第2次世界大戦(4)
第2次世界大戦(4)
タイクーン・オペレェツァとは、1943年5月10日に発動されたワルシャワ条約機構軍の大規模攻勢作戦の名称である。
アメリカ参戦前にフランス戦線の決着をつけるため、条約機構軍は総力を挙げて北フランスへ殺到することになる。
その総兵力は700万という膨大なものとなっており、フランス軍の170万やイギリス軍大陸派遣軍120万、ドイツ帝国軍40万、イタリア軍80万を合計しても2倍近い兵力差が存在した。
攻勢正面となる北フランスには、戦車7,000両と火砲33,000門、航空機10,000機が集められ、火力で欧州連合軍を粉砕する準備が整えられた。
ワルシャワの条約機構軍本部では、今度こそパリを陥落させると息巻いていたが、懸念事項がないわけではなかった。
空の戦いは、徐々に欧州連合軍が優勢となりつつあり、制空権の確保が難しくなっていた。
1942年いっぱいはスピットファイアMk.5相手に優勢を確保していたIt43だったが、欧州標準戦闘機・タイフーン相手には分が悪くなっていた。
ユーロファイター・タイフーンは、機体の開発はドイツが担当し、エンジンの開発はイギリスが担当した英独合作機だった。
タイフーンの前身となる試作機はドイツ帝国のフォッケウルフ社が開発し、BMW製空冷エンジンを搭載する予定だった。
当時のヨーロッパ製戦闘機は殆どは液冷エンジン機で、液冷エンジンこそ空気抵抗を減らす最適解であると信じられていた。
そのため、空冷エンジンで時速600kmを超えようとするフォッケウルフ社の試作機はドイツ帝国空軍さえも懐疑的な目で見ていた。
ドイツ帝国が本土を失うとフォッケウルフ社はイギリスに疎開して作業を続けたが、BMWのエンジン工場がロシア軍に占領されたため、代替エンジンが必要になった。
フォッケウルフ社の主任設計技師であるクルト・タンク博士は、ロールス・ロイスのマーリンエンジンの提供を希望した。
しかし、イギリス航空省は農夫のような朴訥な顔したドイツ人技師の要求を一蹴して、ネイピア社のセイバー・エンジンを割り当てた。
マーリン・エンジンは既にスピットファイアやランカスターの発動機として大量に使用されており、外国の試作機に割り当てる余裕などまるでなかったのである。
セイバー・エンジンはH型24気筒という独特すぎるエンジンレイアウトが災いして、2,400馬力という高出力と引き換えにエンジンの信頼性が低くかった。
イギリス航空省は見るからに失敗作なドイツの首なし戦闘機に、ハズレのエンジンを割り当てて、失敗作が本当に失敗するように仕向けたつもりだった。
イギリス人としてはスピットファイアがあれば十分で、その後継機もイギリス製にしておきたいというのが本音だった。
ドイツ設計の機体にイギリス製の心臓を載せた試作機は事前の予想を覆し、高度7,000mで時速701kmを発揮して欧州連合軍最速戦闘機の名を獲得した。
運動性も高く、急降下からの引き起こしを繰り返す一撃離脱戦法を用いると既存のどの戦闘機も追随不可能だった。
すぐに試作機はRAFのテストを受けて合格し、タイフーンと名付けられた。
ただし、エンジンの信頼性に著しく問題があり、戦線投入可能と判断されるようになったのは1年後の1942年7月からだった。
北フランスではIt43が欧州連合軍から制空権を奪っていたが、タイフーンが登場して一撃離脱戦法に徹するようになるとそれまでのような一方的な戦いはできなくなった。
タイフーンは単段式過給器しか持たないため、高度7,000m以上の高高度を飛ぶ重爆撃機の護衛には使えなかったが、地上攻撃機護衛には十分だった。
また、タイフーンには戦闘爆撃機としての適性もあり、大量のロケット弾を搭載することができた。
ソ連軍はタイフーンのロケット弾攻撃は軽巡洋艦の斉射に匹敵すると判定していた。
欧州連合軍が新型戦闘機を投入してきたことはすぐにソ連軍の知るところになり、情報収集が行われた。
結果としては、It43では高度8000m以上で戦えば有利だが、それ以下の高度では不利となり、格闘戦以外では対抗することが難しいという判定だった。
ソ連軍はIt43に液冷2000馬力級エンジンを搭載したD型の開発を進めていたが、量産配備は1943年末からで、大君攻勢には間に合わなかった。
ロシア空軍も新型のYak-3やLa-5を投入していたが、タイフーンに性能面で勝るものではなかった。
大君攻勢に先立って、条約機構軍は航空撃滅戦を開始し、大量の戦闘機部隊を北フランスに送り込んだが、タイフーン相手に悪戦苦闘した。
常時100機以上の戦闘機が激突した北フランス上空を欧州連合軍は絶対防空戦域に指定して、タイフーンを始めとしてスピットファイアやP-38やP-47のような輸入戦闘機を投入して守っていた。
欧州の空の戦いにおける米軍機のプレゼンスは大きく、P-38は双胴の悪魔として、ソ連戦闘機パイロットから恐れられた。
高空性能の高いP-47も驚異でB-17の護衛にも投入され、ソ連空軍を苦しめた。
欧州連合軍は攻撃を予期していたが、超低空侵入するソ連機を全て迎撃するのは不可能で、各地の飛行場に大打撃を受けて一時的に機能を低下させた。
条約機構軍は、空軍が局地的な航空優勢を確保すると全戦線で火蓋を切り、猛烈な準備砲撃を行った。
兵士の頭上を飛び越えて25センチ列車砲弾を筆頭に各種榴弾、カチューシャ・ロケット弾が欧州連合軍の陣地に殺到し、事前の偵察結果に基づき、砲兵制圧射撃が行われた。
砲兵支援と航空支援を受けつつT-34やパンテルが前線を突破し、戦いは機動戦に移行した。
ここまでは概ね欧州連合軍の想定どおりだった。
欧州連合軍は縦深防御を敷いており、戦線を突破されても後方から次々に兵力を押し出すことで条約機構軍の機動部隊に対応した。
また、各地に大量の対戦車壕を構築しており、条約機構軍を悩ませた。
条約機構軍は対戦車壕で立ち往生したところで阻止砲撃を浴びて、各地で立ち往生した。
欧州連合軍は十分に条約機構軍の第1梯団を消耗させ、後続の第2梯団に対して猛烈な爆撃を行った。
ロケット弾を抱いたタイフーンが戦場と飛行場を往復して、条約機構軍特有の無停止進撃のために躍進攻撃を行おうとした第2梯団を足止めした。
航空戦力で勝る欧州連合軍は、空地を緊密に一体化させた戦闘を展開して、条約機構軍の縦深攻撃戦術に対抗した。
欧州連合軍は守り勝ち、条約機構軍の第1波を無力化し、第2波を空爆で壊滅させた。
攻勢開始から15日目には欧州連合軍は総反撃に転じ、戦線を押し上げた。
こうして反撃は全く成功したかのように思われた。
全く成功しすぎていた。
攻勢開始から18日目、条約機構軍の第3梯団は戦車部隊が通行不能だと考えられていたアルデンヌの森を突破して、突如として戦線に現れた。
条約機構軍の第1梯団と第2梯団は囮だった。
欧州連合軍の主力を縦深陣地の底からおびき出して、側面攻撃することが条約機構軍の真の目的だったのである。
このためにアルデンヌの森では1年も前から偽装工作を行って戦車が通行できるだけの道路が建設されており、森の中には大量の武器弾薬が集積されていた。
第3梯団が現れたのは欧州連合軍の主力が反撃のために戦線を押し上げようとしたまさにその瞬間であり、条約機構軍はこれに強烈な左フックを食らわせたようなものだった。
奇襲を受けた欧州連合軍ではパニックが発生し、第3梯団は欧州連合軍主力を包囲するためにひたすら英仏海峡に向かって突進した。
欧州連合軍は第3梯団阻止のために猛烈な空爆を行ったが、条約機構軍は本命の第3梯団を守るために全ての戦力を結集し、犠牲を顧みない航空支援を行った。
欧州連合軍は混乱に巻き込まれなかった後方の予備隊を投入し、第3梯団の側面を攻撃したため、アラス大戦車戦が発生した。
欧州連合軍の予備部隊を率いたのはエルヴィン・ロンメル中将で、機動戦の名手として広く知られていた。
ロンメルの第7装甲軍は戦車3個師団で北フランスの地方都市のアラスを確保した。
これは第3梯団の側面を脅かす重大な脅威で、排除せず進軍することは不可能だったため、ロシア軍の第5親衛戦車軍が奪還に向かって、待ち伏せる第7装甲軍と激戦になった。
ロンメルは天才的な戦術家で、フランス空軍の高射砲部隊に対戦車攻撃を命じ、拒否されると戦車砲で脅して無理やり対戦車攻撃に投入し、大きな戦果を挙げた。
フランス軍は高射砲は基本的に固定式で、野戦での運用は考慮されていなかったのだが、一応、自衛用に徹甲弾が支給されていたので、対戦車戦闘は可能だった。
ドイツ軍戦車部隊は、本土を失ったことから国産戦車を装備することは不可能だったので、全てアメリカ製のM4中戦車で編制されていた。
M4中戦車は防御力が不足していたが、機械的な信頼性に富み、壊れやすいイギリス戦車よりはマシだと考えられていた。
第5親衛戦車軍は待ち伏せするロンメル機甲軍とフランス軍高射砲部隊によって次々に撃破され、大量のT-34が破壊された。
しかし、犠牲を顧みない波状攻撃によってロンメル軍機甲軍は徐々に戦力を消耗し、ソ連軍第6親衛軍が増援に到着するとついに限界に達した。
ソ連第6親衛軍を率いるのはヴァストーク作戦のカルカッタを陥落させて中将に昇進した牟田口廉也陸軍中将で、アラスを奪還するとロンメル機甲軍を追撃してこれを壊滅させた。
牟田口中将は犠牲を顧みない敢闘精神が高く評価されており、ソ連軍の前線部隊指揮官としては最優秀と言われていた。
基本的にソ連軍は、
「犠牲なくして勝利なし」
という消耗を前提とした物量作戦、火力作戦の軍隊であり、兵力を使い尽くしても結果を出せる牟田口のような人物こそ前線指揮官に求められた。
もちろん、兵士からの評価はまた別だったが、上からのウケは良かった。
牟田口中将の上司にあたるフランス方面軍司令官田宮デグチャレフ大将も同じタイプの人間で、如何にして兵隊を有意義に死なせるか心血を注いでいた。
ちなみにソ連軍が実施した第3梯団をアルデンヌの森を通して奇襲攻撃に使うアイデアは田宮の発案で、初期のロシア軍案では第3梯団は第2梯団と同様に正面攻撃に使用することになっていた。
田宮大将はロシア案を修正し、1年間の仕込み(道路工事)を行うことで迅速にアルデンヌの森林地帯を突破する条件を整えた。
欧州連合軍からするとまるで魔法のように第3梯団が戦線側面に現れたようにしか見えない鮮やかな奇襲で、発案者の田宮大将の名声は不動のものとなった。
やっていることは欧州連合軍の偵察機の目を盗んで、森の中に道路をこっそり作り、武器弾薬を秘密裏に集積するだけのことなのだが、
「手品のタネや仕掛けとはだいたいそういうものだ」
と田宮大将が語ればそういうものかと納得するしかない。
なお、田宮は望めば元帥にもなることができたが、再三に渡ってこれを固辞し、戦後は陸軍大学校で後進の指導に当たるか、ソ連軍史編纂局で第2次世界大戦の戦訓分析や著述活動に軍歴を費やした。
田宮は自分が軍の要職にいては巨大すぎる功績によってソ連軍の発展を却って歪めることになりかねず、自ら身を引いたと言われている。
勤勉な田宮が、年金生活に入るために終身雇用の元帥になることを忌避したり、多忙を極める軍の要職から逃げるために、教育職や軍史編纂局への転属を希望したりすることなどありえない話である。
1943年6月1日に第3梯団の先頭を走っていたソ連軍の第501親衛戦車旅団がついに英仏海峡に達し、条約機構軍は欧州連合軍の主力を包囲した。
チンギス・ハーンが夢見た地果て海尽きる地に、ソ連軍はたどり着いた。
これはアジア世界が西欧世界を征服した瞬間でもあり、19世紀から続いた欧州の優位を終わらせる決定打となった。
西欧世界は地上戦と戦略爆撃で滅茶苦茶になりつつあり、第2次世界大戦をきっかけに大きく衰退することになる。
奇襲攻撃と後方遮断によって欧州連合軍にパニックが広がり、海に向かって無秩序な撤退を行って軍組織を崩壊させた。
彼らが海岸線に向かったのは救助の艦隊が来ると考えられたためである。
イギリス海軍は撤退作戦を実施し、はしけやヨットまで総動員して兵員の回収を試みた。
脱出を阻止するべく条約機構軍は戦車部隊を突進させ、パンテルやT-34がダンケルクの浜辺に突入してイギリス海軍と砲撃戦になった。
イギリス海軍の駆逐艦ホワイトスノウは撤退援護のためにぎりぎりまで海岸線に接近し、陸兵を蹂躙するソ連戦車部隊に直接砲撃を行った。
反撃でホワイトスノウは穴あきチーズのような有様となったが、ヘッジホッグ対潜爆雷やボフォース40mm機関砲の水平射撃で条約機構軍の戦車部隊を撃退した。
また、RAFのスピットファイアやタイフーンが制空権を確保し、爆撃から撤退する船を守った。
最終的に撤退保からイギリス本土へ脱出できたのは24万人だった。
包囲網の中で55万人が捕虜になり、35万人が死傷して、欧州連合軍の主力は壊滅した。
条約機構軍の死傷者数は38万人に上ったが、この程度の損害は織り込み済みであり、欧州連合軍の主力を再起不能にしたことの方が重要だった。
主力を失った欧州連合軍は、もはや撤退戦と場当たり的な防衛戦しかできなくなり、掃討戦に移行した条約機構軍を押し止めることは不可能になった。
まれに戦車1個大隊がドイツ軍の戦車1台に壊滅させられるような例外的な事象も発生したが、それはあくまで例外でしかない。
フランス政府はパリを無防備都市宣言し、ボルドーに政府を移した。
条約機構軍がパリに入城したのは6月15日である。
掃討戦に移行した戦いは、フランス政府がカサブランカに脱出する6月まで続いた。
欧州連合軍の残存部隊はボルドーやブレストからブリテン島に脱出するか、陸路で南仏からイタリアに撤退した。
スペインは中立だったことから、ヨーロッパで条約機構軍に抵抗するのはイタリアとイギリスだけになった。
ロシアとソ連は交渉による和平(勝ち逃げ)を希望していたが、アメリカ合衆国が1943年7月4日に欧州連合軍側で参戦したことで、そう簡単に戦争から足抜けできるものではないことに気付かされた。
ウィルキー大統領はアメリカ独立記念日の日に、欧州の独立を守ると宣言した。
アメリカが参戦するまでイギリスやイタリア国内世論では和平派の支持が拡大していたが、大国アメリカの参戦に徹底抗戦派が望みをつなぐことになった。
とはいえ、物理的に大陸を隔てられているブリテン島はともかく、陸路で行けるイタリアはフランス戦線を片付けた条約機構軍の全力の前には無力だった。
1943年7月以降、南仏経由でイタリア半島に西側から侵入した条約機構軍の40個師団はイタリア軍の抵抗を排除して全イタリアを占領した。
イタリア軍はアルプスの山岳地帯に引きこもってロシア軍の本土侵入を阻んできたが、南仏方面はガラ空きだった。
本国を失ったことでフランス軍やイタリア軍もドイツ軍と同様に補給に苦しむことになり、アメリカのレンドリースだけが頼みの綱だった。
レンドリース頼みなのはイギリスも同様で、インドを失ってからはさらにその傾向が強まっていた。
このままでは戦後の返済で国家が破産するというのが和平派の論拠であり、それは一面の真実でもあった。
なお、ロシアとソ連は国債を大量発行して自国の中央銀行に全て引き受けさせ、大量の通貨を発行することで膨大な戦時予算を組んでいた。
これは強烈なインフレーションを呼び起こすことになるため、ソビエト幕府はインフレーション抑止のために民生品の生産を維持することに苦心した。
物価が上がるのは需要に対して供給が不足する場合であって、供給が維持されていれば一定レベルの抑止(完全ではない)は可能だった。
ソビエト幕府は江戸幕府がインフレーションの抑止に失敗して民衆の離反を招いたことを正しく理解しており、江戸や大阪では戦時下であっても普通に飲食店やデパートが営業していた。品物の種類は少なくなっていたが、生産そのものは維持されていた。
また消費を抑制するために貯蓄キャンペーンを行って、総需要の抑制を図っている。
発行した通貨が消費ではなく貯蓄に向かえば、それだけインフレーションを抑制できるためである。
ちなみに、ソ連ほど生産力の余裕がないロシアでは、占領したドイツや欧州各国からの略奪で民生品を確保して配給することでインフレーションを抑止した。
しかし、たとえ共産主義の輝かしい未来を信じて疑うことのないトロツキーのような頑迷な共産主義者であっても、フランス戦終了後に、このまま戦い続ければ国家経済がどこかの段階で破綻すると考えるようになった。
だが、参戦したばかりのアメリカ合衆国は元気いっぱいな状態であり、その心をへし折るにはよほどの大打撃がなければ不可能と思われた。
アメリカ軍の攻勢は太平洋で始まり、1943年7月28日には早くも奥千島列島の熱田島と喜須賀島に上陸した。
アメリカ軍は奥千島列島を西へ進み、ソ連本土に接近すると共に、西部太平洋の島嶼領土にも同時侵攻してきた。
この攻勢に対してソ連軍は各地で散発的な抵抗を行って撤退するか、最初からまともな抵抗を諦めて兵力を撤収していた。
彼我の海軍力を考えれば、まともな抵抗が成り立たなかった。
1943年8月16日には、西部太平洋最大級の海軍根拠地であるトラック環礁がアメリカ軍に占領され、速やかにアメリカ太平洋艦隊の基地となった。
トラック環礁はソ連太平洋艦隊の基地としてそれなりに整備されていたが、撤退前に完全破壊されており、海には機雷が敷設されていた。
ソ連海軍は沿岸海軍として機雷戦に長けており、多種多様な機雷を撤退前に仕掛けていた。
特に効果的だったのが磁気反応機雷で、艦底爆発によって大型艦でも一撃で行動不能にする破壊力があった。
トラックでは浅深度沈底機雷も投入され、これも磁気信管で爆発した。
機雷は簡単に掃海されないように、回数信管が採用されており、掃海具に反応しても爆発せず、掃海が終わったと勘違いさせた。
戦艦アリゾナはトラック入港後に、湾内の磁気機雷によって大爆発を起こして沈んだ。
他にも駆逐艦3隻が撃沈され、アメリカ太平洋艦隊司令長官のハズバンド・キンメル海軍大将を嘆息させた。
トラック環礁進出後、アメリカ海軍は空母部隊でマリアナ諸島を空襲することになる。
これはヒットエンドランと呼ばれる威力偵察で、本格的な侵攻ではなかった。
この空襲はソ連空軍の迎撃と対空砲火で艦載機の3分の1が撃墜か、損傷で破棄されるという結果に終わった。
大損害と言う他ない損失だった。
マリアナ諸島はソ連軍の手によって、高度に要塞化されていたのである。
ソ連軍は領内で特に工業化が進んでいる本州を守るには、マリアナ諸島でアメリカ軍を食い止める必要があると判断し、マリアナ諸島の各地に航空基地と沿岸要塞を建設していた。
主用な島であるサイパン、テニアン、グアム島にはそれぞれ火砲300門以上が運び込まれ、サイパン島の三力砲台と共にアメリカ軍を待ち構えていた。
三力砲台(万力・合力・超力砲台)は列車砲の長砲身20センチ砲(65口径)を分解して陸揚げし、組み直したもので砲台周辺を厚さ5mの鉄筋コンクリートで固めており、16インチ砲弾の直撃にも耐える強度が与えられていた。
この砲台は本州防衛のために1930年代に建設されたもので、ここで食い止めるというソ連軍の強い意思の現れだった。
航空戦力も充実しており、第11航空軍(約1,200機)が進出していた。
アメリカ軍も威力偵察の結果から、マリアナ諸島への侵攻は10万人以上の死傷者を出すと予想した。
しかし、ここを突破しなければ本州への道はさらに南から迂回するニューギニア、フィリピンルートを採らざるえなくなり、膨大な迂回航路をソ連潜水艦艦隊の攻撃にさらすことになってしまう。
また、開発中の新型戦略爆撃機の運用にマリアナ諸島の確保は必須だと考えられていた。
アメリカ軍のマリアナ諸島への侵攻は1943年10月11日だった。
作戦名は、デタッチメント(超然主義)。
攻撃に先立って、アメリカ軍はトラック環礁に進出させた重爆撃機1,200機で、マリアナ諸島のソ連空軍基地を激しく爆撃した。
アメリカ製の爆撃機による大編隊爆撃は欧州で経験済で、ソ連軍はIt43やDo45が迎撃に出動して多数の爆撃機を撃墜した。
それでもアメリカ軍は損害に構わず大量の爆撃機を飛ばして、サイパン島を海に沈めるかのように爆弾を投下した。
重爆撃機の大編隊爆撃に加え、大きく北から迂回してきた米空母機動部隊の艦載機が殺到して、ソ連軍の防空能力を飽和させた。
作戦に参加した米空母は、
正規空母
エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネット、レキシントン、サラトガ、エセックス、
イントレピッド、フランクリン
軽空母
インディペンデンス、プリンストン、ベロー・ウッド、カウペンス、モンテレー、
ラングレー、カボット
という大兵力だった。
空母艦載機だけで1,200機に達しており、1個航空軍が海の上を動き回ることができるようになっていた。
さらに随伴の高速戦艦部隊7隻や、大量の巡洋艦、駆逐艦はもはや数える方がバカバカしい量になっており、
「20世紀のアルマダ」
とキンメル司令長官が豪語するだけの戦力があった。
艦載戦闘機の主力は2,000馬力級のF6FやF4Uだった。
どちらもIt43と対戦するのはこれが初めてだったが、性能面やパイロットの質は米軍が優勢で、ソ連軍戦闘機部隊は苦戦した。
それでも聖域化したサイパン島上空の濃密な対空砲火を活用して、ソ連軍は米空母艦載機に消耗を強いることに成功した。
また、海軍航空隊のHo177が反撃に出動し、ベロー・ウッドを損傷させた。
重装甲のIl-2も魚雷を抱いて出動して、対空砲火や戦闘機の迎撃を物ともせず、肉薄雷撃でレキシントンに魚雷1発を命中させた。
重装甲攻撃機のIl-2の相手はF6FやF4Uでは困難で、弾切れまで射撃を加えても平然と飛行していた。
ボフォース40mm機関砲弾が直撃しなければ撃墜は困難で、その不死身ぶりはアメリカ海軍を驚かせたが、航続距離が短いことから空輸で補充することが困難で、戦力を急速に消耗した。
航空戦力を展開するための滑走路が破壊され、修復が追いつかなくなり、やがて航空隊は沈黙を余儀なくされた。
孤島の基地は縦深と分散がとれないため、一般的に防御側が不利だった。
それでも米太平洋艦隊の艦載機を6割も損耗させたのだから、敢闘したと言える。
空母部隊を率いたウィリアム・ハルゼー海軍大将は、未経験の膨大な損害に対して撤退を口にするほど精神的に追い詰められていた。
ソ連空軍が敗退したのには、硫黄島と本州が季節外れの長雨で補充機を空輸することができないという不運があった。
補充に成功していたら先に戦力が枯れていたのは米太平洋艦隊の方だっただろう。
マリアナ諸島へ飛び立つことができなかった補充機は硫黄島から、マリアナ諸島周辺の米艦船をしつこく攻撃した。
航空戦では敗れたもののソ連軍は要塞に籠もっているという有利から士気は旺盛で、三力砲台は艦砲射撃に現れる米戦艦との対決を待っていた。
三力砲台とアメリカ海軍戦艦部隊の砲撃戦は、1943年10月15日に発生した。
艦砲射撃に投入されたのは旧式戦艦で、コロラド級やテネシー級といった海軍休日時代に主役を務めた船たちだった。
貧乏くじに近い任務を割り当てられたのは、レイモンド・スプルーアンス海軍中将で、彼は戦闘開始前から神経衰弱するほどこの戦いの結果を正しく予想していた。
結果は無残なもので、戦艦3隻が大破し、2隻が中破。1隻が後退中に潜水艦の雷撃で沈むというものだった。
三力砲台は全て破壊されたが、3倍以上の米戦艦と正面から殴り合った結果としては妥当なものだったと言えるだろう。
また、三力砲台が沈黙しても他に砲座や砲台は生き残っており、上陸海岸正面のトーチカは激しい砲撃にも関わらず大部分が生き残っていた。
三力砲台との打ち合いで戦艦群は力尽き、巡洋艦や駆逐艦の砲撃だけでは、コンクリートで固めた防御陣地を破壊すること無理だった。
米海兵隊は、準備砲撃の追加を要求したが、硫黄島周辺にソ連艦隊(秋雲艦隊)が出現したため、撃滅のために米太平洋艦隊は北上して不在だった。
このとき、秋雲艦隊はソ連海軍の全戦力でマリアナ諸島沖に遊弋する上陸船団に突入して刺し違える覚悟だった。
しかし、艦隊集結に手間取り、さらにマリアナ諸島の基地航空部隊が壊滅した後になっては作戦達成は覚束ないことから、本州に引き返した。
逃げ帰ってきた秋雲中将は、岡田大老に呼び出されて公衆の面前で無能、臆病者と罵倒され、西比利亜に転勤させられることになったが、彼以上の実戦部隊指揮官がいないため、転勤は猶予されることになった。
アメリカ軍のサイパン島上陸は1943年10月18日だった。
初日は米軍3個師団が消滅する酷い戦いになり、ソ連軍の十字砲火の前にアメリカ兵が轢殺されるだけで終わった。
大損害に驚いた米太平洋艦隊が慌てて引き返してきて、追加の艦砲射撃を行ったのは10月21日で、それまでに6個師団が天国へ転属した。
上陸前にアメリカ兵達は美しいサイパン島の海を見て、
「天国に一番近い島」
とその景観を讃えたが、まさにそのとおりとなった。
大損害にたじろいだアメリカ軍だったが、追加の兵力を次々に上陸させ、損害に構わず力押しを繰り返した。
これは愚かではなく、要塞攻撃とはそういうもので、包囲して波状攻撃を繰り返し、守備兵をすり潰すという正攻法だった。
ソ連海軍は潜水艦でサイパン島救援のために増援を送り込もうとしたが、周辺に遊弋する圧倒的な米太平洋艦隊の前には何もできなかった。
活発に活動しているのは硫黄島の航空部隊だけだった。
しかし、防空戦闘機と強力な対空砲火で守られた戦艦や空母への昼間攻撃は困難を極めたことから少数機での夜間ゲリラ攻撃で嫌がらせを行うしかなかった。
サイパン島のソ連軍が玉砕したのは11月21日で、武器弾薬を使い果たした末に要塞司令官青山喜三郎中将と残兵が最後の突撃を敢行して全滅した。
この間にアメリカ軍は15万人が死傷するという大惨事になり、損害だけ見れば(ソ連軍死傷者6万人)どちらが勝ったかわからなくなる異常な戦いだった。
アメリカ軍はソ連軍に何度も降伏勧告を行ったが、全て無視された。
アメリカ軍はソ連軍が本当の最後の一兵になるまで戦うとは考えておらず、異常なまでのソ連軍の士気の高さに恐れ慄き、対策として詳細な文化研究を行っている。
結論としては、ソ連兵は国家社会主義神道という国教によって洗脳されており、国家のために死ぬことが何よりの名誉と考える精神状態であるため、国家体制を完全破壊しないかぎり決して敗北を認めることはないというものだった。
レポートに接したウィルキー大統領は
「冗談だろうと思った」
と述べたがサイパン島で大量に接収した国家社会主義神道のイコン(御真影)を見て、絶滅戦争もやむなしという結論に落ち着いた。
ソ連では鉄壁のはずのサイパン島陥落で本州空襲が確実な情勢になった。
本州はソビエト維新後も主要な経済地域であり続けており、ソ連人口の3分の1が温帯弧状列島に住んでいた。
近年は安い人件費を武器にする西比利亜に経済で追い上げられており、工場の多くが西比利亜に転出するなど、経済の地盤沈下が続いていた。
「いずれ本州は農業と観光だけで食っていくことになるのではないか?」
という危惧は21世紀初頭に現実のものとなるのだが、それは少し先の話である。
1943年時点では、本州はソ連の先端産業の集積地で、江戸や名古屋にはソ連最大級の航空機工場があり、急ぎ西比利亜に疎開が行われた。
とくに名古屋や東海地方では、地質学者が数年前から50年周期で大地震(南海トラフ巨大地震)がおきると警告していたこともあり、航空機工場以外の工業施設全般が西比利亜に疎開した。
これはちょうど1年後に現実のものとなり、1944年12月7日に東南海地震が発生し、東海地方は甚大な被害を被った。しかし既に疎開は完了したあとで住民被害も少なく、戦争遂行の障害になることはなかった。
本州人は殊の外西比利亜に行くことを嫌がったが、岡田大老は疎開を断行した。
ちなみに本州人の一般的な意識としては、西比利亜は貧乏人か、犯罪者がいくところであり、疎開して初めて西比利亜の実情を知るという人も多かった。
征夷大将軍の徳川信忠も嫡男の康忠を西比利亜に疎開させている。
しかし、自分自身は江戸城に残ることを選んだ。
今上天皇も皇太子を西比利亜に疎開させたが、自身は京都に残ることを選んだ。今上天皇の疎開も検討されたのだが、本人の意思により実施されなかった。
信忠は今上天皇を西比利亜に疎開させなかったことを終生後悔することになった。
ソビエト幕府は本州決戦計画を発表し、欧州戦線からの引き上げ、転用を図った。
本州決戦計画は戦前から存在し、アメリカとの戦争になった場合は海軍力の劣勢から本州決戦は避けられないと考えられていた。
戦前の本州決戦計画では、小笠原諸島か、琉球諸島に侵攻したアメリカ軍に対して航空機と水上艦で反撃して撃退する計画となっていた。
そこで防ぎきれない場合は、九州南部か房総半島に上陸するアメリカ軍を内陸部に引き込んで、長期間の持久戦を展開し、相手が消耗するのを待つ計画だった。
これまでソ連軍は内戦時を除けば全て国境の外で戦っており、国内を戦場にすることはこれが初めてのことだった。
本州では内戦時も江戸の一部を除けば戦場になることはなかったため、幕府が発表する本州決戦計画は本州社会を大きく動揺させることになった。
本州に地盤がある保守党は、ブラッディな本州決戦を回避するために対米和平交渉と岡田大老排除を画策していたことが1990年に明らかにされた。
岡田大老を排除した後の政権構想が成り立たなかったので計画されたのみで実現可能性はなかったという説と実施寸前までこぎつけていたという両方の説がある。
しかし、どちらの説でも同時期に謎の死を遂げた保守党の岸信介が首謀者となっている。
アメリカ軍の侵攻は本州へ近づき、1944年4月9日に硫黄島がアメリカ軍の猛攻に晒されることになった。
硫黄島の戦いは、アメリカ軍の猛烈な空襲で始まり、在島の航空部隊は激しく抵抗したものの最終的には物量に押しつぶされて壊滅してしまった。
硫黄島には300機の各種戦闘機がいたが、アメリカ軍の機動部隊は1,500機の戦力を集中して、これを壊滅させた。
既に総力戦体制に入っているアメリカ軍は大型のエセックス級空母を毎月1隻のペースで就役させており、マリアナ諸島での消耗をさらに上回る戦力を揃えていた。
一方、ソ連海軍は手間暇がかかる大型艦の建造は全てストップしており、岡田大老の懇願にも近い要求で、戦艦解放が完成したぐらいでその他の大型艦は建造中止になっていた。
戦艦解放は基準排水量64,000tの船体に41センチ砲3連装4基12門と搭載するソ連海軍最強の戦艦だったが、もはや象徴的な意味しかなかった。
では実質的な戦力である空母があるのかといえば、全然なかった。
そんなものを作っている余裕はなかった。
それよりも戦車や火砲、戦闘機を作るほうが重要だった。
一応、シンガポールで鹵獲したインドミタブルがあったが、解体分析されており、既に存在しなかった。
その技術をリバースエンジニアリングして、改装されたのが戦艦秋津洲と瑞穂で、この2隻は損傷した船体後部を修復する際に飛行甲板とカタパルト、着艦制動装置を搭載し、It43を20機搭載できる航空戦艦に生まれ変わっていた。
もっとも軽空母1隻分の戦闘機を積めたところで、相手の戦力を考えるとどれほど意味があるのかは不明だったが。
硫黄島の戦いも、要塞に立て籠もったソ連兵に対して、アメリカ軍が血と肉をすりつぶすような戦いとなり、武器弾薬が尽きるまで戦ってソ連軍は玉砕した。
死傷者数は圧倒的にアメリカ軍が多く、勝っているはずのアメリカ軍は深刻な士気低下に見舞われた。
硫黄島陥落によって、本州空襲のために必要な戦闘機の発進基地が完成し、P-51Dが進出し、1944年6月5日にはB-29による本州初空襲が行われた。
九州北部の工業地帯を狙ったB-29の編隊(45機)は、P-51の援護を受けて爆撃には成功したものの、対空砲火で4機が撃墜され、さらにソ連軍の新型戦闘機に捕捉され、6機のB-29が撃墜されることになった。
当日のB-29の飛行高度は高度8,000mで、帰投のために変針した後はジェット気流によって時速600km以上の速度が出ていた。
ソ連軍の戦闘機は退避中のB-29に安々と追いつき一撃で6機を撃墜してみせた。
これこそ、世界初のジェット戦闘機の実戦デビューで、B-29の革新的な能力に全幅の信頼を寄せていたアメリカ軍に強い衝撃を与えた。
初期のDo108はエンジンの信頼性に問題があったが、B-29の行動を牽制するには十分だった。
Do108の心臓となった推力1tのターボジェットエンジンは、もともとはドイツ帝国で高高度飛行用のデバイスとして開発が進められていたものだった。
ロシア軍がBMWの工場を占領した際に試作品や技術資料が発見され、いくつかの兵器供与と引き換えにソ連に資料が引き渡された。
ソ連のジェットエンジン開発の中心となったのは、OKB300種子島設計局である。後に局長の異動で永野設計局と名を改めたOKB300はBMWの技術資料を基に8段の圧縮機とアニュラ型燃焼器、単軸流タービンを持つTR1を完成させた。
後にタービンは意味するTは除去され、R1と改称したソ連初のジェットエンジンは戦後に続くソ連ジェットエンジン開発の基礎を成した。
R1は戦時中に改良が重ねられ、最多量産型となったのはR3(推力1.2t)である。戦後のR6からはアフターバーナーが装着され、超音速飛行が可能となった。
ジェットエンジン開発の決め手となったのは耐熱鋼の製造だった。
耐熱鋼の製造に不可欠なニッケルやコバルトは広大な西比利亜で採掘可能であり、江戸時代300年かけて磨き上げてきた本州の冶金技術がソ連のジェットエンジン開発に役立った。
出撃機の4分1が撃墜されたアメリカ軍は情報収集と戦術の見直しを強いられ、1ヶ月近く本州爆撃を延期している。
アメリカ軍は戦略爆撃と海上封鎖で本州経済を破壊する戦略を立てており、B-29はその要となるべき存在だったから、アメリカ軍の憂鬱は深かった。