第二王子ユールノイアの蒐集録2
梢を揺らす音に彼女が気を取られて歩みを止めた。
つられて手を繋いだ僕も足を止めた。
風切の音ではなかったから気になったのだろう。二人で身を寄せて観察しているとゴソっと音を立てて緑色に茶の文様の入ったの小鳥が頭を出した。
「あれ?珍しい。トルートだよ」
深い緑の羽に紅を差したような嘴の鳥は此処よりももっと南の国の空を飛んでいる筈だ。
辺りを伺う様に首を出したり引っ込めたようにしていたトルートは特に危険がないことを確かめると姿を現し、そのまま一鳴きすると羽を広げて空へ吸い込まれて行った。
手を翳してみたけれど太陽の光は強すぎて影すらも追えないことを残念に思った。
「あー、あー」
彼女が追いかけるように手を伸ばす。届くことはないその手をまじと見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「行っちゃったよ。きっと家に帰るんだよ」
声をかけると先程までの事に興味を失ったように僕の顔だけを見上げた。
「さあ、行こうか。今日は天気がいいね」
彼女が隣にいてこんなにも直向な視線をくれることにじんわりと胸があったかくなる。満たされた思い出促すと彼女もコクリと頷いてとことこと歩き出した。
広い野原の真ん中にぽつんと大きな木が聳えている。強い日差しを遮ってくれるそこはとても居心地のいい場所で、僕達はしばしば利用する。
柔らかな草の上にふわりと敷布を広げて彼女を座らせた。いつものように後から座った僕に彼女は身を寄せるように擦り寄ってくる。身体に触れてくる彼女の熱。スカートから無造作に伸びる白い足。無防備な唇。それらは僕を堪らない気もちにさせる。
誤魔化すようにことさら笑みを深める。
何か違和感を感じたのだろうか、彼女はこてりと首を傾げた。
「さて今日はどの話にしようか?」
聞くと彼女は寄りかかって目を閉じた。完全におまかせの体勢だ。
「ええっとじゃあね」
持ってきた書物の束をバサバサとめくるがあんまりピンと来ない。
「そうだ。今日はトルートの話にしよう」
本来あるべき場所よりも北に位置するこの場所に彼がいたのも何か意味があるのかもしれない。
鋭く辺りを伺っていたし、なかなかに凛々しい面立ちをしていたからきっと騎士か何かなんだ。
そうするとこんな平和な場所に偵察や何か不穏な目的でやってきたとは考えられないから、きっと誰か偉い方の先触れなんだろうね。
そこまで話して少し考える。
「そう、これは僕らの世界とは近くてでも遠い精霊の国のお話しだよ。そこでは花の姫君たちが鳥の騎士に守られて暮らしているんだ」
即興で出てきた世界は思いの他しっくりきて、それが本当の話のように思える。
花のお姫様は少しお転婆で時々人の世に遊びに出ようとする。鳥の騎士はその度に困り顔になりながらも彼女の安全な道行の為に尽力するんだ。
でも遊びにというのは口実でお姫様は元は人の世の普通の鳥だった騎士の為に彼の仲間を探し歩いていたんだ。
「それを知った騎士は、騎士は…どうするだろうね?」
受け入れるのも反発するのも何か違う気がする。しばらくあれこれと考え込んで一先ず棚上げにすることにした。
「ごめんね。この話しはまた今度だね」
がっかりする様子も見せずに彼女は楽しそうに頷いた。その子供のような様子に気が塞いでしまう。
それを首を振ってやり過した。
気を取り直して遙か頭上の樹の上に声をかける。
「という訳で今日はこれで終わりです。僕達はこれで帰りますが、あなたは如何されますが」
するとあまり音を立てないままするりと女が降りてきた。
漆黒を纏った少女の姿をしていた。
全体の印象の割には明るい衣装でロシュと呼ばれる一般的な女性の服とは少し違った形をしていた。それもあっていっそう神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「気が付いていたようね」
「というか隠すつもりもなかったでしょう」
樹影に興味深そうに覗き込んでいる陰が映ったのはここに座ってすぐだった。魔法の心得は多少ある。それが魔法に長けた者であることは察せられた。
「それで僕に何か用ですか?」
少女は物語に耳を傾けているようだったが、仕舞いにしても立ち去る事はなくこうして姿を現した。
少しの躊躇いを見せるが少女はやはり切り出した。
「あなたは物語を……いえ違うわね。本を作らないの?童話作家ウォルフレット=ドルマ」
ああ、そのことですかとウォルフレットは応じる。何度もも投げかけられた疑問だ。
「とてもじゃないがそんな気にはなれません」
「でもさっきは…」
「あなたも見たでしょう。紡ごうにもどうにも霧散してしまう。途中で止まって、更に先を考えるのがどうでも良くなるのです。エンドマークの付かない物語は本にはなりません」
これまた何度も返してきた答えを繰り返す。物語自体を忌避している訳ではない。だから尚のことどうしようもないのだ。
「それはやはり彼女が関係しているの?」
少女は傍らにいた彼女の焼け爛れた顔を凝視しながら問う。先ほど見せた躊躇いが嘘のように核心に切り込んでくる。
怒っても良かったのかもしれない。普通は怒るのだろう。そんな気になれなかったのは少女が表情になんの感情も載せていなかったからかもしれないし、佇まいからまるで人ではない者と話している様な気になったからかもしれない。
「そうとも言えるし、違うとも言えます」
項垂れたまま静かにそう答えた。
婚礼間近の花嫁の家を襲った凶行。家族は目の前で惨殺され、その死すら蹂躙された。彼女は女としての尊厳を踏みにじられ、その絶望を楽しむように生きたまま自由を奪われ家に火を放たれた。
そんな中で助けることの出来たのは本当に奇跡的なことで、たまたま彼女の家に忘れ物をしたと訪ねたこと。たまたま自分が多少の魔法の心得があり、炎を抑えながら中に入れたこと。そして彼女を焦がす焔がまだ命を奪うほどではなかったこと。そして賊がその時点で完全に立ち去っていたこと。自分の持っている能力では早くても遅くても助けることは出来なかった。
そして燃えていく家族を見ながら彼女は微動だにしなかった。既に彼女の心は壊れていた。
「けれどそんなことは関係ない。あの時彼女を助けられて良かったと思ったし、無残に殺されたのがご両親や姉君で良かったとそう思ってしまったんだ」
確かに自分は他者の死を喜んでしまった。
ああ、愛とはなんと醜いものなのか!
その絶望は今も胸内の燻っていて消えることはない。
「そう、彼女の問題ではなくあなたの問題なのね」
少女はついっと手を伸ばし、彼女の頬に触れようとする。彼女は少し怯えた素振りを見せたが特に害意もないと判断したのかされるがままになった。
少しきつめの様子で、まるで汚れでも拭うように頬を拭うと、手を放したそこには本当に汚れだったかとでも言うようにあれだけ爛れていた痕が消えて元の彼女の綺麗な横顔が現れた。
ウォルフレットが驚いて少女に問おうとしたが、何を問いただせばいいのか分からず結局口を閉ざした。
もしかしたら少女は本当に人ではない精霊かなにかなのかも知れないとも思う。
「彼女の壊れた心は彼女を守る檻のようなもの。無理矢理こちら側に引きずり戻すのが良いこととは思えないから、私に出来るのはこれくらいね」
彼女が起こったこと突きつけられる時間が少しでも少なくて済むように,、と一人ご言のように呟く。
抉れたように賭けた耳たぶも、左の肩からみえる腰まで広がった焼け跡も何もかもが元通りだった。
悲しいことなんて何も無かったんじゃないかと言うように何の痕跡もなくなっていて、知らず涙がこぼれた。何度も何度も拭う。
わからない。
何故こんなに涙がこぼれるのかは。
「忘れないでね。起こったことは変えられないの。あなた達はこれから二人で乗り越えていかなければならない」
彼女をぎゅっと抱き寄せながら堅く誓う。いつまでも彼女の傍らにあろうと。
その様子を静かに見守って少女が切り出した。
「もしあなたが今回のことをありがたく思う時があったら、良ければ青い鳥の騎士の話をきちんと書いてくれないかしら?
群れから離された鳥がどう選択するのかは興味があるの」
それだけ言い残すと現れた時と同じように突然に風に紛れて消えてしまった。
ふわりと新緑の香りが戻ってきたように感じた。
それが世間で精霊ではなくて魔女と呼ばれている人物だと知ったのはずっと先の話。
梢を揺らす音に彼女が気を取られて歩みを止めた。
つられて手を繋いだ僕も足を止めた。
風切の音ではなかったから気になったのだろう。二人で身を寄せて観察しているとゴソっと音を立てて緑色に茶の文様の入ったの小鳥が頭を出した。
「あれ?珍しい。トルートだよ」
深い緑の羽に紅を差したような嘴の鳥は此処よりももっと南の国の空を飛んでいる筈だ。
辺りを伺う様に首を出したり引っ込めたようにしていたトルートは特に危険がないことを確かめると姿を現し、そのまま一鳴きすると羽を広げて空へ吸い込まれて行った。
手を翳してみたけれど太陽の光は強すぎて影すらも追えないことを残念に思った。
「あー、あー」
彼女が追いかけるように手を伸ばす。届くことはないその手をまじと見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「行っちゃったよ。きっと家に帰るんだよ」
声をかけると先程までの事に興味を失ったように僕の顔だけを見上げた。
「さあ、行こうか。今日は天気がいいね」
彼女が隣にいてこんなにも直向な視線をくれることにじんわりと胸があったかくなる。満たされた思い出促すと彼女もコクリと頷いてとことこと歩き出した。
広い野原の真ん中にぽつんと大きな木が聳えている。強い日差しを遮ってくれるそこはとても居心地のいい場所で、僕達はしばしば利用する。
柔らかな草の上にふわりと敷布を広げて彼女を座らせた。いつものように後から座った僕に彼女は身を寄せるように擦り寄ってくる。身体に触れてくる彼女の熱。スカートから無造作に伸びる白い足。無防備な唇。それらは僕を堪らない気もちにさせる。
誤魔化すようにことさら笑みを深める。
何か違和感を感じたのだろうか、彼女はこてりと首を傾げた。
「さて今日はどの話にしようか?」
聞くと彼女は寄りかかって目を閉じた。完全におまかせの体勢だ。
「ええっとじゃあね」
持ってきた書物の束をバサバサとめくるがあんまりピンと来ない。
「そうだ。今日はトルートの話にしよう」
本来あるべき場所よりも北に位置するこの場所に彼がいたのも何か意味があるのかもしれない。
鋭く辺りを伺っていたし、なかなかに凛々しい面立ちをしていたからきっと騎士か何かなんだ。
そうするとこんな平和な場所に偵察や何か不穏な目的でやってきたとは考えられないから、きっと誰か偉い方の先触れなんだろうね。
そこまで話して少し考える。
「そう、これは僕らの世界とは近くてでも遠い精霊の国のお話しだよ。そこでは花の姫君たちが鳥の騎士に守られて暮らしているんだ」
即興で出てきた世界は思いの他しっくりきて、それが本当の話のように思える。
花のお姫様は少しお転婆で時々人の世に遊びに出ようとする。鳥の騎士はその度に困り顔になりながらも彼女の安全な道行の為に尽力するんだ。
でも遊びにというのは口実でお姫様は元は人の世の普通の鳥だった騎士の為に彼の仲間を探し歩いていたんだ。
「それを知った騎士は、騎士は…どうするだろうね?」
受け入れるのも反発するのも何か違う気がする。しばらくあれこれと考え込んで一先ず棚上げにすることにした。
「ごめんね。この話しはまた今度だね」
がっかりする様子も見せずに彼女は楽しそうに頷いた。その子供のような様子に気が塞いでしまう。
それを首を振ってやり過した。
気を取り直して遙か頭上の樹の上に声をかける。
「という訳で今日はこれで終わりです。僕達はこれで帰りますが、あなたは如何されますが」
するとあまり音を立てないままするりと女が降りてきた。
漆黒を纏った少女の姿をしていた。
全体の印象の割には明るい衣装でロシュと呼ばれる一般的な女性の服とは少し違った形をしていた。それもあっていっそう神秘的な雰囲気を醸し出している。
「気が付いていたようね」
「というか隠すつもりもなかったでしょう」
樹影に興味深そうに覗き込んでいる陰が映ったのはここに座ってすぐだった。魔法の心得は多少ある。それが魔法に長けた者であることは察せられた。
「それで僕に何か用ですか?」
少女は物語に耳を傾けているようだったが、仕舞いにしても立ち去る事はなくこうして姿を現した。
少しの躊躇いを見せるが少女はやはり切り出した。
「あなたは物語を……いえ違うわね。本を作らないの?童話作家ウォルフレット=ドルマ」
ああ、そのことですかとウォルフレットは応じる。何度もも投げかけられた疑問だ。
「とてもじゃないがそんな気にはなれません」
「でもさっきは…」
「あなたも見たでしょう。紡ごうにもどうにも霧散してしまう。途中で止まって、更に先を考えるのがどうでも良くなるのです。エンドマークの付かない物語は本にはなりません」
これまた何度も返してきた答えを繰り返す。物語自体を忌避している訳ではない。だから尚のことどうしようもないのだ。
「それはやはり彼女が関係しているの?」
少女は傍らにいた彼女の焼け爛れた顔を凝視しながら問う。先ほど見せた躊躇いが嘘のように核心に切り込んでくる。
怒っても良かったのかもしれない。普通は怒るのだろう。そんな気になれなかったのは少女が表情になんの感情も載せていなかったからかもしれないし、佇まいからまるで人ではない者と話している様な気になったからかもしれない。
「そうとも言えるし、違うとも言えます」
項垂れたまま静かにそう答えた。
婚礼間近の花嫁の家を襲った凶行。家族は目の前で惨殺され、その死すら蹂躙された。彼女は女としての尊厳を踏みにじられ、その絶望を楽しむように生きたまま自由を奪われ家に火を放たれた。
そんな中で助けることの出来たのは本当に奇跡的なことで、たまたま彼女の家に忘れ物をしたと訪ねたこと。たまたま自分が多少の魔法の心得があり、炎を抑えながら中に入れたこと。そして彼女を焦がす焔がまだ命を奪うほどではなかったこと。そして賊がその時点で完全に立ち去っていたこと。自分の持っている能力では早くても遅くても助けることは出来なかった。
そして燃えていく家族を見ながら彼女は微動だにしなかった。既に彼女の心は壊れていた。
「けれどそんなことは関係ない。あの時彼女を助けられて良かったと思ったし、無残に殺されたのがご両親や姉君で良かったとそう思ってしまったんだ」
確かに自分は他者の死を喜んでしまった。
ああ、愛とはなんと醜いものなのか!
その絶望は今も胸内の燻っていて消えることはない。
「そう、彼女の問題ではなくあなたの問題なのね」
少女はついっと手を伸ばし、彼女の頬に触れようとする。彼女は少し怯えた素振りを見せたが特に害意もないと判断したのかされるがままになった。
少しきつめの様子で、まるで汚れでも拭うように頬を拭うと、手を放したそこには本当に汚れだったかとでも言うようにあれだけ爛れていた痕が消えて元の彼女の綺麗な横顔が現れた。
ウォルフレットが驚いて少女に問おうとしたが、何を問いただせばいいのか分からず結局口を閉ざした。
もしかしたら少女は本当に人ではない精霊かなにかなのかも知れないとも思う。
「彼女の壊れた心は彼女を守る檻のようなもの。無理矢理こちら側に引きずり戻すのが良いこととは思えないから、私に出来るのはこれくらいね」
彼女が起こったこと突きつけられる時間が少しでも少なくて済むように,、と一人ご言のように呟く。
抉れたように欠けた耳たぶも、左の肩からみえる腰まで広がった焼け跡も何もかもが元通りだった。
悲しいことなんて何も無かったんじゃないかと言うように何の痕跡もなくなっていて、知らず涙がこぼれた。何度も何度も拭う。
わからない。
何故こんなに涙がこぼれるのかは。
「忘れないでね。起こったことは変えられないの。あなた達はこれから二人で乗り越えていかなければならない」
彼女をぎゅっと抱き寄せながら堅く誓う。いつまでも彼女の傍らにあろうと。
その様子を静かに見守って少女が切り出した。
「もしあなたが今回のことをありがたく思う時があったら、良ければ青い鳥の騎士の話をきちんと書いてくれないかしら?
群れから離された鳥がどう選択するのかは興味があるの」
それだけ言い残すと現れた時と同じように突然に風に紛れて消えてしまった。
ふわりと新緑の香りが戻ってきたように感じた。
それが世間で精霊ではなくて魔女と呼ばれている人物だと知ったのはずっと先の話。
また鳥の騎士の話は世間に出回ることこそなかったけれど、あの樹の袂にそっと捧げられている