第2次世界大戦
第2次世界大戦
第2次世界大戦の引き金を引いたのはロシアだった。
第1次世界大戦もロシア帝国の総動員がきっかけに連鎖反応的に軍事同盟が発動され、大戦争を巻き起こしたことを考えると、再びロシアが大戦の号砲を鳴らしたのはどこか納得できる話と思えなくもない。
第1次世界大戦の号砲を鳴らしたロシア帝国のニコライ2世は、自身の行動が国家と自身の破滅を招き寄せる大戦争になると思わなかったように、ポーランドに侵攻したロシア社会主義共和国のトロツキー議長もそれが破滅的な大戦争になると考えていた様子はない。
トロツキーが知るヨーロッパ諸国は、平和主義に毒されすぎて戦争恐怖症にかかった臆病鶏の群れだった。
よって、ポーランドへの攻撃は、黙認されるだろうと考えられていた。
グルジアや、アゼルバイジャン、ベラルーシ、ウクライナがそうだったように。
それがトロツキーの現状認識だった。
しかし、ロシアが1939年9月1日にポーランドへ侵攻するとヨーロッパ諸国はポーランドとの軍事同盟に基づきロシアに宣戦を布告し、即座にロシアとポーランドの戦いは複数国を巻き込んだ世界大戦に発展した。
フィンランドやバルト三国も軍事同盟に基づき宣戦を布告してきたことから、ロシアはいきなり多正面作戦を強いられた。
このような反応をトロツキーは全く予想していなかった。
「ドイツに嵌められた!」
とトロツキーは叫んだが、後の祭りだった。
しかし、薄ら寒い国内状況を考えれば、もはやロシアに後戻りできる道はなかった。
何しろロシアは軍事費と治安維持費で破産寸前だった。
ポーランドを侵略してワルシャワにあるポーランドの中央銀行を開けなければ国家としてデフォルトするしかなかった。
ロシアは強引な工業化により慢性的な貿易赤字で、国内の外貨備蓄は払底していた。
そこに膨大な軍事費や治安維持費を足すと国家の自転車操業が始まる。
旧ロシア帝国領の周辺国を併合した時に、それぞれの国家の資産を接収して漸く1939年9月まで体制を保たせてきたのがロシアの現状だった。
ロシアがポーランドに侵攻したのは、ロシア帝国の領土を回復するのが目的だと思われていたが、実態としてはとにかく金がなくてどうしようもなかったからというのが真実だった。
ヨーロッパ諸国は、ロシアの内情を全く把握していなかった。
また、把握したところでどうにもならなかったので世界大戦を阻止することは殆ど不可能というのが歴史家の支配的な意見である。
だが、ドイツもフランスもどうにかして始まってしまった大戦争を止めたいと考えていた。
ドイツ帝国はポーランドに独立保障を与えれば、ロシアの侵略を抑止できると考えており、ロシアがここまで迂闊な行動をとるとは想定外だった。
そのため、ドイツの戦争準備はまるで整っておらず、慌てて軍の動員を始めたところだった。
ドイツは欧州の中心にあって軍事的脅威から守られてきたことから、戦後は軍備を軽視しており、軍の装備は一般的に旧式化しており、訓練も不十分だった。
状況はフランスも似たようなもので、ベルギーやオランダは以下同文である。
不必要に軍備を拡大していたロシアの方が異常なのだが、得てして異常な人間ほど自分が正常だと考えるもので、トロツキーは広大なウクライナを見捨てたヨーロッパ諸国が今更、ポーランドのために本気で戦争をするなどナンセンスだと考えていた。
だからといって、ポーランドに侵攻して何の問題も起きないと考える方もよほど異常なのだが、もはや戦争は始まっており、ボタンの掛け違い方を論争しても何の意味もなかった。
ポーランド戦は1ヶ月ほどでワルシャワが陥落してポーランド東部をロシア軍が占領して休止状態になった。
ロシアは西ポーランドに入ったドイツ軍との直接対決を避けたのである。
フィンランドやバルト三国のようにとりあえず宣戦布告したが、攻勢に出る力のない国はいつまで経っても攻めてこないロシア軍に首を捻った。
そのため、ヨーロッパ諸国には和平への誘惑が生まれた。
実際には、ロシアは破産覚悟で軍需工場をフル稼働させ、総動員を行って次の戦いに備えていただけだった。
時間稼ぎができればそれでいいトロツキーは、曖昧な態度を取り続けた。
トルコのアンカラでは、ロシアとドイツの外交筋が接触し、和平の条件を探るなど、あたかもロシアが和平を望んでいるかのように見せかけた。
最戦線では先行きに楽観的なムードが広がり、戦線を挟んで独仏軍とロシア軍が手を振りあったり、事前に警告した上で形式的な砲撃や爆撃を行うなど、戦争をするフリをするまやかし戦争が発生した。
ドイツ帝国宰相のフランツ・フォン・パーペンは、
「クリスマスまでに戦争が終わるだろう」
などと歴史的に見て絶対的に失敗に終わる見通しを述べていた。
ロシアと戦争ごっこを続けるドイツとフランスにポーランド政府は激怒したが、ドイツ・フランスの助けがなければ何もできないポーランドはドイツ帝国首相パーペンの和平交渉の進展を見守るしかなかった。
ロシアはレニングラード防衛のために真冬のフィンランドに攻め入るという錯誤(フィンランド冬戦争)を犯したが、ドイツとフランスも和平交渉を続けるためにフィンランドが要求した武器弾薬の補給を拒否するという錯誤を犯している。
先行きに絶望したフィンランドがロシアと単独講和すると、パーペンは清々したといった態度をとった。
徹底抗戦を主張するフィンランドやポーランド政府をパーペンは疎んじており、国内においても右翼政党のアドルフ・ヒトラーの先制攻撃論を和平の障害として排除した。
フィンランドの単独講和はロシアとの対話の可能性を示したとして、パーペンはロシアとの和平交渉を継続した。
これを愚行と断じるのは当時の状況を考えると公平とは言えない。
イギリスは和平交渉の仲介役としてロシアとドイツに外交官をおくり、トルコでの和平交渉もイギリスがセッティングしたものだった。
ヨーロッパで孤立していたイギリスとしては、このあたりで外交によって大英帝国の存在感を取り戻したいと考えていた。
また、ドイツ主導のヨーロッパ統合は気に入らなかったが、ドイツやフランスが赤化するところを見たいわけでもなかった。
イギリスにとって、欧州世界に必要なのは適度な対立と調和であり、コントロールされた緊張関係こそイギリスの二枚舌が生きる場所であった。
ちなみにイタリアも似たようなようなことを考えており、各国に恩を売って未回収のイタリアを手に入れるべく蠢動していた。
和平への淡い期待や欧州世界らしい各国の交錯した思惑、陰謀、そして民主主義国家の定まりのない世論は、1940年5月10日のロシア軍の全面攻勢によって木っ端微塵に吹き飛んだ。
ロシア軍は、先の大戦の反省から東部の国境をがら空きにして、全ての戦力を結集してポーランド西部に侵攻した。
総兵力189個師団245万で、これはドイツ帝国軍の2倍。フランス軍の3倍もあった。
攻勢正面となったヴィスワ川正面の場合は5倍も戦力差があった。
なお、フランス軍は1940年5月時点で、ヴィスワ川には進出しておらず、前線への移動中だったことから、ロシア軍が相手をしたのはドイツ軍とポーランド軍だけだった。
攻勢開始から3日でポーランド軍は壊滅し、それに巻き込まれる形でドイツ軍は敗走した。
僅か2週間でオーデル川を越えて、ロシア軍はドイツ帝国本土へと雪崩込んだ。
ベルリンの最終防衛ラインであるゼーロウ高地でドイツ帝国軍の残存部隊とロシア軍の先鋒集団が激突したのは1940年5月24日のことである。
ロシア軍が短期間で大突破に成功したのは、ロシア軍総司令官のミハイル・トゥハチェフスキー元帥が練り上げた縦深戦術理論によるところが大きい。
ロシア軍は攻勢に先立って、砲兵、航空戦力を総動員して戦線のはるか後方まで同時に制圧し、広範囲に戦線を突破して機動部隊を流し込み、複数の梯団による無停止攻撃を行った。
ロシアの縦深戦術理論は第1次世界大戦の緻密な戦訓分析に基づいて構築されており、速やかな突破と包囲殲滅により敵野戦軍の撃滅に重きを置いた。
こうすることで塹壕戦に陥ることを避け、短期間で戦争を勝利で終わらせる。
それが新しいロシアの戦争のやり方だった。
貧しく総合的な国力に劣るロシアにとって長期戦は先の大戦同様に避けるべきものだった。
さらに攻勢に出て、本土の外で戦うことで先の大戦のような国土の焦土化を回避できると考えられた。
広大な国土を持つロシアは防衛戦や後退戦に長けるイメージが強いが、本土が戦場になるのは先の大戦で懲りており、ロシア人はもう二度と本土を戦場にする気はなかったのである。
ロシア軍が迫る中で、ドイツ帝国政府では宥和外交を主導したパーペン首相が失脚し、右派自由党のアドルフ・ヒトラー内閣が成立した。
新首相のヒトラーは欧州の連帯と徹底抗戦を訴え、反共十字軍を建軍すると叫んだが国会議事堂が空襲を受ける状況ではもやはどうにもならなかった。
ヒトラーはゲルマン民族の都を死守するために手をつくし、将兵の士気を鼓舞するため老皇帝のヴィルヘルム2世にその先頭に立つように求めた。
しかし、ヴィルヘルム2世は無情にも皇室の財宝と共に列車でオランダへ脱出した。
ドイツ帝国軍の士気はガタ落ちになった。
皇帝陛下は逃げたのだった。
絶望したヒトラーはベルリンと共に滅ぶ覚悟を決め、首相官邸に立てこもる準備をしたが、最終的に妻のアンゲリカに説得されてベルリンを脱出した。
ちなみに妻のアンゲリカとヒトラーは叔父と姪の関係である。
その結婚は親族の全てから反対されたため二人で駆け落ちしたという過去があった。
年齢差が20年もあるので、反対されるのは無理もなかったことと言える。
ヒトラーにロリコン疑惑があるのも当然と言えるだろう。
しかし、二人の関係はゴシップ誌が取り上げるような、いかがわしいものではなく、基本的にヒトラーは女性に対しては紳士的だった。
変態という名の紳士だった可能性は否定できないが、この場では本当の紳士だったと仮定して話を進める。
妻のアンゲリカはエネルギッシュな人物で、しばしば絶望的な戦況からパラノイアに陥る夫のヒトラーを励まし、時として戦争指導を代行することさえあった。
将軍たちも発狂している時のヒトラーには近寄らず、首相夫人のアンゲリカの指示に従った。その指示は的確だったし、ヒトラーも妻のやることには決して文句を言わなかった。
ゼーロウ高地を守るマンシュタイン少将は巧みな指揮でロシア軍の攻勢を防ぎ続けたが、1940年6月6日には撤退に追い込まれ、ベルリンは6月18日に陥落する。
ドイツ帝国政府はエルベ川西岸への大撤退を行って、ボンを暫定首都とした。
ポーランドからドイツ北部にいたる広大な地域がロシア軍の手におちた。
この間にドイツ帝国軍は、動員兵力(150万)のうち半数を失う大敗を喫し、ロシア軍は50万人の捕虜を得るという空前絶後の勝利を収めた。
先の大戦で首都陥落寸前まで追い詰めれたロシアにとって、仇敵のドイツ帝国を打ち破ったことは歴史的な壮挙と言えた。
各国でもベルリン陥落はトップニュースとして新聞紙面を飾った。
まさかドイツ帝国が首都を失うとは誰も予想していなかったのである。
殆どの場合、ロシアのイメージとは得体のしれない共産主義がはびこるヨーロッパの田舎であり、ドイツ帝国が敗れることなどありえないと思われていたのである。
ベルリンを陥落させたことでトロツキーは有頂天になり、ブランデンブルク門前で記念撮影をして、
「わが人生最良の日」
と自慢する手紙をソ連の岡田大老に書き送っている。
トロツキーは社会主義国の盟主面をするソ連に対抗心を燃やしており、ロシアこそ社会主義の総本山であると示すチャンスを窺っていた。
ベルリン陥落のインパクトは大きく、さすがの岡田大老も苦虫を噛み潰すしかなかった。
征夷大将軍の信忠はベルリン陥落の報に接しても静かに刀を研いでいるだけだった。
ただし、ソ連軍の動員状況は詳しく確認しており、無関心というわけではなかった。
妻のアナスタシアはトロツキーやレーニンを蛇蝎のごとく嫌っており、耳にすることも嫌がり、ラジオや新聞などを見聞きすることを一切拒否していたと言われている。
ベルリン陥落後、ソ連の国内世論は同盟国ロシアの快挙に喝采を送り、
「バスに乗り送れるな」
という声が高まることになる。
イギリスでは和平仲介の望みが断たれたことから、チェンバレン内閣が総辞職し、主戦派のチャーチル内閣が成立して、ロシアに宣戦を布告した。
ヒトラーは人生で初めて海外渡航し、ロンドンに出向いてチャーチルと会談を持ち、兵器供与を要請した。
ドイツはロシア軍の本土侵入を受けて軍需工場を国外へ脱出させていたので生産が止まっており、あらゆる兵器が不足していたから、イギリスの兵器供与は戦争継続には不可欠だった。
もちろん、チャーチルが無料でドイツ人に武器をくれてやるわけがないので、それ相応の対価が必要だった。
イギリスが要求したのはドイツ帝国の保有する各種先進技術の公開であり、特にドイツ帝国が喧伝していたロケット関係技術は各国の垂涎の的だった。
ロシア軍もロケット関連技術を確保するために、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場を占領し、その資料を収集している。
後に収集された資料は兵器供与の代価としてソ連にも送られて、様々なロケット兵器の基礎となるのだが、それはまた後述する。
チャーチルは曖昧な言動や歴史的な比喩を駆使して韜晦を繰り返して言質を与えず、窮地に陥った嘗ての敵国から尻の毛まで抜く所存だった。
ヒトラーは顔面神経痛のような笑みで対応し、祖国のために最後まで我慢した。
同じような苦痛の時間がイタリアのローマでも待っており、ヒトラーはムッソリーニから武器を分けてもらうために頭を下げた。
ヒトラーは先の大戦で裏切ったイタリアを軽蔑しきっており、戦前はムッソリーニへの侮蔑を隠そうとしてこなかったので、高い代償を払わされることになった。
ムッソリーニとの苦痛に満ちた会談を終えたヒトラーは憔悴し、妻のアンゲリカの肩を借りてやっと歩くほどだった。
しかし、ヒトラーには、まだフランス首相のポール・レノーとの会談が待っていた。
軍が壊滅して国土の半数が敵の手に落ちたドイツが生き延びるために、欧州各国の協力が必要不可欠であった。
戦前のドイツはヨーロッパの盟主として君臨しており、多くのドイツ人がそれまでの傲慢の報いを受けることになった。
ドイツ軍を壊滅させたロシア軍は戦線側面の確保をはかり、第2次攻勢を発動した。
この攻勢でチェコ、スロバキアが飲み込まれ、ハンガリーが崩壊し、ルーマニアでは革命が起きて共産主義政権が成立した。
連続攻勢で、ロシア軍は激しく消耗した。
特に航空戦力の消耗が著しく、開戦時には5,000機もあったはずのロシア空軍は半数まで数を減らしていた。
これはロシア空軍が地上軍に対する航空支援を最重要視して、対空砲火に晒されることを厭わず献身的な支援を実施したために発生した対価といえた。
また、機材の性能が根本的にドイツ軍機やフランス軍機に劣っているという問題があった。主力戦闘機のI-16は時代遅れになっており、He100やフォッカーD23、デヴォアティーヌ D.520に比べると明らかに見劣りした。
新世代機のYak-1やMig-1は数が少なく、機械的な信頼性が不足していた。
つなぎに導入したソ連製のHa109E型のみが欧州空軍機と互角に戦うことができた。
胴体の前後にダイムラー・ベンツの強力なエンジンを搭載するという特異なレイアウトを採用した高速重武装のフォッカーD23はI-16を次々に撃墜し、ヘルマン・ゲーリング空軍大臣から
「戦闘機駆逐機」
として絶賛される性能を示していた。
それにも関わらずドイツ帝国軍が大敗していたのは、航空戦力を地上で撃破されることが多く、新鋭機の数もまるで足りていなかったためである。
ドイツの誇るHe100は全体でも300機足らずであり、フォッカーD23も150機程度しかいなかった。
また、He100やフォッカーD23も全体として凝りすぎな設計のため、整備性が悪く稼働率が低かった。
これは明らかにドイツの航空行政の失敗であり、戦略のミスだった。
戦前のドイツは周辺を全て同盟国で囲まれており、平和の配当を受け取るために軍備を縮小しすぎていた。
最も軍備が縮小された1930年代初頭には、ドイツ空軍は予算不足で戦闘機が整備を受けられないため飛べなくなるほどだった。
1937年に空軍大臣に就任したヘルマン・ゲーリングは航空軍備の近代化資金を捻出するため、旧式機を海外へ輸出して資金を獲得するなど努力を重ねていたが、政治の無理解に足を引っ張られた。
ゲーリングはゲーリングで毀誉褒貶が激しく、
「不必要な戦艦を破棄して爆撃機を1,000機も作ればイギリス海軍を全滅できる!」
など、予算獲得のためにアジテーションを繰り返したことで、国際協調派のパーペン首相から疎まれていた。
また、勤務時間中にモルヒネを摂取していることをマスコミにすっぱ抜かれるなど、ゲーリングはマンフレート・リヒトホーフェンの後援や元撃墜王という国民的な人気がなければ、とっくの昔に解任されていた人物だった。
撃墜王リヒトホーフェンは、第1次世界大戦の東部戦線で大量のロシア帝国軍機や江戸幕府軍機を撃墜して名を馳せた人物である。
最後まで幕府軍はドイツ帝国に航空戦力で勝ることがなかったことから、無事に戦争を生き延びて本国へ凱旋している。
戦後はその知名度を生かして政界に転出したが、政治家に向いているとは言えない性格だったので自らの政治基盤を元部下のゲーリングに譲って引退していた。
ドイツの危機にあってリヒトホーフェンは現役復帰し、アメリカに渡航して共産主義の脅威を訴え、ドイツ帝国空軍のために多数の機材購入契約を結ぶことに成功している。
アメリカ製のP-40は決して圧倒的な高性能機ではなかったが、Ha109を相手にするなら十分な性能だった。
より高性能なP-38は輸出許可が降りなかったが、代わりにP-39が輸出された。
輸出型のP-39は排気タービンがオミットされるなど、高空性能を切り捨てており、アメリカ陸軍航空隊では受取拒否されるほど酷い性能になっていた。
しかし、低空戦闘が多い対ロシア戦ではP-39は却って好都合だった。
ミッドシップ配置からくる運動性能の高さや、離着陸が容易な前輪式降着装置もドイツ帝国空軍のパイロットから絶賛された。
主力のHe100はその種の性能が低く事故が多発していたから、なおさらだった。
航空戦力の補充に苦しんだロシア軍は禁じ手に手を染めることになる。
禁じ手とは、後方で後進育成にあたっていた教官や教習機材の前線投入である。
こうした措置は急速に戦力の崩壊を招くため、本来は禁じ手だった。
しかし、ロシアには後がなかった。
さらにソ連からの戦闘機輸入で戦力を回復させたロシア軍は、ドイツに止めを刺すべく1940年9月25日にエルベ川を渡った。
ロシア軍151個師団は、これまでの戦い同様に航空機や長距離火砲を総動員して、前線から後方までを同時に制圧すると各地で渡河点を確保した。
さらに空挺部隊が熾烈な妨害にも関わらず橋梁を確保して、あとからやってくる快速戦車旅団の進撃路を確保した。
ロシア軍の主力は快速戦車(BT)で、対戦車砲どころか火炎瓶にさえ容易に撃破される弱装甲戦車だったが、速度性能と航続距離に優れており長距離の侵攻作戦に適していた。
この点はソ連の装甲騎兵と同じで、両者の設計思想は基本的に同一のものだった。
第3次攻勢においても、快速戦車は弱点であるエンジングリルに火炎瓶を投擲され、大量に撃破された。
火炎瓶対策に快速戦車のエンジンをディーゼルに換装する計画もあったのだが、欧州侵攻のために棚上げとなっていた。
何しろヨーロッパではガソリンスタンドで燃料が現地調達できるのだから、それを活用しない手はなかった。
損害を顧みない速攻と空地一体の攻撃を阻む方策を持たない欧州連合軍は各地で突破と包囲殲滅を許した。
1940年10月18日、ロシア軍はついにドーバー海峡に至った。
ドイツ帝国の暫定首都はボンからシュトゥットガルトに移転した。
もうヒトラーはボンと共に自決すると喚くことはなかったが、絶望のあまり歩くこともままならず、担架に乗せられて救急車でシュトゥットガルトへ逃亡した。
ドイツ帝国はフランス国境地帯の一部地域まで縮小し、10月3日にはパリに亡命政権ができた。
ヒトラーがヴィルヘルム2世の死を知ったのは亡命先のパリでのことである。
オランダに逃亡したヴィルヘルム2世はロシア軍の侵攻を避けて船でスェーデンに亡命しようとしたところをロシア軍機に爆撃され、皇太子と共に爆死した。
1940年10月5日、名実ともにドイツ帝国は滅びたのである。
入れ替わりに戦争の主役となったのはイギリスだった。
制空権確保のためにRAFの戦闘機部隊を投入した効果は劇的だった。
既に十分な数が生産されていたスピットファイア(800機)によって、ロシア軍機は次々に撃墜され、ドイツ南部から欧州軍部隊の撤退が速やかに進んだ。
オランダやベルギー沿岸に取り残された欧州各国軍もイギリス海軍によって救出され、ひとまず一息つけることになった。
連続攻勢で消耗し尽くしていたロシア軍に、これを阻止する力は残っていなかった。
もちろん、弱体なロシア海軍ではどうにもならなかった。
ロシア海軍はこれまでバルト海で活動する程度で、ドイツ海軍やイギリス海軍と正面から戦える戦力はなかった。
実はロシアは潜水艦大国で大量の潜水艦(150隻以上)を保有していた。
しかし、その用途は沿岸防衛であり、積極的に外洋に出て戦うのではなく、沿岸で待ち伏せ攻撃を行うためものだった。
基本的にロシア海軍は潜水艦と機雷でバルト海や黒海を防衛するために存在し、それ以上の戦略はなかった。
ロシアの潜水艦艦隊は全くそれまで考えたことのなかった大西洋での通商破壊戦という未知の領域に踏み出すことになったのである。
なお、1940年に行われた通商破壊戦ではほとんど見るべき戦果がなく、逆に多数の潜水艦を撃沈されるなど、散々な出だしとなった。
1940年12月までに、戦線は小康状態となり、ドイツ帝国は戦争の主役から脱落してフランス、イギリス、そしてイタリアなどの欧州連合が戦争を主導することになった。
ロシアはライン川から、アルプス、バルカン半島を横断して黒海に至る長大な戦線を抱えることになり、さらに膨大な占領地行政にも苦しむことになった。
ロシアはドイツやオランダ、ベルギーといった欧州の先進地域を占領して膨大な量の資産を接収することで漸く国家の破産を免れたが、略奪にあった占領地域はことごとく反ロシアに染まることになった。
ロシアの占領統治は基本的に国内のそれと同じ高圧的な強権弾圧であり、自由を圧殺することでしか秩序を保てなかった。
当然のことながら、それはさらなる反感を不満を招き寄せ、果てしない悪循環へと至る道なのだが、他に方法もなかった。
ソ連が中華地域で成功したような解放者としての振る舞いはロシアには不可能だった。
ロシアは奪うためにヨーロッパに来たのであり、与えられるものといえば空虚なプロパガンダぐらいしかなかった。
東欧やドイツでは収容所行きを免れた兵士が各地で抵抗活動を開始し、血で血を洗うパルチザン戦が始まっていた。
とくにバルカン半島戦線でのパルチザン戦は凄惨を極めた。
ロシアが親ロシア政権のセルビアに後方警備を任せたことで、暴力を独占したセルビア政府が80万人のクロアチア人を虐殺するなど、ロシアの治安維持戦は各地で膨大な犠牲者を産むことになった。
それでもドイツや低地諸国、チェコスロバキアの工業地帯を押さえたことで、ロシアはやっとこの戦争に長期的な展望をもつことができるようになった。
トロツキーは1941年の春期攻勢の目標をフランスに定め、然る後イタリアや南欧を赤化する計画を立てた。
仮にそれが全て成功したとしても、ブリテン島への侵攻は不可能だったが、イギリスとは取引できるとトロツキーは考えていた。
かつてのドイツ帝国がそうだったからである。
ただし、不安要素がないわけはなかった。
フランスに次々と送り込まれるイギリス大陸派遣軍を止める手立てはまるでなかったし、イタリアやギリシャに上陸するイギリス軍は脅威だった。
さらにイギリスはイランを占領して、RAFの戦略爆撃機の基地を建設した。
RAFのターゲットがロシアの生命線であるバクー油田であることは明白だった。
RAFの戦略爆撃はヨーロッパ戦線では既に始まっていたが、1940年時点では機体数が少なく、爆撃機の性能も低かったため戦争を左右するほどの力はなかった。
しかし、ブリテン島やカナダでは量産体制の整備が進められており、戦略爆撃など考えたこともないロシアにとっては不気味な存在だった。
一応、ロシアにもPe-8のような大型爆撃機もあるにはあったが、陸軍直協型のロシア空軍では使い道がなく生産機の大半が輸送機として使われていた。
Pe-8に興味を示したのはソ連海軍で、長距離哨戒爆撃機として10数機が輸出され、サンプルとして使用された。
海軍力で劣るソ連海軍は、陸上基地から発進する長距離攻撃機を用いることで劣勢の海軍力を補う戦略を立てていた。
ソ連海軍航空隊における最初の長距離攻撃機は、双発のHo111(幕歴333年(1936年)採用)で航空魚雷を1本抱いて2,600km飛行することができた。
Ho111の後継機としてOKB21本庄設計局が完成させたのがHo177(幕歴337年(1941年)採用)で、葉巻型の胴体をもつ4発爆撃機だった。
Ho177は4発機でありながら運動性が非常に高く、航空魚雷4本を抱いて2,600kmも飛行することが可能だった。爆弾なら4tまで搭載可能で、戦略爆撃機としても十分使用できる性能だった。
Ho177はソ連海軍航空隊のみならずソ連空軍にも採用された。
アメリカ陸軍航空隊のB-17にも匹敵する大型爆撃機の完成によって、ソ連空軍は戦略空軍の性格を帯びることになった。
また、Ho177の配備で初めてソ連海軍航空隊はイギリス海軍の空母に対抗できるだけの戦力を手に入れたと言っても過言ではなかった。
Ho177の試作機はたびたび中国沿岸で試験飛行を行って、中国沿岸で作戦行動中のイギリス極東艦隊にその機影を見せつけた。
イギリス極東艦隊は空母カレイジャスを引き抜かれて弱体化しており、ソ連海軍航空隊が増強されると1940年末までに中国沿岸に接近することはなくなった。
イギリスの支援を失った広東の国民党軍は駆逐され、イギリス領の香港を除いて中華ソビエトに占領された。
武漢も中華ソビエトの攻勢によって陥落し、蒋介石は成都に逃亡した。
中華ソビエトは中国沿岸部を全て占領したが、英領ビルマや仏印からの援蒋ルートは残っており、内陸で国民党軍の抵抗を助けた。
しかし、ロシアとの戦争に忙しくなったイギリスは、徐々に中国の戦争からフェードアウトしていった。
代わって蒋介石に武器や資金を援助するようになったのはアメリカだった。
アメリカはヨーロッパにおいても、各国に武器や資金を援助しており、明確にロシアやソ連を敵視して行動していた。
特に1940年のアメリカ大統領選挙が大きな転換点となった。
ロシアによるベルリン占領を目の当たりにした1940年のアメリカ大統領選挙は共和党のウェンデル・L・ウィルキーの勝利で終わったのである。
既に2期を務めていた民主党のルーズベルト大統領は史上初の3選を狙っていたが、これまでの親ソ外交が大きなマイナスとなった。
第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、アメリカの歴史において最も親ソ連の大統領といえた。
8年間の任期中に行われた米ソ首脳会談の回数は16回であり、半年に1回はソビエト幕府の大老岡田真純と会っていた計算になる。
これは当時の首脳外交としては異例のことであり、米ソの蜜月ぶりは際立っていた。
岡田大老とルーズベルト大統領はそれぞれの別荘で個人会談を行うなど、非常に打ち解けた関係となり、お互いをコーバ(岡田の愛称)とフランク(ルーズベルトの愛称)で呼び合う関係だった。
ルーズベルトが推進したニューディール政策は、ソ連の五カ年計画の影響を受けており、経済界からは社会主義と批判されていた。
ルーズベルトはアメリカ経済再建のためにソ連との関係を重視していた。
融和ムードの米ソの貿易取引は1940年までは毎年拡大しており、1937年にはブロック経済の脱却と国際貿易再生を共同宣言している。
本州にはフォード・モーターの自動車工場が作られ、トラクターやトラック、乗用車の現地生産、現地販売を行っていた。
フォード・モーターの現地生産は既にドイツやイギリスで行われていたが、エンジンや変速機といったコア部品の現地生産を行うのは欧州だけと考えられていた。
コア部品の現地生産のためには技術移転が必要であり、社会主義経済のソ連への技術移転はありないと考えられていたのである。
フォード・モーターの技術移転にショックを受けたGMも本州に進出して自動車の製造販売を行うようになった。
ソ連のモータリゼーションを牽引したのは事実上、アメリカの自動車会社といえた。
ちなみに戦前のソ連の国産車は、基本的にフォードかGMのライセンス生産品だった。
第1次五カ年計画で日産自動車とフォード・モーターの合弁会社が設立されて、日本の自動車産業が始まるのが1929年である。
日産が本州の工場で生産した車両は基本的にフォードのフォード・モデルAだった。
日産がその技術を利用して完全な国産自動車と呼べるものを開発するのは1942年まで待たなくてはならない。
豊田自動車は1933年に設立され、こちらは最初から純国産技術で自動車の製造・販売に乗り出したが、生産も販売も振るわず実態としては幕府の補助金頼みだった。
中華統一戦争が始まり、ソ連が公然と中華ソビエトを支援しても、米ソの蜜月関係に変化はなかった。
アメリカが中華ソビエトに武器を売ることはなかったが、軍用航空機にしか使い道がない100オクタンガソリンや高性能潤滑油がソ連経由で中華ソビエトの手に渡っており、日産が生産したフォード・トラックが中華ソビエト軍で使用された。
イギリスの息がかかった蒋介石よりも蜜月関係のソ連が推す毛沢東の方がアメリカにとっては好ましい人物だと言えた。
だが、ロシアがヨーロッパへ侵攻し、ドイツ帝国が滅亡するとアメリカ世論の風向きは大きく変わった。
致命的だったのが、ロシアが占領地で行った資産の没収だった。
ロシアは占領下のドイツや低地諸国の資産を没収してまわったが、それにはアメリカの在外資産が含まれていた。
また、それぞれの国で登録していたアメリカの特許も国有化(没収)されるなど、アメリカ企業は大打撃を受けた。
ドイツは戦後復興でアメリカから多額の復興資金を借り入れており、戦後に多数のアメリカ企業が進出していたことから、アメリカ経済の損失は甚大な規模となった。
ソ連はロシアに武器弾薬や食料などの戦略物資を輸出しており、ロシアの戦争に協力していることは公然の事実だった。
ロシア・中華ソビエト、そしてソ連は国際平和に対する敵として、アメリカ世論の激しい攻撃を受けることになった。
また、ソ連がニューディーラーを通じてアメリカの国内政治に介入している事実がイギリスの情報機関の手で暴露され、ルーズベルト大統領は釈明に追われた。
結果として、共和党のウィルキーの地滑り的な勝利で1940年のアメリカ大統領選挙は終わり、米ソ蜜月時代に終わりを告げた。
勝利宣言したウィルキーは、
「私達にたった一人の男はいらない」
として慣例を無視して大統領3選に臨んだルーズベルトを批判した。
しかし、これは1924年からソビエト幕府大老として君臨する岡田真純に向けられた皮肉と解釈するのが歴史家の間では支配的である。