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特に忍ぶことなく無遠慮に近づく足音に顔を上げる。
予想した通り今回の立役者ユールノイアが呆れた半眼で王を見据えていた。
「もう気は済みましたか。というかですね、これで『終わった』となんて思ってないでしょうね。むしろこれから仕事は山済みなんですから、とっとと執務に戻っていただけませんか」
もうすぐ暮れ行く夕日を背景に言い放つ。たゆたう朱の色がそのまま彼の気を現しているようだった。
「今日中に少なくとも王妃関連の予算の決済終わらせてください。王宮での予算削除。半分を神殿に移管。王妃近辺の警護に騎士と術士隊の昼夜連続体勢の指令と特別予算。足りない分は一先ず我々の負担にします。まとめてあるので今日中に採択を」
損なわれてしまった国力。飢えている国民がいる以上上に立つ者として出来るだけ速やかな回復に努めることは義務である。とユールノイアは信じて疑わない。
そのことを羨ましく思う。
「そうか」
それだけ呟くと花の庭に再び視線を戻した。
自分にもかつては確かにあったその使命感は形を潜めて久しい。
邪魔をしないでもらいたい。今はただ久しぶりに見ることのできるこの花を見ていたいのだ。ようやくそれが許されたのだから。
すいっと花弁に手を添える。西日に照らし出された薄紅の弁はほんのりと温もりを持って、まるで彼女の頬の様だとそのことばかりが頭を占める。
彼女の笑顔が好きだった筈なのに、思い出されるのは困ったような曖昧な笑み。それでも最後に見たのはいつだっただろうか。
「大切な者を亡くしたのがあなただけだなんて思いあがらないでください」
鋭い言葉が投げつけられて驚いて振り返る。
ユールノイアは完全に怒気を浮かべて、遠くの花を視線を睨みつけていた。
「あの人は私にとっても母でした。それに…」
そこで言葉を切ってただ静かに「兄ももういない」と続けた。
空が、と思った。彼の後ろに見える空は雲一つなく、どこにも拠所なく突き放す様に広がっている。
夜の帳が降りようとしていた。
「ならば何故」
そんな風に負った役割に真っ直ぐに向き合えるのだろう。自分はもう動くことすら億劫だというのに。
「兄が、フルース兄上が『後の事は任せた』と言って行ったんです。俺はあの人の信頼に応えたい」
横顔に迷いはなかった。
『あなたは皆がしあわせになれる国を作るんでしょ?きっとよ。約束するなら手伝ってあげる』
遠い日にそう笑った彼女が脳裏に浮かびあがってきた。
「そうか、そうだったな」
確かに約束した。果たせはしなかったが。
風が渦巻く気配がした。
目を向けると風渦が生みだした境界から女が一人出てくるところだった。
しっとりとした長い黒の髪をゆらし、虚空を望むような視線。それは久方振りに見た異界から呼び出した片割れの少女だった。
少女だった。
「おや魔女殿。どうされました?」
「ユールノイア様。お疲れ様でした。すべて見届けさせてもらいました」
「『様』だなんて止してください面映い」
軽く受け流す様子に混乱が深まった。
まったくあの頃のままの姿の少女を前に浮かんだ疑問はとりあえず封じることにする。
そもそもあの少女がこの国を出て行ったのはユールノイアの生まれる前の筈だ。どこで面識を得たのかという前に、あの少女がこの国に関わろうとすることがあまりピンと来なかった。
「長い話をするほど私にとってこの城は居心地のいい場所ではないから簡単に済ませさせてもらうわ」
すいっと薄紅の花に目を向けたあと、今は自らを魔女と名乗る少女は片手を挙げて柔らに振り下ろした。
今度は先ほどの風渦よりもっと大きくて速い渦が魔女と自分達の前に出現した。空を切る音と共に一人の男の姿が形取られる。
見守るうちに風は治まり、ぼんやりとしていた輪郭が浮かび上がった。
「まさか」
ユールノイアが珍しく取り乱した。自分も見えている者がいまいち信じられなくて首を傾げた。あの魔女ならばこんな幻想を作ることは造作もないだろう。しかし何の目的で自分たちに見せるのか。
「ちょっとカズハさん?勝手に召還するのやめて貰えないですかね?今夕飯の仕込みをしていたんですよ」
その男はフライパンを片手に暢気に呆れた様子で魔女を咎めた。
あれから何年経った?随分と長いこと自分たちは喪失と無力感に支配されて来た筈だ。。
「フルース兄上!」
堪らず声を上げたのは自分ではなかった。その声にフルースが振り返る。
「あれ?ここはセイグリッド城か。正妃様の一件が片付いたら早速ですか?」
「あら?見てたの?」
「ええ。っていうかその為にあの子を寄越したんじゃないんですか?」
違うわよと応じるよう魔女殿はようやくこちらの視線に応えてくれた。
「もうあの人がフルースを危険な目に合わせることはないと思うから返すわ」
一瞬合いかけた視線はすぐにユールノイアに向けられてしまった。何の感情もこもない表情に見えるのに行動はあからさまだ。
「返すってそんな物みたいに…」
「どういうことなんです?」
「ネフィーレ様みたいなことをみすみすさせるものですか。戦地で孤立した彼を隠したのよ。墓に入るまで幻視を維持させるのは大変だったんだから」
周囲の不満や動揺をものともせずに魔女殿は話を進める。
「え?本物?」
自分の漏らした言葉に三者が一応に動きを止めた。
呆れたようなユールノイア。跋の悪そうに頬を掻くフルース。なんの反応も見せない魔女殿。三様の反応は見せるが誰も答えをくれない。
「え?」
あまりの事に理解が追いつかない。
「付き合ってられないわ。積もる話しはどうぞご自由に」
そう言い捨てて魔女は風の向こうに消えた。
「って置いてけぼり?」
フルースの言葉を待たずにあたりは静かになってしまった。
すっかり暮れてしまった空に誰も気が付かないまま時間だけが過ぎていく。
そんな隠棲の魔女が少しだけ得意げだった種明かしの話。