回想~元末王子の場合~ 前
すぐ上の兄の体がまるで赤い花びらを散らすように血を撒き散らしながら倒れるのを呆然と見ていた。
数人の兵士が止めを刺そうと動かぬ兄の身体に群がるのをペタリと座り込んだまま何も出来ずに見上げているしかなかった。
やがて蹂躙しつくして気が済んだ兵士の一人が座り込んだ間の少年に気が付いて剣を振り上げた時も何の反応もしなかった。
その視線は剣先を見ているようでいて、どこか遠い場所に向いていた。先程まで少年を安心させるように「大丈夫だ」と力強く笑っていた兄の笑顔だけをただ脳裏に浮かべていた。
音がしそうな程の静寂に我に返った。
不思議に思って周囲を見渡せば、見えるもの全てが動きを止めている。
人も風も飛び散る血ですら絵画にでも閉じ込められたようで、先ほどの兵士も剣を構えたまま振り下ろすことはなかった。
兵士を見上げたまま、ここが死後の世界というやつだろうかとぼんやりと考える。そうなら自分が想像していたものとはちょっと、いや大分違う。
こんな場所でも兄はあんな場所で横たわったままだなんてあんまりだと思う。
動けるのが自分だけならば、安らかに眠れる場所まで連れて行ってあげたい。笑う膝を叱咤して何とか立ち上がろうとして失敗した。何度かの失敗の後、諦めて這って進むことにした。
かつん。
いくらも進まないうちにタイムリミットを告げるかのように誰かの足音が響いた。
その人は嘘のように静けさを纏っていた。
サフィールを満月の晩の様な瞳で見下ろしていた。
白く通った鼻梁の下の色付いた唇は引き結ばれていて表情はなく、木影のような色合いの髪が波を描きながら華奢な肩の向こうに消えていた。
ただ、瞬きするのも忘れて見上げていた。
全ての世界が入れ替わったのだと、ただそんな風に考えていた。
「ここに干渉する全てを一時的に止めました。しばらくなら目を眩ませられるわ」
風のように澄んだ声がして、ようやく目の前に居るのが年若い女であることに思い至った。
とても、とてもきれいな女の人。
「時間がない。早くしないと気付かれてしまう」
身動きすらしないことに焦れたのか、近づいてきた彼女はサフィールの手を引いて立たせようとしたが、思いついたように動きを止めた。
「私には何でもできる力があるとします。あなたの願いを一つ叶えると言ったら何を願いますか?」
時間がないといった言葉通りにやや早口で尋ねられた。唐突な問いに戸惑いを覚える。
今の状態に何か関係があるのだろうか?
疑問に思ったが彼女はいたって真剣に促していた。
何でも。
今自分が願っていること。
サフィール自身が驚くほどするりと言葉が出てきた。
「兄様に安らかな眠りを」
彼女は虚を突かれたように振り返って兄の姿を見て、再びサフィールに視線を寄越した。
「そう」
言葉こそ素っ気無かったがサフィールの頭を撫でて、微かに本当に僅かにだが笑みを浮かべた。
兄は、元の形が分からないほどぐちゃぐちゃだった。
臓腑を掻き分けながら赤く染まった彼の傍らに膝をつく。血に絡められた薄紅の髪だけがこれが彼である事を証していた。
彼女がサフィールの背後から覗き込むように腰を落として兄の顔を手で覆い、間をおかずにその手が離れるとよく知った兄が現れた。
特別仲が良いわけでも悪いわけでもない兄だった。兄は既に王子としての責務をこなしていたから、普通の兄弟とは違ってあまり接する機会もなかった。
しかし城が攻められた時には成り行きとはいえ共にいたし、最後まで弟を気遣っていた。それで充分だと思う。
十分良い兄だった。
思い返せばたまに会う兄の瞳はいつも優しくなかったか。交わす短い言葉は温かくなかったか。
確かめようにももう遅い。
この兄だけじゃなく父も母も他の兄弟にももう会えないのだと分かっていた。
腹にぐっと力を入れたけど視界が滲むのを押さえられない。
ぐいっと目元を拭った。
あの人は時間があまりないと言っていた。ここで自分が足を引っ張るわけにはいかない。決意を込めて振り返ると月夜の瞳と目が合った。その目を見据えて頷いて見せた。
「もういいの?」
「ええ」
寧ろ彼女の方が戸惑っているようだった。泣いて離れないとでも思われていたのだろうか。それは大変不本意だ。
末席といえども王族に名を連ねる身だ。自分の死も家族の死も覚悟を決めるようにと言われていた。
静かに兄の死を悼むことが出来た。それだけで充分だった。
「何か持ち出す?か、形見に……」
直裁的な死を示唆する言葉に居心地が悪かったのか、彼女は最後は小さな声になってしまい跋の悪い顔を見せた。
なんだかそこだけ見た目どおりの年齢の人間のように思えた。それまでサフィールは彼女のことは神か魔物か世界そのものか、とにかくそんな何か強大な存在が仮の姿で現れたようなそんな風に捉えていたが、実は違うのかも知れない。
サフィールは首を横に振った。
「言い出したら限がありません。兄だけでなく、父も母も大事な人たちです。王城の貴族も役人も誰一人欠けて悲しくないわけがない。私がみんなを言葉を忘れなければいい。それだけです」
また彼女は「そう」とだけ呟いた。
出会ってまだ短い時間しか過ごしていなかったけれど、その少ない言葉が様々な思惑を含めた彼女の温もりに満ちた言葉なのだということは察せられた。
おそらく彼女はここからサフィールを連れ出しに来たのだ。
自分はどこに連れて行かれるのか、どうなるのかは分からない。けれど、
『この人と一緒にいたい』
意識をすれば焼け付くような衝動となってこの身を襲った。
彼女が何者なんてどうでもいい。この先自分がどうなろうと構わない。
「あなたは生きるの」
反論を許さない決定事項。それにただ頷いた。
たとえ彼女の願いがサフィールの死だったとしても頷いたに違いない。それくらい彼女意思ははサフィールを支配した。
その場を立ち去ろうとする背中を突き動かされるように必死に追った。
それが魔族の王の末子サフィール王子としての最後の記憶となる。