魔軍の撤退
翌日、ルナリアは格納庫にてバエルから受け取った書面に目を通し、眉根を寄せていた。
「撤退要請?」
「はい、ヘックスでの軍務活動を終了せよとデブル監督官から命が出ております」
「理由がわかりません。まだ新型のテストも終わってませんし、つい最近ハイドドラゴンが出没したところでしょう。それに勢いは挫いたとはいえ、三国同盟だって残ってるんです。ここで警備を下げる理由はありませんよ」
ルナリアが首を傾げていると、不意に背後から現れたイングリッドが書面をかすめ取った。
「あっ……」
「撤退要請か」
「はい、意味がわかりません。私デブル監督官に問い合わせて来ます」
「無駄だ。奴の嫉妬を買っただけだ」
「どういうことですか?」
「囚人の待遇を良くしたことで、人間の意識が我々に流れてきている」
「魔軍の行動が人気取りに見えたってことですか?」
「そういうことだ」
「なんと器の小さい……これだから卑しい猿は。人間という生き物、特に男は女を見下す性質があります。我々が女ばかりだと思ってなめているのでしょう」
バエルは殺しますか? と視線で訴える。
「殺しませんよ。バエルさんは人間嫌い、特に男嫌いを少しは直して下さい」
「申し訳ございません、お嬢様の命でもそれだけはご容赦願います。男を見ると、もう千切ってやりたくて仕方ないのです」
「な、何を千切る気なんですか……」
憤るバエルだったがイングリッドは特に気にした様子はなかった。
「裏切りで成り上がった男だ。自分の地位を脅かされるのを最も恐れているのだろう」
「どうするんですか? 聖十字騎士団本国に命令の棄却を申請しますか?」
「本国に申請が通る前に、こちらに噛みついてでも追い払って来るだろう」
「こっちが殴り返せないとわかっていてですね……。こんなのただの私怨じゃないですか」
「向こうは奪った住処を奪われたくないのだ。ルナリア、新型とヴィンセントは?」
「新型は両機とも完成率89%ってところですね。後はコアとのマッチング試験をして起動実験後の調整がメインになります。ヴィンセントは一応修理は終わってますよ。ただ駆動系にいくつか問題があるので、本格的なオーバーホールが必要です」
「ヴィンセントは後でいい。新型二機の搭乗者の選定は?」
「タナトスはウチの悪魔たち半分くらい乗せましたが、今のところマッチングしていません。メタトロンの方は外部から候補を調達しないと無理ですね。光の起源聖霊と悪魔は相性が悪すぎます」
「両機共に搭乗者は見つかっていないんだな?」
「そうですね、これからになりますが」
「搭乗者を探すだけならば、後はデブルたちでも可能というわけか」
「そ、そうですけど……。えっ、まさか後を任せるつもりなんですか?」
「クライアントと喧嘩したところで利にはならん」
「我々のクライアントは聖十字騎士団本国でしょう? デブル監督官の無茶な命令を聞くのは間違ってますよ!」
「奴は無能でも聖十字騎士団ヘックス支部の長だ。我々は雇われにすぎん、立場を勘違いするな」
「それでも……納得できません! やっぱり私掛け合いに行ってきます!」
「あっ、お嬢様!」
ルナリアは長い髪を揺らしてデブルのもとへと走り去る。
バエルが制止しようとするが、イングリッドは好きにさせろと首を振る。
それから一時間ほどして、デブルとの話し合いを終えたルナリアが格納庫へと戻って来た。
話を聞いた紅も合流し、バエルと二人で彼女を取り囲む。
「どうでしたか?」
「姉さんも交えて話したいと思います。どこにいますか?」
「イングリッド様なら戦車の中にいるぜ」
三人が戦車の中に入ると、イングリッドは指揮官席で脚組しながら、中空に浮かぶデータとにらめっこしていた。
「姉さん、戻りました」
「その顔からして聞かずともわかるが、話せ」
「はい、姉さんの言う通り聞く耳持たずですね。予想通り、自分の地位が脅かされることを恐れているようです。お前たちはヘックスの乗っ取りを考えているのだろうとやんわり言われました。勿論そんな意図はないと伝えましたが、あれはもう疑心暗鬼になってますね」
「でもお嬢なら口が回るし、あんな豚野郎言い負かせんじゃないのか?」
「その……先日のヴィンセントの件を持ち出されまして……」
そう言うと全員があぁと理解して苦い顔をする。
「本来許可のない実験機はここでは使えないことになっているのですが、無断でヴィンセントを発進させてしまったのと、コクピット内に部外者を搭乗させたことが処罰事項に当たり、我々を信用できないと……」
デブルの勝手な言い分に、紅とバエルはいきり立つ。
「何が信用できないだよ。処罰も何もヴィンセントはウチのじゃねぇか、有事に動かしてどこが悪いんだよ」
「そうです。しかも戦闘記録を見れば、ここの看守がアーマーナイツでイングリッド様に歯向かっている様子が映し出されています。自分のことは棚上げしてこちらの非ばかりを責めるとは」
「喧嘩したって負けねぇぜ。なぁイングリッド様、この際あの豚野郎から監獄を奪っちまったらどうです?」
それいいとルナリアは手を打つ。
しかしイングリッドは、頬杖をつきながら脚を組み替えると首を横に振った。
「そこまでしてここに留まるメリットはない。我々だけでここの人間を管理することはできん」
「じゃ、じゃあここにいる看守を使い、引き続き」
「ダメだ。素性のわからないものは使わない。崩壊が起きるのはいつだって敵からではなく味方からだ。それに、お前はここにいる腐った看守共を使い続けるつもりなのか?」
「そ、それは……」
信用できないものは絶対に使わない。それが魔軍の掟であり、それはルナリアたちも重々理解していることだった。
「客先都合の撤退なら報酬も予定通り受け取れるだろう」
「あっ、そっか仕事しなくても金が貰えるなら引き上げてもいいんじゃないっすか?」
紅が「やったぜ楽できる」とガッツポーズすると、バエルが肘鉄で彼女の脇腹を容赦なく突く。
「そんな、姉さんはこんな中途半端な形で帰還していいんですか!?」
「構わん魔軍はデブル監督官の撤退命令を受理する。我々がいなくなって困るのは向こうだ」
「い、嫌です、私は残りますよ!」
必死に食い下がるルナリアだったが、イングリッドの冷たい視線にさらされて言葉を飲み込んだ。
「わ、わかりました。……撤退の準備を始めます」
「準備ができ次第ここを出る。本国には先にこちらの状況を連絡しておけ」
「了解……しました」
「ヘックス撤退後、本国から撤退命令撤回が来る可能性を考慮し、近くの街にしばらく滞在する。その間は休暇扱いとする。命令があるまで好きにしろ」
「了解」
唇を噛みしめ、拳を握りしめるルナリアは悔し気に俯いていた。
紅とバエルは彼女がなぜこんなにも撤退を嫌がっているか、その理由はわかっておりなんとも言えない複雑な表情をつくっていた。
「お、お嬢元気だせって。本国がデブルに勝手なことすんなってキレたら俺たちまたここに戻ってこれるからよ」
「そ、そうです。もしかしたらデブルを解任し、我々にここの権限を与えてくれるかもしれませんよ」
「……私……少し外しますね……」
二人の慰めも虚しく、ルナリアは消沈した様子でフォートレスを降りていく。
残った紅とバエルは落ち込んだ彼女を見て、小さく息を吐く。
「あのイングリッド様、お嬢もせっかく男に目覚めたことだし、それをわざわざ引き裂くようなことしなくてもいいんじゃないですか?」
「恐れながら自分もそう思います。男の事はどうでも良いのですが、お嬢様にはもう少しお優しくしてあげてもよいのではないのでしょうか?」
「……邪魔なのだよ、我々がここにいては」
「はっ?」
「どういうことでしょうか?」
二人の質問には答えず、イングリッドは目の前に表示されるデータを眺める。
そこには南側城壁の一部がアシッドスライムによって腐食し、城壁強度が危険域に達している旨が記されていた。
早急に対応が必要で、城壁の修復申請が出されている。
このことは魔軍が偶然気づいたことであり、まだデブル達の知らない情報である。
イングリッドが許可を出せば、すぐさま腐食した城壁の修復が始まるのだが、彼女は対応申請を却下しデータ自体を破棄した。
重要案件を闇に葬った後、かわりに表示されたのは妹が熱を上げる囚人のプロフィールデータだ。
「梶勇咲……貴様がルナリアに相応しいかテストさせてもらう。しっかりと逃げて見せろ」
バエルと紅はイングリッドの頬が不自然に吊り上がっていることに気づいていなかった。