回想~元末王子の場合~ 中
前を行くその人が振り返った時にはそこはもう城の中ではなかった。
たいして広くはない部屋の中、壁に沿っていくつかの本棚が並んでおり、その周囲にまた雑然と積み上げられた本の山がある。どうやら書庫として使っている部屋らしかった。隅にあるテーブルセットが唯一の家具に見えたがこれにも本が積み上がってしまっている。
転移の類の魔法で何処かの家に連れて来られたらしかった。
「とりあえず、空いている部屋はここだから」
そういわれて改めて見渡してみた。空いて、いるのだろうか?
サフィールの疑問に答えるかのように彼女が振り返ると、次の瞬間には綺麗さっぱり何もない空間が広がっていた。
今度も転移の魔法を駆使したことはサフィールにも分かる。それでもそれはもう綺麗さっぱりと何もなくなった部屋を前に言葉もなく佇むほかなかった。
言うだけ言ったと去ろうとするあの人を慌てて捕まえる。
「あ、あのここで暮らせとそういうことですか?」
彼の慌てた様子も凪いだ様子で受け止め、彼女は少し考える素振りを見せたあと頷いた。
いやいやいや。
「ここ何にもないですけど」
「そう。片付けた」
「そう。じゃなくて、寝台とかせめて毛布とか」
窓にカーテンすらかかっていない部屋である、床板はむき出しで絨毯すら敷いていない。もう何となく板間に直寝は覚悟を決めた。しかし掛布くらい確保して罰は当たらないはずだ。それとも亡国の王子の身ではそれすら高望みだというのだろうか。
無表情のままあの人はごめんなさいと呟いた。
「気が回らなかったわ。確かにそうね。でもまだ私やることがあるの。あなたの分を用意している余裕はないわ。この部屋を出て向かいの部屋が私が使っている部屋だから、そこから使えそうな物は探して使っていいわ」
そのままふらりと空を見定め、ふっとその姿を消した。
袖を掴んでいた手はそのまま行き場を失い呆然と立ち尽くすことになる。
暫く佇んでいたがやがてのろりとあの人の部屋へと向かった。
廊下に出るとここもまたしんと静まりきっていた。けれど不思議と空気が優しく柔らかくを感じキョロキョロとあたりを見渡した。
窓に細い木枠が立てかけてあり、枠には向こうが透けるくらいの薄い紙が貼られていた。
これが直射日光を避けているらしい。括りつけられている紐を解いてずらすと魔族には辛い昼の強い日差しを覗くことが出来た。慌てて元に戻す。
『これは何だろう?』
まずこんなに薄い紙は見たことがない。カーテンは相変わらず付けられてはおらず、きっとこれがカーテンの代わりなのだろう。カーテンならば陽光を完全に遮断してしまうのでこれならば丁度いい明りを取り入れられる。
考えてもよく分からない。あの人だからという理由で無理やり納得してドアノブに手をかけた。
許可されているとは言え無人の他人の部屋に入るのは緊張する。
ゆっくりと扉を開け中を伺う。
一見すれば本に囲まれた普通の部屋に見えた。けれどよく見ればやけに丈の低い机が置かれている。絨毯の上には何やら草を編んだものが敷かれ、ベットの横にはやけに分厚い敷布が畳まれて置かれていた。
そこかしこにある『なんだかよくわからないもの』は考えるだけ無駄と悟った
ベッドの横に畳まれて置かれているモコモコとした布の塊は二枚あって敷布と上掛けに使わせてもらうことにした。
部屋に入ろうとして自分がひどく汚れていることに気が付いた。先程まで戦火の中にいたのだ無理もない。何か着るものも借りようかと思ったが、流石に体格も違う女性の服は借りれないと思った。
再び廊下に出て水場を探す。程なくして見つけた台所の水甕の水で身を清め、埃と血とで汚れた服を洗った。魔法で水気を飛ばして戻り先程の上掛けといくつかの小物を借りることにした。
。
部屋に敷いた布に早速包まる。暖かくて柔らかくてもうこれで安心していい気がした。
自分だけが
もうどうしようもないことと知りながら堪え切れない喪失感に天を仰ぐ。それでも留まってくれない雫は一度気を緩めてしまうと決壊したかのように溢れ出す。
もう戻れない会えない人達。何も出来なかった自分。
せめて彼らの笑った顔を思い出したいのに強張った母の顔と決死の様子の父と、父と共に戦いに出た兄と良く面倒を見てくれた家臣たち、そして最後に肉片になる前のすぐ上の兄しか思い出せない。
そして今日サフィールも死んだのだ。
目が覚めた。
どうやらあのまま寝てしまったのだと思う。
目は冴えてしまったが身体は動かない。何もかもが億劫で何もしたくない。けれどカーテンのないこの部屋には朝の光が入ってきて魔族を苛んだ。
ごろりと寝返りを打って背を向ける。
そういえば、昨日あの人は戻らなかったのだろうか?上掛けを被ったまま遠見で家の中を覗いてみるがどこにも姿は見えない。
名前も聞けなかったからあの人のことをどう呼べばいいのか分からない。
涙が戻ってこないようにそのことばかりを考え続けた。
次の日、流石に何も口にしない訳にはいかなくなり再びのろりと立ち上がった。
調理場には保存食や調味料の類が揃っており、外には野菜の畑が整えられていた。まるで料理などしたことなどなかったが煮るなり焼くなりしてなんとか食べた。
パリパリと葉っぱを齧りながらこれからは料理も覚えな開ければならないのだろうと思う。きっと掃除とか洗濯とかも。
そのまま次の日もその次の日も彼女は戻ってこなかった。
ここに捨てられた可能性も考えてみたが、畑があるということはある程度ここに生活基盤があったということだと思う。一方で畑の収穫物など保存のきかない食べ物がが調理場に残されていなかったところを見ると長期間留守にすることが想定されていたと推測出来た。とすればサフィールをここに連れてきたことが想定外のことなのだろう。
そして当初の予定を大幅に超えて留守になっていると思われた。畑が干からびてきたのをまずいと思い、自主的に水をあげながらサフィールはあの人の行動を予測してみる。
しかしいくら考えてもあの人がいつ姿を現すのか見当も付かなかった。
とうとう五日が過ぎた。
今日も幽玄の月は空にあり、ささやかな灯を供する。
水の汲み桶を傍らに置き、すっかり慣れてしまった水汲みの手を止めてぼんやりと見上げていた。
夜の色はまだ浅い。
やわらかな空の色、やわらかい月の色。風が木々を揺らす僅かな微かな音。影。すべてを包み込むような幻想的な風景を遠くに見ていた。
誂えたような世界を眺めていると、視線の端でぎゅんと違和感の気配がした。目を向けると一つの絵画のような完全な世界が不自然に歪んだのは湖の向こう岸だったがサフィールには「見ること」が出来た。
視界を遠見の魔法に切り替えて思わず腰を浮かせる。
空間を切り裂くのは転移してくる魔法の証で、魔族を除けば使える人間はどれだけもいない。
予期通りあの人が現れた。
湖面に降りたその人はじっと水面に視線を向けたが、ついっと視線を上げた。サフィールが疑問に思う間もなく水が大きくうねりを上げて頭上にかかり容赦なく降り注いだ。
光が、
月の光が、
白く冴え冴えとした光の粒が水に乱反射されて、
頬に首筋に、
ほの白く浮かぶ。
視線を逸らすことも瞬きすることですら忘れて。