第2次世界大戦(3)
第2次世界大戦(3)
ソ連において、第2次世界大戦とはヨーロッパの戦争と言える。
これはソ連が動員した兵力の70%が欧州戦線に派遣されて戦ったことを考えれば、当然の認識だった。
緒戦の攻勢となった東南アジアの戦いは、ソ連陸軍にとっては植民地軍を蹴散らした前哨戦扱いでしかない。
これがソ連海軍の内部になると組織の存亡を賭けた一大決戦となるのだが、全体の認識としては小さな戦争だった。
1941年12月時点で、ソ連陸軍奉行所が立案した欧州遠征計画の総兵力は350万(前線部隊のみ)であった。
これに後方支援要員の軍属、民間人を含めると960万人まで膨れ上がることになる。
1941年時点のソ連の総人口は約2億人であったことから、総人口の5%が何らかの形で欧州戦線に関わった計算となる。
ソ連の欧州戦線派遣計画は古代ローマのゲルマン民族の移動かモンゴル軍の大移動に比肩する民族大移動になっており、計画をコントロールする陸軍奉行所は平時の体制では全く追いつかず増員に次ぐ増員や民間補助員を受け入れを行った。
結果として陸軍奉行所は1944年までには平時の57倍まで人員規模が拡大することになり、建物内に収まりきらず札幌郊外に仮設の陸軍奉行所が建設された。
ソ連陸軍は1940年代世界最大の陸軍で、陸軍奉行所もそれに比例した大規模組織であったが、平時の要員だけではまるで足りなかった。
ちなみに戦後に陸海軍空軍の奉行所が統合され、国防奉行が設置されたときに移転したのがこの仮設の陸軍奉行所である。
平時においては三軍の奉行達を全て収容してもまだ部屋が有りあまり、しかも安普請であるため、スーカスーカブリャーチ(スカスカの糞野郎)という有り難くない渾名を頂戴している。
戦時中に総動員数1,000万人を制御した陸軍奉行は激務で、東条英機は何度となく過労で倒れている。1944年に精神衰弱で職を辞すほどになり、そのまま回復することなく1948年に死去している。
ソ連の民族大移動は西比利亜鉄道や第2西比利亜鉄道を動員したところで短期間には実現不可能だった。
1942年春時点で欧州に到着した兵力は45万人(前線部隊のみ)程度である。
師団数ではいえば38個師団であり、これでも既に大兵力であったが、最終的な規模を考えるとまだ小手調べの段階だった。
兵力派遣は単純に兵隊を送ればそれで済むものではなく、彼らが戦うための武器弾薬や糧食、医療体制、被服や生活用品といった兵站の手配が必要であり、それを確保するための流通体制の基礎づくりがはじめなければならなかった。
鉄道路線の新設や道路の拡張といった土木工事から、大量空輸のための飛行場づくりや航空路線の開設、ユーラシア大陸横断規模の航空管制体制が必要だった。
もちろん、派遣先のロシア政府からの支援は絶対条件であったが、ホスト役に丸投げできる規模ではなかった。
ソ連が用意したのは衣食住だけではなく、文化事業も重視された。
重視されたのは読書で、最前線でも兵士が本を読めるようにソ連のすべての図書館が動員され、前線でも本が借りることができるようになっていた。
最前線で本を読む暇があるのかという疑問があるかもしれないが、最前線といえども24時間常に戦っているわけではなく、後方に下がれば兵士達には暇つぶしが必要になった。
中央アジアやモンゴル高原出身のソ連兵は欧州派遣で初めてソ連の書物に触れて読書という習慣を身に付けたものも多く、元兵士=読書家という構図が戦後に広まることにもなった。
また、ソ連軍は兵士の生理現象にも注意を払った。
然るべき手段で処理しなければ、性病の蔓延や軍内部の性犯罪や占領地での戦争犯罪を発生させることにもなりかねなかった。
ソ連軍は江戸時代からの伝統で女性の登用に前向きだったから、なおのことそうした問題には敏感だった。
過酷な西比利亜の環境では女性も社会進出して働かなければ生き延びられるものではなく、女性兵は珍しいものではなかった。
本州の伝統が続くソ連海軍は女人禁制を貫いていたが、陸軍と空軍は女性を最前線任務にさえ投入しており、1942年時点でソ連軍は世界で最も男女平等が進んだ軍隊と言えた。
欧州の軍隊やロシアでも女性を後方要員として採用する例が増えていたが、最前線任務に使った例はなかった。
ちなみにソ連が用意した慰安施設には男性用だけではなく、女性用もあった。
女性用の慰安施設の必要性には疑問符がつけられたが、大規模な女性兵による戦争犯罪事件が発生したため、必要性が再確認された。
1943年11月3日、ソ連軍が駐屯したドイツのポツダムにおいて、ソ連軍の女性兵士が現地の孤児院に押し入り、12~14歳の少女6名を拉致して性奴隷として監禁するという事件が発覚した。
逮捕された西湖百合少佐は、
「やばいと思ったが性欲が抑えられなかった」
などと供述し、西比利亜の軍刑務所へ送られている。
ちなみにロシア軍も女性兵士を後方要員として登用していたが、ソ連軍ほど熱心ではなかった。
しかし、大戦後半になると人的資源の枯渇から女性兵士の採用に踏み切っている。
ただし、泥縄式に行われたため、ロシア軍では女性兵士に支給する下着がなく、男性用下着が支給されて問題になった。
ソ連ではきちんと女性用の下着が支給され、生理用品なども供給されていたが、ロシア軍はそうしたことに無頓着だった。
結果として、ソ連軍の補給廠からたびたび生理用品や女性用下着が盗まれる事件が発生し、大問題となった。
最終的にこの問題はソ連がロシアに友好の贈り物を送ることで解決されたが、ロシア軍の面子は丸つぶれであった。
ちなみに友好の贈り物を発案したのは、ソ連軍欧州派遣軍総司令官の田宮デグチャレフ陸軍大将であった。
なお、田宮大将の初陣は9歳で、1918年のソビエト維新から戦場を駆け抜け、24歳で陸軍大将になった狂気の人物である。
幼少の砌は、革命軍の白い悪魔として幕府軍から恐れられた。
生粋の戦争狂か、狂的な革命戦士として海外にもその存在は広く知られており、岡田大老の信任も厚かった。
欧州遠征に際しては西比利亜国技館にて、
「諸君、長征である。資本主義廃滅の旅である。全ての権力をソビエトに!」
と演説し、兵士の士気を鼓舞した。
氏名からも明らかだと思うが、田宮大将はスラブ系である。
ついでに美しいブロンドと碧眼、そして美貌の持ち主で、戦意高揚のため軍機関紙の表紙を度々飾っている。
非公式ブロマイドが発売され、現代でも祖父の遺品整理などをしていると見つかることが多々ある。
現実の方がリアリティを喪失しており、創作物では年齢を倍にして48としたり、男性化したり、なかったことにするのが一般的である。
話が逸れたが、欧州に展開するソ連軍の存在は欧州連合軍に強い危機感を抱かせた。
東南アジアの敗北も痛手であったが、所詮は植民地の戦いであり、後で取り戻すことができる敗北だった。
しかし、欧州の戦いは民族や国家の興亡がかかった本土決戦であり、既に本国を失ったドイツ帝国やオランダ、ベルギー、東欧各国の悲惨な有様を見れば、何があっても負けられない戦いだった。
欧州連合軍の主力は、イギリス・フランス・イタリア軍で、島国のイギリスを除く2カ国が直接、陸の国境線でロシア・ソ連軍と対峙していた。
フランスは最前線から首都パリの間の約200kmの空間を縦深防御陣地として、ロシア軍と対峙していた。
ロシア軍やソ連軍の機動戦の根幹を成す縦深攻撃理論は、緒戦でドイツ帝国を滅ぼすほどの効果を発揮したが、相手が対策を講じると限界が見えた。
フランスの採用した縦深防御は、国土を犠牲することと引き換えに、時間と空間を作り出して機動兵力の価値である衝撃力を弱めていた。
縦深防御によって、最前線が突破されても次の部隊が接触するまでの移動時間と空間があるため、欧州連合軍はパニックを起こすことなく、冷静に対応することが可能となった。
パニックの連鎖で崩壊したドイツ帝国軍の失敗から、欧州連合軍はよく学んでいた。
全く同じ縦深防御陣地はロシア・ソ連軍も採用しており、両軍は200km☓2=400kmという、広大な空間で陣地構築のために穴を掘りながら向き合っていた。
そして、戦線が膠着化するとその後方を如何にして叩くかが重要となった。
イギリス空軍のボマー・コマンドはまさにこのような状況を想定して生まれた軍種であったと言える。
1942年春になると、数が揃ってきたランカスター重爆撃機による夜間戦略爆撃が無視できない規模に拡大した。
RAFの狙いはロシア・ソ連占領下の東欧、ドイツの交通網の破壊だった。
イギリス軍が誇るランカスターでもロシアや西比利亜奥地の工業地帯を直接叩くのは不可能だったので、工場と前線を結ぶ交通網に狙いを絞ったのである。
結果は劇的なものがあり、明らかに最前線への兵力・物資集積が滞り始めた。
後に、田宮大将は陸軍大学校の講義において、
「大軍の兵法とは、大軍を維持することに尽きる」
と述べている。
つまり、ロシア・ソ連は大軍であるが故に、それを維持することに困難さがあった。
人口の限界からロシアやソ連と同じペースで消耗した場合、先に倒れてしまうイギリス・フランスが突くべき弱点はそこにあった。
戦後にロシアやソ連が防空軍という第4の軍を建軍したのは戦略的防空こそ、第2次世界大戦における主要課題であったという認識の現れだったと言える。
さらに1942年7月からは、ランカスターの夜間爆撃に加えてRAFに供与されたBー17重爆撃機による昼間爆撃が欧州の空を紅く染めた。
ロシア空軍は高高度用過給器を装備したMig-3で迎撃したが、重武装・重装甲のB-17を撃墜することは困難だった。
ロシア軍機は入手性の高い木材を航空機に多用しており、翼内に大口径機関砲を搭載することが困難で機首武装に偏っており、火力が低かった。
全金属製で排気タービン付きエンジンを持つIt43は20mm機関砲4門の大火力だったが、それでもB-17の重装甲と防御火力には苦戦した。
ソ連空軍は対地攻撃用の23mm機関砲ガンポッドや250kg爆弾の空中爆発、対地攻撃用のロケット弾や中型爆撃機に高射砲を搭載するなど、ありとあらゆる方法で英米の重爆撃機に対抗した。
空中では難敵のB-17も地上では動かない的であるため、B-17の発進基地への反撃も試みられた。
初期作戦は航続距離が長く、重装甲のHo177とIt43の戦爆連合を突入させるというものだったが、すぐにこれは誤りだと分かった。
大編隊攻撃はRAFのレーダー網に遠距離から察知され、熾烈な迎撃を浴びた。
1942年9月2日に行われたグラスゴー空襲は散々な失敗に終わり、作戦に参加した24機のHo177は半数が未帰還となり、残りも大破して処分された。
とても損害の割にあう作戦ではなかった。
ソ連軍はレーダーの探知を避けるために超低空飛行することをすぐに覚え、B-17の発進基地への攻撃にロケット弾を抱いたIt43を使用することになった。
低空侵入する高速のIt43のロケット弾攻撃は効果的で、多量のB-17を地上撃破している。
しかし、今度は対空砲火による損失が相次いだため、超低空攻撃は決して万能の解決策とは言えなかった。
イギリスは張り巡らせたレーダー網を駆使して待ち構えており、イギリス本土上空はソ連機とって死地であった。
最終的にソ連軍が編み出した戦法は、レーダーに探知されにくい布張り鋼管フレームの練習機に迫撃砲弾を改造した小型爆弾を積んで、夜襲するというものだった。
イギリス軍の夜間戦闘機の失速速度以下の速度で飛ぶ夜襲機を撃墜することは極めて困難で、対空砲火も的が小さくて当たらず、命中しても砲弾が炸裂せず突き抜けるなど、意外と生存性が高かった。
ちなみにイギリス軍は対抗策として海軍航空隊のソードフィッシュ雷撃機をかき集めて、レーダーを搭載した布張り複葉機夜間戦闘機を編成した。
ソードフィッシュ改造夜間戦闘機とソ連軍の練習機改造夜襲機の対決は、布張り複葉機最後の戦いとして記録されることになる。
なお、ロシア軍の夜襲機はレーダーがないため、ソードフィッシュ”夜間戦闘機”に捕捉された場合、逃げ延びることは極めて困難だった。
ロシア・ソ連軍の泣き所は電子産業の立ち遅れで、特にレーダーの性能ではイギリスには敵わなかった。
ロシア軍は占領したベルリン大学の電波研究所やテレフンケン社といったドイツのレーダー研究施設から資料を接収し、ソ連にも提供してレーダーの開発を進めた。
ソ連もシンガポールで鹵獲したイギリス製の早期警戒レーダーをコピー生産し、さらにドイツのテレフンケン社が開発中だった射撃管制用レーダーを完成させて配備した。
もしもドイツ帝国が完成させていたら、ウルツブルグ・レーダーと呼ばれていたかもしれないそれは、対空砲火の射撃管制や戦闘機の迎撃誘導に威力を発揮した。
しかし、探知距離や精度は明らかにイギリス製のマイクロ波レーダーに劣っており、特に夜間戦闘においてレーダーの性能が問題となった。
ソ連はスパイ活動でアメリカやイギリスの技術情報を入手して、国産レーダー開発に生かしたが大戦末期までマイクロ波レーダーを実用化できなかった。
ちなみにアメリカはソ連のスパイ天国で、最高機密である核物理学研究関係までソ連の手は伸びていた。
It43やHo177に使用された排気タービン技術や燃料の100オクタンガソリンの製造プラントやパテントはルーズベルト大統領時代のアメリカから正規ルートで手に入れたものだったが、それが不可能になるとソ連の海外技術取得は非合法路線に転換した。
共和党政権になり反ソ外交を強めるアメリカ合衆国でも、ニューディーラーを抱える民主党が消えてなくなったわけではなく、ソ連シンパは元気に活動中だった。
VT信管の現物ですら容易く入手できたのから、当時のアメリカの防諜体制はザルだったと言っても過言ではないだろう。
話が逸れたが、ロシアとソ連軍は欧州戦線において防空に苦労しており、フランス解放は時期尚早として1942年の攻勢計画は修正を迫られた。
代替プランとして実施されたのが、バルカン半島での攻勢だった。
ソ連軍は新兵が多かったことから、実戦に慣れさせるため副次的な戦線で攻勢に出るのがよいと考えられたのである。
また、クレタ島を占領することでエーゲ海の制海権を確保し、ロシア黒海艦隊の地中海進出を図ることも目標とされた。
1942年4月6日、ロシアとソ連軍はバルカン半島で攻勢を開始した。
作戦名は、ヴァクザール(駅)。
このヴァクザール作戦から、ロシアとソ連は軍の緊密な連携を図るために統一的な総司令部の設置に合意し、友好協力相互援助条約機構の本部をワルシャワに開設した。
所謂、ワルシャワ条約機構軍の始まりである。
条約機構軍の総司令官にはロシアのミハイル・トゥハチェフスキー元帥が就任した。
派遣兵力を考えるとソ連軍から総司令官を出すべきだという意見もあったが、トゥハチェフスキー元帥の手腕は疑いの余地がないものだったから総司令官就任が実現した。
帝国軍時代に江戸幕府軍の風下に立たされた経験から、ロシア軍は総司令官をロシア軍から出すことを絶対条件としており、ここはソ連が譲歩した形だった。
ただし、直接指揮下の3個方面軍(フランス方面軍、イタリア方面軍、バルカン方面軍)については、全てソ連軍の指揮官が収まった。
前述の田宮大将はフランス方面軍総司令官に就任している。イタリア方面軍は穴鳥ゴロドク大将、バルカン方面軍は畑俊六陸軍大将が担当した。
セルビア政府・軍の協力により、迅速に南下したバルカン方面軍は、各地で欧州連合軍を撃破した。
フランス戦線と異なり、ギリシャ軍は国境の狭い範囲での防御にこだわっており、縦深攻撃戦術は未だに有効だった。
イギリス軍はギリシャ軍の敗走に巻き込まれる形で退却を余儀なくされ、5月11日までにギリシャ全土が条約機構軍に占領された。
続けてセルビア方面軍はイギリス軍が確保しているクレタ島へ空挺降下を行った。
空挺部隊のみの渡洋侵攻は、軍事史上初の出来事で、ソ連軍は新たな歴史を作ることになった。
なお、ロシアやソ連は空挺部隊を殊の外重視する軍隊で有名で、装備や練度は諸外国に比べて充実していた。しかし、それでも軽歩兵に変わりないため、重装備に欠いており、クレタ島占領に大きな犠牲を払うことになった。
この損失に懲りたソ連軍は空挺部隊の装甲化が必要だと確信し、熱心に空挺戦車の開発を推し進めることになった。
イギリス海軍は救援のために艦隊を差し向けたが、条約機構軍の空襲に遭って大きな損害を出し、水上艦が航空攻撃に無力であることが再び証明した。
ロシア空軍のPe-2やIl-2はロケット弾を用いて多数の小型艦艇を撃沈した。Il-2には雷撃機型も存在し、空母フォーミダブルを大破させるという大殊勲を挙げている。
ソ連空軍も負けておらず、英巡洋艦ヨークを大破させて、自沈に追い込んだ。
クレタ島の陥落で東地中海は条約機構軍の空襲圏内に入り、ロシア黒海艦隊も進出して、地中海航路への通商破壊戦が活発化した。
同時期にはインド洋でも通商破壊戦が活発化して、欧州連合軍を悩ませた。
1942年4月以降、南方作戦を終えたソ連海軍はインド洋に艦隊を進出させて大規模な通商破壊戦を行った。
ソ連の狙いはイギリスの心臓であるインドとイギリス本土を切り離すことだった。
ソ連海軍の通商破壊戦は、初期には水上艦(知辺級など)を使って遊撃戦だった。
しかし、すぐにイギリス海軍は巡洋戦艦レパルス、レナウンや空母カレイジャスを呼び寄せたため、水上艦の活動は困難になった。
1942年6月6日には、インド洋で活動していた知辺級4番艦貴狼がレパルスに捕捉され、撃沈されている。
知辺級の28センチ砲は巡洋艦相手なら有効だったが、15インチ砲搭載のレパルス相手には分が悪く、貴狼は殆ど一方的に撃沈された。
それでも知辺級はインド洋で粘り強くゲリラ戦を続けることで、欧州連合軍の戦力を誘引しつづけた。
知辺級1隻に、欧州連合軍は巡洋艦1個戦隊を貼り付けており、知辺級4隻で16隻もの巡洋艦を引きつけることができていた。
さらに欧州連合軍は巡洋戦艦や空母も動員しており、ソ連海軍の通商破壊艦は鼠のように逃げ回ることで獅子に全力を尽くさせたと言える。
戦前のソ連海軍は水上艦による通商破壊戦に大きな期待を賭けていたが、実際の通商破壊戦で最も戦果を挙げたのは潜水艦だった。
ソ連海軍の潜水艦は太平洋で活動する関係で、大型艦が多く2,000tクラスのI級が戦前に多数整備された。
しかし、I級は高価だったので戦時中は量産されなかった。
代わりに1,000tクラスのR級が主力として大量生産された。R級は戦前に沿岸防衛用にロシア海軍にも輸出された実績があり、中型潜水艦としては手頃なサイズで通商破壊戦の主力にふさわしかった。
最終的に335隻のR級が建造されている。
もっとも多く建造されたのはR級7型潜水艦で、22本の魚雷を搭載し、前部発射管4門、後部発射管は2門で、水中速力は7.5ktだった。
インド洋はソ連参戦当初は安全な海であったことから独航船が大半だった。
そのため、ソ連海軍の潜水艦艦隊は簡単に欧州連合軍の商船を撃沈することができた。
しかし、すぐに護衛の駆逐艦やコルベットが随伴する護送船団方式になり、狩りの季節はあっという間に終わってしまった。
イギリス海軍は海上護衛戦の主力を担い、優れたレーダーを装備したコルベット大量投入してソ連潜水艦を撃破した。
ソ連海軍もすぐに対応して潜水艦に逆探知装置やレーダーを搭載し、さらに複数の潜水艦によって同時攻撃させることでイギリス海軍の護衛戦力を飽和させようとした。
また、場合によっては貴狼級に船団襲撃させて、コルベットを蹴散らすなど、様々な工夫を重ねている。
レーダー対策に、ロシア軍が占領したオランダ海軍の基地から回収された水中航行用のディーゼル吸気装置などがリバースエンジニアリングされ、水中でもディーゼルエンジンが使用できるようになった。
戦時中に実用化された最強のソ連製潜水艦はI級9型潜水艦で2,000tの流線型の船体に大量の蓄電池と高出力電動モーターを搭載した水中高速潜水艦だった。
「最新鋭の潜水艦の前には、最新鋭の戦艦や空母も無力である」
と設計開発した平賀設計局長は豪語し、その言葉とおりに9型潜水艦は猛威を奮うことになるのだが、それは3年後の話である。
1942年の夏時点では、ソ連の潜水艦艦隊はイギリス海軍の前に屍を山を築くばかりでまるで歯が立たなかった。
水上艦と同様に戦力を急速に拡大したため、練度が低く、戦術も拙劣だったのである。
海軍は不振だったが、陸の戦いではソ連はイギリス軍相手に連戦連勝した。
ソ連インド方面軍はインド解放のためにビルマで陸上攻勢をかけた。
タイ王国と非戦協定を結んだソ連軍はタイ王国領を通過して、1942年2月からビルマが雨季に突入する5月までにイギリス軍をほぼ駆逐してビルマ全土を占領した。
ビルマにも独立準備ソビエトが設置され、その議長にはバー・モウが就任した。
これで援蒋ルートはインドのアッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」のみとなった。
欧州戦線の鈍い動きに対して、アジア・インドでのソ連の攻勢は続き、ビルマが乾季に入ると作りためた兵力を使用して一気にカルカッタを突く「ヴァストーク作戦」が始まった。
ヴァストーク作戦の骨子は、ビルマ北部の密林地帯を避けて沿岸沿いに空海からの濃密な支援を受けた機械化部隊によって、一気にカルカッタを占領することであった。
カルカッタ占領によってインド国内の独立勢力を刺激し、全土を騒乱状態にすることで援蒋ルートの完全閉塞を狙っていた。
この作戦に間に合わせるためにシンガポールで大量に獲得したイギリス軍インド人捕虜から、インド国民軍が編制された。
インド国民軍の司令官には、チャンドラ・ボースが就任した。
チャンドラ・ボースはマハトマ・ガンジーの非暴力・不服従抵抗運動よりも、武力によるインド独立を志向し、戦前からソ連で活動していた独立運動家だった。
岡田大老はボースのカリスマ性を認めていたが、列強同士の直接対決を避ける方針だったことから、開戦までの活動は限定的だった。
開戦後は一転して幕府から重用され、マレー半島、シンガポール戦ではインド人部隊に降伏と独立運動参加を呼びかけて次々に転向者を増やしていった。
ヴァストーク作戦に参加したインド国民軍は、ソ連製の武器で再武装した精鋭部隊で、突破作戦の先鋒に参加した。
空には2個航空軍が展開して、インド北東部のRAFの航空基地を激しく攻撃し、航空撃滅戦となった。
対空砲火やスピットファイアの迎撃によって多数の機材が失われたが、パイロットの損失は至って軽微だった。
ソ連軍はプロパガンダ攻勢によってインド国内に支持者を獲得しており、撃墜されて脱出したソ連空軍のパイロットを現地協力者の手によって匿われ、戦線復帰することができたからである。
ソ連は占領した東南アジア各地に次々と独立準備ソビエトを設置しており、解放者として認識されていた。
反対にイギリス軍は、圧政を敷く帝国主義者として反感を買っており、航空基地は常にインド人スパイに監視されているので、その動静は丸裸だった。
航空撃滅戦はソ連優位に展開し、イギリス軍の航空兵力を無力化すると一気に機械化部隊が海岸沿いになだれ込み、敗走するイギリス軍を追撃してインド国内に進軍した。
ビルマやインド北部は交通網が貧弱で、陸路の補給は困難の連続だった。
ジャングルの悪路では頻繁にトラックが泥で立ち往生し、馬匹車による輸送も暑さから馬が倒れるなど、近代戦争をするには最悪の場所だった。
ソ連軍は大量の輸送機を動員して、空輸を行うと共に海路で補給を行った。
海路補給は一度に大量の物資を運べるため有利だったが、港湾設備のないところへ物資を揚陸するのは一大事業だった。
ソ連の輸送船は戦時の使用を考慮して12tデリックを後付できる設計を義務付けており、船から下ろすだけなら困難だが可能だった。
そこから海岸線には、上陸用舟艇を使うことで輸送され、最後はビルマ人協力者の人海戦術で対応した。
もちろん、輸送船を狙ってRAFの攻撃機が飛来するため、揚陸地点を高射砲が防衛し、輸送船を防空戦闘機で守る必要があった。
輸送船護衛には、双発複座のDo45が使用された。
OKB95土井設計局が開発したDo45は多用途双発戦闘機として、大戦の全期間に渡って使用される傑作機であった。
高速性能の秘訣は平滑性の高い木製の外板で、金属外皮よりも空気抵抗削減に効果があった。
ただし、湿気には弱くビルマ戦線や洋上で使用した場合、100時間で外板の取替が必要になった。
砲兵が悪路で落伍することが多々あったため、火力支援には水上艦艇が動員された。
富士級戦艦が交代で艦砲射撃を行って、海岸沿いに進軍する陸軍を支援したのである。
これはイギリス海軍の常識からすると理解しがたいことだった。
何しろまともな海図もない場所で、喫水線の深い戦艦を行動させることは座礁事故を起こさせるようなものだった。しかも、RAFの空襲圏内に戦艦を投入するなど、爆撃してくれと言っているようなものである。
しかも目的が陸軍砲兵の代わりというのは、
「理解できるが、本当にやるとは思わなかった」
というソマヴィル海軍中将の言葉どおり、外洋海軍の仕事ではなく、沿岸海軍のやることだった。
しかし、大抵のソ連海軍の指揮官は爆撃や座礁のリスクよりも西比利亜に行くのが嫌だったので、戦艦を陸軍砲兵の代わりに使うことに同意した。
こうした非常識な(イギリス海軍にとって)艦隊作戦を指揮することになったソ連海軍の秋雲中将はイギリス海軍から畏怖を込めて「テリブル・オータムクラウド」と呼ばれることになった。
しかし、富士級戦艦の36.5センチ砲は、イギリス軍のマチルダ戦車1個大隊をまとめて吹き飛ばすなど攻撃力は絶大だった。
しかし、代償に秋津島はRAFの空襲で大破し、瑞穂は座礁して中破するなど被害も大きかった。
礼文級巡洋戦艦も対地砲撃に投入され、最大射程付近の39km先のイギリス軍陣地に30センチ砲弾を発射した。
この砲撃は全く大外れで、味方を誤射するという最悪の結果に終わっている。
礼文級の55口径30センチ砲の長距離砲撃は射撃精度に根本的な問題があったため、以後は用いられなくなった。
対地砲撃には旧式戦艦の春日級も投入されており、こちらは古株が揃っているため正確な射撃で、陸軍将兵を喜ばせた。
攻勢開始から1ヶ月ほどでソ連軍はチッタゴンを占領し、そこからは開けた地形だったため電撃的にダッカ、カルカッタへ歩を進めた。
イギリス軍が無防備都市宣言でカルカッタを放棄したのは、1942年12月1日のことだった。
チャンドラ・ボースを先頭にインド国民軍がカルカッタに入城し、インド・ソビエト臨時政府の樹立を宣言したのは同月3日のことだった。
カルカッタはかつてイギリスの東インド会社の交易所として建設された都市で、イギリス領インド帝国の旧都である。
いわば、イギリスのインド支配の象徴であり、それが陥落したことはインド社会に激震を走らせた。
ガンジー率いるインド国民会議は暴力を用いる独立闘争には反対していたが、カルカッタが陥落すると全国統一ゼネストに打って出た。
インド国内のイギリス軍は補給が止まり、進退窮まった。
イギリス政府内部の強硬派や、ドイツのアドルフ・ヒトラー首相はガンジーを逮捕、拘束してストライキを武力で制圧するべきだと主張したが、チャーチルは反動主義には反対だった。
インド・イギリス軍総司令官のマウントバッテン伯爵もまた、下手にストライキを武力を弾圧すれば、取り返しのつかない混乱を巻き起こし、在インドのイギリス人が皆殺しにされかねないとして、政治的な解決を求めた。
インド問題を話し合うソ連とイギリスの会議は、1942年12月18日にセイロン島のコロンボで開催された。
日本からは外国奉行の吉田茂やインド方面軍総司令官板垣征四郎大将が参加し、イギリスからは外務大臣のアンソニー・イーデンや前述のマウントバッテン伯が出席した。
戦時下における主要な交戦国同士の外交交渉として、注目を集めたコロンボ会議は3日間の集中討議の末に、イギリスがインド独立を認めることで決着した。
さらに2ヶ月間のインド洋周辺地域の停戦と英ソ軍のインド撤退が決まった。
欧州へ派遣されていたインド人部隊については順次、帰国させることになった。
独立したインドは局外中立を宣言し、欧州連合軍や条約機構軍に対して軍事基地の提供や戦略物資の輸出入を禁じられた。
コロンボ条約は、戦時条約であったものの戦後も局外中立政策を推し進めるインドの理論的根拠となった。
ハイバル峠を目指して現地部族長たちを買収しながら前進していたアフガニスタン戦線では、停戦により作戦中止となり、その後ソ連軍は終戦まで駐留を続けることになる。
アフガニスタン戦線を担当したのは、第9師団の中村徹中将だった。
中村中将は医師免許を持った軍人という珍しい人物で、アフガン駐留においては現地の信仰や文化を尊重しつつ、軍の医療施設の開放や工兵隊による灌漑設備の整備などを推進した。
現地調達(略奪ではなく、現地商人からの物資購入)においても、市価の数倍の値段で調達を行うなど、アフガンの民心掌握に努めた結果は戦後のアフガニスタン外交において大きな資産となった。
ただし、イギリス軍の支援を受けて対ソ遊撃戦を行ったアフガン人も数多く、全てのアフガン人がソ連に靡いたわけではなかった。
それに比べるとペルシャ戦線では比較的単純で、先にイラン占領を図ったイギリス軍に対して、ソ連は解放者を演じる形で推移した。
ただし、イランもまた北部は岩山と山道の連続であり、ソ連軍の前進は遅々として進まなかった。
ソ連軍は自身が産油国であることから中東の石油利権にはさほど興味がなく、イギリス軍の北上さえ阻止できればそれで良かったので、大きな動きのない戦線だった。
コロンボ会議は今次大戦においても外交交渉によって一時停戦が可能であることを示し、条約締結後も会議の定期開催が決まった。
欧州とアジアの中間地点にあるインドが中立地帯であることは両者にとって何かと都合がよく、コロンボ会議は捕虜や民間人抑留者の交換に使用されることになった。
特にイギリスは人的資源に劣るため捕虜交換は重要だった。
人が畑で取れると称されるほど人的資源に恵まれたソ連であっても、ベテランの戦闘機パイロットの類は貴重で、不時着して捕虜になったパイロットを多数、捕虜交換で獲得している。
インド中立化で最後の援蒋ルートが閉ざされたことで、蒋介石の国民党政府は中華ソビエトに降伏した。
1937年から5年に渡って続いた中華統一戦争は中華ソビエトの勝利でついに終結し、3世紀に渡って続いた中華世界の南北分裂は解消された。
蒋介石は国民党の党首として中華ソビエトの政治に参加するつもりだったが、先に袂を分かち中華ソビエトに参加していた汪兆銘(汪兆銘国民党)が正当な国民党と認定され、蒋介石の国民党は偽国民党として解散させられた。
また、蒋介石は国家財産の着服、横領の罪によって逮捕され、終身刑となり政治的に抹殺された。
蒋介石に従ってきた軍閥は武装解除された上で、中華ソビエトに参加する形で統合され、地域政党や自治政府へと落ち着いていくことになる。
中華ソビエトは雑多な諸勢力を議会政治で統合していく方針だったことから、基本的にどのような政党でも受け入れる方針であった。
結果として、創華学会のような宗教勢力を議会に招き入れてしまうことになるのだが、それが問題となるのは戦後の話である。
1942年時点の問題は蒋介石と共に投降してきた大量のアメリカ人の処遇だった。
アメリカ陸軍のジョセフ・スティルウェルや、クレア・リー・シェンノートは軍籍から離脱して民間人(傭兵)として国民党軍に参加していた。
ソビエト幕府はアメリカ政府が蒋介石を支援していたことは知っていたが、その実態がどうなっているのかは大部分が謎だった。
蒋介石は保身のためにアメリカ政府の関与を示す証拠書類を保管しており、蒋介石共に確保された書類から、漸くアメリカの裏口参戦の実態が明らかになった。
スティルウェルは当初、黙秘していたが、長時間に渡る尋問で疲弊し、証拠書類を突きつけられるとアメリカ政府の関与を認めた。
ソビエト幕府は尋問記録や証拠書類、スティルウェルの証言をニュース映画に加工し、アメリカの不正義を糾弾するプロパガンダに最大限活用した。
アメリカ政府は対抗プロパガンダを作成し、スティルウェルや”善良”なアメリカ人をソ連に不当に拘束していると主張した。
また、中華ソビエトは全体主義政権という全く根拠のないレッテルを貼ることに終始した。
スティルウェルは蒋介石のことを腐敗した無能なファシストだと考えており、アメリカの関与は中国にとっても、アメリカにとっても碌なことにならないと考えていたのだが、本国の反応は違った。
ウィルキー政権は元々反ソで、露ソによる欧州制覇は断固として拒否する構えだった。
アメリカは両洋艦隊法(1940年7月)を成立させ、既に予算成立していた海軍拡張法と併せて航空機20,000機、戦艦10隻、空母24隻、大型巡洋艦6隻、巡洋艦74隻、艦隊型駆逐艦366隻もの大量建造を実施していた。
1943年に入るとその膨大な兵力が海の上に現れ始めており、既存の艦隊兵力を併せてもソ連海軍の5倍以上の兵力となることが見込まれた。
ソ連海軍は未だに1隻も空母を持っていなかったが、アメリカ海軍は欧州連合向けに1週間に1隻ペースで護衛空母なる商船設計の空母を就役させており、比較することさえバカバカしくなる勢いで空母を作っていた。
陸の兵力も膨大な数の自動車化歩兵師団、戦車師団が編制され、演習を繰り返していた。
戦争準備が整うにつれて、アメリカは速やかに軍事挑発を強めてきた。
イギリスに向かう船団にはアメリカ海軍の護衛駆逐艦が随伴するようになり、太平洋ではソ連の拠点付近に水上艦や航空機が現れ、領海侵犯や領空侵犯を繰り返した。
ロシア政府とソビエト幕府はお互いにアメリカの挑発に乗らないことを決めたが、1943年中にアメリカが何らかの理由をつけて参戦してくると覚悟を固めた。
よって、アメリカ軍の大軍がフランスに押し寄せる前に、フランス戦線の決着をつける必要があった。