酔生夢死
「あ、死にたい」
夢も希望も社会保険もない二十五歳のフリーターであるところの私は、平日の昼下がりに自室の万年床で寝返りを打ってひとりごちた。
季節はゴールデンウィークを間近に控えた頃で、網戸をすり抜けた春風が顔を撫でて心地よく感じたのを覚えている。そしてそれよりも覚醒しきっていない脳みそと空腹で萎む胃袋の不快感が勝っていた。
「死因は……五月病かなあ」
理由すらもなかった。死にたくなったというよりはただ漠然と、生きていたくなくなったのだろう。どんな飽き性だ。
柔軟剤でふかふかに仕立てられたタオルケットを足で取っ払って、布団に埋もれたスマホを探した。枕の下敷きになっていたそれは着信を一件、表示していた。
思い立っちゃった吉日。
私にとって都合の良いことに、ちょうどその日は仏滅だった。
本日の議題。
他人に迷惑をかけることなく一生を終えるにはどうすればよいのか。
「なに、また死にたくなったの?」
枝豆を剥いては咀嚼しながらウミちゃんは気だるげに言った。さも私が常から死にたい死にたいと喚き散らすかまってチャンを立ち回っているかのような言い草だった。
「実際、言ってるから」
「まあねー」
否定はしない私だった。
しかしそんな厚顔無恥な大衆と一緒にしてもらっては困る。分類は同じであっても、気位が違う。私がそんな素っ頓狂な発言を繰り返したとして精神的被害にあうのは目の前の幼馴染だけで、その幼馴染であるところのウミちゃんには既に対価として今夜の飲み代は私が持つと確約している。
いわばギブアンドテイク。これぞウィンウィン。健全で慎み深い関係である。
「いや会話の内容は不健全だし、不謹慎だけどね」
ウミちゃんは軟骨の唐揚げを頬張りつつ、鋭いツッコミを飛ばしてくる。
「食事も愚痴もアタシが一方的にテイクしてるし」
「やめてよ。私一人負けしてるみたいじゃん」
なんとも分が悪い滑り出しになってしまった。
「アンタ、バイトが休みの日になると途端に卑屈なこと言いだすよね」
乾杯のビールを早々に飲み干したウミちゃんはメニューのタッチパネルを乱打している。奢りだからと言って注文を躊躇うような間柄ではない。
「しょうがないじゃん。五勤一休で働いてるんだもん」
仏滅がちょうど休みと被っているのだ。鬱っぽくもなろうて。
「説教するつもりはないけどもうちょっと先のこと考えてさ、正社員で雇ってくれるとこ探しなよ。アンタのバイト先、うちの生徒の間ですら評判悪いんだから」
「む。先生様は仰ることがもっともだ」
ウミちゃんは地元の私立高校で教員をしている。面倒臭い性格な私の面倒見の良い理解者。今日の飲み会も元々はウミちゃんの方からお誘いがかかっていた。
「勤務形態も怪しいし、一生勤めるつもりはないんでしょ?」
「そだねー、残業もたっぷりだし。永久就職はないね」
面倒は見てくれても甘やかしてはくれない。正論を流して摘まんだフライドポテトは若干、しょっぱい。
「で、なんだっけ。迷惑かけずに自殺する方法?」
などと言いつつ乗ってくれる女教師、もといウミちゃん。収賄の効果もあって聞き役には回ってくれるようだ。その心意気に負けじと私もビールをあおる。
「いやいや私はねー自殺は良くないと思うわけですよ」
「ほう。その心は?」
「どんな手段に頼ろうと、自殺しちゃったら周りの人を嫌な気分にさせちゃうでしょ? じゃあダメじゃん。かかってんじゃん、迷惑」
首吊り自殺も、飛び込み自殺も、投身自殺も、焼身自殺も、入水自殺も、感電自殺も、拳銃自殺も、練炭自殺も、リストカットも、オーバードースも。
数多ある自殺のどれもが、自発的行動の結果だから。自分から生を諦めて死に手を伸ばすということは成否に関わらず――生死に関わらず、周囲にとって後味の悪いものだ。
「それはまた随分と受け身な持論だね。アンタらしいけどさ」
ウミちゃんは、呆れた風に笑ってちびちびと運ばれてきた日本酒を飲んでいた。お猪口を傾ける様が大人っぽくて絵になる。
「死にたい人の気持ちは分かるんだけどね。いやもうすごくよく分かるんだけど。でも残された方の気持ちも想像できるじゃない?」
「ん、どゆこと?」
「だからー自分がされたくないことはしたくないじゃない?」
「……ああ、ね。友達に先立たれるのは辛いし、友達がそんな気持ちになるのも辛いってことね」
アンタらしい、とウミちゃんはまた笑った。
「それでも死にたいって気持ちは、アタシには理解出来ないけどねえ。そういう自殺願望とか希死念慮とかとは無縁で生きてきちゃってるから」
「はは。まあウミちゃんはそうだよね」
明るい雰囲気に物怖じしない性格。学生時代からウミちゃんは自分をしっかりと持っていて、そういうところがとても好きだった。今も好き。
「いやアタシじゃなくってアンタでも、もうそれで終わりでしょ? 他人を傷付けてしまうから自殺は出来ません、以上終了」
「うん、だから、私のは自殺願望じゃなくって、他殺願望なのかもね。自分から死んだんじゃなくって殺された、だったらほら、理由になるから」
私、ウミちゃんしか友達いないし。
吐いて捨てるように言って、ジョッキの底に残ったビールで喉を潤した。
「……アンタ、まさかとは思うけど、メシ奢るくらいでアタシにとんでもないこと頼もうとしてない?」
ウミちゃんの声はいたって冷静だった。
「ねえウミちゃん」
私は勿体ぶってウミちゃんの瞳を見つめる。
「親友の手にかかって、とか、最高の最期じゃない?」
とか言って。
「……ふん。いや、アンタに限ってそれはないな」
まだ半分ほど残っているはずのとっくりを掴み、そのまま一息に飲み切るウミちゃん。口元をおしぼりで拭って据わった目でこちらを睨みつけてきた。
「他人のことばっか気にしてるアンタが本当に死ぬってんなら、このアタシとまず関係を切るでしょうが! 飲みに誘われたその席で殺してくれなんて、そんな負い目をアンタがアタシに背負わせることはない! 以上、どうだ異論あるか!」
ウミちゃんは顔色一つ変えず、いつも通りに管を巻く。
「うん。ないよ、ウミちゃん」
酔っぱらった彼女は本当、格好良い。
「で? 結局本日の結論はなんなのさ」
苦しそうな表情を浮かべながら、ウミちゃんがグラスに注がれた冷水を啜る。私もいい感じに酔いが冷めてきて、そろそろお開きだ。
「いやあ、ね。いつかまた死にたくなったらすぐ死ねるように、今から手を打っとこうって寸法ですよ」
その言葉を待ってましたと鞄を探って、私は掌に収まる大きさのポーチを掴んだ。
「あのね、ウミちゃん」
ポーチの中にはさっきコンビニで買った百円のライターとメジャーな銘柄のタバコが入っていた。
「吸い方、教えて」
「…………そりゃまたえらく長いスパンの自殺だね」
こうして、どこまでも受け身な私は無駄に遠回りな屁理屈と壮大な言い訳を経て、無二の親友にいけない遊びを教わった。
明日は大安。仕事日和である。