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深夜の考え事

作者: 夏野簾

 くだらないゾンビ映画を見ていた。いわゆるB級作品とでもいうべきもので、夜も深まった時間にやる、一体どうやったらこんな映画が公開されていたのか、というようなものだ。ありがちな展開で、特殊なウィルスが蔓延した結果ゾンビがあふれ、さらにこれまたありがちなように、ゾンビが人を襲う。いわゆるパニックホラーというやつだろうか。

 ぼーっとそれを眺めながら、ふと、ゾンビに人権はないのだろうかと考えた。

 映画の続きよりも気になった私は、手元にあったスマートフォンでゾンビと調べてみる。どうやら、ゾンビというのはなんらかの要因で動くようになった死体なのだそうだ。

 つまり、この映画に出ているゾンビは元の意味から考えればゾンビではない、ということなのだろう。もしくは、ウィルスに感染した時点ですでに息絶えていて、残された肉体だけが動いている、ということなのだろうか。

 いずれにせよ、大してのめりこむわけでもなくそれを見ていた私には設定のところまでは分からなかった。

 画面上では、当然のようにゾンビの頭が吹っ飛ばされる。たとえ体を吹っ飛ばしても、頭が残っていればゾンビは動くのだそうだ。死んでいるはずなのに脳は大事なんだなと、なんだかおかしくなってしまう。

 そして、死んでいるものに対しては、人権は適用外だそうだ。ニュースの報道を見ていてもそれは分かる。つまり、私たちの権利というのは、あくまで生きているときだけだそうだ。そのくせ、著作権なんかは死後も残るから不思議なものだ。

 さておいて、ゾンビは生きる死体、とも解釈されている。生きる死体。なんとも矛盾を孕んだ表現で、余計に生きているのか死んでいるのか分からなくなる。あるいは、動く死体、とも表現されるが、動く死体だろうが死体は動かないのが通常なのだから、やはり生きた死体というのもそれほど間違った表現ではないのだろう。

 ただ、どちらの表現にしろ、生きている、ということとそれほどかけ離れているわけじゃないと思う。

 私は私自身のことについては他人よりも詳しいつもりだけれど、病院に行かなければ病気の一つだって判然としない。それに、自分が選んだことも、本当に意思と呼ばれるもので選んだのかどうかさえも、ほんとのところは分からないのだ。

 あるいは、私はなにかに寄生されていて、周りの人たちと同じような行動をとるようにしているのに気づいていないだけかもしれない。そして、そうだとすれば、私自身がゾンビと一体どれほどの差があるというのだろう。なにか一つ間違えば、私の頭は跡形もなく吹き飛ばされてしまうのだろうか。

 なんとなく、それはいやだな、と思った。もしかしたら、そこがゾンビとの最大の違いなのかもしれない。要するに、死を恐れる心、とでも言ってみようか。

 物語はクライマックスに差し掛かっていて、これまで一緒に旅していた仲間がどうやら感染したらしい。ゾンビになってしまう前に、殺してくれと懇願していた。定番の展開だな、と思った。

 一緒に旅してきただけあって、殺すのを躊躇するけれど、最終的には“人”として殺してあげる、というこれまたありがちな展開で終わっていた。

 私はそれを見ながら、やはり人とゾンビとの区別なんてものは曖昧で、すると人権なんてものもやはり都合がいいように創られたものでしかないということを痛烈に感じさせられた。所詮B級映画だったけれど、そんなに悪いものではなかったのだろうか。

 翌日になって、すっかりタイトルは覚えていなかったけれど。



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