特異点 徳川信康
特異点 徳川信康
江戸幕府の初代将軍徳川信康は、永禄2年3月6日(1559年4月13日)に松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で生まれた。
後に江戸幕府を開く徳川将軍家も、その頃は今川家の配下に過ぎなかった。
松平家に転機が訪れるのは、永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いである。
この戦いで今川義元が敗死したことを受けて、松平元康は三河独立を図った。
このようなことは戦国時代では日常茶飯事であり、それを防ぐために大名家は家臣の妻子を人質にとるのが一般的であった。
人質となった妻子は夫が裏切れば、処刑される定めにある。
よって、信康は父に見捨てられたも同然だった。
幸いなことに人質交換という形で生き延びることになったが、危ういところであったことは間違いない。
親に見捨てられ、処刑されかけた子が後に征夷大将軍となるのだから、人の運命とは分からないものである。
その後、信康は岡崎で松平家の嫡男として養育された。
桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長と松平元康が同盟を結ぶと信康は9歳で同い年の徳姫(信長の長女)を娶ることになる。
同年に元服して義理の父となった信長から偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗ることになった。
国境を接する織田家と松平家は幾度となく血を流しあった積年の恨みがあり、徳姫の輿入れは平坦なものではなかった。
また、9歳で親元を離れることになった徳姫の不安や恐怖は想像するに難くない。
江戸幕府成立後に書かれた三河物語では徳姫に何かと世話を焼き、贈り物をする幼年時代の信康が登場する。
三河物語は著者の大久保忠教(彦左衛門)の思入れや不満、愚痴などが頻出し、信憑性や客観性に乏しいが、他の歴史資料でも徳姫を気遣う信康が登場することから、この部分は歴史的な事実と考えるのが学会では支配的である。
実際に信康と徳姫は仲睦まじい夫婦だったと言われている。
徳姫は天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫を生んだ。
嫡男に恵まれたのは、天正7年(1579年)のことであった。
このとき生まれたのが後の2代目将軍徳川家宣である。
なかなか徳姫が男子に恵まれないことを不満に思った姑の築山御前は、信康に側室をとるように勧めたが信康は頑としてこれを拒絶している。
舅の信長を恐れたからという説もあるが、天正10年6月2日に本能寺の変で織田信長が倒れても、徳姫以外の女性を娶ることはなかった。
二人の愛は本物だったと言えるだろう。
本能寺の変で徳川家の運命は大きく変わることになる。
信康が歴史の表舞台に現れるのも本能寺の変以後のことである。
本能寺の変以前の信康は、徳川家の一武将に過ぎず、長篠の戦いやその後の対武田戦での武功は目立つものではなかった。
信康はどちらかと言えば、軍事よりも内政に優れていた。
岡崎時代の信康の功績といえば、殖産興業である。
三河(岡崎)で木綿栽培が本格化するのは信康以後のことであり、信康は家中の先頭に立って木綿の栽培や糸を紡ぎ、木綿栽培を奨励した。
衣料としての木綿は非常に優秀で、木綿栽培の成功は徳川家に莫大な収入をもたらした。
強大な武田家と戦い続けられたのも、木綿専売による収益があればこそである。
また、蒲郡の蜜柑や駿河の茶も信康時代に栽培が始まったものであり、これらの商品作物栽培による金銭収入に目をつけた信康の先見性は当時から高く評価されていた。
武士の農法として畜産を奨励したのも信康である。
畜産業は当時の仏教的な価値観により忌避されていたことから農村の既得権の外に位置しており、武士の農法として発展する余地があった。
日本でヤギや羊の飼育が始まったのも三河からであり、本州での養豚発祥も三河である。
天竜川の水力を利用した水力紡績機により羊毛や木綿の紡績が行われたのは天正12年のことで、岡崎城には毎年蔵が建つとまで言われた。
「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」
という落書にある唐の頭とは、チベット産のヤクの毛で作られた輸入品の帽子と長年考えられてきたが、近年の歴史資料の見直しで三河産の羊毛で作られた国産品の帽子だったことが判明している。
俗説であるが、難破した南蛮船から回収された帽子は海水に浸かって損傷しており、その帽子を信康が見様見真似で再現して父の家康に贈ったという説がある。
話が逸れたが、本能寺の変が起きたとき、信康は浜松にいて難を逃れている。
しかし、父の家康は不運にも堺に滞在しており、伊賀越えで三河に帰還しようとしたところで明智軍の追撃を受けた。
逃げ切れないと判断した家康は鈴鹿山中で切腹して果てた。
家康最後の地は、現在でも諸説があり定かではない。遺体は晒し者にされることを避けるために地中に埋められたため所在不明である。
しかし、本田峠付近が有力視されている。
というのも本田峠とは、家康を守って討ち死にした本多平八郎に因んでおり、当時は加太峠と呼ばれていた。
本多平八郎の奮戦は凄まじく、加太峠の草木はことごとく血に染まり、平八郎は主君を守るために立ったまま往生したという伝説がある。
家康の首は、服部半蔵正成によって岡崎に物言わぬ帰還を果たした。
父の無残な最後に接した信康は明智討伐の兵を挙げようとしたが、それは叶わなかった。
突如として徳川家を背負うことになった信康は国内の動揺を抑えることを優先せざるをえなかったからである。
また、父家康と共に多くの有力な家臣を失った徳川家は再編成が必要であり、軍を起こす余裕などあるはずもなかった。
結果として天下は、明智討伐を果たした羽柴秀吉の手に転がり込むことになる。
羽柴秀吉は清州会議で信長の孫にあたる幼年の三法師に織田家の家督を継承させ、自らを後見人とすることで織田家の家内政治を掌握した。
これに反発した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで打ち破ると表立って秀吉に逆らえるものはいなくなった。
秀吉は石山本願寺の跡地に信長の安土城を超える巨大な城を築き、天下人としての地位を着実に固めていった。
この間に、信康は信長の死によって大混乱となった信濃や甲斐を掌握し、徳川家を三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国にまたがる大大名家に成長させた。
徳川家は旧武田遺臣を匿っていたことから、信濃や甲斐を掌握することは容易であった。
それどころか、有力な家臣を本能寺の変で大量に失った徳川家は、穴埋めに武田遺臣を積極的に取り込んだ。
後に信康の軍配者として名を馳せる真田昌幸が徳川家に破格の待遇で迎え入れられたのも同時期である。
信康は今川旧臣の取り込みも積極的に行った。
信長や信長と同盟者となった家康には敵愾心を燃やしていた今川旧臣も、その両者が倒れたあとで、今川家の血を引く信康から声がかかれば悪い気はしない。
それまで目立った武功のなかった信康の能力を危惧するものも多かったが、甲斐と信濃に領土を広げたことでそうした悪評も払拭された。
秀吉は東海道一の弓取りと称された徳川家康亡き後の徳川家を等閑視していたが、信康の手腕を目の当たりにすると徳川への警戒を強めた。
信康も秀吉との対決は避けられないと考えており、紀伊の雑賀衆や四国の長宗我部元親と連絡をとって秀吉包囲網を築いた。
秀吉の挑発により挙兵した織田信雄を支援する形で徳川信康は出戦し、小牧長久手の戦いが始まることになる。
徳川・織田連合軍は兵数では劣勢であったことから、小牧山を要塞化して、秀吉軍と対峙した。
秀吉が正面攻撃を避けたことから、戦いはにらみ合いの長期戦となった。
先にしびれをきらしたのは秀吉の方で、徳川家の本拠地である三河への侵攻(中入り)を画策した。
このような拙速な作戦は用意周到な城攻めを得意とした秀吉らしからぬ失策であったといえるだろう。
秀吉は年下の若い徳川家の後継者をどこか軽く見ている節があり、高い代償を払うことになった。
秀吉の計画を看破した信康は小牧山を密かに出撃すると、行軍中の羽柴別働隊を待ち伏せて散々に打ち破った。
中入軍を率いた羽柴秀次は家臣から馬を奪って逃げ帰る醜態を晒した。
この勝利で若き信康の武名は日本全国に広まった。
しかし、国力の差から最終的に勝利は難しいと考えていた信康は戦術的勝利によって無駄に士気があった家中の統制に苦労することになる。
実際のところ、本気になった秀吉の硬軟織り交ぜた計略により同盟者の織田信雄は徳川家に無断で秀吉と和睦し、戦の大義名分を失った徳川軍は戦場で勝利したにもかかわらず、三河に撤退する羽目になった。
織田信雄と和睦した秀吉は迅速な戦略機動で紀州の雑賀衆を壊滅させ、四国の長宗我部軍を打ち破るなど、信康が築いた秀吉包囲網を瓦解させた。
秀吉は徳川家を武力で討伐する決意を固めていた。
しかし、幸運なことに島津家の九州制覇に王手がかかったことから、先に島津征伐ということになり徳川家は救われることになった。
ただし、圧倒的な大軍で九州を制した秀吉にはさすがの信康も屈服を余儀なくされた。
信康は和睦の条件として可愛がっていた弟の於義丸(後の結城秀康)を人質として差し出している。
於義丸は徳川家康の次男にあたり、母親が低い身分だったため冷遇されていた。
三歳まで父家康と対面することさえ能わず、不憫に思った信康の取りなしで対面が許されたが、家康を不機嫌にさせただけだった。
信康は冷遇されている於義丸の父親代わりをつとめ、非常に可愛がったことから、弟を差し出すことは信康にとって断腸の思いであった。
交換条件に秀吉の妹である朝日姫を信康に嫁がせる提案が秀吉からあったが、信康が断ったため沙汰止みとなった。
信康が上洛して秀吉に臣従したのは、天正14年(1586年)10月27日のことである。
この会見で、信康は秀吉の陣羽織りを所望している。
これは今後、秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせないという意思表示であり、それを全国の大名の前で行うことで秀吉政権の確立に大きく貢献した。
以後、徳川信康は秀吉政権のNO2として力を蓄えていくことになる。
ちなみに意外なことかもしれないが、秀吉と信康の関係は非常に良好であった。
親子ほどに歳が離れていた(秀吉49歳:信康27歳)両者だったが、両者共に親しみやすい砕けた性格だったことから、直ぐに打ち解けた。
堅物で激昂しやすい実父の家康との関係で苦労していた信康は、秀吉の飾り気のない性格とは相性が良かったのである。
秀吉も出自や家柄といったものを唾棄すべきものと言って憚らず、秀吉の軍歴や立身出世譚を素直に称揚する信康を好ましく思っていた。
また、両者共におそらく戦国時代で1位か、2位を争う信長マニアであったことが良好な関係を築くことに役立った。
信康は秀吉が信長の草履取りだったころに冷えた草履を温めるために懐中に抱いていたことが実話であるかどうか質問して、実話だったと日記に書き残している。
信康は秀吉から若き日の信長の話を聞くことを好み、それを詳細に書き残した。
現代に生きる我々が、織田信長や豊臣秀吉が無名だったころの人なりや生活の詳細を知ることができるのは信康の覚書によるところが大きい。
ちなみに信康は秀吉相手に信長から偏諱の「信」の字を与えられていることを自慢して秀吉を悔しがらせるなど、割と大人げないことをしている。
逆襲に秀吉は信長から拝領した茶器(乙御前の釜)を茶会で見せびらかして信康を悔しがらせた。
両者共に文化人としても優れた才能があり、茶の湯の腕を競い合う仲だった。
信康は千利休の侘び茶を自然の美、秀吉の茶の湯を人工の美と評しており、人の想像力で自然を超克した点で、秀吉が勝ると論じている。
当時、これは秀吉に対する追従がすぎるとして酷評されたが、20世紀以降は評価が逆転し、文化人として秀吉の再評価につながった。
秀吉は能楽に熱中し、天皇の御前で演じたり、自分の活躍を演目にして自ら演じた。
信康は能楽に対する理解は人並み以下であったが、秀吉の演目を漫画にして秀吉に披露した。
信康が描き下ろした「奇妙物語」は秀吉に絶賛された。
大胆なコマ割りやカット、擬音、躍動感ある構成を駆使した「奇妙物語」は同時期の狩野派の絵師たちにも衝撃を与えた。
狩野派の屏風絵図で緊張感を現すために「ドドドドドド」といったインパクトのある擬音表現が用いられるのは、奇妙物語の影響である。
奇妙物語を読んだ秀吉は、続編をかくように信康にもとめ、信康が政務多忙であると断ると続編を書くまで帰宅を禁じて大阪城に監禁したという逸話がある。
信康は父と秀吉を慕い、実子のいない秀吉は信康を後継者と考える擬似親子関係説が現在では支配的な学説である。
しかし、そうした幸福な関係も秀吉に実子(鶴松)が生まれると破綻した。
信康は関東征伐によって空国となった関東に転封され、中央政界から遠ざかることになった。
関八州の石高は250万石にも及ぶが、これは秀吉から信康に贈られた一種の慰謝料であったといえる。
さらに秀吉は実子の権力継承の障害となる親族を養子として各地の大名家へ押し込めた。
秀吉の養子として豊臣家で養育されていた於義丸も養子に出され、結城家の家督を継いで結城秀康を名乗ることになる。
すべてを継承させるはずだった鶴松が僅か2歳で死去すると、秀吉は甥の秀次に関白を継承して自身は太閤となり唐入(中国侵攻)を全国の大名に宣言した。
壊れていく秀吉を信康は遠く離れた関東から眺めることになる。
徳川家は関東転封を理由に秀吉の朝鮮出兵を免除されており、信康は江戸を新たな徳川家の本拠地とするため、大規模な都市開発を行った。
当時の江戸城は、太田道灌が築いた小規模な平城に過ぎず、とても徳川家の本拠地と呼べるものではなかった。
また、当時の江戸は海水が入り込む湿地帯であり、住む人もまばらであった。
信康は周囲の丘陵地帯を切り崩した土砂で沼地を埋めて、物流のために運河切削を行うなど都市建設のために地形改造から行わなければならなかった。
冬季は空気が乾燥しやすいことから、大規模な都市火災に備えた火除け地や広小路を設ける必要があった。
信康は火除け地を石畳で舗装し、広場として開放した。
都市空間に公共空間として広場を設定したのは日本では江戸が初めてのことである。
日本の先進地帯であった京都や大阪にも公共空間としての広場はなかった。
都市の真ん中になにもないただの空間を作り、そこを公衆のために開放するという発想そのものが当時は存在しなかった。
こうした発想は近世や中世のものではなく、近代か、むしろ古代ローマの都市計画の発想といえる。
信康は三河で試した殖産興業策を関東でも実践した。
特に重視したのは繊維業、織物業で綿花、羊毛、生糸の生産を奨励している。
水利が悪い武蔵野台地は水稲耕作よりも羊毛を獲得するための牧畜に向いており、数多くの牧場がつくられた。
生産物を出荷するために神奈川には港も整備している。南蛮船も横付けできる岸壁も信康の指示で造られた。
横須賀に築かれた造船所で日本初の洋式帆船が建造されたのは慶長2年(1597年)のことで、500tの日本丸が完成すると信康を乗せて江戸湾一周を果たした。
ただし、洋式帆船の操船技術はまだ確立されておらず、日本丸の船員の半数はスペイン人であった。
江戸の開発と殖産興業策によって着実に力を蓄えていく徳川家に対して、豊臣家は自壊といってもよい道を歩んでいた。
秀吉の狂気で始まった文禄の役は泥沼と化していた。
文禄2年(1593年)に待望の男子である拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生すると和睦が結ばれたが、慶長2年(1597年)には和平交渉の決裂により再度、出兵が行われた。
秀吉は家督継承を確実なものとするため、関白を継承させた甥の豊臣秀次を自刃に追い込み、秀次の妻子を皆殺しにした。
秀次事件以後、秀吉は公儀という建前さえ顧みなくなっていた。
自身の死期を悟った秀吉は秀頼を補佐するために五奉行や五大老といった職制を定めて国家機構の整備を図ったがそれが完成する前に死去した。
秀吉の死去(慶長3年(1598年)時点では、信康は五大老の一人でしかなく、五大老の筆頭は秀吉の遺命により前田利家であった。
遺命により信康は伏見城で政務に処理し、利家は大阪城で秀頼の傅役を担ったが、慶長4年(1599年)に利家が死去すると信康が大阪城に入って政務と傅役を兼務した。
他の五大老である毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家は帰国することになり、中央政界において信康に対抗するものはいなくなった。
実際のところ、日本国内において徳川家の国力は隔絶したものとなっており、徳川家が政権を担うことは自然な流れであった。
信康自身の政治調整能力も卓越しており、外交においても明朝との和睦交渉をまとめて朝鮮半島から日本兵を無事帰国させている。
朝鮮半島での戦いで疲弊した大名家(福島家や加藤家、小西家など)に報奨金を与えて手厚く労うなど、その配慮は行き届いたものであった。
その結果として信康に人望と権力が集まるのは当然の成り行きといえる。
信康が天下を望んだというよりも、天下が信康を望んだというべきだろう。
他の五大老が帰国して信康が天下を差配することになったのも、在阪が長くなりすぎて国元が疎か(特に宇喜多家)になっていたことが原因であった。
むしろ、当主の信康が大阪城につめっぱなしで何の問題も生じない徳川家の方が異常であると言える。
信康には軍務において自分自身よりも信用できる結城秀康や、内政においては自分に比肩する徳川秀忠という弟たちがいた。
信康は二人の弟に全幅の信頼をおいており、弟たちも全力で兄を信じて支えているからこそ、信康が関東を空けていても何の問題もないのである。
だが、信康に権力を奪われた豊臣家の吏僚たちにとっては大問題であった。
秀吉の下で権力を握ってきた豊臣家の吏僚たち(特に石田三成)にとっては、いつまで経っても信康が帰国せず、大阪城で政務を執り続けているのは想定外の事態だった。
三成はそのうち信康が帰国するだろうと考えており、信康への権力集中も一時的なものであるとしていた。
京都や大阪近辺に領地を持つ五奉行と異なり、遠国に領地をもつ五大老は長期間の在阪が困難なはずだった。
信康が帰国すれば、権力は自然と自分たちのところへ戻るのである。
「たとえ弟であっても、自分の領地を丸投げできる奴などいるはずがない」
と自信たっぷりに三成は断言したとされるが、現実は非情であった。
親兄弟で殺し合うことが日常茶飯事であった戦国の常識が通用しない相手が、政敵であったことが三成の不幸だったと言える。
信康の権力掌握に焦った三成は杜撰な暗殺計画を立てて失脚する羽目になった。
蟄居を余儀なくされた三成は信康を逆恨みして徳川家以外の五大老を巻き込んだクーデタを計画した。
クーデタ計画の骨子は会津の上杉景勝が信康を挑発して大阪から誘い出し、その隙に石田三成ら豊臣家の軍人官僚たちが挙兵して大阪城を占拠、政権を奪取するというものであった。
政権奪取後は豊臣秀頼の名の下に豊臣恩顧の大名を動員して徳川家を討滅する計画だった。
この計画は、かなり早い段階から信康に露見していた。
信康腹心の謀将として悪名を轟かせていた真田昌幸は、
「内緒話にしては声が大きすぎますな」
と三成の杜撰なクーデタ計画を鼻で笑ったという。
今後の対応を昌幸が伺うと信康は、
「是非も無し(ワケガワカラナイヨ)」
と答えたという。
実際のところ、信康は秀吉の悪政で爆発寸前であった国内の不満をなだめてまわり、明国との和平交渉に神経をすり減らすなど、亡き秀吉の尻拭いに奔走して疲れ果てている状態だった。
三成が挙兵の口実に利用した徳川家と諸大名の勝手な婚姻についても、そもそも大名家同士の婚姻の許認可は在阪の五大老の職責であり、五大老の信康が許可を与えるのは完全に適法なものであった。
また、信康が許可したのは徳川家だけの婚姻だけではなく、島津家や毛利家などの西国大名家の婚姻についても朱印状を発給している。
秀吉の死やその後の混乱により、これらの許認可業務は滞っており、婚期を引き伸ばしにされていた各地の大名家から婚姻許可の依頼が殺到していたのが実情であった。
信康は秀吉に敬意の念を抱いており、その遺言には可能な限り忠実であろうとしていた。
秀頼に対しても一貫して臣下の礼をとっており、ゆくゆくは秀頼を名目の君主と頂き、徳川家が執権として天下を差配する政権構想を抱いていた。
結果として、豊臣家は傀儡となるかもしれないが、それは仕方がないことであった。
誰が悪いかといえば、実務能力がない幼子を残して死んだ秀吉がすべて悪いとしか言いようがない。
誰が政権を担ったところで、幼い秀頼の後見人が全権を掌握することになるのは目に見えており、毛利輝元であろうと、宇喜多秀家であろうと、上杉景勝だろうと、誰がやっても結果は同じことである。
結局のところ、五大老とは秀頼の後見人として徳川、毛利、宇喜多、上杉、前田の誰かが穏当に政権を掌握するためのシステムであった。
このシステムに則って政権を掌握しているかぎり、秀頼は名目上の君主として生命の安全が保証されることになる。
戦国の蛮風が息づく慶長の世にあたって、穏当に豊臣家を残すとしたらこれしか方法がなかった。
秀吉が秀頼のために残した安全装置をぶち壊しにしようとしているのは、石田三成らの軍人官僚達であったと言える。
それに乗せられてしまった毛利、上杉、宇喜多も同罪であろう。
慶長5年(1600年)春になるとクーデタ計画が動き出し、上杉景勝は軍備増強して信康を挑発する書状を書き送った。
所謂、直江状である。
通説では直江状を読んだ信康は激怒して上杉討伐を決意したとされる。
しかし、現存する直江状の写本を読む限り、信康がこのような安っぽい挑発に乗せられるのはありえない話である。
信康の激怒は石田三成らに対する情報操作であったと考えるのが妥当であろう。
上杉討伐のために大阪を発った信康が江戸に到着するのは慶長5年7月1日である。
石田三成の挙兵は7月15日であった。
大阪城には西軍の総大将となった毛利輝元が入り、徳川信康の非をうちならした弾劾状が全国の大名に送付された。
徳川方の伏見城は西軍の大軍に包囲され、守将の鳥居元忠は伏見城を守って討ち死にした。
鳥居元忠は、徳川家康にも仕えた徳川歴戦の武将で、最初から玉砕覚悟で伏見城に立てこもって、最後の一人になるまで徹底抗戦した。
三成の挙兵をうけて信康は上杉討伐を中止し、上杉への抑えとして弟の秀忠を残すと反転して西進した。
東海道を西進する東軍(信康軍)には、多くの豊臣恩顧の大名が参加した。
特に豊臣秀吉の縁戚といえなくもない福島正則が参加したことは三成にとって大きな誤算であった。
信康にとってもこれはかなり意外なことであった。
実際のところ、福島正則は感情的な理由で東軍(三成死ね死ね団)に加わっており、石田三成抹殺だけを目的として行動していると言っても過言ではなかった。
しかし、豊臣家歴戦の武将である福島正則の手腕は確かなもので、8月23日には岐阜城を陥落させた。
中山道を西進していた結城秀康率いる別働隊は岐阜攻防戦には間に合わなかった。
しかし、結城秀康軍には軍配者として真田昌幸が同行しており、信濃の地に根を張っている真田家の手引により、難所の多い中山道を無事通過して決戦には間に合った。
結城秀康率いる別働隊を合流した東軍は万全の状態で、関ヶ原に防陣を敷いた石田三成率いる西軍本隊と激突した。
関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日)は、東軍の先陣を務める赤備えの真田隊(真田信幸)による鉄砲の一斉射撃で始まり、同日の夕方までに東軍の圧勝で終わった。
西軍の敗因は小早川秀秋の裏切りであった。
小早川秀秋は信康から調略を受けており、戦闘が始まると内応して西軍を攻撃した。
ただし、小早川秀秋の内応がなかったしても、東軍の勝利は揺らがなかったというのが支配的な学説である。
西軍の兵力がおよそ8万であったのに対して、結城秀康の別働隊を合流した東軍は15万の兵力を擁しており、正面からぶつかれば東軍が勝つのは当然のことだった。
また、東軍は横須賀で鋳造した大量の南蛮大筒(カルバリン砲)を戦場に持ち込んでおり、結城勢は正面から火力で石田勢や宇喜多勢を粉砕している。
関ヶ原の合戦の終盤に退路を断たれて孤立した島津勢が無謀な敵中突破を試みて、全滅したのは当然としか言いようがない。
この戦いで西軍は主だった武将を失い瓦解することになった。
大阪城にいた西軍総大将の毛利輝元は戦わずして大坂城を退去した。
なお、和睦の条件では毛利家の領土は削減されない約束であったが信康は輝元が大阪城を出ると速攻で約束を反故にして、毛利の領地を大幅に削減した。
さらにその後も細かく因縁をつけて毛利家の領地を減らし、最後は津軽半島の小大名に転封して毛利家を徹底的に叩き潰した。
九州の南端に位置する島津家は当主の島津義弘が関ヶ原で討ち死にした後も徹底抗戦の姿勢を崩さなかったため討伐された。
信康は関ヶ原の戦いで目の当たりした島津家の武力を極度に警戒しており、島津家は族滅の憂き目にあった。
徳川家といえば、信長の武田狩りに背いて武田遺臣を匿うなど温情主義の家だと考えられていたが、毛利と島津に対して信康は殺意をむき出しにして、一族のみならず重臣やその縁者までも徹底的に滅ぼした。
信康がなぜここまで極端な島津狩りや毛利潰しを行ったのか?
理由は定かではないが、将来の禍根を断つためという説が有力である。
最初に信康に反抗した上杉景勝も減封となったが、上杉家の故地である越後半国への転封による減封であり、極めて寛大な処分であった。
上杉家は会津若松に転封されてから、越後・春日山への帰還を悲願としており、信康の処置に上杉家中は家老から下士に至るまで狂喜乱舞したとされる。
上杉家の越後転封には、上杉軍と対陣した徳川秀忠の尽力によるものであった。
武将として能力に欠る秀忠は、まともに上杉軍と激突していれば命はなかったと考えており、さっさと兵を引いて自分に花をもたせてくれた景勝に恩を感じていた。
上杉景勝は信康が相手ならば相手に不足はないと考えていたが、信康に比べると将器に欠ける秀忠を相手に勝利しても武人として満足を得ることはできないと考えており、徳川家に恩を売った方が得だと考えたゆえの判断であった。
なお、秀忠は景勝の領地である会津若松の入封となり、副将軍家として会津徳川家を興すことになった。
景勝は会津に入る秀忠のために会津若松城のみならず、城に至る街道まで掃き清めさせるなど、秀忠の入国に礼節を尽くした。
西軍に組みした大名の多くは改易、減封となったが、あわせて豊臣家の蔵入地(220万石)が恩賞として東軍の各大名に配分された。
結果として、豊臣家の領地は70万石まで削減され、近畿の一大名家にまで転落することになった。
慶長8年(1603年)2月12日、信康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。
信康の征夷大将軍の任官を以て江戸時代の始まりとするのが一般的である。
征夷大将軍として信康は弟の秀忠や秀康の補佐を得て、武家諸法度や禁中並公家諸法度を定めて全国の大名家や朝廷、公家、寺社を統制した。
徳川家の領地は400万石に及び、旗本の領地を含めれば、その総量は700万石に達した。
さらに江戸、大阪、京都、博多といった重要都市を直轄支配し、日本全国の主要な金山、銀山を支配するなど、強固な財政基盤を築いた。
慶長10年(1605年)に信康は、子の家宣に将軍職を譲ったが大御所として政治の実権を掌握しつづけた。
なお、家宣の将軍職就任に併せて豊臣秀頼が関白に任じられ、家宣は上洛して京都で秀頼と面会した。
信康は秀頼のために解体された聚楽第を再建し、秀頼は大坂城には戻らず聚楽第に移った。
以後、関白職は近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家に豊臣家を加えた六摂家の輪番により担うこととなった。
秀頼の殿中入により豊臣家は武家ではなく、公家となり、大坂城や豊臣家の領地は幕府が預かる形で接収された。
公家であれば、城も領地も必要ないからである。
秀頼の生母である淀君は秀頼が大坂城に戻らず、聚楽第に残ったことで半狂乱になり、城に放火して自害しようとしたところを捕縛された。
その後の消息は不明である。
秀頼は幕府預かりとなった摂津・河内からの豊かな税収を背景に長く関白を務めた。
その後も豊臣家は幕府から手厚い支援を受け、天皇の最も豊かな(天皇家よりも豊かな)臣として、幕府による朝廷統制システムに組み込まれた。
最後の懸念事項であった豊臣家を穏当な形で処理した信康は少しずつ実権を子の家宣に譲っていった。
信康は国内統治制度の構築に専念し、国外のことは子の家宣に任せる方針であった。
しかし、江戸時代以降の日本の対外政策に関わる重要な決定を2つ下している。
一つは慶長12年(1607年)の宗門諸法度の制定である。
これはキリスト教の布教禁止を廃止する内容を含んでおり、秀吉のバテレン追放令から続くキリスト教弾圧政策からの完全な転換であった。
この決定には寺社勢力の一部から猛烈な反発があった。
彼らはキリスト教の布教を認めたらキリシタンが南蛮人による日本侵略の尖兵になると信康に訴えた。
これに対して信康は、
「汝らが祈祷で神風を呼べばよかろう」
と答えて一蹴した。
16世紀の海上覇権を誇ったスペインはアルマダの海戦(1588年)でイングランドに破れ、スペイン全盛期を築いたフェリペ2世も既に死去(1598年)していることを信康は掴んでおり、スペインの侵略など机上の空論でしかないことを知っていた。
ありもしない侵略の脅威に備えるよりも、キリスト教を認めて海外貿易を盛んにした方がずっと幕府の利益になるというのが信康の判断であった。
同じ理屈でスペイン排除を訴えたオランダ人や、イングランド人もいたが信康は一蹴している。
宗門諸法度の制定後、秀吉の命令に背いて信仰を捨てずに加賀で隠棲していた高山右近は信康に召し出されて、播磨国明石郡6万石の大名に復帰した。
もう1つの重要な決定は、慶長14年(1609年)の蝦夷地開拓令である。
関ヶ原以後、日本では合戦はなくなり、それまで戦争で生計を立てていた傭兵が大量に浪人(失業者)となっていた。
各地の大名家も天下太平により不要となった足軽(下級武士)をお役御免としたため、失業者の増加が社会問題となっていた。
蝦夷地開拓令以前も、帰農令といった失業武士の授産事業は行われており、かなりの数の失業武士が農村に帰っていった。
それでもまだ失業武士が減らないために、信康は津軽海峡の向こうに広がる蝦夷地に失業武士を半強制的に押し込む政策を展開した。
慶長年間には京都や大阪には幕府に不満を持つ不平浪人が10万人もいたことから、彼らが豊臣秀頼を担いで反乱をおこすのは現実にありえる話であった。
幕府が強権を発動し、軍事力で彼らを捕縛して蝦夷地に追放したのは失業者対策というよりも国家の安全保障政策といえる。
なお、棄民の殆どは蝦夷地の厳しい気候や現地人(アイヌ民族)の襲撃により死に果てたが、生き残った猛者は蝦夷地に根を下ろして蝦夷地大名家として認められた。
十勝に広大な農園を築いた宮本家(藩祖宮本武蔵)などが有名だろう。
以後、江戸幕府は国内で養いきれない人口や治安を乱す危険人物、犯罪者などを蝦夷地に送ることを常套手段としていく。
棄民選定のための専門の役職(没衆人)まで制定されたのだから、幕府の棄民政策は極めてシステム化されていたと言える。
徳川信康は、寛永3年(1626年)3月11日に病を得てこの世を去った。
当時としては比較的長命といえる。
信康の時代に幕府の基本的な統治機構は殆ど全て完成した。
死後に信康には神号が贈られ、東照大権現として神格化された。
ただし、本人は死の直前まで神号を辞退したいと周囲に漏らしており、子の家宣から諌められ、仕方なく引き受けたことが判明している。
また、父親の徳川家康に神号が賜るように朝廷工作をして、天海僧正に諭されるなど、不可解な行動が目立っている。
信康の父家康はたしかに徳川家の飛躍に貢献した人物であるが、神号を贈られるほどの働きはなく、なぜ信康がこのようなことをしたのかは今をもって謎のままである。