第2次世界大戦(2)
第2次世界大戦(2)
1941年5月25日、ロシア軍は春を待ってフランス北部へ侵攻した。
フランス戦役の始まりである。
参加したロシア軍の総兵力は250万で、欧州戦線における総兵力の7割が充当された。
戦車2,500両に、火砲12,000門、航空機4,500機が投入され、北フランスは火の海になった。
ロシア軍は前年度と同様に縦深攻撃理論に基づき、極端な兵力集中を行って戦線の突破に成功すると損害を顧みない無停止攻撃で無人の荒野を行くような快進撃を重ねた。
しかし、パリに近づくにつれて進撃が鈍った。
さらに弾薬や燃料を消耗した戦車旅団は攻撃力を失っていった。また、捕虜にした敵兵が極端に少なく、包囲に成功した部隊は殆どなかった。
ミハイル・トゥハチェフスキー元帥は、欧州連合軍が縦深防御をとって反撃の好機を待っていることに気がついたが、第2梯団の投入で欧州連合軍の機動反撃を粉砕してやると息巻いていた。
欧州連合軍の反撃は1941年6月15日に始まり、ランス方面へ独仏英伊の戦車師団が殺到し、戦車800台が激突したマルル戦車戦が勃発した。
ロシア軍の第2梯団はこれを撃破したが、戦闘での消耗で第2梯団も攻撃力を失ったため、パリへの進撃は敵わなかった。
それまで全ての攻勢作戦を成功させてきたロシア軍にとって、こうした事態は初めてのことだった。
マルル戦車戦で敗退し、パリがロシア軍の列車砲の射程内に入った欧州連合軍は勝ったという認識はなかったもののロシア軍の一方的な攻勢に終止符を打ったことは大きな意味があった。
ロシア軍はこの攻勢に際して、万全を期すために新鋭戦車(T-34、KV-1)や新世代の航空機(Yak-1やMig-1、Il-2)を可能な限り、投入していた。
マルル戦車戦でもT-34は欧州連合軍撃退の大きな原動力となった。
しかし、空からの攻撃には無力だった。
ロシア軍の進撃が止まったのは、欧州連合軍が制空権を確保していたことが大きいと言える。
フランス空軍だけで作戦機は3,000機に達しており、RAFは4,000機を投入した。本国を失ったドイツ帝国空軍でさえ1,200機を用意していた。
作戦機の大半はイギリス製で、後はアメリカからの輸入機だった。
ロシア軍のヤク戦闘機やミグ戦闘機では、スピットファイアには太刀打ちできなかった。
本国を失ったドイツ帝国空軍は開き直って機材の全てをアメリカとイギリスから入手することにして、全戦闘機部隊にスピットファイアを配備していた。
ドイツのエースパイロットであるアドルフ・ガーランドは「どんな飛行機が欲しいか」と聞いたヘルマン・ゲーリング空軍大臣に対し、皮肉を込めて「自分の部隊を全てスピットファイアにしていただきたい」と述べたが、本当にスピットファイアが配備されることになるとは思っていなかった。
本当にスピットファイアに乗ることになったガーランドは、
「言うだけ言ってみるもんだな」
などと述懐したと言われている。
フランス空軍も国産のいつまでたっても完成しない新型機に愛想を尽かしてスピットファイアとアメリカ軍機で武装していた。
スペインやフランス南部に疎開した工場では続々とスピットファイアが量産されていた。
輸入機もロシア海軍の通商破壊戦がまるで奮わないので順調に届いていた。
最終的に12,000機もの大量生産が行われたスピットファイアMkVの生産数のうち半数はフランスやスペインの疎開工場によるものだった。
スペイン製のスピットファイアは機関砲が疎開したマウザー社の20mm機関砲になっており、武装面ではイギリス製のスピットファイアよりも評価が高かった。
マウザー20mm機関砲は信頼性に問題があったフランス製のイスパノ20mm機関砲に代わってイギリス製のスピットファイアにも搭載されるようになり、欧州標準機関砲として地位を固めるほどになった。
ちなみにスペインでスピットファイアの転換生産を担当したのは、ドイツ帝国のバイエルン航空機製造株式会社だった。
設計主任のメッサーシュミット博士はスピットファイアの生産簡略化に辣腕を奮って、スピットファイアの大量生産に貢献した。
ただし、メッサーシュミット博士は自社製戦闘機の製造も諦めておらず、政治的なコネがあるゲーリング空軍大臣に接触して許可を取り付けている。
しかし、ダイムラー・ベンツのエンジン工場はロシア軍に占領されてしまったため、ドイツ戦闘機の心臓部であるDB601は入手不能になっていた。
メッサーシュミット博士が苦労して自社製戦闘機に、ロールス・ロイスのマーリンエンジンを搭載する改造を施したのが、Me1112である。
機種名がMeに変わっているのはバイエルン航空機製造株式会社の株式をメッサーシュミット博士が買い取り、自身が社長に就任して社名変更したためである。
Me1112はスピットファイアMk.Vに比べて性能面で見るべきものがないにも関わらず、ドイツ帝国空軍の意地で少数生産と実戦配備が強行された。
Me1112を制式採用したスペイン空軍には65機が納入されて、1960年代まで使用されるという息の長い機体となり、映画撮影にも貸し出しされている。
それはともかくとして、制空権がとれないロシア軍は航空支援が受けられなかったばかりか、後方連絡線を爆撃されて立ち往生することになった。
特にRAFのランカスター爆撃機はロシア軍機が苦手とする高高度飛行性能が高く、しかも夜間爆撃だったため、対抗不能だった。
ロシアは電子産業の立ち遅れからレーダーどころか、無線通信機の確保にも苦しんでいた。
Yak-1のような新世代機でさえ通信機を搭載しているのは生産機の半分程度にとどまっており、足りない部分はハンドサインでなんとかするという世界だった。
夜間爆撃には高射砲で対抗するしかなかったが、気休めにしかならなかった。
後方連絡線を叩かれたロシア軍は燃料・弾薬が不足して、パリ前面で身動きがとれなくなった。
新型のKV-1重戦車などは、高射砲の水平射撃でも撃破不能で、突破戦闘で大きな力を発揮したが燃料がなくなれば、何もできなかった。
ロシア軍はパリを砲撃して市民を脅したが、却って徹底抗戦の意思を固めさせた。
フランスのポール・レノー首相は先の大戦であっけなく敗北した屈辱をロシア相手に晴らそうとしており、
「フランスは戦う!決して降伏しない!」
と砲撃下のパリで演説し、国民を鼓舞した。
制空権を失ったロシア軍に対する反撃は7月6日から始まり、航空支援を受けつつ欧州連合国軍は北フランスに居座るロシア軍に総攻撃を行った。
既に限界を達していたロシア軍は欧州連合軍の総反撃に、撤退するしかなかった。
フランスに侵入したロシア軍に容赦ない機関砲弾の雨を降らせたのはHs129だった。
フランスに疎開したドイツのヘンシェル社の工場で生産されたHs129は、数は少なく、しかも急遽割り当てられたフランス製のエンジンの低出力や不具合に悩まされるという状態であるにも関わらず機関砲攻撃でロシアの快速戦車を次々に撃破した。
重装甲のKV-1やT-34相手には苦戦したが、試作品のビッカース40mm機関砲を装着したタイプはどんな重戦車だろうと一撃で破壊することができた。
ロシア軍も次々に補充を送り込み、制空権の確保に努めたが焼け石に水だった。
特に高高度から侵攻するアメリカ製のB-17がどうにもならなかった。
イギリスに供与されたB-17が航空基地を高高度から爆撃するようになると、ロシア空軍の活動は急速に萎えていった。
高高度性能の高いMig-3が急ぎ戦線に投入されたが、武装が貧弱でB-17の重装甲を破ることは困難だった。
Mig-3が機関砲を全て撃ち尽くしてもB-17が平然と飛行を続けて、絶望したパイロットが体当たりを敢行して漸く撃墜に成功したほどだった。
ロシア軍は8月までに攻勢開始地点まで押し戻され、4月攻勢で得た占領地を全て失うことになった。
欧州連合軍はベルギー、オランダの解放を意図して、攻勢を強めたため、各地で激戦となった。
両軍は激しい航空撃滅戦を展開し、多数の機材とパイロットを失った。
ロシア軍にとって、こうした消耗戦は避けるべきものだった。
総合的な国力に劣るロシアは短期決戦型の軍備を整えており、後方が極めて薄かった。
その薄い後方部隊から、機材や教官パイロットを抽出しており、1941年以降ロシア軍では急速にパイロットの訓練時間が削減され、未熟なパイロットを前線投入していくことになる。
逆に欧州連合国は、教習機材や教官を天候の良いスペインに集めて、アメリカ製の豊富なガソリンを使って十全な教育/補充体制を整えつつ有り、両者の質的な差は徐々に開いていった。
また、根本的な機材の性能でロシア軍は劣っており、スピットファイアにしてやられたというのが正直なところだった。
スピットファイアが、今日でも尚、欧州救世戦闘機と呼ばれるのも当然と言えるだろう。
そんなスピットファイアが1941年10月3日に突如として多数撃墜されるという悲劇に見舞われた。
オランダ上空で地上攻撃機の護衛任務についていたRAFのスピットファイアMk.Vが見慣れない空冷エンジン機と対戦し、格闘戦に突入して1個中隊が壊滅するという大敗を喫した。
ロシア軍の戦闘機は基本的に全て液冷エンジン機で、旧式のI-16だけが空冷だった。
しかし、I-16は前線から既に撤収されており、オランダ上空にはいないはずだった。
ロシアの新型戦闘機の登場に、欧州連合軍には緊張が走り、スピットファイアを改造した写真偵察機が前線の各飛行場に送り込まれた。
だが、前線の飛行場にそれらしき戦闘機の姿は見当たらなかった。
しかし、スピットファイアを襲う謎の空冷戦闘機の目撃情報が増える一方だった。
欧州連合軍が謎の新型戦闘機の姿をカメラに収めたのは1ヶ月もあとの話で、B-17爆撃機を改造した長距離写真偵察機で漸くその姿を捉えることができた。
欧州連合軍がなかなか新型機を発見できなかったのは、探すべきところを間違えていたからである。
ロシア軍の新型機はスピットファイアの行動半径の遥か向こうに展開していた。
欧州連合軍のアナリストはロシア軍の新型戦闘機は、必要な時だけ前線に展開し、作戦が終わると後方に下がる運用をしていると分析した。
ロシア軍が熾烈な航空撃滅戦に音を上げて、そうした消極的な運用に転換したと考えたのである。
しかし、実際にはその戦闘機は戦線の遥か後方から最前線に向かって連日出撃していた。
その行動半径は軽く1,000kmを超えていたのである。
欧州連合軍はやっきになってロシアの新型戦闘機の正体を突き止めようとしたが、やがてその新型機は自らその姿を欧州連合軍の前に現した。
1941年12月8日、ソ連はロシアとの友好協力協定に基づき、イギリス・フランス・ドイツに宣戦を布告した。
海南島やフィリピン南部に展開していた新型戦闘機It43が爆撃機の大編隊と共に現れ、仏印や蘭印の各地を爆撃した。
It43はソ連のOKB30糸川設計局が開発した空冷単発単座戦闘機で、最新式の14気筒1,800馬力エンジンを備えた高速戦闘機だった。
その特徴は燃費のよいエンジンと大量の燃料を搭載する翼内インテグラルタンクで、増槽なしで2,400km、増槽ありなら3,000kmという長大な航続距離を持っていることだった。
これはスピットファイアの3倍近い値であり、戦力的価値を飛躍的に高めた。
なぜならば、航続距離が長いということは分散配備した戦力を糾合することが容易になり、少数の兵力でも局地的な兵力の優勢が確保できることになる。
また、爆撃機を長時間護衛することが可能となった。
スピットファイアはその点は全く落第生で、B-17の爆撃行程の半分も護衛できなかった。
It43はソ連初の制空戦闘機というジャンルに分類できるだろう。
第2次世界大戦におけるソ連最高傑作戦闘機の誕生とソ連の参戦には中華統一戦争が深く関わっていた。
1937年7月から始まった中華統一戦争は、紆余曲折を孕みながらも中華ソビエトの優勢で推移し、1938年には上海と南京が陥落。1940年末までには広東、海南島が中華ソビエトの勢力範囲となった。
中華ソビエトと中原の覇を競った国民党政府は武漢に遷都した後、さらに内陸の成都まで逃亡して徹底抗戦を叫んでいた。
国民党政府が抵抗を続けられていたのは、援蒋ルートと呼ばれる外国勢力からの資金・武器援助があるからだった。
蒋介石は英米から豊富な資金援助を受けており、その資金を軍閥に分配することで権力と維持し、戦争を継続してきた。
ソ連は援蒋ルートの遮断には消極的だった。
中国沿岸部を占領しても仏印やビルマから援助は続いており、それを遮断するには欧州諸国との全面戦争に発展する恐れがあった。
幕府大老の岡田真純は大国間の全面戦争を求めておらず、欧州各国もまたそれを望んでいなかった。
ソ連は急速に海軍力を拡張しており、ロシアとの戦争で精一杯の欧州諸国は、アジアの植民地をソ連に攻撃されることを極度に警戒していた。
岡田大老は欧州諸国、特にイギリスとの戦争は、アメリカの参戦を呼び込むことになり、ソ連の国力の限界を超える戦争になりかねないと判断していた。
確かにソ連は五カ年計画を成功させて急速に国力を拡大していたが、アメリカはソ連の4倍を超える生産力があると見積もっていた。
ソ連のシンクタンクの研究でも結論は同じで、計算方法によっては5倍程度の生産力の差があると考えられていた。イギリスが加われば、さらにその差はひらく。
岡田大老は革命を守るために、英米との全面戦争は絶対に回避する意向だった。
しかし、中華ソビエトはそうしたソ連の腰が引けた対応に徐々に不満をつのらせていった。
中華ソビエトの指導者である毛沢東はタフネスを絵に書いたような男だったが、中国人民は長引く戦争に疲れていた。
戦争が終わらない原因が、無駄な抵抗を続ける蒋介石にあるのは明白だったが、そうした抵抗を粉砕できない中華ソビエトや後援者のソ連にも問題があると考えるようになっていた。
世論に動かされる形で毛沢東も首脳会談で岡田に援蒋ルートの遮断を申し入れた。
岡田はソ連の限界を超える戦争になりかねないとしてこれを拒否していた。
しかし、ソ連の国内世論もまた長引く戦争に決着をつけるため、幕府に断固たる行動を求めるようになり、岡田を悩ませた。
幕府に世界革命断行を求める国内世論は日に日に高まった。
特にロシアがドイツ帝国を下し、ベルリンが陥落するとソ連の国内世論は熱狂し、
「今こそ世界革命を!」
という論調が支配的になった。
もちろん、戦争に反対する者もいた。
海軍奉行の山本五十六はその筆頭格で、ソ連海軍の今の実力では到底、英米海軍には太刀打ちできないと考えていた。
ロシア海軍は正直なところ全くアテにならず、欧州連合軍の全海軍力をソ連だけで相手しなければならないと思われていた。
アメリカが参戦した場合、ソ連海軍VS全世界の海軍力という状況が現実にありえた。
ソ連海軍が1941年12月時点で就役させていた大型艦は、剣級巡洋戦艦2隻、富士級戦艦4隻、知辺級大型巡洋艦4隻、安唐(改知辺)級大型巡洋艦4隻のみだった。
いいところ、フランスか、イタリア並の戦力だった。
大老の岡田も政治家として全面戦争には反対だった。
フランス革命がそうだったように、戦争の拡大はカエサルを呼び起こすことになりかねなかった。
フランス革命政府は戦争の寵児に乗っ取られたのである。
幕府には征夷大将軍がいる上に、その征夷大将軍徳川信忠こそ、まさにカエサルの化身ともいうべき軍事的天才だったから、岡田の憂鬱は深かった。
政治家として岡田が最も恐れていたことは、
「大いくさのはじまりじゃぁぁぁあ!」
と信忠が叫んで、国民や軍部がその気になってしまい、なし崩しに幕府のシビリアン・コントロールが崩壊することであった。
実際のところ、信忠がその気になればたった一言でソビエト幕府は元の江戸幕府に逆戻りさせることができた。
幸いなことに信忠は政治的な沈黙を守り、妻のアナスタシアと共に江戸城で子育てに励んでいた。
しかし、江戸城を取り囲んで征夷大将軍に決起を求める群衆の数は膨大な数となった。
ちなみに同時期の京都も似たような状況となり、幕府の治安維持組織を超える数の群衆が京都御所に集まっていた。
群衆は、国家社会主義神道のイコン(天皇の御真影)を掲げて街角を練り歩き、
「世界革命断行!」
を叫んでいた。
西比利亜氷土宗の総本山の慈恩院では大規模な集会がひらかれ、法主のヒジリツカヤ聖人がソ連軍の武運長久を祈願するソビエト宣揚祈願法要を行った。
世論は世界革命断行に染め上げられていた。
最終的に、ソ連に最後の一線を超えさせたのは、アメリカ合衆国の経済制裁だった。
1940年の大統領選挙で共和党のウィルキー政権が成立するとアメリカは対ソ強硬外交に転じた。
1941年8月には在米ソ連資産の凍結と社会主義陣営全体に対する石油の全面禁輸措置を発動した。
石油や各種資源が自給できるソ連やロシアにとって石油禁輸は意味がなく、政治的なポーズでしかなかった。
資産凍結に関しても、そもそも対外貿易の占める割合がソ連経済は低く、アメリカと貿易が止まったところで、実体経済に及ぼす影響は殆どない。
むしろ、アメリカの方がソ連からの輸入が止まって困ることが多かった。
アメリカ企業は人件費の安いソ連に工場を作って、国内産より安いフォードやシボレーを逆輸入することで利ざやを稼いでいたので、対ソ経済制裁は迷惑だった。
ウィルキーもそれは認識しており、各種の特例措置を設けて迂回貿易ができる形を整えていた。
はっきり言えばザルだった。
ソ連への経済制裁は、国内世論や欧州各国に配慮して行ったエクスキューズという認識だった。
しかし、ソ連の世論を激昂させるには十分すぎた。
新聞各社は実態どころか存在すらしないABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)を書き立て、世論を煽った。
札幌の陸軍奉行所や、海軍奉行所には戦争を熱望する投書、電話、投石が殺到し、大老公邸には右翼が銃弾を撃ち込む騒ぎとなった。
追い詰められた岡田は陸軍奉行の東条英機と海軍奉行の山本五十六、空軍奉行の中島知久平を伴って江戸城に登城し、信忠に謁見した。
さすがに1940年代にもなると将軍謁見も簡素なものとなり、御座之間で平伏する必要はなくなっていた。
信忠は静かに岡田の国情報告に耳を傾け、普段の苦労をねぎらうと岡田に太刀を下賜した。
これが江戸国立美術館に展示されている鉄人剣である。
鉄人剣は刀剣としては美しいものではない。他の展示物(国宝や重要文化財)の名刀に比べるとがっかりするほど美的には凡庸な刀である。
ソビエト維新後に将軍家が太刀を下賜することは滅多になくなり、また下賜刀も信忠の性格を反映して工業生産された実戦使用を考慮したものとなっていた。
維新後に作刀された実用刀は、一般的にソビエ刀と呼ばれ、鉄人剣もその一振りである。
信忠の刀剣に対する思想信条は、
「刀は斬るためにある」
であり、つまりそういう意思表示であった。
岡田は札幌の大老公邸に戻ると戦争準備を指示し、1941年12月8日にソ連は欧州連合に宣戦を布告した。
アメリカ合衆国への宣戦布告は慎重な検討の結果、時期尚早として見送られた。
これで欧州の戦争は世界規模に広がりを持った世界的大戦となり、文字通りの世界大戦となったと言える。
開戦奇襲を企図したソ連軍は、海南島やフィリピン南部の航空基地に密かに新鋭戦闘機を運び込み、開戦と同時にアジア各地の欧州連合軍の航空基地を破壊した。
長大な航続距離で渡洋侵攻の尖兵を務めたのは前述のとおりIt43であった。
It43は中華統一戦争で戦闘機の護衛なしで長距離爆撃を行うHo111が大損害を出した経験から、爆撃機の全作戦行程を護衛できるだけの長大な航続距離を求めて開発された長距離戦闘機であった。
糸川設計局は、他の設計局が軍部の要求に対して航続距離と武装、その他諸元を両立するために双発戦闘機案を提出していたのに対して、爆撃機用の大出力空冷エンジンを採用することで単発でも実現可能であると軍部に逆提案した。
この提案は条件付きで認められ、試験機が完成して驚異的な性能を発揮すると直ちに制式化された。
初期生産型の一部は欧州連合軍に苦戦するロシア空軍にテストパイロット共に派遣され、スピットファイアを圧倒する活躍をみせて、ソ連空軍関係者を狂喜させた。
侵攻作戦に先立って行われた航空撃滅戦では、It43は旧式機多数の欧州連合軍を圧倒し、殆ど絶対的な制空権をソ連軍にもたらした。
さらに空母を持たないソ連海軍の上空援護にも出動し、It43は長時間艦隊上空でCAPを行うことで侵攻船団を守った。
It43は特に水平面の旋回戦闘に優れ、大戦中盤以降はIt43と格闘戦に入ることは厳禁とされた。
しかし、1942年時点ではIt43の性能は未知の戦闘機で、
「It、それが見えたら終わり」
とまでされるほど欧州連合軍のパイロットを恐怖させた。
しかし、イギリス極東艦隊にはそうした危機感や恐怖は殆どなかった。
確かに航空機の発展は脅威だったが、作戦行動中の大型水上艦艇を航空攻撃で撃沈した例は存在せず、特に重装甲の戦艦を撃沈するのは不可能だと考えられていた。
イタリアとイギリスが戦争状態に入って、タラント湾に停泊中のイタリア戦艦をイギリスの複葉雷撃機が奇襲して撃沈していたらもう少し危機感が違ったかもしれない。しかし、イタリアとイギリスは共にロシアと戦う同盟国であり、そのようなことは起こり得なかった。
ロシア空軍にも航空魚雷や雷撃機はあったが、標的になったのは商船ばかりで対艦攻撃で欧州連合軍の大型艦を沈めたことはなかった。
ソ連海軍は劣勢な艦隊兵力を補うために海軍航空隊に多額の投資をしており、南方侵攻作戦ではその真価が問われることになった。
南方侵攻作戦の第一段階は、仏印侵攻とスラウェシ島、ボルネオ島北部、香港への侵攻だった。
最後の香港攻略は中華ソビエト軍が担当し、特に問題なく勝利したため詳細は省く。
仏印侵攻は雲南と広西からの地上侵攻で、ジャングルを中華ソビエトの現地協力者と共に進み、植民地警備の軽武装なフランス軍を撃破して勝利した。
渡洋侵攻になったのはスラウェシ島、ボルネオ島北部侵攻で、これはソ連海軍にとっては初の上陸作戦であった。
何事でも初体験には齟齬がつきものであるが、ソ連海軍も多分にもれずに醜態を晒した。
セレベス海海戦においてはオランダ海軍の極東艦隊(軽巡1、駆逐艦3)が上陸阻止のために船団へ突入を試みた。
ソ連海軍は船団護衛に軽巡木曽(霧塞級8,150t)や左久級6隻(2,100t)など新鋭艦を充当しており、さらに大型巡洋艦の多摩(知辺級17,000t)まで護衛についていた。
それにも関わらず、僅か4隻の小規模艦隊の突入を阻止できず、逆に左久級2隻が大破して輸送船1隻が撃沈されるなど、散々な結果に終わった。
軽巡木曽は、今次大戦で唯一の機会となった水上爆撃機の敵前発進と奇襲爆撃戦法を実施したが、6機のBa7は全弾命中させることができず、何ら海戦に寄与することなく終わった。
大型巡洋艦多摩は28センチ砲という戦艦クラスの主砲を備えていたにも関わらず、1発の命中弾もなく、何の戦果も挙げることができなかった。
ちなみにオランダ艦隊は軽微な損傷で、一撃離脱に成功して無事に帰還した。
艦隊を指揮したカレル・ドールマン少将は一躍有名人となり、新聞紙面を賑わせた。
逆にソ連海軍の評判はガタ落ちとなり、所詮は陸式海軍とバカにされた。
「ほんとうに我が海軍は戦争ができるのかね?」
岡田大老に呼び出された海軍奉行の山本五十六は顔面蒼白で弁明に終始するしかなかった。
山本は本州人だったので、西比利亜に転勤させられるのは嫌だった。
ソ連海軍の練度の低さは急速に戦力を拡張したため、頭脳となる将校や背骨となる下士官の層が極めて薄いことが原因といえた。
殆どの将校が促成教育か、陸軍からの転科者というのは異常だった。
下士官も同じだった。習熟が必要な下士官の方が問題は深刻と言えた。
水兵は徴兵で必要なだけ集められたが、モンゴル高原や中央アジアから徴兵されてきた若者達は、日本語がわからないので、意思疎通に問題があった。
こうした問題に特効薬はないため、時間をかけて一つ一つ解決していくしかなかった。
ソ連海軍の弱体ぶりを見たイギリス東洋艦隊は今後の戦いに自信を深め、大胆な船団攻撃を計画した。
それはマレー半島にソ連軍が上陸してきた場合、上陸地点に戦艦を突入させて船団ごと橋頭堡を薙ぎ払うというものだった。
当然、ソ連海軍は激しく抵抗するので、それを捕捉して一気にソ連海軍を壊滅させることも狙っていた。
そのために急ぎ兵力の移動が行われ、地中海やインド洋から戦力の転用が行われた。
ロシア海軍には見るべき兵力がないため、欧州連合軍の海軍戦力には余裕があった。
最終的に集められた兵力は
戦艦
リヴェンジ、ロイヤル・サブリン、ラミリーズ、ウォースパイト、マレーヤ、
バーラム、ヴァリアント、クイーン・エリザベス
プリンス・オブ・ウェールズ、リシュリュー
空母
インドミタブル
巡洋艦
エクセター、アルジェリー
駆逐艦 18隻
というものだった。
戦艦だけでソ連海軍の2倍もあった。
巡洋艦や東洋艦隊に配備されていた巡洋艦レパルス・レナウンがいないのは、ソ連の大型巡洋艦が通商破壊戦を開始したため、捜索に出動していたためである。
各国の条約型巡洋艦よりも一回り大きく、戦艦クラスに主砲を装備したソ連海軍の貴狼級は遊撃戦で相手の戦力を分散させることを狙っており、その試みは成功したと言えるだろう。
ドイツ海軍やイタリア海軍も戦力派遣を申し入れていたが、イギリスは丁重に断っていた。
フランス語だけでもややこしいのに、ドイツ語やイタリア語まで加わったら、艦隊指揮がまともにとれなくなりそうだったからである。
空母が少ないのは、大西洋で航空機輸送に従事しているためだった。
100機単位で航空機を輸送できる大型空母は激しい航空撃滅戦が続く欧州にアメリカから航空機を輸送するためにフル稼働していた。
フランス海軍の戦艦リシュリューは緊張が高まる仏印に向かう途中で開戦となり、シンガポールに引き返してきたところだった。
さすがに戦艦1隻だけではできることはないため、イギリス東洋艦隊の指揮下に入って復仇の時を待つことになった。
陸伝いに侵攻できる仏印攻略戦は1ヶ月程度で終了し、1942年1月11日にサイゴンが陥落して終了した。
ソ連空軍は地上戦の推移に合わせて航空基地を速やかに前進させ、サイゴン周辺に第11航空軍が展開した。海軍航空隊も陸上攻撃機部隊である精鋭の第712、711陸上攻撃機連隊を中心に第1航空艦隊(800機)を編制して、進出させていた。
ソ連空軍における最大単位は航空軍で、作戦機はおよそ1,000機だった。
ただし、航空軍には固有の建制といったものはなく、作戦指揮を受ける部隊は頻繁に移動しているので作戦機の数は一定ではない。
ちなみにソ連空軍は同時期に12個航空軍を保有し、作戦機10,000機であった。
これはロシア空軍の2倍だったが、それでもまだ不足していると考えられていた。
ソ連空軍は作戦機の半数をロシア救援のために欧州戦線に派遣し、残りの半分で本土の防衛と南方作戦を行う予定であり、10,000機でもまだ足りなかった。
マレー半島上陸に先立って航空撃滅戦が始まり、ソ連空軍はマレー半島のイギリス空軍基地を爆撃した。
It43は効果的に爆撃機を護衛し、ハリケーンやバッファローといった旧式機しか持っていないRAFを圧倒した。
Ho177はセレター軍港に夜間爆撃を行って、港内にいた東洋艦隊を狙っていた。
精度の低い夜間高高度爆撃だったので実損害はなかったが、艦隊は緊急出港が相次いだことから将兵が疲労することになった。
イギリス東洋艦隊を指揮するトーマス・フィリップス海軍大将は艦隊を守るためにリンガ泊地に艦隊を後退させたが、マレー半島からは遠ざかることになった。
1942年2月10日にソ連の上陸船団は、サイゴンを出港した。
護衛の兵力は以下のとおりである。
戦艦 富士、八島、瑞穂、秋津洲
巡洋戦艦 剣、礼文
巡洋艦 由良、阿武隈、虎浪、玲奈
駆逐艦 18隻
相手の戦力を考えなければ、十分に堂々たる艦隊だと言えた。
巡洋戦艦剣、礼文は1941年に就役したばかりの新鋭艦で、38,000tの船体に新開発の55口径30センチ砲三連装3基9門を備えていた。
この長砲身30センチ砲は仰角30度で最大射程距離42,000mという凄まじい長距離砲撃が可能だったが、当たるかどうかは艦隊司令長官の秋雲忠一中将の運次第といったところだった。
戦艦富士級は江戸時代から海軍を支えてきた超弩級戦艦で徹底的な近代化改装を受けて、第1線にとどまっていた。
この他に弩級戦艦の春日と黄英が上陸支援のために船団と行動を共にしていたが、さすがに海戦に参加させるのは無理がありすぎた。
秋雲中将は現在のソ連海軍ではまともに東洋艦隊と激突した場合、絶対に勝てないと考えており、決戦は航空機で行われると考えていた。
水上艦隊や輸送船団の情報は意図的に欧州連合軍に漏洩されており、どちらも英仏連合艦隊を釣り上げるための餌だった。
そうとは知らず、上陸船団出港を”察知”したイギリス東洋艦隊がリンガ泊地を出撃したのは、1942年2月11日だった。
これがマレー沖海戦の始まりである。
東洋艦隊は出撃からまもなくソ連海軍の潜水艦I65に発見され、サイゴンから発進したHo177の接触を受けた。
空母インドミタブルからシーハリケーンが飛び立ち、すぐにHo177を追い払った。
この報告を受けた秋雲中将は静かに嘆息したという。
ソ連海軍には偵察機を追い払ってくれる戦闘機を積んだ空母は1隻もなかった。
空母なしで2倍以上の艦隊に挑まなければならないソ連海軍は絶対不利だったが、空母インドミタブルが機雷に接触して大破するという幸運に恵まれた。
ソ連海軍は機雷の運用に習熟しており、今回も漸減邀撃作戦のために多数の機雷原を潜水艦に敷設させていた。
そのうちに一つにインドミタブルが接触し、修理のためにセレター軍港に戻ることになった。
空母インドミタブルが離脱したことは艦隊に伝わらず、秋雲中将は空襲があると考えて対空戦闘準備を命じている。
同じことがマレー半島のイギリス空軍にも発生しており、インドミタブルが後退したことを知らなかったので上空援護の戦闘機は発進しなかった。
また、フィリップス大将も特に空軍に援護要請をだしていなかった。
フィリップス大将は、海戦は戦艦同士の砲撃戦で決着をつけるものという意識があり、空母の離脱をそれほど深刻に考えていなかった。
相手の2倍も戦力があることが、フィリップス大将の判断を誤らせた。
1941年2月13日、第11航空軍と第1航空艦隊は航空偵察で発見したイギリス東洋艦隊に全力攻撃を開始した。
述べ455機が参加したこの攻撃で、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、リシュリュー、ラミリーズ、リベンジ、ロイヤル・サブリンが撃沈され、クイーン・エリザベスとウォースパイトが大破。巡洋艦エクセターも失われ、イギリス海軍は歴史的な大敗を喫することになった。
特に最新鋭戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ、リシュリューが航空攻撃だけで撃沈されたことは衝撃という他なかった。
プリンス・オブ・ウェールズ喪失の報告に接したイギリス首相のチャーチルはショックのあまり毛髪量が大幅に減少した。
フランスのポール・レノー首相の反応も似たようなもので、戦艦リシュリューが失われたことは何かの間違いだと思って何度も海軍に確認させた電話の通話記録が残っている。
フィリップス大将は、大型の4発爆撃機が航空魚雷を抱いて突進してくるとは予想しておらず、対空火器も貧弱であったことから、航空攻撃を防ぐことができなかった。
第2次世界大戦で戦艦が撃沈されたのはマレー沖海戦が初のことで、ソ連軍は軍事史に残る歴史的な偉業をなしとげた。
東洋艦隊壊滅の報告に受けた海軍奉行の山本大将は西比利亜行を免れ安堵のため息を漏らした。
ソ連軍の上陸船団がマレー半島のコタバルで上陸を開始したのは1942年2月14日のことで、既に制空権を確保していたソ連陸軍は電撃的な攻勢でシンガポールに迫った。
攻勢作戦の先鋒を担ったのは、新鋭のT-37戦車だった。
空地一体の突破作戦を展開したソ連軍は、イギリス軍の陣地を次々と突破し、電撃的にシンガポールに迫った。
東洋艦隊を失った欧州連合軍にこれを防ぐ力はなく、1942年5月11日には日の丸がシンガポールに翻った。
セレター軍港を占領したソ連軍はドック内で爆破処分されたインドミタブルを発見した。
爆薬で竜骨を折られて放火された状態であったことから船としても使用は不可能だったが、それを差し引いてもソ連海軍にとっては宝の山と言えた。
ソ連海軍はインドミタブルを細かく分解調査し、発艦補助装置や着艦制動装置をリバースエンジニアリングした。
空母の格納庫の設計などは現物を入手して初めて理解できたことが山程あったと言われている。
また、ソ連の電子産業の遅れから配備が遅れていたレーダーについても、シンガポールで現物が手に入ったことからすぐにフルコピーされたものが量産ラインに乗せられた。
あまりにも完全なコピーだったため、電源スイッチのON/OFFプレートの向きが誤って逆に取り付けられていたのをそのままコピーして量産配備してしまったほどである。
マレー半島の次は、ジャワ島作戦が控えており、ソ連軍は航空基地を順次前進させて、航空支援のもとで艦隊と上陸船団を動かした。
セレベス海海戦でソ連艦隊を翻弄したオランダ極東艦隊も、空からの攻撃には無力で、泊地への爆撃によってオーストラリア方面への撤退を余儀なくされた。
ソ連海軍はまともに水上戦闘を戦わないままで勝利してしまったので、今度は存在意義を求めてむやみやたらに対地攻撃支援や、対潜掃討に力を入れることになった。
特に大型水上艦は全く活躍できなかったことから、
「戦艦はどこで何をしているのかね?」
と岡田大老から海軍奉行に質問があり、山本は再び胃痛に苦しめられることになった。
ソ連軍が南方作戦の終了を宣言したのは、1942年4月9日だった。
開戦から概ね120日でソ連は東南アジアのほぼ全域を解放し、各地に独立準備ソビエトを設置していった。
幕府内部には、東南アジアをソ連に編入してはどうかという意見もあった。
東南アジアには豊富な資源と人口があり、資源地帯としても、市場としても有望だった。
しかし、大老の岡田はソ連の拡大には否定的だった。
資源に関しては、西比利亜があるので新しい資源地帯を手に入れる必要性もなかった。
西比利亜なら安全な陸上輸送が使えるが、南方からは危険な海路で輸送する必要があった。
その膨大な輸送コストを考えるとこれから東南アジアで資源開発し、輸送船団を運行するよりも西比利亜の既存の鉱山や鉄道輸送力を強化した方が遥かに安上がりだった
また、東南アジアはあまりにも民族的、歴史的背景が隔絶しすぎており、却って現在のソビエトのあり方を損なうことになりかねなかった。
現在のソ連も決して一枚岩ではなく、水面下には慈恩主義といった分離独立運動がうごめいており、統一を維持していられるのは強大な幕府の政治力/軍事力があればこそだった。
ソ連の過剰な展開はそうした力を弱める可能性があり、リアリストの岡田にとっては食指が伸びても我慢しなければならなかった。
しかし、シンガポールやリンガ泊地といった確保が容易な軍事拠点の類は遠慮なく999年租借契約を各地の独立準備ソビエトに経済援助と引き換えに押し付けるといったこともしているので、ソ連が純粋なアジアの解放者だと考えるのは甘すぎると言えるだろう。
しかし、それを差し引いてもインドネシア社会主義共和国やマレーシア社会主義共和国、ベトナム社会主義連邦といった新興独立国の誕生にソ連が寄与したことは間違いなかった。
南方作戦を終えたソ連はインドを解放するべく、ビルマから西を目指すことになる。
また、中央アジアから印度と中東へ進むために、イラン戦線、アフガニスタン戦線が開かれた。
これらの地域は中世レベルの道路インフラしかなく、ソ連軍は牛歩の歩みで進むしかなかった。
なお、南方作戦、その後のインド作戦に参加した兵力はおよそ12個師団であった。
これはソ連陸軍全体の5%でしかなかった。
本州防衛や中国派遣軍を除いたソ連全兵力の70%は冬の間に西比利亜からヨーロッパに移動中だった。
それは輸送だけで陸軍奉行の東条英機が過労で倒れることになる一大事業だった。
後に20世紀のモンゴル襲来(20th Century Mongol invasions of Europe)と呼ばれることになる、ヨーロッパ戦線へのソ連軍派遣こそソ連にとっての本当の戦争と言えた。