村娘、拉致される
アズリアは思った。
もう自分は倒れてもいいのではないか、と。
何か言い出すことだろうと思っていた。
ひしひしと感じられる嫌な予感がそれを物語っていた。
しかし、彼の言葉はアズリアの予想を遥かに超えていた。
これが何かの間違いであればいいのに。
「……あの、陛下」
「何?」
「いえ、実はその、私の耳の調子が少しおかしかったのかな、と思いまして……もう一度お願いします」
いやこれはきっと何かの間違いだ。
まさか一国の王がそんな気軽にピクニックに出かけるかのようにあんなことを言い出すわけがない。
今度は聞き間違えないように、ちゃんと聞かなければ。アズリアは集中して耳を澄ませた。
「俺も君たちの旅について行きたいな」
この人は、本当にこの国の王様なんだろうか。
実は単なるそっくりさんで、遊び人とかそんなオチじゃないのだろうか。
――もしやドッキリでは?!
思わず部屋を見回すアズリアだったが、当然ながらカメラなどという春太の世界の文明の機器がこの世界にあるはずがない。
この男は自分を卒倒させようと企んでいるのではないだろうか。
そう思えてしまうぐらい、アズリアがフレデリックから受けた衝撃は凄いものだった。
「陛下!」
控えていた老人が咎めるような声でフレデリックを呼んだ。
無理もない。何せ国で一番偉い人物が、おいそれと城を出て勇者の旅について行けるわけがないのだ。
もちろん国王陛下にもやらなければならない仕事が山ほどある。
それを放って旅になんて行かせてしまったらどうなることか。
第一、王都にいるはずの国王陛下が勇者との旅でいなくなったと民衆に知り渡れば、王都内の混乱はおろか国中で混乱が引き起こされてしまうかもしれない。
老人はなんとしてでも止めたい一心だった。
しかし、フレデリックはそんな彼の思いが込められた声も、どこ吹く風といったように笑顔で一蹴した。
「春太、君の意見を聞きたい」
絶対に断れッ!!
このとき、老人とアズリアの思考はぴたりと重なった。
二人の鋭い視線を受けた春太は戸惑いながらフレデリックを見る。
「あ、えっと……」
ただならぬ重圧感が漂う中、春太は徐に口を開いた。
「いいんじゃ、な――」
アズリアはテーブルを強く叩いた。
「ひぃっ?!」
「春太、駄目って言おうとしたんだよね」
「え、あ、いや――」
強く叩いた。
「ひぃいいっ?!」
情けない声を上げながらも、彼はちらりとアズリアを見た。
瞬時、春太は彼女へ視線を向けたことを後悔した。
アズリアは微笑んでいた。
その微笑みは、まるで吹雪のように鋭く春太へと向けられている。
「……春太、何を考えているの?」
冷たい声が彼の耳を刺した。
「いやその……陛下がついて行きたいって言うんなら、いいんじゃないかな、と……思い……まして……」
「ついて行きたいと言えば誰でもつれて行くの?」
「いや、あの、アズリアもつれて行くのに、陛下は駄目って、なんか差別してるみたいで嫌かな、とか……」
「そこで私を引合いに出さないでッ!」
「……ごめん」
春太は顔を俯かせた。
そんな彼を見て、アズリアは何故か弱い者虐めをしているような錯覚を覚えた。
言いようのない罪悪感が彼女の心をちくりと刺す。
アズリアは決して春太を貶めようとしているわけではない。
彼があまりにも物事を考えずに、ただ人の気持ちだけで進めようとしていることがどれほど無責任なことか。
その彼の甘さが回りまわって彼へと降り注ぎ、痛い目を見るのではないか。
彼のためとは言わない。
彼女は、彼のそんな姿を見たくないだけなのだ。
「春太、私と陛下じゃ訳が違うんだよ」
アズリアは昂った感情を抑え、静かに語りかける。
「差別してるとかしてないとか、そんなこと関係ない。どこにでもいる村娘をつれて行くのと、国で一人しかいない国王陛下をつれて行くのとじゃ、負わされる責任の重さも変わるんだよ?」
アズリアは村娘で、フレデリックは陛下だから。
確かに春太の言う通り、これは差別しているように思えるかもしれない。
しかしアズリアは差別しているとは思わなかった。
これは区別なのだ。
村娘と国王陛下という、区別にしか過ぎないのだ。
「もしもだけど、強い魔物が数え切れないぐらい現われて、どうしても戦わなければならないとき、春太が守り切れずに私たちを死なせてしまったら、どうするの?」
そんなことはさせない。
彼はそう言うつもりだったのだろう。
アズリアはそれを見越して鋭い視線をもって春太の発言を制した。
今は彼の決意を聞いている場合ではない。
もし春太がフレデリックとアズリアを死なせてしまったら。
それを前提として話しているのだから。
「私は、ただの村娘だから……実害は伴わない」
悲しんでくれる人はいるかもしれない。
しかしアズリアが死んでも、アシャール村が壊滅するわけではない。国が滅ぶわけでもない。
アズリアという村娘の死が与える被害なんてものは、国単位で見てしまえばほんの些細な程度なのだ。
「でも陛下は? 国で一人しかいない陛下が死んでしまったら?」
国をまとめる存在であるはずの国王の死。
それは王都どころか国に混乱を与えるものだろう。
もしかしたらそれが綻びとなり、トラヴァーズ王国という国そのものが滅んでしまうかもしれない。
「そのとき、国にどれほどの被害が及ぶか、春太にわかる?」
国にとってかけがえのない存在。
その存在を、危険も伴う旅につれて行くということ。
春太は勇者だ。
勇者だとしても、国王陛下を死なせてしまった春太を、民衆はどう思うだろうか。
むしろ勇者だからこそ、厳しく咎められてしまうのかもしれない。
「私は春太にそんな重い責任を負って欲しくない」
傷ついて欲しくない。
心優しい春太が傷ついてしまうのを、アズリアは嫌だと強く思った。
できることならずっとその笑顔を浮かべていて欲しいとすら思えるのだ。
悪いことをしようと思う気すら失わせてしまうような、優しすぎるその笑顔を。
そう強く願ってしまうのは、彼女のエゴなのかもしれない。
「アズリア……」
エゴだっていい。
それでも春太には傷ついて欲しくないのだ。
「――悪いけど」
二人の様子を見守っていたフレデリックだったが、彼も諦めるつもりはないらしい。
「自分の身は自分で守るよ、俺」
だから春太一人に負担をかけさせるようなことはしない。
まるでそう言わんばかりに、フレデリックの目は強く輝いた。
「俺、こう見えても回復魔法とか、凄く得意なんだ」
アズリアは目を見開いた。
回復魔法を得意とする国王陛下なんて聞いたことがない。
普通護身程度に剣術を嗜んでいるものではないのか。
それなのに、よりにもよって何故回復魔法なのか。何でまたそんな半端なところを……。
自分の顔が引きつったのを感じ、アズリアはなんとも言えないような視線を陛下へと注いだ。
「へえ……陛下でも……回復魔法とか使えるんだ……なんか凄いな」
「まあ剣も多少は使えるけど、どちらかと言えば回復とか守りを堅くしたりとか、そういう補助魔法の方が得意だよ」
春太は目を輝かせた。
何故なら彼の世界にあるゲームという、今の春太と同じ状況を再現できるそれでは、こういった回復魔法を使える仲間というのは物語の序盤において最も重宝される存在だからだ。
序盤では手持ちの金も少なく、回復アイテムをそれほど所持することもできない。
当然レベルの低い序盤では無傷で敵を倒すのも難しい。
しかし経験値とは敵を倒してこそ手に入るもので、倒さなければレベルを上げることさえできない。
もちろん倒さなければお金も手に入らない。
そんな中で、回復魔法を使える仲間がいればどれほど心強いだろう。
「ついて来てくれた方が絶対心強いじゃん!」
「じゃあ、ついて行ってもいい?」
「むしろお願いしまっす!」
「だからちょっと待ってって言ってるのにッ!!」
この展開はまずい。
このままではフレデリックが旅について行くという形で押し切られてしまう。
アズリアはどうしたものかと眉間に皺を寄せた。
「――アズリア」
フレデリックが目を細めた。
「君がいくら口を挟もうとしても、決定権は彼にあることを忘れないように……ね?」
彼は確信していた。
この流れのまま旅について行くことを押し切れることを。
口の端をつり上げながら、フレデリックは鋭い目を向けるアズリアを見返した。
アズリアには決定権がない。
それは彼女自身が一番よくわかっていた。
「……春太は、どうするの」
感情を押し殺したような彼女の声に、春太は戸惑いながら答えた。
「えっと、その、やっぱり回復が使えるっていうのは、心強いと思うから……ついて行きたいって言ってくれるのなら……有難いかな、と」
「じゃあついて行ってもいいってことでいいんだよね」
「それは……」
ちらりと、アズリアを覗き見た。
「……陛下が言っていた通り、決定権は春太にある。だから、春太が決めて」
こんなときでさえ自分を気遣ってくれる春太の優しさが、アズリアは嬉しいと思った。
嬉しいと思う反面、自分が、何の影響力も及ぼさないただの村娘だという事実を強く思い知らされたような気がした。
所詮自分が、勇者のオマケでしかないということ。
無意識のうちに握りしめた拳に力が入る。
おそらく春太はフレデリックが旅に同行することを許してしまうのだろう。
アズリアには何の力もない。彼女はただの村娘でしかない。
回復魔法を使えるというフレデリックの方が、足手まといの自分より遥かに役立つことも、彼女には痛いほどわかっていた。
「じゃあその……お願い、します」
もし自分が回復魔法を使えたのなら。
フレデリックが同行することを強く反対できていただろう。
アズリアはこのときほど、自分の無力さを悔いたことはなかった。
「じゃあ、決まりだね」
これからよろしく。
微笑を浮かべたままフレデリックは春太に手を差し出した。
「あ、えっと、よろしく……お願いします」
やけに友好的な彼に対し、春太は戸惑いながらその手を握った。
「これから旅をともにする仲間なんだし、敬語なんて使わなくてもいいよ」
「え、あ、そうですか? じゃなくって……わ、わかった……で、いいのかな……」
この男は一体何を考えているのだろう。
それがわからないからこそ、アズリアは強く反対していた。
わざわざ国王陛下が城を空けてまで旅について行くほどの理由があるのだろうか。
この男を見る限り、そんなことをしてまで民衆のことを思っているとは思えなかった。
とにかく、どう考えても怪しいのだ。
この男が何を考えて、何を思ってこの旅について行こうと思ったのか。
それがわからないためアズリアは彼を完全に信用することはできなかった。
「アズリア、これからよろしく」
いつのまにか目の前に差し出された手を見て、アズリアは顔をしかめた。
信用はしていない。
しかしこの旅でこの男が役立つということは目に見えて分かる。
「……こちらこそ」
渋々といった感じに彼女はその手を握った。
「ところで、アズリアは本当にただの村娘なんだよね?」
がしり。
「……え」
フレデリックが握手をしている彼女の手を両手で掴んだ。
まるで逃がさないとでも言うかのように、彼はしっかりと手を握った。
「本当に何の力もないの?」
爛々と輝いた紫の瞳がアズリアを捉えた。
「何を期待しているのか知りませんが、事実、私はただの村娘なので剣を握ったことがなければ魔法も使えない、回復魔法も使えないし癒しの力があるわけでもありません。本当に、ただの村娘で」
「ただの村娘なら、国の王である俺とここまで堂々と話せるものかな?」
顔が近い。
思わず顔だけでなく全身を仰け反らせたアズリア。
フレデリックはいつのまにか席を立っており、これでもかというほどに彼女へ顔を近付けていた。
何なんだこの状況は。
どうしてこんなに近づいて話す必要があるのだろうか。
ますますこの男の考えていることがわからない。
「あの、陛下、その、近すぎな気がするんですけど」
「そうかな? 別に俺は普通だけど」
「常識的に考えてください。話をするだけなら間に人一人分の隙間があっても余裕で会話できます」
にこにことした笑みを浮かべながらじりじりと顔を近づけてくる。
アズリアは椅子から落ちてしまうのではないかというぐらい、さらに体を仰け反らせた。
「それにしても陛下って……せっかく仲間になるんだし、名前で呼んで欲しいなぁ」
「何を言ってるんですか、陛下は陛下です」
「でも陛下って街中で呼び続けていれば、気付く人は気付くはずだ」
「だとしても、今ここで呼ばなくてもいいですよね?」
だからその無駄に整った美貌で顔を近づけてくるなッ!!
彼女は心の中で悲鳴を上げた。
しかし、そんな彼女の悲鳴を知る由もない彼はさらに顔を近づけてくる。
倒れる。
そう思ったアズリアが、目を瞑った。
だが、来ると思っていた衝撃はいつまで経っても来ない。
「――なっ?! ちょ、な、何をしてるんですかっ?!」
アズリアは倒れなかった。
何故ならフレデリックが彼女の腰に手を回して支えたからだ。
そのため、アズリアは彼に密着する形となってしまった。
「俺、君のことがもっと知りたい」
「は?!」
「教えて欲しいな――君のこと」
「えっ……えぇ?!」
アズリアの頬が朱色に染まった瞬間。
「はいはいはぁあああああいッ!!」
べり。と引き剥がした。
「リア充爆発しろッ! ってかアズリアに何迫ってんの陛下?!」
春太が、まるで二人の仲を引き裂くように間に割って入った。
その表情はいつもの彼にしては珍しく、眉はつり上がり瞳がギラギラと鋭い。
怒っているようにも見える彼の様子にアズリアは驚いていた。
「あれ、迫ってるように見えたかな。俺はただ純粋に彼女に興味があっただけなんだけど」
「いやいやいやいや! あれで迫ってないって言うなら世の中のリア充が爆発どころじゃないって!」
「どうなるの?」
「えっ……と、さらに爆発する?」
「へえ、そうなんだ」
何はともあれ助かった。
アズリアはドキドキと脈打つ心臓を押さえるようにそっと胸に手を当てた。
前世の記憶と照らし合わせて、今までで美形の顔をあんなに間近で見たことがあっただろうか、いやなかった。
「うーむ、何やらおかしなことになってきたな……」
「いやこれおかしいどころじゃないですって! 何とかしてください!」
「無茶言うな村娘。これが儂にどうにかできようものならとっくに何とかしているに決まってるだろうが」
陛下と対等に物を言える老人でもお手上げらしい。
「じゃなくて! 美形をこれでもかというぐらい有効活用やめようぜ?! 不公平だッ!!」
「自分の持っている武器を有効活用して何が悪いの?」
「イケメン爆発しろぉおおおおッ!!」
「さっきから何言ってるのかわからないんだけど、聞いた方がいい?」
未だに続く二人のやりとりを眺めて、アズリアと老人はほぼ同時に溜息をついた。
このやりとりはいつまで待ったら終わるのだろう。
アズリアはぼんやりと考えた。
「……とにかく、出発の準備も色々あるだろうから、その間はこの城でゆっくりするといい」
咳ばらいをして半ば無理やり春太との会話を終わらせたフレデリック。
やっと休める、という事実にアズリアはほっとして肩の力を抜いた。
今日は色々あって精神的にかなり疲れてしまったため、早く寝てしまおうと彼女は思った。
しかし、そんな彼女の願いも、フレデリックが彼女の手を握ったことにより、叶うことはなかった。
「ということで、アズリア」
「……な、何ですか、陛下」
「この街に来たのは初めてだろうし、俺が案内をしてあげるよ」
「いやいやいや! そんなお気遣いな」
「案内、してあげる」
「……はい」
美形の笑顔がこんなにも恐ろしいことを、アズリアは初めて知った。
「ということで――お先に失礼するよ」
あぁ、どうしてこんなことに。
フレデリックが春太ににこりと微笑みかけ、半ば無理やりアズリアを引きずっていく。
二人は春太を残し、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「………。あれ……?」
その様子をぽかんとした表情で見ていた彼だったが、少しの間を置いてとあることに気付いた。
「――俺はッ?!」
気付いてから叫んでも、その声が彼女たちに届くことはない。
春太は一人置いてけぼりを食らってしまったようだ。
「……うぅ、仲間外れ……」
がっくし。彼は肩を落として落ち込むのだった。
何度思い返してみてもわからない。
どうしてこんなことに。
「どこに行きたい? こんなところに行きたいとか言ってくれれば案内するよ?」
輝かしい笑顔を浮かべながらアズリアへと問いかけてくるフレデリックに、彼女は盛大に溜息をついた。
「いつもは一人で適当に歩くんだけど……今回はアズリアがいるし、どこに行っても楽しそうだ」
「あの、私を珍獣か何かと勘違いしてませんか……」
「まさか。なんだったら、レディとしてちゃんとエスコートしてあげようか?」
「気持ち悪いのでいいです」
「だろうね。俺も君をレディとして扱えそうにないからほっとしたよ」
アズリアはびしりと固まった。
まさかフレデリックがここまでの毒舌家だとは思わなかったのだ。
しかし当の本人はその顔に完璧なまでの笑みを張り付けたまま彼女の隣を歩いている。
「あの、帰っていいですか」
「ダメ」
裏がある性格だろうとは思ったが、まさかここまでとは。
ひくりと口の端が引きつった。
半ば無理やりだったとはいえアズリアはついて来てしまったことを後悔した。
「あ、そうだ」
再び手を掴まれ、思わずよろめいたアズリアだったが、彼にとってはそんなこともお構いなしだ。
「広場の屋台のクレープ! あれ、一度食べてみたかったんだ」
「何で一人のときに食べないんですか……」
「一人で食べても寂しいだけじゃないか」
拗ねたようにむくれるフレデリックはまるで幼い子どものようだ。
先ほどまであんなに残酷な笑みを浮かべていた男と、この男が本当に同一人物なのだろうか。
自分の目の前で起きている現実にアズリアは本格的に現実逃避をしたくなった。
というかこの世界、クレープも存在していたのか。
この事実を知れば春太は喜ぶのかもしれない。
ふいに春太のきらきらと光り輝かんばかりの顔を思い浮かべて、つい噴き出しそうになったアズリア。
「案内するから、早く行こう」
フレデリックはどうやら機嫌が良いらしい。
念願のクレープを食べられるのが待ちきれないのか、その一歩は大きく、アズリアはつい転びそうになった。
「うわっ、ちょ……へい」
陛下。
そう呼んでしまいそうになるところを、寸でのところで抑えた。
こんなところで、しかもよりにもよって王都で、彼を陛下と呼ぶのは非常にまずい。
「えっとフレ……」
ならば『フレデリックさん』はどうだ。
と呼び名を変えようとした彼女だったが、またもや寸でのところで抑える。
フレデリックという名前は、名付けに使われていてもおかしくない名前なんだろうか。
もしこの名前が特殊なもので王族にしかつけられないものだったとすれば、あるいは彼しかその名を持つ者がいないということがあれば。
彼の苗字なんて国名などが使われているのだから尚更呼べるわけがない。
かといってここで迂闊に名前を呼んで、彼の正体がばれてしまったら。
陛下とは呼べない。
名前を呼ぼうとしても危険がある。
「……ッド、さん、とか……?」
とっさに思いついた彼の名前を恐る恐る呟いた。
「………」
フレデリックは目を見開いた。
浮かべていたはずの笑みは消え、その顔は驚きの色で染まっている。
こんなにも驚いた表情をされるとは思いもしなかったアズリアも同じように驚いた。
「いや、あの、その、これはなんと言いますか、迂闊に名前とか呼ばない方がいいのかなと思いまして、その……うっかりと……」
顔を俯かせながら、ちらりと彼の顔を盗み見た。
「………」
「……すみません」
いくらなんでもフレデリックからフレッドなんて。
アズリア自身も無理があるだろうと、自分のネーミングセンスに呆れてしまった。
せめてリックとかでもよかっただろうに。
アズリアは心の中で勢いで言ってしまった自分を後悔した。
「アズリア」
「はい」
「さっきの、もう一回」
いつになく真剣な表情になったフレデリック。
「……ええと、『すみません』?」
つい逃げに走ってしまった彼女に対し、彼は溜息をついた。
「じゃなくて……俺のこと、何て呼んだ?」
「き、気のせいじゃないですかね」
「言わないと口では言えないようなことをする」
何をする気だ。
思わず突っ込んでしまいそうなるものの、フレデリックの目がかなり本気だったため、とっさに口を噤んだ。
この男ならやりかねない。何をする気なのかわからないがきっと本当にやってしまうのだろう。
「……フレッドさん」
センスがない、と鼻で笑われるのだろうか。
「うん、何?」
アズリアはよろけた。
「いや何って、へい……あなたが」
「さっきのでいいよ」
「……フレッドさん……が、言えって言ったじゃないですか」
この男の晴れ晴れとした笑みは一体何だ。
そして自分は一体何を仕出かしたというのだろうか。
アズリアの頬がひくりと引きつった。
「だって初めて言われたような気がするから、名前」
「それは……ただの村娘だから、名前なんて気安く呼べませんし……」
「そういうことを言ってるんじゃなくて、親族以外の人から呼ばれたのが初めてだってこと」
王族の人を気安く名前で呼べる王族じゃない人というのは、かなりの地位を持った人だということになる。
そんじょそこらの貴族や金持ちが国王である彼を気安く名前で呼べるわけがない。
もちろん仕えている側であるサリウスや侍女たちも同様だ。
それを初めてだと言われても、どんな反応を返せばいいんだ。
アズリアは反応に困り、視線を泳がせた。
「名前と言っても……あだ名のようなもの、ですし……」
「あだ名をつけられたのも初めてだ。凄く新鮮だね」
さらに言えば彼女は言おうと思って言ったわけではない。
状況が状況だったため、とっさに思いついてしまったそれを口にしてしまっただけだ。
それなのに、フレデリックは上機嫌な笑みを浮かべているため、彼女はますます混乱した。
これのどこに上機嫌になる要素があると言うのだろうか。
「そういえば、なんだっけ、クレープ食べに行くんだったっけ?」
「一度食べてみたいと思ったものなのに、そんなすぐ忘れることなんですか……」
「それぐらいアズリアからあだ名で呼ばれたのが嬉しかったのかもしれないよ」
「嬉しいんじゃなくて、新鮮なだけなんじゃないですか」
「いや、中々に嬉しかったよ」
フレデリックは口の端をつり上げ、笑った。
「………」
彼の笑顔に見惚れながら、アズリアはぼんやりと思った。
この男の中身が、この外見のように天使のような性格であれば、きっと世の女性、特に貴族や金持ちの令嬢が黙ってはいなかったことだろう、と。
「それじゃあ行こうか、アズリア」
「……せめて歩くときにもう少し配慮して欲しいです、フレッドさん」
にっこりと微笑んでいる彼は、果たしてアズリアの願いを聞き入れてくれるのだろうか。
「今日はたくさん楽しめたらいいな」
ゆったりとした歩調で歩き出したフレデリック。
どうやら配慮して歩いてくれるようだ。
そのことにほっとしたアズリアもまた穏やかな笑みを浮かべた。
「――わっ」
瞬間、アズリアは誰かにぶつかった。
「す、すみませ……」
とっさに謝ろうと相手を見上げたアズリアは、その相手の容姿が目に入り、驚いた。
褐色の肌に白い髪。
そして、まるで血のように濡れた紅い瞳持つ男がそこにいた。
「………」
男はアズリアが謝ろうとしたことにより、やっと自分が誰かにぶつかったことに気付いたらしい。
無表情だったその顔にほんの少しの驚きが滲んだ。
しかしそれも一瞬のことで、男はすぐに無表情になる。
「……気にしなくていい」
徐に口を開いた男は、ぽつりと呟いた。
「え、あ……ありがとうござい、ます?」
中途半端に謝りかけて、逆に気にするなと言われてどう反応をすればよいのやら。
困り果てたアズリアはとっさにお礼を述べていた。
「………」
男はまたもや驚いて、すぐに表情を戻す。
「……今度から気をつければいい」
決してぼそぼそと言っているわけではない。
むしろ落ち着いたその声は、低くよく通っているため聞き取りやすかったことだろう。
二言だけ話した彼はそのまま人混みの中へ混ざろうと歩き出していた。
「……これは?」
アズリアもまた先を歩くフレデリックを追いかけようとしたところで、足元に落ちているそれに気づいた。
あまり上質ではない生地で作られた袋だ。
それを手に取ろうとして、じゃらり、と袋の中で鳴る金属の音が彼女の耳に届く。
持ち上げて気付いたその袋の重さに、もしやと思ったアズリアはとっさに振り返った。
これは間違いなく先ほどの男が落としたものだろう。
人混みの中で紛れそうになっている男の姿を視界に捉え、彼女は走り出した。
中身を直接見て確認したわけではない。しかし彼女はその中身が何なのか即座に理解した。
「わっ、すみませっ、あ、ちょ、ちょっと待って……!」
男を見失わないように視線を逸らさずに走っていた彼女は道行く人と度々ぶつかった。
その度に彼女は足止めを食らいながらも謝罪を述べていく。
条件反射でやってしまうとはいえ、このままでは男を見失ってしまうとアズリアは焦った。
「だから、えっと――そこの、そこの白い人!!」
とっさに人混みの中でもわかる男の特徴を叫ぶ。
「………」
男はぴたりと足を止め、アズリアの方へ向き直った。
いくら彼女が叫んだとはいえ、人混みの中で誰が叫んだのかわかるものなのだろうか。
それなのに、その男は叫んだ声の主がアズリアだとすぐさま理解し、立ち止まって振り返ったのだ。
その事実に驚きながらも、男が立ち止まってくれたおかげで、彼女はなんとか追いついた。
「あの、呼び止めてしまってすみません」
「気にしていない」
「そ、そうですか……じゃなくって、これ」
アズリアは手に持ったその袋を男へと差し出した。
「さっきぶつかったとき、落としませんでしたか」
「……そういえばない」
彼女の持ってきたその袋を見て、男はやっと自分が落し物をしたことに気付いた。
「その、さっきはすみませんでした」
落し物を渡せたことに満足感を得たアズリアはほっと胸を撫で下ろし、先ほど中途半端にしか言えなかった謝罪を述べた。
自分がぶつかったばかりに、相手はこの袋を失くしてしまうところだったのだ。
その罪悪感もあって、アズリアは謝罪を述べてぺこりと頭を下げた。
「あれに関しては俺にも非があった。だから、そこまで謝るほどのものじゃない」
淡々とした口調だったが、その声にはほんの僅かに彼女を気遣うものがあった。
「……えっと、じゃあ、連れを待たせていると思うので失礼します」
もう一度ぺこりと頭を下げて、アズリアは男に背を向けて走り出した。
早く彼のところへ戻らなければ逸れてしまう。
落し物を渡し終えた彼女の頭の中はそれでいっぱいになっていた。
アズリアは遠くにいるフレデリックの姿を見つける。
追いかけなければ。
彼女は走った。
その背後で、自分を呼び止める声があったことに気付かないままに。
毎度ながらありがとうございます!
そして更新に間が空いてしまいまして……申し訳ないです。
更新につきましては、前にちらっと活動報告させていただきましたので、もし気になるという方がいらっしゃいましたらそちらに目を通していただければ……と。
はい、えっと、とうとう分割してしまいました。
実はこの話には続きがあるのですが、あまりにも長すぎるため、さすがに1話として乗せるのは無理があるだろうと思い分割にいたりました。
ということで今回はいつもと比べると少し短いのかもしれません。
とりあえず、陛下がやはり掴めない。この人一体どんなキャラなんだと作者である私としても突っ込みせざる負えません。
何はともあれ取り残された春太……涙目ですね。