精霊樹 七
まるで傷などそこにはないかのようだった。ニナは血が流れている左腕など、まるで気にせず、先に進むことを促している。実物を見なければ、黒騎士もニナが傷を負っていたことには気が付かなかっただろう。
「どうしたんだ?」
「……?」
「その腕の傷だ」
「あ、これ……」
ニナはそう言って腕を振る。
傷はそれだけで無くなった。
そこには何もない。少し前まで流れていた血の跡が残っているだけで、結界を抜けることによって傷ついたものなど何処にも存在していなかった
「このぐらい気にしなくていい……」
「それもそうだが、お前じゃなければ普通に大怪我だと思うぞ」
「人のこと言えないと思うけど……」
ニナはそう言って湖の方へと駆け出す。少し遅れて黒騎士も後に続いた。周辺には未だに木が生い茂っており、平原の中にある湖まで距離があった。
しばらく経ち、相手側も何らの方法で結界を抜けたのか、再び知覚している範囲に侵入してくる。それでも高速で移動しているのと、木という障害物があることによって攻撃がこちらまで届いたりすることはなかった。
「黒騎士……」
「なんだ?」
「賭ける……?」
黒騎士は趣旨のない言葉に疑問を呈した。
「なにを賭けるんだ?」
「このまま行けば湖に出る……障害物が無ければ、見通しも良い……こちらに分があるけど、現状、周りに木があるおかげで攻撃は来てない……」
「要は、正面からぶつかることになるってことだろう」
選ぼうとしているのは逃げの一手ではなく、攻めの一手。
「相手は国の暗殺者集団だ。こんな場所で止まるよりも、そっちの方が良いんじゃないのか」
「ならそうする……」
ニナは言っていなかったが、もう一つ別の可能性があった。相手は目的があってここに来ているのであって、こちらはあくまで邪魔者だということ。こちらに構って本来の目的を失えば、本末転倒であるため、ある程度損害を与えれば引いてくれる可能性はあった。
目の前の空間が明るくなる。今まで鬱蒼と生い茂っていた木たちが無くなろうとしているのだ。それは、すなわち暗殺部隊との正面衝突が近いということになる。
「黒騎士、行くよ……」
「わかってるさ!」
そして、抜けた。
煌めく短剣。短い刀身は、飛びかかってきた矢を遠慮なく切り落とし、二つ目の投げナイフを弾き飛ばす。
身長ほどもある大剣。長い刀身は振り抜かれた勢いのまま水平に薙ぎ倒され、向かいかかってきた相手は真っ二つに転がる。
地面を滑るようにし、背を低くした二人は威嚇するように森の方角に向いた。そこへ至るまでのロスはなく、長年連れ添いだ関係のようだった。
西の大陸、その南に位置する広大な湖……世界で最も美しいが、誰も見ることはできない幻の湖。湖を眺めるには排他的思想であるエルフの結界を超えなければならないため、エルフ以外に見ることは出来ないと。そんな幻想的な場所。
そんな世界の絶景の本に載っていそうな湖も、今は、二人と森の間には行き殺された死体が転がって幻想的な風景を殺している。
姿は見えていないが、相手の暗殺者との間に奇妙な静寂が作り出される。
「どうした。まさか、こんな所に一般人が来るなんて甘い考えは持っていないだろうな」
今いるここは秘境中の秘境。国の中枢部では蒸気機関車が走り始めたと言われ、馬を使わない馬車も産まれたと言われている。そんな中、言葉ある種族以外の者が多い中に居たニナ達が、武装していないわけがない。
「話が進まない……何故あなたたちが僕達を狙うのかはわからない……しかし、僕達は国に属しているわけじゃないし、今あなたたちが手を引けば戦闘は起きない……どちらに利があるのか程度はわかると思うけど……」
返答はなかった。帰ってきたのはただ一本の矢だけ。ニナは避けることもせずに叩き斬る。薄く塗られた黒い液体が更に美しい湖を汚していった。
「返答がこれ……?」
ニナは首をコクリと傾げる。真っ白な眼帯が少し揺れた。それほど美しくはないが、道を歩けば何人かは振り向く少女の顔。しかし、そんな顔なのにもかかわらずどこか印象に残りにくい顔をしている。
「なら、その道しかないんだろうね……」
その言葉が合図だったのだろうか。奇妙な均衡は崩れ始める。まず始めに動いたのは黒騎士であり、それに対抗するかのように出てきた相手の暗殺者。
───シャッ
風切り音がした。それと同時にその先頭の者。が地面に倒れていく。刺さったものを見れば、先程射られた矢だった。暗殺者達は思わず投げた先、ニナを見たが、そこには誰も居ない。
「どこ見てんだ」
その声と同時に命が刈られた。黒騎士はそのままの勢いのまま大剣を振りかざし、二人目を切り倒す。
だが、次の一手は防がれた。いや、防がれたというより、避けられたと言うべきか。大剣を扱う以上、鈍重性の問題はある。それを踏まえても黒騎士は早いのだが、それよりも暗殺者は身軽だったと言うだけ。
「簡単にはいかないか」
「……」
黒騎士とは別の者が、後ろから静かに飛びかかってきたニナを受け流し、数度打ち合う。
暗殺者は喋らない。喋る必要があれば何か別のことを行うのだろう。そして、ニナもまた喋ることはなかった。
火花が散った。共に精錬された鉄出てきた刃物同士の。
地面に突き刺した大剣とは別に長剣を抜いた黒騎士は、そのスピードと力を活かして多数いる暗殺者を一人一人と追い詰めていく。
そんな中、機会を虎視眈々と狙っている暗殺者達。その全てを牽制する動きで一人一人と殺していくニナ。圧倒的な多数で殺していく様は一切の無駄がない機械のようであり、荒い動きをする黒騎士と共にその強さを物語っていた。
「誰……?」
そのニナの動きが遅くなる。捌くのに夢中である黒騎士はその動きには気付かなかった。そもそも暗殺者同士の戦闘に他のクラスが首を突っ込むことは難しい。
ニナの動きは止まったのではなく、今まであった攻めの姿勢がなくなったと言うこと。何らかの躊躇させる者が混ざっていたということである。
何かを確信したのか、斬りつけてきた暗殺者の武器を器用に短剣で絡めとり、その刃を首へと向ける。
「あなた達は捨て駒にしか過ぎない……本陣はどこにあるの……?」
ニナがそう聞いた途端、暗殺者の体から力が抜けた。地面に転がせば、死体になっていることがわかる。口の中にでも毒薬があったのだろう。「初歩的なことだよ、───」頭の中にそんな言葉が思い浮かんだ。影に生きる者が自殺する手段を持っていないはずがない。先に口にでも短剣を突っ込めば良かったのだろう。
「面倒……」
そう言い、ニナは周りの魔力を高める。小さな波のようになった魔力の蠢きが木々の間に渡った。
その場にいた全員が何かを感じたのか、一瞬動きが止まる。その中、渦中であるニナの姿はそこにはなかった。
ニナの姿は湖には既になく、木々が生い茂る林の中にあった。どこまでも背が低い疾走姿、それでいて木々を器用に避けていく姿は蛇のよう。
やがて何かを見つけたのか、大きく踏み込むと、横に吹っ飛ぶ。
「こんな所に何があるの……」
今まで居た場所にあったのは細長い剣。細長いからと言って、この世の中では素材が色々とあるので見た目通り脆いかどうかは実際に打ち合って見ないとわからない。今まで暗殺者が持っていたのは手回しの良い短剣のみ。ここで剣が出て来るとは誰も思わない。
しかしこれらの行動によってニナにはわかった。相手がどこの所属なのか。
影の世界も狭いということ。同業者のことについて詳しくなってしまうのは仕方のないことだろう。
「あれは囮というわけ……」
先行させている暗殺者と諜報員達の部隊。それは仮の姿でしかないのだろう。そしてその後ろに待ち構えているのが本物の部隊。
「赤い大地……」
「おっと、わかっちまったら仕方がない。俺たちも有名どころだしな」
応答した───?
木々の間から伸びてきた剣を短剣で打ち合う。技量的にはこちらが上だろうか? ただ、肉体的なスペックでは向こうが上。所詮こちらは、借り物の姿でしかないのだから。それでも、ちょっとしたいたずらをする程度は許されると思う。
『白撃』
識別。半透明な結界のようなものが相手に襲いかかり、一旦距離を取る。
「先ほどの答えだが、青い空の方こそ、ここに何の用があるんだ?」
「あなた達と同じ、依頼だけど……?」
「依頼か」
目の前に現れたのは真っ赤なフードに身を包んだ者。標準的な身長をしており、特徴を見出すことはとても難しいだろう。
「正直、お前達は相手にはしたくない。戦いをここで終わらすことの方が両方にとってのメリットは大きいだろう。だが、依頼というものが互いにわからない以上、矛を収めることは不可能だろうな」
相手はそこで一呼吸置いた。
「ただなぁ……こいつはオレさまの完敗だということになっちまうな」
そういった者の目線の先には、きれいに突き刺さった短剣。少しの肉崩れもしていない傷口は、無駄な力が一切入ってないことがわかり、少なくはない血液の量がそこから流れ出していた。
「それが……? あなたの実力でその程度の負傷は問題にならないと思うけど……」
フードの下の目が鋭く光った。
「今回の任務はそんなやわではないということだ」
「そう……」