることになった。

 M26重戦車はアメリカ陸軍によってパーシングの名が贈られたが、その真価を発揮して次々と条約機構軍を撃破すると兵士達からは非公式にグデーリアン戦車と呼ばれることになった。

 既存のM4中戦車もグデーリアンの提案によって90mm砲や増加装甲をつけた改良型となっており、1943年のように楽に勝てる相手ではなくなっていた。

 ロシア軍も改良型のT-34/85を投入して対抗したが、M4相手ならともかくM26相手には分が悪かった。

 7月18日には重要な港湾のボルドーが陥落し、7月21日にはマルセイユが陥落した。

 さらに8月1日には第二次欧州上陸作戦が発動し、連合軍はノルマンディー半島に殺到した。

 新たな上陸作戦はないと考えていた条約機構軍は不意を突かれ、背後にも敵を抱えることになり、全軍包囲の危険が生じた。

 条約機構軍はフランスからの全面撤退を決定し、ドイツへ脱出した。

 1944年8月25日に連合軍はパリを解放した。

 パリに入城したフランス首相のポール・レノーは、


「パリよ!私は帰ってきた!」


 と歴史に残る演説をして、パリは歓喜の渦に包まれた。

 ちなみにアドルフ・ヒトラー首相は似たようなセリフの演説をドイツに帰還したときに披露しようと考えており、アイデアを盗用されたとレノー首相に後で抗議している。

 パリを解放したことは大きな政治的な得点と言えたが、パリ市民の民生を連合国軍が負担することになり兵站に大きな負荷がかかり軍事的にはマイナスだった。

 しかも条約機構軍は焦土作戦で略奪の限りを尽くした後に、計画的にパリを放火・爆破しており、パリの都市機能は最低レベルまで落ち込んでいた。

 条約機構軍はただでフランスを連合軍に返却してやる気はさらさらなく、種籾一粒でも残さす奪うか、放火しながら撤退していた。

 トロツキー議長は、


「資本主義の残滓は消毒せねばならぬ」


 として、条約機構軍は徹底的にフランスを破壊しながら後退した。

 パリジャンが連合国軍を両手を挙げて歓迎したのは、すぐに兵隊の食料を分けて貰わないと餓死が迫っていたからだった。

 パリに足を取られた連合軍は本来の目的である条約機構軍の野戦軍殲滅に失敗した。

 連合国軍は条約機構軍の撤退を弱体化と誤認し、空挺部隊を投入してオランダ・ベルギーで電撃的な攻勢に出たが、これは条約機構軍の戦力をあまりにも侮った作戦であり、さほど間をおかずに失敗に終わった。

 ドイツ領内で再編成した条約機構軍は、英気を取り戻し、ドイツ決戦に備えることになる。

 しかし、その内情は薄ら寒いものだった。

 前述の田宮大将は再編成中の部隊を視察して、


「ガキと女と老人しかいない」


 と同盟国ロシアの人材不足が深刻なレベルであることを確認し、ソ連軍を全面に押し出した防衛作戦を立案した。

 さらに田宮大将は3個航空軍の増援を要求したが、これは本国から拒否された。

 1944年夏になると本州防空戦が本格的になり、本州近海にもアメリカの空母機動部隊が出没したことから、航空戦力はどれだけあっても足りなかった。

 サイパン島から発進するB-29の大編隊が、1944年8月から江戸や大阪、名古屋などの大都市に飛来し、高高度から軍需工場への精密爆撃を行った。

 ソ連空軍はHo177に多数のレーダーを搭載した早期警戒機を太平洋上の進出させ、B-29を捕捉すると戦闘機を発進させて進路前方で待ち伏せさせた。

 2000馬力級液冷エンジンを搭載したIt43Dは、P-51Dを相手に互角以上の戦いができるようになっていた。

 挿絵(By みてみん)

 燃料満載の状態で戦わなければならないP-51よりも軽荷の状態で戦える分だけ上昇性能や加速性に恵まれており、護衛戦闘機隊をB-29から引き離した。

 B-29の相手したのは双発重戦闘機のDo45で、機首集中配置の30mm機関砲でB-29を引き裂いた。

 その他に新型の空対空ロケット弾も大量に使用され、B-29迎撃に効果を発揮した。

 Do108も数は少なかったが、護衛戦闘機を無視して攻撃できる圧倒的な速力で、B-29迎撃に最も有効な兵器だと考えられた。

 しかし、エンジンの寿命は100時間程度しかなく、実戦ではさらに短かった。

 平均して50時間でエンジンのオーバーホールが必要になり、エンジンは事実上の使い捨てにされていた。それでもDo108は事故が続出し、殺人機とあだ名されるほどエンジンの信頼性の低さに苦しめられた。

 アメリカ軍はB-29の損耗率を3%以下と見込んで爆撃機計画を立てていたが、現実には平均5~8%という事前の想定を遥かに上回る高い損耗率を記録した。

 損耗率5%ということは、100機の爆撃が20回出撃すると全滅する計算である。

 アメリカ軍の戦略爆撃機のパイロットは25回出撃で退役を許可されたが、現実には25回も出撃して生き残れるパイロットは極めて稀だった。

 ヨーロッパ戦線では、より旧式のB-17やB-24を使った爆撃でも損耗率は3%以下に抑えられていた。

 米爆撃航空団にとって本州はヨーロッパよりも遥かに危険な空だったのである。


 損害の多さにたまりかねたアメリカ陸軍航空軍は、海軍に支援を要請した。

 米空母機動部隊は本州防空部隊へ直接攻撃を行うために本州近海へ襲来した。

 1944年9月12日から9月17日にかけて本州を台風のように通過した米第38任務部隊(ハルゼー艦隊)は艦隊型空母だけで21隻もある世界最大最強の艦隊航空戦力だった。

 一連の攻撃で米機動部隊は300機以上のソ連軍機を撃墜し、700機を地上撃破したと戦果判定した。

 実際に撃墜されたソ連空軍機は121機で、地上撃破されたのは98機でしかなかった。

 米海軍が過大な戦果判定を行ったのは、大量に設置された囮機を誤認したものだった。

 ソ連空軍は欧州での戦闘から、航空機の地上撃破を殊の外警戒するようになり、対空偽装や掩体壕運用を徹底するようになっていた。

 目立つところに置かれたのはゴム製のダミーバルーンか、ベニヤ板で作ったハリボテばかりだった。

 艦隊司令長官のウィリアム・ハルゼー大将は、ソ連軍機を1,000機撃破したとマスコミに豪語したが、現実はその半分以下の戦果でしかなかった。

 軽微な損害で圧倒的な米空母機動部隊の攻撃をやり過ごしたソ連側もハルゼー艦隊の接近にまるで気づかず、一撃離脱する空母機動部隊を捕捉できず、まともな反撃もできていないため、あまり褒められた対応とは言えない。

 しかし、半分は意図的なものだった。

 ソ連空軍は一般的に洋上航法能力が低かった。欧州の戦いでは必要ない能力だったからである。また、洋上航法訓練を積んだ対艦攻撃部隊であった第11航空軍をマリアナ諸島で失っていたことからソ連空軍は対艦攻撃力を欠いた状態で戦うことになった。

 本州決戦において航空戦を指揮することになったソ連空軍の槙島ゴーリキー大将は、ソ連海軍航空隊に支援を要請し、海軍航空隊の陸上攻撃機を先導機とすることで、この問題をある程度解消した。

 さらにこれまでの戦いから、よほどの大規模攻撃でなければ米空母機動部隊の防空網を突破することは不可能であると考えていた。

 しかし、洋上を移動する機動部隊を捕捉し、大規模編隊で攻撃することは技術的に困難だった。

 何しろ、分散配置された巡航速度も航続距離も飛行高度も異なる各種作戦機を同じ目標に同じ時刻に、しかも移動している目標にぶつけなければならないのである。

 それができるのは飛行甲板に多数の作戦機を並べて、カタパルトで一度に急速発進させることができる空母機動部隊だけだった。

 空母機動部隊の攻撃力が基地航空部隊に勝ると考えられたのは、同時発進能力の高さゆえにだった。

 また、洋上を移動する空母部隊を捕捉するにはある程度、攻撃隊を分散させるしかないので、基地航空隊による大規模飽和攻撃の難易度は極めて高くなる。

 槙島は空母部隊の動きを本州近海で拘束することができれば、大規模飽和攻撃「1000機爆撃」は成立すると考えており、そのために敢えてアメリカ軍を本州か、それに近い場所に上陸させる必要があると確信するようになった。

 槙島の提案は本州を神聖視するソビエト幕府幕閣からは精神異常者扱いされたが、岡田大老からは支持された。

 

「非常に大きな犠牲がでるだろう・・・しかし、我々はこれに耐えられる」


 岡田大老の承認により、ソ連空軍は戦力を朝鮮半島や東北地方に退避させて、アメリカ軍の爆撃に対して死んだふりした。

 ハルゼー艦隊の攻撃でソ連空軍が弱体化したと判断したアメリカ軍は、威力偵察を兼ねて1944年10月11日に南九州一体に大規模な爆撃を行った。

 この爆撃の損害は軽微なものだったが、対空砲火以外に抵抗を受けなかったアメリカ軍はソ連空軍の航空戦力が枯渇していると致命的な判断ミスを犯した。

 同月18日、アメリカ軍は沖縄本島への敵前上陸を行った。

 アメリカ軍の狙いは沖縄を占領することで、以南のソ連領と本州を切り離すと共に南九州上陸のための橋頭堡とすることだった。

 作戦名はアイスバーグ(氷山)。上陸兵力18万という第2次世界大戦最大の敵前上陸作戦だった。

 米軍の侵攻を引き受ける生贄の羊となった沖縄本島は、第32軍(5個師団基幹)が配置された。そのうち第9装甲擲弾兵師団は欧州戦線でも活躍した精鋭部隊だった。

 また、砲兵戦力は第11砲兵師団が充当された。砲兵師団は砲兵火力を殊の外重視するソ連軍独得の軍種で、1個師団全部が砲兵で編成されていた。

 通常は方面軍直轄兵力だったが沖縄防衛のために第32軍に編入されていた。

 第32軍はこれらの充実した兵力を戦訓に従って洞窟陣地、反射面陣地に配置しており、その巧みな陣地構築は戦後のソ連軍の教本にも使用されることになった。

 アメリカ軍は上陸前に準備砲撃として各種砲弾、ロケット弾、迫撃砲弾を10万発以上撃ち込んだが、洞窟陣地に立て籠もったソ連軍の損害は軽微だった。

 ソ連軍は地下で準備砲撃をやり過ごすと上陸海岸への猛烈な砲撃と犠牲を顧みない装甲騎兵による切り込み攻撃を行った。

 切り込み戦の先頭に立ったのは新鋭のティーゲル戦車だった。

 挿絵(By みてみん)

 ティーゲル戦車はヴォールク戦車から続くソ連戦車の集大成ともいうべき戦車で、40tクラスの重戦車になっていた。

 主砲の88mm砲と半自動装填装置の組み合わせ高速・連続射撃が可能となっており、いかなる連合軍戦車でも正面から撃破可能だった。

 沖縄でも多数のM4中戦車を撃破し、90mm砲装備のM26重戦車と互角に戦った。

 最終的に装甲騎兵の切り込みは米戦艦の艦砲射撃によって全滅することになったが、アメリカ軍に大打撃を与えて貴重な時間を稼ぎ出すことに成功した。

 その間にソ連軍は兵力の配置転換を行って沖縄中部の飛行場の防御を固めることに成功し、多大な犠牲を払ったが最後までアメリカ軍の手に飛行場が渡ることを阻止した。

 沖縄で一進一退の攻防が続く中、ソ連軍の空海戦力は九州や中国沿岸、台湾へ舞い戻り、決戦体制を整えた。

 ソ連海軍は済州島に全ての艦艇を集結させて、建軍以来初めて連合艦隊を編成した。

 ソ連海軍初の連合艦隊の艦隊司令長官には歴戦の秋雲大将が就任した。

 秋雲GF長官は、


「沖縄を救援できなければ、ソ連海軍の存在意義はない!」


 と言い切り、連合艦隊に全力出撃を命じた。

 1944年10月25日、済州島を出撃したソ連海軍連合艦隊は空軍の航空支援を受けつつ沖縄に向かって突撃を開始した。

 やっと現れたソ連艦隊主力を待ち構えていたハルゼー艦隊は、延べ885機に及ぶ攻撃隊を発進させて、これを迎撃した。

 1415年10月25日、フランスのアジャンクールでヘンリー5世の率いるイングランド軍が長弓隊を駆使して、突撃するフランス諸侯軍の重装騎兵を破った戦いにちなんでセント・クリスピンの虐殺、或いはソ連海軍の命日と呼ばれることになったこの戦いは、直掩機を揉み潰した米攻撃隊がソ連艦隊に一流海軍の暴力を叩きつけた。

 歴戦の戦艦富士が最初に撃沈され、八島がその後に続き、船体後部に飛行甲板を装着した航空戦艦秋津洲と瑞穂が沈み、江戸時代からソ連海軍を支えてきた富士級戦艦4隻が全艦失われた。さらに大型巡洋艦4隻が瞬く前に撃沈され、多数の巡洋艦と駆逐艦が後に続いた。

 旗艦の戦艦解放は空中から見ても最も目立つ巨艦であったため、集中攻撃を浴びた。

 最終的に解放が被弾したのは魚雷11本、爆弾12発となった。

 それでもなんとか佐世保に帰還できたのだから、解放が不沈戦艦であるという触れ込みに偽りはなかったと言えるだろう。

 或いは空軍が献身的な防空戦闘を行ったことが幸いしたと言えるかもしれない。

 艦隊司令長官の秋雲大将は部下の制止を無視して露天の防空指揮所にとどまり、F6Fの機銃掃射を受けて戦死した。

 これは覚悟の自殺だったと考えられている。

 新鋭艦の剣や礼文も1年以上ドック入りが必要な状態だったが、なんとか帰還した。

 しかし、ソ連海軍は事実上、この時点で壊滅したと言えた。

 岡田大老は信じて送り出した艦隊が成すすべもなく壊滅したことに衝撃を受けて一時的に幼児退行した。


「なんでソ連海軍すぐ死んでしまうん?」


 と山本五十六海軍奉行に問いかけ、


「(お前が)坊やだからさ」


 と言われて部屋に引きこもった。

 しかし、連合艦隊の犠牲は無意味ではなかった。

 連合艦隊が鳥葬とされる中、南九州、台湾、中国沿岸からソ連空軍の攻撃隊1,012機がハルゼー艦隊に殺到した。

 航空戦を指揮した槙島大将は非常に厳密な作戦指揮と攻撃調整を実施した。

 これは分散した各飛行場と航空部隊(しかも全ての機が巡航速度も航続距離も異なる)を統制し、ばらばらの時間に発進させ、空中集合の時間を調整し、異なる方向からなおかつ同時に敵艦隊を攻撃するという気の遠くなるような膨大な作業だった。

 槙島大将は早期反撃を要求する大本営からの電話を叩き切り、電話器に向かってピストルを発砲して永遠に沈黙させた程度にその統制は厳格に守られ、10月25日に午後3時14分にソ連空軍の戦爆連合の大群がハルゼー艦隊の頭上を覆い尽くした。

 槙島大将が提唱した「1,000機爆撃」が完成した瞬間だった。

 アメリカ海軍の悪夢として最終的にイージス・システムを生み出すことになるソ連軍の飽和対艦攻撃は、米空母バンカーヒル、ヨークタウン、ホーネット、プリンストン、ラングレーを撃沈。エンタープライズ、サラトガを大破させた。

 その他に巡洋艦6隻、駆逐艦20隻が撃沈され、戦艦アラバマやワシントンが中破し、無敵を誇った米空母機動部隊は壊滅した。

 ソ連軍はこの日のために秘匿してきた新兵器を多数、投入して戦果を確認した。

 I号一型甲無線誘導弾は、沖縄沖航空戦で初めて集中投入され、大戦果を挙げた。

 これは最初期の誘導爆弾/対艦ミサイルで、推進機関として過酸化水素水と過マンガン酸ソーダ液を反応させるヴァルター・ロケットを用いた。

 ヴァルター・ロケットの先進国はドイツ帝国で、研究施設が1940年にロシア軍に占領されると研究資料が接収され、ソ連にも回覧された。

 I号一型甲無線誘導弾の誘導装置部分もヘンシェル社で開発中だったもので、ジョイスティックによる目視操作機構は殆ど同一のものである。

 本土を失ったドイツ帝国はこの革新的な兵器を完成させることができなかったが、その技術はソ連で花開くことになった。

 ロケットの白煙を引いて飛ぶI号一型甲無線誘導弾が命中したバンカーヒルは弾頭の800kg爆弾が格納庫内で爆発し、大火災が発生して消火不能になり、破棄された。

 沈まなかったものの損傷した艦艇はトラックに後退する最中に落ち武者狩りのソ連潜水艦に捕捉され、空母レキシントンとワスプが雷撃によって沈んでいる。

 空母部隊の壊滅で制空権を失った侵攻部隊は沖縄から撤退を開始し、追撃するソ連軍との間で激戦となった。

 最終的に沖縄から生きて帰ることができたのは上陸兵力の約半数で、それ以外は捕虜となるか戦死するしかなかった。

 撤退する米軍を海に追い落とした第32軍司令官の牛島満中将は、


「米軍の退却を確認せり」


 と電文を発し、これはソ連の流行語にもなった。

 これまでアメリカ軍の攻勢が続いていた太平洋戦線で、ソ連軍は初めてアメリカ軍を追い返すことに成功した。

 沖縄の勝利は条約機構軍将兵の士気を天を突くほどに高めた。

 しかし、全体として押されている状況に変化はなく、欧州戦線ではアメリカ軍の物量作戦によってベルギーを失っていた。

 ベルギーのアントワープは、連合国軍の補給港となり、条約機構軍の執拗な妨害にも関わらず大量の兵站物資が荷揚げされ、1945年の春季攻勢の準備が着々と進められた。

 ワルシャワの条約機構軍総司令部では、連合国軍の準備が完全に整う前に攻勢にでなければ来春にはドイツを失うと判断された。

 しかし、連合国軍の戦略爆撃のために多数の航空兵力が必要であったため、条約機構軍は適切な航空支援がないままに反攻作戦を立案するという困難に直面した。

 そこで反攻作戦は、悪天候を利用することになった。

 ヨーロッパの冬季は分厚い雲に覆われ、霧や降雪が続き、航空機の活動は困難となるため連合国軍のアドバンテージである航空支援を封殺できる見込みがあった。

 また、アメリカ軍やイギリス軍は冬季戦の経験が少ないのに対して、ロシアやソ連にとって冬季戦はお家芸であり、有利に戦えると考えられた。

 乏しいとされた航空戦力も、ロシア空軍を中心としてソ連空軍も一部も援助する形で3,800機がかき集められた。

 これらの戦力は通常の航空支援ではなく、天候が回復した場合に敵の航空基地に突入して連合国軍の航空部隊を地上撃破するために使用されることになった。

 また、この作戦のために様々な最新兵器が投入された。

 1944年12月16日、条約機構軍は反攻作戦を開始した。

 作戦名は、ラインの護り。

 大寒波の到来と主に各種重砲、迫撃砲、カチューシャ・ロケットなど15,000門の火砲が火を吹き、連合軍の陣地を吹き飛ばした。

 条約機構軍は1年前と同じアルデンヌの森から攻勢を開始し、連合軍の戦線を突破して迅速にセーヌ川まで進出した。

 突破戦闘の先鋒を務めるのは、トロツキー重戦車や新型のティーゲル戦車で、さらに戦線を食い破る破城槌としてナズーリン重戦車が投入された。

 挿絵(By みてみん)

 ナズーリン重戦車は、世界大戦におけるソ連軍の最大最強の重戦車で、半自動装填装置付きの大口径128mm砲と砲塔前面180mmの重装甲を備えていた。

 重量は72tに達しており、動いていること事態が奇跡と言われていたが、実は稼働率はそれほど悪くなく、パワーステアリング付きの操縦装置のため軽快に動かすことができた。

 しかし、調子に乗って急旋回などをしようものなら直ちに走行装置が破損するなど、非常に繊細でデリケートな足回りといえた。

 また重すぎて橋を破壊するなど、しばしばソ連軍にとっては前進の足手まといとなったが、防御に回った大戦後半においてはそれほど大きな欠点にはならなかった。

 ちなみに本来の名称はトロツキー重戦車に対抗して、スターリン重戦車となる予定だった。スターリンは岡田大老の芸名の一つで、鉄の男という意味である。しかし、名称決定後に征夷大将軍を差し置いて大老の名を戦車に使用するのはどうかという意見が出され、慌ててナズーリン(Nazrin)に差し替えられたという複雑な経緯がある。

 ちなみに開発秘匿名称はマウスで、72tの重戦車には不似合いものだが、これは敢えて逆の意味の言葉を使用することで情報撹乱を狙ったものである。

 条約機構軍の攻撃に対して、連合軍の反応は遅れた。

 というのも、ソ連軍は攻勢に先立って特殊部隊を投入し、各地で撹乱工作を行った。

 その中には連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の暗殺作戦も含まれており、暗殺部隊がパリの連合軍司令部に爆薬を満載したトラックで突入して、自爆した。

 マッカーサー暗殺には失敗したものの副官のアイゼンハウアーが爆死した。

 これは後の分析でマッカーサー暗殺よりも効果的だったという分析もあるほどの大打撃をアメリカ軍に与えることになった。

 何しろマッカーサー元帥は独善的な性格で英仏軍から蛇蝎のごとく嫌われており、副官のアイゼンハウアーが調整に奔走してなんとか連合国アライアンズの体裁を整えていたと言われるほどだった。

 さらにマッカーサーには不必要なまでに大量の護衛がついたため殆ど軟禁状態になり、まともに作戦指揮を取れる状況ではなくなった。

 また、各地で完璧な英語を話せるロシア兵が米軍の軍服を来て破壊工作や流言飛語を流して情報を撹乱した。

 地味な破壊工作だが、道路標識の書き換えは非常に効果的で、バストーニュ救援に向かったパットン戦車軍団を迷子にして立ち往生させるという大戦果を挙げている。

 1943年にダンケルクで大量に鹵獲したM4中戦車や各種米国製車両を使った偽米軍部隊がセーヌ河にかかる橋を奪取するなど、明らかに戦時国際法違反の謀略作戦も行われた。

 これらの謀略作戦の指揮をとったのは、ソ連陸軍のリトバス・クドリャフカ少佐である。

 常に二頭の軍用犬を連れて歩くクドリャフカ少佐はGRUのスペツナズ(特務部隊)の破壊工作戦のエースで、単独でセーヌ川のダムを爆破し、連合国軍の進撃を遅延させるなど、ヨーロッパで最も危険な女として知られていた。

 猛烈な寒波と謀略作戦によって条約機構軍は12月25日までにアントワープを包囲することに成功した。

 ベルギー一帯で包囲された将兵は25万人および、連合国軍は全力で救援に向かった。

 天候が回復した26日以降、連合軍航空部隊の航空攻撃が予想されたため、それに先立って各地の飛行場へ大量の条約機構軍の航空機が殺到した。

 しかも、それは無人で飛行していた。

 無人航空機爆弾(ロシア軍秘匿名称エレクトリーチカ(電車の意))の開発は、ロシア空軍が1940年にドイツ帝国のフィーゼラー社を占領し、無人自爆兵器に関する技術資料を入手したことに始まる。

 無人航空機による自爆攻撃は、ロシア空軍に大きな感銘を与え、ソ連の協力を得て開発が継続された。

 とくに奇襲攻撃用の地上発射システムには、ソ連海軍が航空戦艦用に開発していた油圧カタパルトが流用されている。

 完成した無人航空機爆弾は奇襲効果を高めるために厳重に秘匿され、1944年12月26日に初めて実戦投入された。

 無人航空機爆弾の98%は攻撃目標となった連合軍の飛行場には命中せず、その周辺の田園か、都市、あるいは山林に落下して何の戦果も得られなかった。

 この時代の誘導技術で精密攻撃は不可能で、飛行場のような比較的巨大な目標であっても命中させることはできなかった。

 しかし、レーダーには600機以上の高速戦闘機が突如として現れたかのように移り、連合軍戦闘機部隊に対する囮の役割を果たした。

 無人航空機爆弾に迎撃機がひきつけられている間に、条約機構軍の戦闘機は各飛行場に突入して銃爆撃で多数の敵機を破壊して離脱することに成功した。

 直接的な戦果はなかったものの、無人航空機爆弾は条約機構軍の勝利に貢献するところ大だったと言えるだろう。

 なお、動作不良で墜落した無人航空機爆弾は連合国軍に鹵獲され、戦後各国でコピーされ、巡航ミサイルの開発母体となった。

 頼みの綱の航空支援が失われた連合軍は粘り強く包囲網を守り抜く条約機構軍を突破できず、ベルギーで包囲された連合軍部隊は降伏を余儀なくされた。

 反攻作戦は辛うじて成功を収め、連合軍は補給港のアントワープを失って、補給線再構築のために撤退した。

 その間に条約機構軍は、防御を固めてライン川に沿って広大な範囲にジンギスカン・ラインと呼ばれることになる防衛陣地を作り上げることに成功した。

 戦線は膠着状態となり、膨大な犠牲と莫大な戦費を費やして1943年の戦線に戻っただけだった。

 ただし、1943年とは異なり、戦線を飛び越えて大量の戦略爆撃機がドイツやポーランド、東欧各地を爆撃しており、各国の経済を破綻させつつあった。

 さらに核物理学を使用した全く新しい作動原理の大量破壊兵器が実用段階に入り、1945年7月16日にアメリカのアラモゴード砂漠で最初にその力を解き放った。

 爆発実験に使用されたのはプルトニウムを使用するインプロージョン方式の原子爆弾で、爆発威力は18キロトン(TNT爆薬1,800t分)であった。

 爆発の衝撃波は160km離れた地点でも感じることができ、キノコ雲は高度12kmに達した。

 所謂、マンハッタン計画は1940年にロシア軍がドイツ帝国を占領し、大量の核物理学関連技術を入手したことから始まる。

 共産主義者がウラン爆弾を先に保有する可能性が生じ、焦ったアメリカ、イギリス、カナダがロシアよりも先にウラン爆弾(原子爆弾)を保有するために、莫大な費用を投入してウラン濃縮工場、プルトニウム生産工場を建設して、最初の核保有国となった。

 なお、ロシア軍は核物理学関連技術に興味を示したもののプラント建造に莫大な費用がかかるため、大戦には間に合わないと考えており、ウラン爆弾を開発することはなかった。

 その点はソ連も同様であり、費用の問題から研究所レベルの開発に留まっていた。

 1944年12月以降、膠着した戦線を打開するために、連合軍は原子爆弾の実戦投入に大きな期待を寄せていた。

 しかし、使用には慎重な検討が必要だった。

 ヨーロッパでの使用は初期段階で排除された。

 連合国陣営は多数の欧州亡命政権を抱えており、特に爆撃目標となったドイツやポーランドは通常爆弾による戦略爆撃でさえ、猛烈な抗議に遭っていた。

 ドイツ首相のアドルフ・ヒトラーはドイツ本土への原爆投下は絶対不可で、もし原爆が投下されるならソ連と単独講和するとまで言い切っていた。

 ポーランドも似たような反応を示しており、戦争の”正義”を確保するためにヨーロッパの被占領国の領域に原爆を投下するわけにはいかなくなった。

 そこで投下目標とされたのが本州だった。

 西比利亜に広大な領土をもつソ連だったがその故国はユーラシア大陸にへばり付くよう位置する弓状孤島列島だと考えられており、本州はソ連における先進工業地域となっていた。

 本州戦略爆撃を指揮するカーチス・ルメイ少将は戦略爆撃がソ連軍の迎撃で思うように進まず、1発で大都市を消滅させる原子爆弾の実戦配備を待ちわびていた。

 1945年に入るとソ連軍はジェット戦闘機の量産体制を整え、R3ターボジェットエンジンを年産100,000台体制に乗せていた。

 西比利亜で生産されたDo108は続々と本州に移送され、ジェット戦闘機1,000機体制を目標に部隊編成が進んでいた。

 さらにヴァルター・ロケットエンジンで飛ぶ無人航空機爆弾(地対空ミサイル)も一部実用段階に入っており、江戸の久我山に実験部隊が展開してB-29を多数撃墜していた。

 通常爆弾を使用した戦略爆撃では損害が増えるばかりであり、1発で大都市を破壊できる原子爆弾の実戦投入が待たれたのはある意味自然なことであった。

 しかしながら、大量破壊兵器の使用がハルマゲドンの扉を開く可能性があることについて、真剣な検討がなされたとは言えなかった。

 現場指揮官のルメイ少将もそうであったし、最高意思決定段階ホワイトハウスにおける判断もまた楽観的なムードに支配されていた。

 大威力兵器の魔力に目が眩んでいたとしか言えない状況だった。

 最初の原爆投下目標は京都とされた。

 これはアメリカ政府が、京都こそソ連という社会主義体制の精神的な聖地となっており、それを破壊することでソ連の戦意を挫くことができると考えたためである。

 このような判断の背景を理解するには、国家社会主義神道について説明が必要となる。

 国家社会主義神道とは、ソビエト幕府成立後に存在意義に重大な問題が生じた朝廷が、次の1000年間を生き延びるために生み出した社会主義的な宗教である。

 江戸時代の征夷大将軍は、天皇によって任じられるものであり、形式的に征夷大将軍は天皇の家来であり、天皇家は本州の頂点にたっていた。

 しかし、ソビエト幕府では憲法で国家の代表が征夷大将軍と規定され、徳川家は法律によって世襲が認められる形となり、征夷大将軍は天皇家から独立した。

 征夷大将軍の独立は、その上位者である天皇家の存在を揺るがした。

 なにしろ、ソビエト憲法のどこにも天皇家に関する規定はないのである。

 共産党は天皇制を廃止すべきだと主張したが、保守党は絶対反対であり、政治的なデッドロック状態になった。

 天皇家の資産は僅かなものでしかなく、国家の支援がなければ早晩に行き詰まることは明らかで、しかし、国家の支援=公金支出には相応の法的な根拠が必要になる。

 頭を悩ませたソビエト幕府がたどり着いた結論としては、天皇家を宗教団体にすることだった。天皇家も存続を賭けてその話に乗った。

 西比利亜にもウラル大社や流雲神社のような神社はあり、神道は西比利亜においてもそれなりに存在感があった。

 天皇家を全国の神社の氏子総代と再定義して、国家社会主義神道なるものが整備されていったのが1920年代のことだった。

 国家社会主義神道は天皇家存続のエクスキューズでしかなかったが、殊の他日本人の精神との親和性が高く、さらに分裂主義の強いソ連の精神的な統合を図る上で都合が良かったので1930年代に入ると国策として大々的なプロパガンダが行われた。

 今上天皇自身が奇跡的にも公平無私の高潔な人格者であったことから、熱狂的な信者が集まり、国家社会主義神道はソビエト幕府でも制御できない政治的なアンタッチャブルとなった。

 幸いなことに今上天皇は天皇家存続さえ確保されていれば、現世権力を望まない立場を貫いており、政治問題となることは回避された。

 しかし、世界革命遂行において、国家社会主義神道が精神的な根拠となったことが、今上天皇にとって命取りとなった。

 1945年8月15日、京都は核の炎に包まれた。

 京都はそれまで戦略爆撃の目標とされていなかったことから、大阪、名古屋といった周辺の大都市から多くの疎開者が集まっていた。

 そのため、京都原爆投下は死者55万人という破滅的なものとなった。

 アメリカ軍は国家社会主義神道の根幹をなすソビエト現人神抹殺に確実を期すため、2重の陽動作戦を実施し、防空戦闘機部隊をおびき出した上で、偵察機を装った原爆投下機を単機で侵入させた。

 そのため、投下時に空襲警報は発令されおらず、今上天皇を含めて殆どの住民が日常生活を送っていたことから、熱線と爆風によって殆どのものが即死した。

 原爆投下と天皇弑逆が江戸に伝わると将軍徳川信忠は、裸足のままで庭に降り、家族が止めるのも聞かず京都に向かって土下座した。

 こうした現象は本州各地でほぼ同時に発生し、海を超えて台湾やフィリピン、西比利亜にも伝播した。

 所謂、1億総土下座である。

 岡田大老はこうした現象を全く理解できず、共感もしなかったが、背筋が凍るものを感じて部下が職務を放棄していても、気が済むまで土下座させた。

 アメリカ合衆国は宿命的な敵国を自らの手で生み出したと言えた。

 1945年8月15日こそ、米ソ冷戦が始まった日とする歴史研究者もいる。

 1億総土下座の後、ソ連は奇妙な沈黙に包まれた。

 何らかのステートメントの発表を期待していたアメリカ合衆国は肩透かしを食らったが、1945年8月20日にマリアナ諸島の米軍基地がソ連と同様に沈黙したことで事態を把握した。

 片道攻撃のHo177の12機編隊はサイパン島やグアム島のアメリカ軍航空基地へGG攻撃を敢行し、全機全滅と引き換えにこれを完全に沈黙させることに成功した。。

 GGとはジャーマンガスの略語で、1940年にロシア軍がドイツ帝国を占領した際に接収した新型の神経ガス(サリン)のことである。

 京都への原爆投下の報復に、ソ連は全面的な大量破壊兵器の使用を含むハルマゲドン戦争を決意し、最初にマリアナ諸島の米軍基地へサリン攻撃を行った。

 この攻撃で、京都への原爆投下を指揮したアメリカ陸軍航空隊のルメイ少将や原爆投下機のクルーが即死している。

 サイパン島のアメリカ軍基地には名古屋に投下される予定の2発目の原爆が保管されており、8月23日に2回目の原爆投下が行われる予定だった。

 しかし、ソ連軍のコルドゥーン(魔法使い)作戦サリン攻撃によって、2発目の原爆投下は阻止された。

 硫黄島にもサリンが散布され、アメリカ軍の航空部隊を皆殺しにした。

 サイパン島攻撃後、岡田大老は幕府の公式発表として、アメリカの原爆投下を人道に対する犯罪であると非難した。

 ソ連の毒ガス攻撃を招いた責任は全てアメリカ合衆国にあるとして、


「今次大戦は、人類にとって最後の戦争となる」


 というハルマゲドン宣言を行った。

 サリン攻撃とは無関係だったが、8月29日にはI400型潜水艦4隻が特殊水上攻撃機を使用してパナマ運河攻撃を実施し、3つの閘門と運河用のダム湖を航空魚雷で爆破した。

 I400型潜水艦は3機の特殊水上攻撃機を搭載する潜水空母と呼ぶべき存在で、ソ連海軍がパナマ運河を爆破するために建造した秘匿兵器の一つだった。

 I400型潜水艦が揃ったのは大戦末期だったが、パナマ運河爆破によってアメリカ軍の兵站計画を根本から破壊することに成功している。

 さらにソビエト幕府の誇張され尽くしたプロパガンダにより、I400型潜水艦によってアメリカ東海岸であっても毒ガス攻撃が可能であることになり、ニューヨークやボストンでは市民が都市部から脱出するなど、大パニックが発生した。

 また、全米で皮膚が黒く変色して死に至るという謎の奇病が流行した。

 これは炭疽菌の典型的な症状なのだが、当局はパニックを恐れて報道管制を実施しており、事実が明らかになったのは戦後しばらくしてからだった。

 得意の諜報活動で多数のスリーパー・ニンジャをアメリカ合衆国内に潜ませていたソ連は、全面生物兵器戦争を展開し、ホワイトハウスや陸海軍省に炭疽菌入手紙爆弾を送付した。

 また、ソ連独自のローテク兵器である風船爆弾にもBC兵器が搭載され、停戦までに14,500個が北米大陸に向けて発射された。

 サクラメントに着弾した風船サリン爆弾によって2万人が死傷する大惨事となった。

 ソ連が全面BC兵器戦争に移行したことは世界を震撼させ、岡田大老のハルマゲドン宣言がはったりなどではなく本気であることが明らかとなった。

 ただし、攻撃が行われたのは対米戦のみで、ヨーロッパではBC兵器は使用されなかった。

 そこに一縷の望みを見出したチャーチルやヒトラー、ムッソリーニといった欧州各国首脳はソ連に対する一方的な一時停戦宣言を行った。

 ロシアのトロツキー議長は即座に同調して停戦を宣言した。

 アメリカは事前の調整から完全に外されており、停戦宣言は冷水をかけられた形だった。

 ソ連にとっても水面下の予備交渉は全く無くトロツキーの停戦宣言は寝耳に水だった。

 チャーチルはショック療法で棍棒代わりに原子爆弾を振り回すヤンキーと化学兵器で武装したバーサーカーに理性を取り戻させることに成功した。

 状況はもはや戦争以下の憎悪をぶつけ合うだけの殺し合いに成り果てており、今すぐにでも停戦しなければ本当に人類の存続が危ぶまれた。

 何しろ、ソ連では人への感染性が極めて高い天然痘ベースの強毒性ウイルス兵器の実戦投入が迫っており、使用された場合には全世界で1億人が死亡すると見込まれていた。

 トロツキーはソ連と心中するつもりはさらさらなく、破産寸前の国家経済に内心は今すぐにでも戦争を止めたがっていた。

 革命で起きた国家が革命で倒されるなど、あってはならなかった。

 1945年10月2日、コロンボにて休戦協定が結ばれた。

 巨大な破壊と癒やされない憎悪を残したまま第2次世界大戦は終わった。





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― 新着の感想 ―
[一言] こうなるともう日本人絶滅してでもアメリカを滅ぼすことになるな。 創作だからいいけど現実でも天皇暗殺されたら同じことになってそう
[良い点] いやー凄い展開ですね [一言] 明仁様は天皇にならんかった?
[良い点] 滅多に書かれない所まで突き抜けて行った! [気になる点] 亡命政権も自国奪還を棚上げしてでも一時停戦に動いた辺り 本当に人類最終戦争の実感があったんだろうなあ けどこれ停戦できるの? し…
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