物語は動き出す
彼は今、なんと言っただろうか。
アズリアは頭の中でもう一度春太の言葉を思い返した。
――「アズリアを、一緒につれて行きたい」?
どうして。
何故に。
何を思ってそんなことを言ってるんだこの男は。
アズリアはあまりの衝撃に眩暈がした。
彼女は何の力もない、戦う術すら持たない、ただの村娘だ。
確かに前世の記憶を持って生まれてきたことに関しては、平凡とは少しかけ離れているのかもしれない。
しかし、彼女はあくまで、アシャール村にいるただの村娘Aなのだ。
それがどうして、今から世界の危機を救いに行かんとしている勇者について行かなければならないのか。
その必要性が全くもって見えてこない。
それどころか、つれて行ってどうするというのだろう。
彼女の得意なことといえば、家事やちょっとした怪我の手当てなどで、癒しの力も魔法さえも使えない。握ったことがある武器になりそうなものといえば、フライパンやオタマや包丁ぐらいのものである。――どう考えても、彼女が勇者の旅先で役に立つとは思えなかった。
例え勇者の我儘といえど、そんなことが許されるわけがないのだ。
「ほお、やるじゃねぇか……。いいだろう、その心意気、俺は気に入った」
許されるわけが。
「アズリアを? これはまた面白いことを言ってくれるでな。……まあ、村人が一人いなくなったところで、困ることもないじゃろうし。ワシは構わんよ」
許される、わけが。
「よっしゃあああ!!」
「何そんなに喜んでるのよこの馬鹿ァアアアッ!!」
ない――はずだった。
アズリアの常識の中では、そのはずだったのだ。
しかし、そんな彼女の常識も彼らには通じなかったらしい。
どうしてこんな無茶苦茶な我儘が通るんだ!
アズリアはもはや形振り構わず春太の胸倉を引っ掴み、力の限り揺さぶった。
かくんかくんと前後に揺れる彼の頭。
最初は元気いっぱいのいい笑顔を浮かべていたはずの彼だったが、何度も揺さぶられているうちに、その顔色は見る見るうちに青く染まっていった。
「ちょ、まっ、ギブ……死ぬ、俺マジで死ぬっていうか、ちょ、アズリアさ……ストップ……!」
さすがに死なれては困る、とアズリアはぱっと手を離した。
やっとのことで解放された春太は青い顔をしたままゆらりとよろめく。
そんな彼をおいてアズリアはきっ、と鋭い眼光でサリウスを射抜いた。
「というか、どうしてそんなあっさりと許可するんですか? どう考えてもおかしいですよね。私みたいな足手まといが彼について行っても邪魔になるしかないってわかるじゃないですか。第一、私はただの村娘ですよ? 特別な力も何にも持ってない、ただの、しがない村娘Aなんですよ? そんな村娘が勇者の旅に同行するなんて常識的に考えておかしいです! 非常識です! 根本的に間違ってます!!」
勢いよく捲し立てる彼女とその視線の鋭さに騎士団の団長を務めているサリウスでさえもたじろいだ。
呆気に取られてぽかんとした表情を浮かべる村人たちと、面白そうなものを見るかのように目を細める村長。
春太はいつもより饒舌になっている彼女に対し、「自分は何か仕出かしたのだろうか」と不安な様子でおろおろとしていた。
「……と、言われてもなぁ。俺は陛下の命に従って勇者をつれて行かなくちゃいけないわけで、そのためなら最終的にはどんな手を使ってもいいとも言われたんでな」
どうしたもんかな、とサリウスは困ったように頭をかいた。
「ここで駄目だと言って勇者の機嫌を損ねるのは御免被りたいわけなんだが……」
「……わかりました。要は、春太が考え直してくれれば、何も問題はないんですよね?」
「まあ、そういうことだな」
「春太がさっきの言葉を撤回してくれれば、私は、ついて行かなくてもいいんですよね?」
「あ、あぁ……」
鋭い視線をそのままに、念を押してくるアズリアに押されながらもサリウスは頷いた。
その言葉を聞いて、彼女は、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、何が何でも説得するので、少し、時間を頂いてもいいですか?」
「いや、こちらとしても時間が」
「いいですか?」
「……なるべく早く頼む」
綺麗な笑みを浮かべたままのアズリアに、逆らってはいけないと本能に囁かれたサリウスは渋い顔をしながらも了承した。
騎士団の団長である彼の了承を受け、アズリアの笑みはさらに深くなる。
くるりと春太の方へと向き直った。
びくり。彼女の視線をその身に受けた春太が体を震わせる。
「春太。ちょっと、話そうか?」
口元は笑みを作っているが、その目は決して笑ってなどいない。
「……ハイ」
春太には拒否をするという選択肢などなかった。
アズリアが春太の腕を掴み、そのままずるずると引きずっていくところを見送りながら、サリウスは顎に手をかけた。
それにしても、ただの村娘にしては随分と威勢がいいものだ。
今まで幾度となく犯罪者や荒くれ者を相手にしてきたサリウスだったが、あそこまで鋭い眼光を放つ――ましてや村娘に会ったことがあっただろうか。
少しばかり己の記憶を振り返った彼は「いや、なかったな」と心の中で否定した。
あの娘、容姿に関しては自分でも目を見張るぐらいに美しいが、中身はとんでもないじゃじゃ馬だ。
サリウスはアズリアが引きずって行った勇者である春太を頭に思い浮かべた。
きっとこの先、あの少年は苦労するに違いない。
「にしても、若いっていいなぁ……」
先ほどの二人のやりとりを思い出し、サリウスはにやりと口の端をつり上げた。
できるだけ、自分たちの話す声が聞こえない場所まで行こう。
そう思っていたアズリアだったが、気づけば自分の家の前まで来てしまっていた。
幾らなんでも離れすぎだろうか。
しかし、ここならば多少声を張り上げたとしても村人たちやあの騎士団の人たちにも聞こえないだろう。
春太を掴んでいた手を離し、アズリアはくるりと向き直った。
「春太」
「う、あ、はい」
「どういうことなのか、聞いてもいい?」
どうして、あんなことを言ったのか。
「……それは、その」
春太は言葉を濁した。
彼は昨晩、今までたくさん世話になった彼女への恩返しとして今日のことを思いついただけなのだ。
彼女に、村の外へ出たことがないというアズリアに、外の景色を見せてやりたいと、そう思っただけなのだ。
それが自分にできる唯一の恩返しだと思っていたばかりに、春太は今のこの状況に戸惑いを隠せずにはいられなかった。
もし、今ここで本当の理由を話してしまえば彼女はきっと「恩返しはいらない」と言ってしまうのだろう。
春太にとって、それがどうしても嫌だった。
アズリアを外へ連れ出すことが、彼女への恩返しにならないのならば、旅に同行してもらっている間にまた別の恩返しの方法を探せるだろう。
しかし、このまま村を出れば、いつここに戻って来れるかもわからない。
もしかしたら二度と戻って来れないのかもしれない。
そうなれば、彼女に、恩返しをすることもできないのだ。
「私はただの村娘であって、何の力もない。戦う術すら持っていない。私が春太について行けば、私は、足手まといにしかならない」
「そんなことない! アズリアは足手まといになんて……」
「見え透いた嘘なんてつかないで。そんなキレイゴト、言われたって嬉しくない……!」
震えた声で、アズリアは叫ぶように言葉を紡ぐ。
「もしあのときみたいに魔物に襲われたら! ……今度こそ、死ぬかもしれない」
あのときは春太が助けてくれたから自分は助かっただけに過ぎない。
これから旅をともにすると考えて、ああいった魔物に出くわさない可能性はゼロではないのだ。それどころか、あれ以上に恐ろしく強い魔物に出くわしてしまう可能性もある。
そんなとき、必ずしも春太が彼女を助けられる状況でいられるかどうかすらわからない。
自分がどれほど弱い存在なのか、それは、アズリアが一番よくわかっていた。
「面倒事が嫌いだって、最初に言ったよね?」
「………」
「はっきり言わないとわからない? 私は、一緒に……行きたくなんか……行きたく、なんかっ……」
――ない。
と、消え入りそうな声で彼女は呟いた。
「……ごめん」
春太は顔を俯かせた。
「でも、俺、アズリアをここに残して行きたくない」
再び顔を上げれば、その瞳には決して揺るがぬ、意志の強さが宿っていた。
「アズリアと離れたくない」
どうしてそこまで頑なに思うのか。
春太は考えた。
そして、気づいた。
二度と彼女に会えなくなるのが嫌だと思っている、自分に。
所詮恩返しなんていうのはただの言い訳にしか過ぎない。
自分は、アズリアと一緒にいたいのだ、と。
「……春太……?」
我儘でもいい。
どんなに怒られても、これだけは譲れない。
「――この世界に来たとき、いきなり知らない場所にいて、正直言って俺、どうしようって思ってた」
今でも思い出せる。
春太はあのときの情景を思い浮かべながら、薄く笑った。
あのときの自分は、どんなに情けなかったことだろう。
「必死に色々考えたけど、何にも持ってなかったし、何もわからなくって、どうしようもなかったというか、どうすればいいのかすらもわからなかった。だから目の前にアズリアがいたとき、俺、もうこの人しかいないって思って、この人に助けを求めるしかないって、そう思ったんだ」
あんなに必死になって誰かに助けを求めたことなんて生まれて初めてのことだった。
この世界に来るまでの自分は、何もしなくても、当たり前の生活が用意されているのが当然だと思っていたからだ。
あんなにも見っとも無く、ただひたすらに生きようと強く思ったのは、生まれて初めてのことだったのだ。
何も持たないまま一人で生きていけるほど、春太は強くなかったのだ。
それなのに、自分は生きたいと強く思ってしまった。
情けなくなってもいい、どんなことをしてでも、生きたいと願った。
その願いを聞き入れてくれたのは、外でもない――アズリアなのだ。
「アズリアが、俺が必ず恩返しをするっていう証拠をくれって言ったときさ、俺、本当に何にも持ってなくって、どうしようって悩んだ。そんなとき、ケータイを見つけて、これで助かるって思ったけど……本当は、凄く渡したくなかった」
しかし春太がどれほど渡したくないと思っても、渡さなければならなかった。
生きていくためには、それを、どうしても手放さなければならなかった。
「あのケータイが、俺と、あの世界を繋ぐ唯一のものなんじゃないかって、そう思えたから」
大袈裟なのかもしれない。
たかが携帯電話ぐらいでって、笑われるかもしれない。
それでも、春太にとってそれはとても大切なものだったのだ。唯一の希望だと言っても過言ではないぐらいに。
「でも、アズリアは……いらないって、言ってくれた」
まるで大切な物を扱うかのように丁寧な動作で、春太の手のひらの上に乗せて。
「大事にしろって、言ってくれた」
それがどれほど彼にとって大切な物なのかを教えるかのように。
ここで手放してはいけないものなのだと、教えてくれた。
「俺、そのとき、なんていうかその……凄く、嬉しかったんだ」
そのときの感情を思い出すかのように春太は自分の胸に手を当てた。
あのときは、胸の奥が熱くなって、気を抜けば泣きそうだった。
さすがにそこで泣いてしまうとあまりにも情けないから、そこはぐっと堪えて我慢したが。
今思えば、と彼は言葉を続ける。
「アズリアはその……女の子だから、見ず知らずの男を助けるのって、リスクが高いっていうか、危険過ぎるから、だから助けることを渋ってたんだって、わかる」
何にもないところから突然現れた、しかもアズリアから見れば変な格好をした男に助けを求められたのだ。
もし自分なら、怖くて逃げだしていたかもしれない。
それでもアズリアはすぐには逃げ出さなかった。すぐさま逃げようとはしていたが。
春太が待ってと声をかけたとき、強く腕を掴んでしまったのに、手を放しても彼女は逃げなかったのだ。
その瞬間に逃げ出していれば、逃げ切れていただろう。
それなのに、逃げ出すようなことはしなかった。
冷たい目をしながら、関わりたくはないと言い切った。
それでも春太は諦めきれずに足掻いた。
見ず知らずの男に突然肩を掴まれて、怖かっただろうに。
彼女は、アズリアは、聞き入れてくれたのだ。
それは春太が食い下がらなかったからなのかもしれない。
しかしあれほどきっぱりと言い切っていた彼女が、最終的に折れたのだ。
「それでも俺を助けてくれるって言ってくれた。証拠なんてどうでもいいなんて言って、俺、この世界のお金も何も持ってなかったのに、あんなネクタイ一つでいいって、笑ってくれた」
あのときの微笑みが目に焼き付いて離れなかった。
あんなに綺麗な笑顔を、春太は今までの人生において見たことがなかった。
春太の世界にも綺麗な人はたくさんいた。
実際に見たことはないが、テレビの中の存在として見たことはあった。
けれどアズリアのその笑顔は、その誰とも比べ物にならないぐらい、別格だった。
それは実際に目にしたから、テレビと実際は違うから、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。
しかし彼は確信していた。
あれは、勘違いなんかじゃない。思い込みでもない。
間違いなく今までに見た中で最高の、綺麗な笑顔だったのだ、と。
「……それに」
彼は一度目を伏せて、それから、満面に笑みを湛えた。
「俺が村に、あんなに早く馴染めたのだって、アズリアのおかげなんだ」
嘘だ。
アズリアはそう思った。
自分にはそんな特別な力なんて何もない。
春太があんなに早く馴染めたのは、それは春太が馴染もうと努力していたからだ。
それを自分のおかげだなんて言わないで欲しい。
自分は何もしていない。
彼は勘違いしている。
まるで自分を、神様か何かと間違えているようだ。
自分はそんな大層な存在なんかじゃない。
ただの村娘にしか過ぎないというのに。
しかし、アズリアは否定の言葉を発せられなかった。
彼の笑顔を見ていると、言いたいと思っていた言葉を失ってしまうのだ。
何も言えずに、それでも肯定なんて示せるわけもない彼女は、言葉の代わりに眉根を寄せて首を横に振った。
春太はそんな彼女を見て、困ったように笑った。
まるでアズリアが何を言いたいのか、わかっているとでも言うかのように。
困ったように笑って、人差指で頬をかいた。
「……俺だって最初、村の人たちがあまりにも優しくしてくれるから、何か裏があるんじゃないかって、疑ったりしたんだ。それで、冗談めかしてそれとなく聞いてやろうと思って聞いたんだよ。俺のこと怪しくないのって」
助けてもらっているくせに、失礼なやつだよな。
彼は乾いたような笑い声を漏らした。
「でも、みんな口を揃えて言うんだ」
あのアズリアがつれて来たやつだから、絶対に信頼のおけるやつに違いない。だから、全然怪しくない。
それを聞いたその当時、予想としていた答えと違っていたため、春太は目を丸くさせていたものだ。
そのときのことを思い出して、春太はまた笑う。
「それを聞いた俺も納得しちゃったんだよな、確かにって」
確かにって、どういうことだ。
思わずじと目で彼を見るアズリアに「ごめんごめん」と春太は苦笑を溢しながら謝り、また口を開く。
「そしたらなんか、村の人たちを疑ってた自分が情けなく思えてきて、俺を助けてくれたアズリアまで疑ってたんじゃないかって、思えてきて、こんなんじゃ駄目だって思ったんだ」
彼は浮かべた苦笑をそのままに視線を落とした。
「俺、正直に言うと、知らない人と話すのとかずっと苦手だった。……まあ、今でも、あんまり得意ってわけじゃないんだけどさ。でも、話すのが苦手だからって、仲良くなろうとする努力をしなくてもいいってことにはならないだろ」
そんなことをしてたら、いつまで経っても村に馴染めるわけがない。
苦手だから、なんて話せばいいのかわからないから。
それはただの言い訳でしかない。
自分の居場所を確保するための努力を、怠る理由にはならないのだ。
「そこでやっと、みんなが俺を気にかけてくれたり、親切にしてくれるのは、アズリアを信頼して歩み寄ろうとしてくれてたからなんだって、気付いた。……俺も、歩み寄らなきゃいけないんだって、気付かされた」
結局、異世界に来ても自分は甘えたままだったのだ。
アズリアの優しさに。
そして彼女を信頼している村人たちの優しさに。
村のみんなの好意に甘えていただけに過ぎなかった。
それなのに、自分はそんな彼女たちを疑ってしまったのだ。
なんて、自分はどこまでも情けないのだろう。春太は思った。
気付かされた。
居場所が欲しいと思っていたのに、いつまでも歩み寄ろうとしなかった自分に。
「苦手でも頑張ろうって思えた。だから、これも全部、アズリアのおかげ」
全ては彼女が自分を村へつれて来てくれたから。
彼女を通して、みんなが春太を信頼してくれていたから。
頑張ってみるのも悪くない。そう思ったのだ。
「不思議だよな」
満面の笑みで呟いて、春太はアズリアを真っ直ぐに見つめた。
「――アズリアと一緒なら、どんな困難にぶつかっても、頑張れそうな気がするんだ」
彼の真っ黒な瞳の中にアズリアが映る。
油断したら吸い込まれそうだと、彼女は思った。
「だからアズリアに、一緒にいて欲しい」
「………」
これじゃあまるで、告白されているような気分だ。
春太は決してそんなつもりで言っているわけじゃないだろう。
それだけ、アズリアと一緒にいると心強いのだと、彼なりに伝えたい一心に違いない。
頭では理解しているのに、彼女の頬は見る見るうちに朱色に染まっていった。
「でも、その、私はただの村娘だから、役立たずにしかならないし、それに、戦う術もないから、もし魔物に襲われたら……死ぬかも、しれない、し」
一度は経験したことのある死でも怖いことに変わりはない。
もし死んでしまったら、今度こそこの記憶は消えてなくなってしまうかもしれない。
もしそうだとすれば、まだ、死にたくない。
忘れたくない。
春太に出会ってしまったから、尚更に。
「だったら、俺がアズリアを守る」
「……あのね、襲われるのが一度や二度なわけがないでしょ。それに魔物が必ずしも一匹だけで襲ってくるとは限らない。春太が言っているそれは、不可能に近いんだよ」
結局はこの話へと戻ってしまうのだ。
春太がどれだけアズリアを必要としているのか。
それがわかったとしても、アズリアが何の力も持たない村娘には変わらないのだ。
しかし春太は諦めるつもりはなかった。
どこまでも真っ直ぐな瞳でアズリアを見つめる。
「不可能じゃない」
「不可能だよ」
「そんなことない」
頑なに否定をするその根拠は一体何なのか。
どうしてそこまで自信満々な顔をしているのか。
アズリアにはわからなかった。
不可能だ。不可能じゃない。
いつまでも続く無意味な言葉の応酬。
彼女はそんなやりとりを繰り返しながら、似ている、と思っていた。
最初に、彼に助けを求められたときに。
このままだと流されてしまうのではないか。
またあのときのように、自分の中の思いが少しずつ変わっていってしまうのではないか。
流されたくない。今回ばかりは訳が違う。
「どうしてそんなことが言えるの?! 根拠も何もないくせに! 無責任なこと言わないで!!」
悲鳴に近い声で叫ぶ。
お願いだから、流さないで。
「……根拠なら、ある」
彼の黒々とした瞳はどこまでも真っ直ぐで。
曇りもない。
ただ強い光があった。
駄目だ。
そう思っているのに、目が反らせない。
「不可能を可能にするのが、勇者の特権だから」
――流される。そう思った。
「だから、大丈夫」
大丈夫じゃない。
そんなのは何の根拠にもならない。
何が根拠だ。
あんなに自分は勇者じゃないと言っていたくせに。
ずっと否定してきたくせに。
どうして今さら、それをここで言うんだ。
言いたいことはいっぱいあった。
それなのに、アズリアは何も言えなかった。
どれだけ正論を並べても、彼の前では意味がなさないような気がしたから。
もう何を言っても、通じないのだとわかってしまったから。
頭では不可能だとわかっているのに、春太が大丈夫だと言えば、本当に大丈夫な気がしてくるのだ。
「アズリア、俺と一緒に来て」
春太がアズリアの手を取って、笑いかける。
「……行くからにはちゃんと守ってくれるって、信じてもいいんだよ、ね?」
答えは、既に決まっていた。
さすがに身一つで勇者の旅について行けるわけがない。
そのため、アズリアは準備をするから、と一人家の中へ入ろうとしていた。
「手伝うよ」
アズリアが準備をする羽目となったのは、もとはと言えば自分が無理を言ったからだ。
そのことに責任を感じていた春太は進んで申し出た。
サリウスたちも待たせているため、二人でやればすぐに終わると思ってのことだった。
しかしそんな彼の申し出を、彼女は渋い顔をして断った。
「……男に手伝わせるほど女を捨てたつもりはないから」
女を捨てる?
どういうことなんだろう、と春太は疑問符を浮かべた。
アズリアは首を傾げるそんな彼を見て、溜息をつく。
「例えば……その、着替えの用意、とか」
「着替え?」
「春太には見せたくないモノ!」
「俺に見せたくない物って……」
はて、なんだろうか。
ますますきょとんとした表情になる彼に、アズリアの頬が次第に赤くなっていく。
「これ以上言わせるつもり……っ?!」
どうして彼女がそこまで赤くなってしまうのか。
「――あ」
気づいた。
アズリアと同じように、春太の頬は真っ赤に染まった。
彼がやっとのことで気づいてくれた。
それなのに、アズリアの顔は先ほどよりも真っ赤になっている。
「じ、準備してくるからっ!!」
逃げるように家の中へと駆け込んでいくアズリアに、春太はもう疑問符を浮かべることはなかった。
「……別に、そこまで気にしなくってもいいのに」
ぽつりと呟いて、はっとする。
「あ、いや! 別にこれはそんな邪な気持ちからとかそんなわけじゃなくて! ……そう、これはその、あれだ! 純粋な親切心? じゃなくて、なんというか、その、出来心――じゃねえッ!!」
顔をまるで茹でたタコのように真っ赤にさせながら、誰かがそこにいるわけでもないのに、ひたすら弁明をする春太。
「ほら、その、なんというかあれだよ……って、何一人でぶつくさ言ってんだ俺は」
やっとのことで冷静さを取り戻し、一人寂しく突っ込みを入れた。
一体何をやっているんだろう、自分は。
アズリアと一緒に旅ができることがあまりにも嬉しくて舞い上がっているのだろうか。
それとも、一瞬だけでもアズリアの下着姿を想像してしまったことへの罪悪感がそうさせてしまったのか。
はあ、と溜息をついた。
「というか、あれだって、普通そこまで思いつかないって……多分」
彼女に言われるまで全く気付きもしなかった。
それぐらい、自分はそういうのに疎いというか鈍いのだろうか。
「……というか気付く方がおかしいって。そういうやつに限ってあれだろ、むっつりスケベのエロオヤジとかなんだって、絶対」
自分が今まで女子とろくに会話をしてこなかったからとか。
彼女いない歴が年齢とイコールで結べるからとか。
ゲームとかアニメとか漫画とかネットばかりに夢中になっていたからとか。
決して、そんな理由で気付かなかったわけじゃない、断じて違う。
「……アズリア、早く帰ってこないかな」
考えるのはやめよう。
これ以上考えても、虚しいだけだ。
春太はそう思い直すことにした。
アズリアの準備は、春太が思っていたよりも早くに終わり、二人は急いで村の入り口へと向かっていた。
ただでさえ急いでいるから早朝に出発するとサリウスは言っていたのに、その予定は二人によって大幅に変えられてしまっただろう。
何はともあれ、大勢の人に迷惑をかけてしまった。
その罪悪感が二人の足をさらに速めた。
「――すみません、遅くなりました!」
春太が声を張り上げながら駆け、その後ろにアズリアが続く。
「本当にな! まあでも、説得には成功したみたいだからよしとしてやる!」
サリウスはアズリアの持っている荷物見て、全て理解したようだ。
「あはは……おかげさまで?」
「何言ってんだ、あの嬢ちゃんを説得するなんて、さすが勇者としか言いようがねえよ」
「説得なんてそんな……ただ頼み込んだだけというか、なんというか」
「そう謙遜すんなって」
自信を持って、もっと胸を張れ。
そう言わんばかりに春太の背中を強く叩いた。
しかし叩かれた方はというと、あまりの強さに倒れそうになったもののなんとか堪えていた。
「どうせこうなることだろうと思って、ついさっき陛下には嬢ちゃんのことも報告させてもらった」
にかっと歯を見せて笑ってみせたサリウス。
アズリアはそんな彼を、物言いたげな様子でじとりと睨んでいた。
この男、最初からこうなるってわかっていたのか。
そもそもこの男がちゃんと反対をしていれば、春太もここまで無理を言わなかったんじゃないだろうか。
こうなることがわかっていたと本人は言っているが、そもそも、こうなるように仕向けたのは、このサリウスという男も一枚噛んでるというのに。
そんな彼女の視線に気づいているのかいないのか。
「まあそれはさておき、お前らのために馬車を用意してるんだ、早く乗り込んでくれ」
サリウスは気づいた様子すら見せず、そのままの笑みで春太たちに馬車に乗るよう促した。
「……わかりました。行こう、春太」
「え、あ、うんってちょ、引っ張らなくても歩けるって!」
おそらくサリウスは彼女の視線に気づいているのだろう。
食えない男だ。
アズリアは不機嫌を表情に出したまま、半ば無理やり春太を引きずる。
そのまま馬車へと乗り込むのを見送ったサリウスは、浮かべていた笑みを、にやりとした笑みへと変える。
騎士団の団長であるはずの自分に、言葉づかいは丁寧だが、全く敬意を払おうとはしない村娘。
少し生意気なところが気になるものの、やはり見ていて飽きない人物だと思った。
「よし、じゃあ出発だ」
サリウスは黒毛の馬の背に跨り、待機していた兵士たちに向け号令をかけた。
フレデリック・マーニ・トラヴァーズは、使いの者から飛ばされた青白く光る鳥のような姿をしたそれから、勇者のことに関する報告が書かれたそれを受け取った。
質のいい紙に書かれたそれに、さっと目を通そうとしたところ、とある一文に少しだけ目を丸くした。
「……無事、勇者をつれてこっちへ来れるみたいだよ」
「そうか、それはよかったな」
「でも勇者のほかに一人、同行者がいるんだって」
「同行者?」
そう、同行者。
フレデリックはその宝石のように美しい紫の瞳を細めた。
「アズリアって言うんだって。その村娘」
「……村娘?」
「魔法が使えるわけでも、武器が扱えるわけでもない、ただの村娘だよ」
「何故そのような者が……」
「あれ。大賢者でもわからないことがあるんだ?」
わざとらしく大袈裟に驚いて見せる彼に、大賢者と呼ばれた老人が顔をしかめる。
「……知識が豊富なだけで、何でも見通せるわけではないのでな」
「ごめんごめん。ちょっと言ってみたかっただけなんだ」
ただでさえ皺だらけの老人の顔にさらに皺が増えたのを見て、フレデリックは苦笑を浮かべた。
しかし老人にとってこういった彼のからかいは日常茶飯事だったため、それほど気にした様子もなく、ふん、と鼻を鳴らした程度で終わった。
「どう考えても役立たずなのに、そこまでしてつれて行きたいって子って、どんな子なんだろうね」
その人物とは、見る者全てを魅了する絶世の美人なのか。
それとも母なる愛の尊さを謳う聖職者も驚くような清らかな性格の持ち主なのか。
はたまた、何か別の隠された理由があるのやら。
フレデリックは口の端をつり上げた。
とても興味深い。
彼女の何が勇者にそこまでさせているのか。
「早く会いたいな。その子に」
ぽつりと呟いた彼の言葉に、老人は目を剥いた。
自分の耳を疑った。
まさかこの男が他者に関心を持つことがあろうとは。
もしかしたら自分の聞き間違いなのだろうか。老人はそれほどまでに信じられなかった。
しかし、目の前で機嫌よさげに笑みを浮かべている彼を見ていると、それが現実なのだと思い知らされる。
なんということだろう。
この男が他者に関心を持つなんて、こやつが生まれて以来初めてのことじゃないだろうか。
「その村娘に、同情せざる負えんな」
「何か言った?」
「む、気のせいではないか? 儂は何も言っておらんぞ」
「……まあ、そういうことにしといてあげるけど」
これは何か波乱が巻き起こる違いない。
今からでも先が思いやられる。自分へ被害が被らなければいいのだが……。
老人は、未だ機嫌のいいフレデリックへと目をやり、ばれないようにひっそりと溜息をついた。
あばばば……お気に入り件数がさらに増え……感謝感激雨霰な勢いでこのまま夜の街へ駈け出して行ってしまいそうです。できる度胸がないのが悔しいです。
本当にありがとうございます! もう感謝しすぎて毎日がありがとうですね……!
やっと旅立てそうな感じです。
長かった、非常に長かった。あ、いや、私の話の運び方が回りくどかっただけですかね、これって。
まあそれはともかく。今回は心理描写というのか、春太の思っていたこととかを思う存分に書けて大満足です。最初はかなり難産でしたが。
なにはともあれ、これでやっと勇者一行の冒険が書け……いやまだ王都へ向かう途中ですけどそこはスルースキル発動ということで。