表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

終わらない役目

 



 あの日以来、村の人たちは、春太を「勇者さま」と呼ぶようになった。


 春太がどんなに「名前で呼んで欲しい」と頼んでも、村人たちはとんでもないと首を振る。

 そして決まってこう言うのだ。

 ――勇者さまを名前で呼ぶなんて、そんな無礼を働けるわけがありません。


 いつしか彼自身も、諦めるようになった。

 村人から「勇者さま」と呼ばれる度に、苦笑をしながらも、返事をする。


 アズリアから見ても、その苦笑は痛々しいものだった。


「というか、春太を名前で呼ぶことが無礼なら、私なんてとっくに不敬罪とかで罪に問われてそうなんだけど」

「でもあれだろ、アズリアは俺を保護した人だから、特別って言ってたじゃん」

「……なんかそういう特別扱いが一番嫌味な感じがする」


 もちろん村人からしてみれば、そんなつもりは一切ない。

 それをアズリア自身も理解しているため、余計、悪く思えないのだ。

 これが嫌味ったらしい村人だったりすればアズリアも心置きなく反撃なり何なりとできるのに。


 あの人たちはあれでいい人たちだから仕方がないにしても、だ。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。


 アズリアは盛大に溜息をついた。


「なんか、俺が来たせいでややこしいことになってるよな……ごめん」

「確かに村の人たちはなんか変になっちゃったけど……」

「ごめん……」

「いやいや、責めてるつもりじゃないよ。だって春太がいなかったら、私、とっくに死んでただろうし」


 それを考えれば、一番春太を勇者さまとして敬わなければならないのはアズリア自身なのかもしれない。

 とはいえ、こんな彼を目の前にして「勇者さま」と呼んでやれるほど、彼女は意地悪ではない。


 アズリアの言葉を聞いた春太は、先日の出来事を思い出し、顔を俯かせた。


「……確かに、あの光がなかったら、アズリアは死んでたかもしれない、よな」


 死んでたかもしれない、ではなく、死んでいたに違いない。

 あの大きな図体を前にして、ただの男子高校生だったはずの春太が太刀打ちできるわけがないのだ。

 もしあの光がなければ、アズリアを助けるどころか、彼自身、命を落としていたことだろう。


 皮肉なものだと嘲笑ったのは、春太だろうか、アズリアだろうか。


「でもなぁ……やっぱさ……重いっていうか……」

「じゃあ、今度また私が同じような目にあったら、そのときは見過ごす?」

「は?! んなことするわけ……」

「でも村人たちが春太に望んでいることは、そういうことだよ」

「……いや、まあ、うん。そうなんだけどさ……」


 難しく考えてしまうのは、お人好しな春太だからこそなのかもしれない。

 きっと彼は、みんなの求める『勇者さま』になろうと思っているのだろう。

 助けを求める全ての人に救いの手を伸ばさなければならない。

 その使命感で縛られてしまうことを、春太は一番恐れていたのだ。


「春太は、もし目の前で私じゃない誰かが、魔物に襲われていたらどうする?」

「……助けると思う」

「それが一か所だけでなく、何か所もあって、しかも同時に起こったら?」


 春太は言葉に詰まった。


「みんな助けるって、言わないんだね」

「それができないことを前提にして、そんな質問したくせに……」


 意地悪で卑怯で、なんて嫌な質問だろう。

 春太がじと目でアズリアを見やれば、彼女は困ったような顔をして「意地悪な質問だったね、ごめん」と答えた。

 それに対し春太は、これ以上責める気も失せたので顔を俯かせる。


「でも、春太は助けたいと思うんだよね」

「そりゃあ、助けられる力があるから、そう思うだけで……あと、見捨てたら後味悪いというか、まあ……」


「私だったら、面倒くさいって思ってすぐに逃げ出すなぁ」

「あー……アズリアならありえそう」

「残念なことに否定ができないのが悔しいような悲しいような……」


 苦笑を溢したあと、アズリアは春太をじっと見つめた。


「……春太は、一人だね」


「や、まあ、分身の術もないからそりゃあ……」

「腕は二本しかない」

「それ以上あったら化け物じゃねぇか」

「足も二本しかない」

「そうだな、俺、人間だしな」


 当たり前のことばかり言うアズリアの真意がわからない。

 春太はただただ頭の上に疑問符を浮かべていた。


「たかが人間のくせに、春太は、まるで神様にでもなろうとしてるみたいだね」


 月の光が、彼女の顔を照らした。


「別に、そんなつもりじゃ……」

「春太が勇者になったぐらいで、今こうしている間にも死にそうになっている人たちを救えるの?」

「………」

「勇者になることはつまり、全ての人を助けなくちゃいけないって、思ってるんでしょ」

「……それが、あの人たちが望んでることだから、そういうもんなんだろ」


 だからそれが嫌なんだ。

 春太は村人たちの自分のことを見る目に、これでもかというぐらいの期待を乗せられているのが、苦痛でしかなかった。

 自分がどれほどちっぽけな存在で、無力なのか。

 彼自身が一番良く理解していたから。


「それはあの人たちが思っている勇者であって、春太が思う勇者とは、違うよね」

「……まあ、少なくとも、困っている人全員助けてやる! って感じじゃ、ないな、うん」


「春太が思う勇者って、どんなの?」


 勇者とは何か。

 特にこれという人物像も思い浮かばず、答えを出すのに春太は頭を悩ませた。


「……あー……アニメとかゲームとか……物語の主人公、的な?」

「例えば?」

「まず、かっこいい。やたらとイケメン」

「他には?」


「可愛い女の子たちに囲まれてハーレム状態」


 それは勇者じゃない。ただの恋愛シミュレーションゲームの主人公だ。


「と、いうのは、まあ憧れというか男のロマンとかそんなんだけど……」

「……それ、本当に勇者だと思う?」

「いや、思わない」


 きっぱりと言い切ったこの男の頬を、先日のように抓りあげてやろうかとアズリアは思った。

 しかし、冗談を言えるぐらい沈んでいた気持ちが幾分か回復してきたのだろう。それは彼女としては嬉しいものだったため、湧き上がった怒りもすぐに消えていった。


「んー、じゃあ、どんな困難にもめげずに立ち向かって、壁を乗り越えて強くなっていく、みたいな」

「そういうのって、かっこよくない?」

「かっこいい。凄くかっこいい。なんというか、ロマンを感じる」

「もしかしたら春太も、その一人になれるかもしれないと思ったら?」


「………」


 春太は、きょとんとした顔をして、まじまじと自分の両手を見つめた。

 自分の両手を開いては閉じて、何度も、それを繰り返した。


「――あ、そっか」


 ぎゅっと両手を握りしめ、彼はぽつりと呟く。


「俺も、その一人になれるかも、しれないんだよな……今思えば」

「まあでも、かなり無理そうだけど」

「って言うなよ!! そういうこと本人の前で言ってあげるなよ?!」


 言われなくてもわかってるんだよ! ちくしょう!

 そう言って先ほどまでの元気はどこへいったのか、彼はこれもでもかというぐら酷く落ち込んでいた。


「……でも、そっか……ふむ、そう考えるとなんか……」

「ワクワクしてきた?」

「冒険が俺を待っているぜッ! ってんなわけ……ないことも、ないです、はい」

「まあでも、気持ちはわからなくもないよね」

「だよな?! だって勇者の力だぜ、勇者の!! もしかしたら魔法とか凄いやつババーンッて使えるかもしれないし、こう、剣を使ってズババババァアアンッてできるかもしれないし!!」


 急にテンションが上がった彼は、いつになく饒舌だ。

 思わずきょとんとしてしまったアズリアだったが、そんな彼女もお構いなしに春太は興奮した様子でさらに話す。

 アズリアはそんな彼を見て、つい、声をあげて笑ってしまった。


「って、えぇぇ! ちょ、そこ笑うとこじゃないってアズリア!」


 しまいには腹を抱えて笑い転げてしまい、彼女が平静を取り戻すまでかなりの時間を要したのは言うまでもないだろう。


 アズリアがまともに話せるようになった頃には、さらに夜も耽ってきた頃だったため、今夜の会話はこれで終わろうという話になった。

 今でも思い出せば、また笑い出して止まらなくなりそうだったので、アズリアはただ只管別のことを考えようと努めていた。


 何はともあれ、彼が元気になってくれて本当によかったと思う。


 最近の彼は、村人が彼を「勇者さま」と呼ぶ度に酷く落ち込み、泣きそうな顔をしていたのだから。

 その度にアズリアも、胸が痛くてたまらなかったのだ。


 そのときの胸の痛みを思い出すように、彼女は自分の胸に手を当てた。


 今はまだ、彼は、アズリアの手の届く距離にいる。

 けれどいつか、勇者である彼はこの村を出ていかなければならないときが来るはずだ。

 それは明日なのか。

 それとも明後日なのか。


 いつになるかはわからないが、そのときこそ、彼は手の届かないぐらい遠い存在となってしまうのだろう。


 そして、それと同時にアズリアの村娘としての役目も、終わりを迎えるのだ。

 正直に言えば寂しい。

 けれど、これは仕方のないことだと、心のどこかで諦めている自分がいた。


 自分はあくまで、何の力もないただの村娘なのだから。

 そういう役目でしかないのだから。


 胸元に当てた手を握り締めた。


 もし春太がこの村を出ると決めたら、笑顔で送り出せるように。

 自分の中の感情を押し込める。

 引きとめてはいけない。そうアズリアは言い聞かせた。


 別れの時は刻一刻と近づいてきているのだと、理解していたから。
















 アズリアが予想していた通り、その日は訪れた。

 黒毛の美しい立派な馬に乗った騎士と、それに続く数名の兵士。

 そして、おそらく春太のために用意されたのであろう馬車。


「俺は、騎士団の団長を務めているサリウス・ファーレンハイトだ。我らが国王陛下、フレデリック・マーニ・トラヴァーズ様の命により、こちらへ使いの者としてやってきた。悪いが堅苦しい言葉づかいはどうも苦手でな、普段どおり話させてもらう無礼を許してくれ」


 銀色に光る鎧を身に付けた男が声高々に言葉を発する。

 灰色の短い髪に青く澄んだ瞳と、無精髭が特徴的で、見た目は三十代半ばとアズリアたちよりも遥かに年上だが、その顔は団長を務めているだけあってとても凛々しい。

 今はあの立派な馬から降りているが、それでもなお、背筋はぴんと伸びていて誠実さが滲み取れた。


 王都からの使いで来たという男に対し、村長は慌てたような素振りは一切見せず、いつもどおりゆったりとした様子で出迎えた。


「これはこれは、わざわざ王都よりお越しくださり、ありがとうございます」


 にっこりと微笑み、丁寧にお辞儀をした村長に、サリウスも釣られるようにして爽やかな笑みを見せた。


「この村に、異世界から来た者がいると陛下が言っていたのだが、誰かわかるか?」

「異世界から来た者……春太さまのことですね?」

「いや、名前までは聞いていないんだ。ただ、黒髪に黒い目を持つ少年だとは聞いているんだが……」

「それでしたら、春太さまで間違いありません」


「……そうか。で、その春太殿はどこにいるんだ?」


 きょろきょろと辺りを見回し、サリウスはその春太という少年を捜した。

 すると村人たちは一斉に、とある方向を向く。

 サリウスがその村人たちの視線を辿っていくと、そこには、話に聞いた通りの、黒髪で黒い目をした少年の姿があった。――春太である。


「え、あ、えっと……俺、です、か?」


 しいんと静まり返った場に、彼のなんとも情けない声が響いた。


 サリウスは一瞬、別人なのではないかと、自分の目を疑った。

 しかしこの世界では黒髪に黒い目を持つ人間など世界中のどこを探しても彼一人しかいないのだ。

 まさか、この少年が勇者だとでもいうのだろうか。まだこんなにも幼いというのに。


「……お前が、異世界から来た勇者か?」

「あー……えっと、勇者かどうかわわかりませんけど、異世界からは来ました」

「なら間違いない。陛下からお前を城へ連れてくるようにお達しが出てな。悪いが、御同行願いたい」

「………」


 この騎士はきっぱりと言い切った。

 彼が、紛れもない『勇者』なのだと。


 その場を遠くから眺めていたアズリアは確信した。


「……えっと、それは、今すぐじゃないと駄目ですか」

「と言われてもなぁ……こちらも急を要している。あまり長くは待てない」

「ちなみに、拒否権とかって」

「場合によっては強制連行も許可されているからな。まあ、諦めてくれ」


「……そう、ですか……」


 今ここで自分が行かないと騒いだところで、それがどれほど無意味で、周りに迷惑をかけるかを春太はわかっていた。

 もしかしたらこんな日が来るかもしれないと彼自身も感じていたが、まさかこんなに早くに来るなんて思いもしなかったのだ。

 戸惑いは隠せなかった。


 春太は、知らず知らずのうちに両手を握りしめていた。

 自分はまだ、この村に未練がある。


「――じゃあ、一日だけ、待ってください」


 真っ直ぐに強くサリウスの目を春太は見た。

 その目は、先ほどの頼りなさげな様子が嘘だったかのように、とても強いもので。

 情けない様子が気になるが、悪くはない。サリウスは口の端をつり上げた。


「いいだろう。ただし、急を要することに変わりはないからな。早朝に出発させてもらう」


 今日が、この村にいられる最後の日となるのだろう。


「ありがとう、ございます!」


 これでもかというぐらい頭を下げて感謝を述べる春太をアズリアはじっと見ていた。

 別れはもうすぐそこにある。


 村娘としての役目が終わるまで、あと、少ししかないのだ。
















 その夜、国王陛下からの使いの者たちを歓迎するのと、春太の送迎の祝いを兼ねた、大きな宴が開かれた。


 せっかくの酒の席だから遠慮いらない。今夜は無礼講だ。

 そう豪語したサリウスたちはその手に酒をたっぷりと注いだ器を持ち、村人たちと肩を組み合い、これでもかというぐらい宴を楽しんでいるようだった。


 その一方で、春太は酒が飲めないのと明日は早いから、ということで早々に宴の席を外し、彼女の姿を探して外に出ていた。

 先ほどまで宴に参加していたはずの彼女だったが、春太が気づいたときには既にその姿を消していた。

 村全員が総出で宴を催しているのだからまさか一人先に帰ってしまったわけではないだろう。

 ならば、すぐに見つけられるはずだ、と春太は辺りを見渡した。


「――春太?」


 探し求めていた人物の声に呼ばれ、彼は振り向く。

 思わず、息を呑んだ。


「アズ……リア……?」


 少し肌寒く感じる夜風が、彼女の長い髪をさらい、先ほどまでの宴の雰囲気に呑まれ火照った春太の頬を撫でる。

 キャラメルを溶かしたような甘い色合いの髪は、月の光を反射し、今までに見たことがないぐらい綺麗な色をしていた。

 月の光によって淡く光る彼女の肌はさらに白さを際立たせている。


 月の光に照らされたアズリアは、その容姿と相まって、まるで月の妖精ではないかと思わせてしまうぐらい神秘的だった。


「……あっ、いや、えっと」


 あまりの美しさについ見惚れてしまった春太は、次に発しようと思っていた言葉を失う。


「春太?」


 頬を薄く染めながら、忙しなく視線を巡らせる彼を疑問に思い、アズリアは一歩足を進めた。

 すると、春太はびくりと肩を跳ねさせ、一歩後ろへと下がる。

 何をしているんだ自分は、と叱咤するものの、なかなか彼女を真っ直ぐに見つめることができなかった。


「えっと……大丈夫?」

「な、何がっ?!」

「いや、その、いつもと様子が違うというか……」


 また一歩、アズリアが彼に近づこうとすれば、それに合わせるかのように春太も一歩後ろへ下がる。


「……避けてる?」

「いやいやいやいや! そんなことは絶対ないッ!!」


 思うように動けない彼自身、どうしてこんなことになるのかわからなかった。


「……近づかない方が、いい?」


 少し寂しげな表情で問いかける彼女に、春太は首が千切れんばかりに勢いよく首を振った。

 そんなことはないです。むしろ近づいてください大歓迎!

 そう言いたいのは山々なのに、彼の口からはごにょごにょと、何を言っているのかよくわからない、言葉ですらない声しか発せられない。


 よし、落ち着け。何をそんなに焦っているんだ。


 何度も自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。

 やっとのことで平静を取り戻した、と思われる春太は、アズリアを真っ直ぐに見つめた。


「大丈夫。俺が、そっちに行くから……待ってて」


 いつになく真剣な表情と声に、アズリアの心臓がドキリと跳ねる。


「え、あ……うん」


 アズリアは頬が熱くなったのを感じた。

 きっと、今の自分の顔は赤い。

 しかし彼女にはそれを隠す余裕などなかった。


 一歩、また一歩。


 少しずつこちらへ近づいてくる春太。

 今度はアズリアが逃げ出したい衝動に駆られてしまいそうになるが、それでは先ほどの繰り返しになってしまうだろうと、なんとか押し留めていた。


「……アズリア」


 あと一歩足を進めたら、お互いの体がくっついてしまうだろう。


 それほど近くまで彼女との距離を詰めて、春太は、自分よりも少し背の低い彼女を見下ろした。

 これまでに何度も、この距離で彼女と話したことはあった。

 それなのに、春太はこれまでにないぐらいの緊張を覚えていた。


 あれ、どうしたんだろうか。

 今日のアズリアはいつにもまして綺麗で、凄く、可愛く思える。

 あ、いや、元から美人で可愛いんだけど。

 そうじゃなくて、なんというか、雰囲気というのだろうか。


 気が緩めば、すぐにでも彼女を抱きしめてしまいそうな自分がいた。


 しかしそんなことができるはずもなく、春太はなけなしの理性を総動員させて必死でその衝動に抵抗していた。

 なんとしてでも、自分の欲に負けてはいけない。彼は強く思った。


「えと、その……はは、は……なんか、凄く変な感じがするというか、悶々するというか。なんというか、その、いつにも増して、可愛いですアズリアさん」

「……へ、えっ?!」


 いきなり何を言い出しているんだ。

 春太とアズリアの思考がシンクロした瞬間である。


 まさかこの場面でそんなことを言われるとは思いもしなかった彼女は、これまでにないほど顔を真っ赤にさせた。


 かくいう春太はというと、予想外な自分の行動とアズリアの反応に衝動を抑えることが非常に困難になっていた。

 いっそこのまま欲望に忠実になって抱きしめてしまった方がいい思い出になるんじゃないだろうか。

 今なら許されるような気がする、と理性が崩壊寸前になっていたところに。


「なっ、何、をっ! 言ってりゅっ……のっ?!」


 噛んだ。

 どうやらあまりにも動揺しすぎてしまったらしい彼女は、普段ならしないであろう失敗をしてしまったらしい。


「や、違っ! これは、そのっ」


 さらに顔を赤くさせて言い訳をしようするも言葉に詰まりすぎて何を言っているのかすら本人にもわからない。


 しかし先ほどの一撃は、春太の理性にとって痛恨の一撃となってしまった。

 というか、それ、反則でしょうがっ?!

 ――可愛いすぎるっつーのコンチクショウッ!!


「わっ?!」


 勢いよくアズリアを抱きしめて、春太はその感触を味わった。


 細い。細すぎる。

 女の子ってそういうの気にする子が多いって聞いたけど、アズリアのこれは絶対やばい。

 でも柔らかい! いい匂い! あとアズリアの胸が思っていたのよりも小さい!


 三つ目に思ったことを彼女が知れば、春太に明日が訪れるかどうかも怪しいところだっただろう。

 しかし彼女は彼女で、突然身に起こった出来事に判断が追い付かず、ひたすら頭の中で思考を巡らせてパニックに陥っていた。


 一体何がどうなってこうなった?!


 確か自分は宴の席をこっそり抜け出して、夜風に当たっていたはずだ。

 そこで、春太が来て、一歩近づいて一歩引いてを繰り返して。

 それから、それから。


 抱きしめられるまでの経緯を順番に思い出し、どうしてこうなったのか彼女なりに理解をしようと努めたものの、彼の突然の行動はもはやアズリアの理解を超えてしまっていた。


「……ごめん、ちょっとだけ、このままで……オネガイシマス」

「え、あ、いや、り、了解……です、はい」


 しどろもどろになりながらもなんとか言葉を返し、アズリアは言われたとおり、ただじっとしていた。


 最初はカチンコチンに固まっていた体も、時間が経過するとともに次第に緊張が解れ、やがて諦めたように彼女は全身から余分な力を抜いた。

 もうなるようになるしかない。

 そんな投げやりな感じでこの状況を受け止めてしまえば、パニックに陥っていた頭の中も、落ち着きを取り戻していった。


 もしかしたら。

 冷静さを取り戻していったアズリアは考えた。どうしてこうなったのかを。


 春太は、心細いのではないだろうか。

 いくら勇者である彼とはいえ、この先に待ち受ける困難は計り知れないものだ。

 それなのに、彼は自分のことを知らない人たちとともにそれを乗り越えて行かなければならないのだ。

 それがどれほど不安なのか。

 自分が世話になった村から出て、勇者という名の使命を背負わされ、きっと寂しいだろう。心細いだろう。それは、とても悲しいことだろう。


 アズリアの考えていることは、確かに間違ってはいないのかもしれないが、今この状況においてその判断は、どう考えても間違っている。

 しかしそれを指摘する人物もいなければ、そんなことを考えていることなどを知る術もない。


 ぎこちない動きで、そっと彼の背に手を回し、慰めるようにその背中を優しく撫でた。


 そうして、どれくらいの時間が経ったことだろう。

 実際の時間で表すなら、ほんの十数分だったのかもしれない。


 しかしアズリアにとって、その短い間の時間が、かなり長く感じられた。


「……春太?」

「うぇ?! あ、えっと、ご、ごめん」


 躊躇いがちに声をかければ、春太は慌てて彼女から体を離した。


「……にしても、明日の朝、か」


 昼間のサリウスの言葉を思い出し、彼はしみじみと呟いた。

 やはりこの村に馴染み始めていた身としては、離れるのは寂しいと感じていた。

 けれど自分には抵抗できる力も度胸も、ましてや村のみんなに迷惑をかける気もないため、ここを離れることについては既に決心がついていたこともあり、思ったよりも悲しいとは思っていなかった。


 ただ、やはりどうしても、アズリアと離れることを考えられないのだ。


 彼女にはたくさん世話になったし、たくさん迷惑もかけたことだろう。

 しかしアズリアは今日まで、春太のことをずっと気にかけてくれていたのだ。


 それなのに、何にも返せないまま、村を出ていくというのも彼には気が引けたのだ。


 そこではたと彼は思い出す。

 自分がこの世界に来たばかりのことを。

 最初に、アズリアに助けを求めたときのことを。


 ――あ。


 思わず声に出しそうになってしまったところをなんとか堪える。


 そうだ、自分はまだ彼女に恩返しらしいことをしていないじゃないか。

 村の仕事の手伝いばかりしていたが、それは村への恩返しであって彼女への直接的な恩返しにはならない。

 それなのに自分は、ここぞとばかりに彼女を抱きしめ、いい思い出だけをもらってここを立ち去ろうというのか。


 ちょっと待て。

 なんか凄いかっこ悪いんだけど!?


 このまま「お世話になりました。それじゃあ!」なんて旅立ってもかっこ悪いだけじゃねぇかッ!!


 そんな情けない旅立ちができるわけがない。

 春太は思った。

 ならばどうやって彼女に恩返しをすればいいのかを。


 もう今は夜だ。

 これから何かしようにも、時間が足りない上に、何をすればいいのかもわからない。


 しかしサリウスのあの様子を思うと、これ以上待ってはくれないだろう。


「どうしたの?」

「えっ?! あ、いや……月が、綺麗ですね、とか」

「……口説き文句?」

「へっ?!」

「じゃ、ないか。まあ、それもそうか……うん」


 とっさに口をついて出た言葉に、対し、予想外の反応が返ってきたため、春太の思考回路が一瞬真っ白になってしまった。

 もしここでアズリアに全てを話してしまったら、彼女はそんな自分を笑うのかもしれない。

 笑って、許してくれるのだろう。

 ただの悔し紛れで言っただけだから、気にしなくていいと、そう言うのだろう。


 そんなことを言われたら、ますます自分が情けなくなってしまうじゃないか。


「あ、でもほら、月とか星とか、本当に綺麗だよな!」

「……まあ、春太からすれば、そう思うかもしれないけれど」

「えっ! 違うの?!」

「あ、いや、確かに綺麗だけどね。でも、私は生まれてこの方ずっとこの村にいたから、見慣れているというか、なんというか」

「あー……それもそうか」


 どんなに綺麗な景色でも、見慣れてしまえば感動は薄い。

 それでも滅多に見ないものを目にするのは楽しいし、ワクワクするし、感動したりもした。

 都会暮らしだった春太にとって、この大自然の光景は、とても感動したのだ。


「あ」


 慌てて口元を押さえ、怪しむようにこちらへ視線を向ける彼女に春太は引きつった顔で笑みを作った。


「な、何でもない。なんというか、ほら、月が奇麗ですねっていうか!」

「……そんなに月が好きなの?」

「こう、満月の夜とか、俺の右腕が疼くぜ……ッ! みたいな!」


 これが、かの有名な『厨二病(ちゅうにびょう)』というやつだろうか。

 アズリアの怪しむような視線が、痛々しいものを見るような視線へと変わる。


 誤魔化すためとはいえ、思わぬ古傷を抉ってしまった。


 漫画やアニメ、ゲームが好きだった春太は、過去に似たようなことを言っていたのを思い出し、当時の自分を思い出しては恥じていた。

 それはもはや思い出すのも嫌なぐらい恥ずかしく、できることなら葬って忘れてしまいたい過去。

 所謂、『黒歴史(くろれきし)』というやつであろう。


「……いや、あの……うん。触れたら負けだよね、それ」


 しかしアズリアの不信感は一気に拭われたらしい。

 己の古傷を抉った甲斐があった、と彼は心の中で涙を流した。


 何はともあれ、春太は彼女への恩返しを思いついた。


 我ながらいいアイディアだと思う。

 きっと、アズリアも喜んでくれるに違いない。

 サリウスたちには迷惑をかけてしまうかもしれないが、それでもここに残りたいと言うよりかはマシだろう。

 春太は明日のことを考えて、にいっと、口の端をつり上げた。


「よっし、決めた」


 満足そうに頷く彼に、何を決めたのだろうとアズリアは首を傾げる。


 これまでのことを思い返してみると、もしかしたら、勇者となる決心がついたのかもしれない。

 そう推測した彼女は、あえてその場で春太が『何』を決めたのか問うことはなかった。


「――春太」


 ふいに、アズリアは彼の名前を呼んだ。


「え、あ……何?」

「これから先、きっと、いっぱい色んなところを旅するかもしれないけど」

「……うん」

「忘れないでね。……この村のことを」


 自分は、ただの村娘にしか過ぎない。

 彼女はそれを理解した上で、言葉を変えた。


「いってらっしゃい。元気で、ね」


 それは、今にも散ってしまいそうな花のごとく、儚い笑顔。


「う、あ……その、いってきま、す」


 春太は顔を俯かせた。

 彼が浮かべていた表情、それは、寂しさや悲しさを感じさせるものではなかったことを、アズリアは知らない。
















 そして、運命の朝がやってくる。


 朝早いというにも関わらず、ほかでもない『勇者さま』の見送りだからと、村の入り口には村中の人々ほぼ全員が総出で見送りに来ていた。

 アズリアもまた、その村人たちの一人としてそこにいた。

 もちろん、彼女は『勇者さま』だからではなく、春太だからこそ見送りに来ているわけなのだが。


「――もうすぐで出発する。別れの挨拶はきっちりしとけよ」


 サリウスがこの村へ来るために乗ってきたあの立派な黒い馬の背をひと撫でする。


「勇者さま。我々は、勇者さまとともに過ごせた日々を、とても光栄に思っております」

「え、あ、うん……じゃなくて、はい」

「どうかご武運を」


 にっこりと微笑む村長に、春太は寂しげな笑みを浮かべた。


「……今まで、お世話になりました」


 彼は一瞬だけ目を伏せる。

 再び目を開ければ、その目には強い光があった。


「俺、この世界に来たとき、もう何が何だかわからなくて、ただ帰りたいってばかり思っていました」


 春太の声はどこまでも真っ直ぐだ。


「でも、そんな俺に、村長さんとか、みんなから、凄く親切にしてもらって、優しくしてもらって、たくさん、大事なものをもらいました」


 右も左もわからなかった。

 そんな春太に、村人たちは住む家を与え、服を与え、仕事を与えた。

 彼らはたくさんの温もりを春太に与えたのだ。


 村で過ごしていた日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。


「本当に、ありがとうございました」


 春太はその思い出を胸に、ありったけの感謝を込めて、深く頭を下げた。


 そんな彼を見ながら、アズリアは感慨に浸っていた。

 春太が頭の中で思い出を駆け巡らせていたのと同じように、アズリアもまた、彼との思い出を駆け巡らせていたのだ。


 初めて春太と出会ったとき。

 あの世界での格好をしていた彼を見たとき、アズリアがどれほど懐かしく思ったか。

 携帯電話を手渡されて、あの世界の文字を見たとき、忘れかけていたであろう昔を少しだけ思い出した。


 春太があの世界の話をしてくれる度に、まるで自分も、彼と同じ世界の住人のように思えた。


 今までは、ずっと一人が普通だと思っていた。

 孤独に慣れてしまっていたのかもしれない。


 そんな自分の家に、春太が突然やってきて、一緒に暮らして。


 一人じゃないということが、どんなに幸せだっただろうか。

 温かさを初めて知った。

 寂しさでぽっかりと空いたはずの穴が、いつのまにか塞がっていたのだ。


 感謝を言いたいのは、自分の方だというのに。


「――それで、俺、どうしても頼みたいことがあります」


 一瞬だけ、彼と目が合ったような気がした。


 それは気がしただけであって、きっと自分の思い違いなのだろう。

 アズリアはそんな自分を心の中で嘲笑った。


 春太は、真っ直ぐに歩みを進める。


 一歩、また一歩。

 彼が通る道を邪魔してはいけないとばかりに、村人たちはさっとその身を避けて、彼のための道を作った。

 その道は次第に、ある一点へと向かい始めていた。


 ざわり、とアズリアの胸の内がざわついた。


 アズリアは気のせいだろうか、と疑問に思った。

 春太がこちらへ近づいてきているような、そんな気がしたのだ。


 きっと気のせいに違いない。

 彼女はそう思いたかったことだろう。

 しかし、春太は真っ直ぐに――アズリアの方へ向かっていた。


 春太はアズリアの前に立った。


「……は、春太……?」


 今まで見てきた中で、一番輝いた笑顔だとアズリアは思った。

 思わず見惚れそうになった彼女だったが、彼が、徐に手を取ったことで、瞬時に戸惑いが生じる。

 彼は、その輝く笑顔から真剣な表情へと変え、その真っ直ぐな声で、言った。


「この人を、――アズリアを、一緒につれて行きたい」


 彼の声が響き渡った。




光栄なことにお気に入りの数がさらに増え……いやもう本当ありがとうございます! ありがとうございます!

なんというかあれですね、初々しいのかどうなのかよくわからない……。

とりあえず春太が役得というのにニヤリとしちゃいます。


アズリアの運命やいかに……?!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ