精霊樹 五
どれくらい進んだのだろうか。強行軍に近い状況で一日中歩き続け、休憩を取ることもなく次の日まで歩き続ける。
二人は当然のように食事を取ることがなければ、眠ることもない。それなのに、二人の体調が崩れたりといったことはなかった。ただ細かい傷が町人の格好で露出しているニナの白い足に付いており、跳ねた泥が黒騎士の鎧を汚していた。
その中、ニナが不意に立ち止まる。目の前には何か不思議な感じがする木が並んでおり、そのそれぞれに複雑な紋様が刻まれている。
「そろそろ着くよ……」
「何処にだ?」
「エルフの本里……」
「本里だと!?」
黒騎士が驚くのも無理はなかった。ここまでエルフ達が行き来している様子がない。一人ともエルフには会っていないのだ。一般的にエルフが大勢固まっている本里だと言われても納得しかねる光景。
「当然……」
ニナは辺りを見回す。誰も立ち入った気配のない森。ここには住んでいるエルフでさえ来ることはないのだろう。
「エルフの結界は魔力的な物で、道迷い……エルフ以外のものがここまで来れることがおかしいし、普段エルフはこんな場所まで来ない……」
「完全な裏道と言うわけか?」
「簡単に言えばそうなる……」
「それで、何でお前がこんな場所を知ってるとは聞いても良いのか?」
黒騎士がそう聞くと、ニナは無表情で答える。ただ、その声はいつもと同じ感情のない声ではなく、どこか懐かしむような声だった。
「師から、だけど……?」
ニナは一言それだけ零すと、空中に陣を描き始める。最近では意味を理解して発する者も少なくなってきた古代言語。その言語がふんだんに使われた古代魔法。
何も知らない者が見たとしても、明らかな異常に気づくことができるだろう。古代魔法が載ってあるどの魔道書にも今描かれている魔法陣は残っていないことに。
「その魔法陣は何だ?」
黒騎士が質問する。魔法を使用するときには集中していることが多いため、聞かれたことに応答することも稀なことが多く、言葉が返ってくるのかはわからなかったのだが、どうしても言わなければならないと思ってしまった。
「ん……影の高人に代々継がれてる魔法……効果は、結界の限定的な無力化……魔道書に描かれているのは大方結界の完全無効化だけど、この魔法は術者にバレないように、部分的に無効化していく……」
「そうか……」
影の高人。ニナが教えてもらったと言う者。かなりの大物が教えたのではないかと黒騎士は思っていたためそこまで衝撃は受けなかったが、影の高人が代々継いで来た古代魔法と言う点には引っかかった。
「お前も影の高人になるのか……?」
「何言ってるの……?」
魔法陣が描き終わったのか、ぼんやりと光る待機状態の魔法陣を空中に固定させてニナは振り返る。
「影の高人は一族の総称……一族ではない僕が継承できるわけがない……」
「そう……なのか? だったら何故教えてもらえたんだ?」
「知り合いから頼まれたのだと思うけど……」
知り合いに頼まれた程度のことで一族秘伝の魔法を教えるのだろうか? 実際ニナも影の高人ではないのではないのか。いろんなことが予想できた。
しかし一般的には影の高人は特化した暗殺者であり、何も下準備をしていない状況での通常の戦闘ではそこまで強くないと有名である。
黒騎士……とある任務でニナについている国の最高戦力の一つ。その黒騎士と影の高人が正面から充分に打ち合えるかと言われればわからない。その点からいえばニナは影の高人ではないのだろうか。暗殺者でありながら騎士と正面から打ち合える実力。一見して相反する二つの技術は、黒騎士にはよくわからなかった。
だが、一つ理解できる糸口がある。ニナが影の高人の魔法を学べたことはある人の頼みごとだったと言う点。
「ふぅん。影の高人に意見できるのならば、そっちもビックネームなのか?」
「……」
ニナは答えない。今まで饒舌に話していたのか何なのか、と言うレベルで口を開かなくなったニナは静かに魔法陣を起動させると、遠慮なくその中へと入って行った。
「来て良い……───影の人に情報は聞けない……」
「影の高人も情報じゃないのか?」
「有名な情報の何が隠すべき情報に値するの……?」
「そうなのか?」
ニナは頷く。黒騎士は不思議そうな顔をしながらニナから勧められたとおりに魔方陣を通してエルフの結界を通過した。その点だけで言えば違和感など何一つなく、本当にここに結界があったのだろうか、と邪推してしまいそうなほどだった。
「ここまでとはな……好奇心からだが、お前の魔法がなければどうなるんだ?」
「この結界は物理的なものではない……ここに辿り着けなくなるだけ……まあ、実際には、進んでいけばどこかわからない場所に迷うだけ……エルフは戦争よりも隠れることを好むから……」
「この後はどうするんだ?」
黒騎士が聞く。ニナは頭の中で周りの地図を参照しながら最短ルートを思考した。とはいえ本里に行くのではなく、ただ道中に結界があったから抜けただけである。ルートを考えることも簡単なことであった。
「エルフの里があるのは南の方……僕たちは北の、本当に端の方にいる……簡単に東の方に向かえばそれで着くと思う……」
「そう簡単な話だったら良いんだがな……」
「そう思うなら武器でも持っていれば……?」
「なら出してくれ」
「……」
聞き取れない声。だが確かに意志を感じる声は現世に干渉し、求める効果を発現させる。
瞬きした瞬間だろうか。まるでそこに最初からあったかのように布に包まれた物体が出てきたのは。黒騎士は地面に置いてあるそれを拾いあげると、布を取り、出てきた細身の大剣を背に持った。
当たり前のように使われた希少な魔法属性。
「本当に……お前の組織は貴重な人材ばっか集めて、戦争でもしようとしてるのか」
「さあ……? あなたたちの条件が良く無いだけだと思うけど……早く行こ……」
黒騎士がボソリと言った、「簡単な話だったらいいな」と言う言葉。それが悪い意味でやがて現実のものになるとは、黒騎士自身思っていなかった。大剣を出したことは保険でしかなかったのだ。しかし、この提案を出したニナは既に何かに気付いていたのかもしれない。