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威勢の良い声が飛び交い、行き交う人が足を止める。あるいは客が店主に声をかけて値引き交渉を仕掛け始め、店主も笑顔で迎え打つ。
港を有すこの町は、流石に毎日船が行き交うとまでは行かないが、そこそこ外から物が入ってくるため交通の拠点としてこれまたそこそこの発展を見せている。
本日は特に来航予定はなかったが陸路の荷は健在だ。街中には定期的に行われる市が立ち賑わっていた。生憎の空模様でどんよりと重苦しい雲が上空に圧し掛かっていたが、むしろ日中は汗ばむ事の多くなってきた昨今逆に過ごしやすいといえる。
その町の一角。大通りから離れて路地と路地を繋ぐ小道がある。夕方になれば家路につく人なども見られるが、今はただ風が時折空間を揺らす程度である。
チリと音がした。
音を辿ろうにもどこから聞こえるかどちらの方角から聞こえるのかも分からない。再びチリと空気が震えた。
ふと風が軋んでうねったかと思えば斜めに裂け目が入った。
そこから一人の青年が忽然と現れた。路地を曲がって現れたような気安さで空間から出現し、慣れた仕草でそのまますたすたと路地に出て人通りに紛れてしまった。
魔族と呼ばれる一族の特徴は様々ある。浅黒い肌、薄い色の瞳など外的特徴も然ることながら何より特筆すべきはその名の通り人を遥かに凌駕する魔術の担い手であることが挙げられる。
それは例えば自然の力を凝縮し打ち出して攻撃したり、普通ではありえない治癒を促したりといったオーソドックなものから、遠い地に渡ったり姿を他者から隠したりといった事ですら自在に行った。
仮に魔族の青年がいたとして、特徴的な肌も目も魔法で覆って人に紛れるといったことは昔は間々あったのだ。
青年は迷いのない足取りで町を闊歩する。
何度か訪れたことがる場所。やることは大体決まっていて、手持ちの品を売って必要なものを買い込むだけだ。
青年の庇護者たる稀代の魔女は基本的に自給自足で暮らしてはいるが全てを独力で賄いきれるものではない。したがって折りに付け必要なものは町で手に入れるようにしているのだが、その役目は青年が引き受けている。
彼女が隠遁を決め込んでいる所為でもあるし、生来の性格が交渉や交流向いていない所為でもある。何にせよ彼女を取り巻く物事の中で青年が寄与する部分があるということは喜ばしいことである。
今日は彼女がどこからか手に入れてきた本を売って、そのお金で服を買うことになっている。彼女は既製品をまったく独自にリメイクしてしまうので選ぶ楽しみは少ない。
異界からの者は世界の反発を招く。
個々の優劣はもちろんあるが、それが稀代といわれた力の理由であり全てである。魔力に長けた魔族の青年から見ても魔女には適正と知識があった。知識は勿論後天的に得たものだが、最初に力のありように疑問を持たなければ諾々と世界に染まって失われたかもしれない力だった。
彼女は世界に染まろうとはしない。
彼女の世界のものらしき料理を作り、服も彼女流にアレンジする。いまだに言葉ですら頑固に『日本語』とやらを話して魔法で意思疎通のため変換をかけて相手に伝えている。
頑なに『世界』を受け入れない。
一緒にいる青年にすらあまり目を向けはしない。彼が『この世界』の者だから。
彼女が気に掛けるのは力の維持の仕方を知る前に出会った彼の国の側妃くらいなのだろう。悔しくはあるが、まだ彼女と同性だからと言い聞かせて心を落ち着かせるようにしている。
そう努力している。それでも…、
あの深い眠りのような瞳が自分だけに向けばどれほどの幸運だろうかと思う。
さらと香る髪が長く背を彩り、幾筋かの流れが胸元に弧を描く。振り返ると、落ち着いた声が自分の名前を呼ぶ。
ぱさり。
ふんわりとした布の感触で青年の意識は現実へと引き戻された。そう今は彼女の服を選んでいるところだった。
ちょっと思考があらぬ方へ走り出すところだった。滑り落ちてきた服に正直助かったと感謝した。
『なるべくなら柄がない簡素な方が良いと言っていたな』
初めのうちはそれではつまらないと考えていたが、実際色がついただけの服を重ねて飾る彼女を見て悪くないと思った。
立て続けに衣装を改めたいと言った彼女。
青年には何も言わないけれど、何かが始まるのだろう。
まるで時に置き去りにされたように変化がなかった彼女の身の回りが慌しくなっている。
まあどんな事が起きるかは想像できる。どんな顛末になるかは知らないが自分は見守ることにしよう。
窓からの風が強くなってきた。
手元を照らしていた灯りが揺れ、消えそうな気配に気が付いて男は書き物から目を離して見守った。
少し強く揺れていた炎も根負けして引いた風により力強さを取り戻した。
そこまで見守って、かたっと音を立てて椅子を立つ。
戸締りに立ったまま手を止めて外を伺う。その向こうはいくら凝らそうと目を見えないが、祖国があることをふと思い出したのだ。
もう昔の話だと自嘲するように笑みを溢すと。
今度こそ窓を閉めた。