物語の主人公
※勢いだけで頑張ってます。
※恐れ多くもお気に入りにいれてくださっているです……と……ありがとうございます感謝しますありがとうございまっす!
アズリアの家に春太が住むようになって、何かが変わった。
と、いうこともなく、ただ彼女のいつもの日常の光景に一人、人物が増えた程度だった。
そのことについて色々と構えていたアズリアは拍子抜けしたような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちを胸に今日もまた薬草摘みへ出かける。
大体、この村は少し平和ボケしすぎているのではないだろうか。
アズリアは空の籠を手に持ち、いつもの道を歩きながら、この村の将来を心配した。
いくら彼女が面倒を見るからと言ったものの、それをあっさりと了承してしまう村長は、ちょっとぐらい人を疑うことを覚えた方がいいのではないだろうか。
そんな、犬猫を飼うときみたいに、面倒を見るならそれでいいって……。
あのときは反対されなくてよかったと思ったが、村長のいい加減さにはアズリアも呆れるばかりだった。
もし仮にも、あの男――春太が悪い奴だったらどうするつもりだったんだろうか。
実は春太は魔王の手先で、この村をめちゃくちゃにしてやろうと異世界人のふりをして、第一発見者である自分を脅しうまく村に取り入ろうとしているとか、少しぐらい考えたりしないだろうか。
「……いや、それはないか」
のほほんとした雰囲気で、情けない顔をしながら村の子どもたちに遊ばれている彼の様子を思い出し、アズリアはあっさりと否定した。
あんなお人好しが魔王の手先とかそんなありえない存在であるわけがない!
アズリアは胸を張って言えるだろう。
そんなことあるわけがない、と。
最初の頃はどうなることだろうかと彼女なりに心配をしていたアズリアだったが、春太はあっという間に村の人たちと仲良くなり、自然と馴染んでいったのだ。
まるで昔からその村に住んでいた一人かのように。
今となってはアズリアもまた、春太と名前で呼び合うぐらい親しくなってしまったほどに。
春太の適応力にも驚かされたが、何よりもアズリアが驚いたのは、村の住人のフレンドリーさだった。
異世界から来た、という言葉をあっさりと鵜呑みにし、それどころか春太を「災難だったなぁ」と同情するばかりだ。確かに、彼のあの情けなさを見ていると、疑う気も薄れ、そればかりか同情を誘ってしまいがちになるが、それでも、ここまでうまくいくものだろうか。
アズリアはたまたま、彼と同じ世界から転生し、その記憶を持って生まれたが故に彼の身の上をあっさりと信じることができたものの、もし自分が記憶を持って生まれていなければ、きっとこうはいかなかったはずだ。
まず、魔法陣が現れた時点で逃げ出しているに違いない。
しかし彼の来ていた服装が、前の世界を思い出させるかのような懐かしいものだったから、彼女はその場から離れられなかったのだ。
その点で言えば、春太はとても幸運だったと言えよう。
いや、彼からすれば不幸中の幸い、とも言える。
もし彼が落ちた場所が悪い奴のところだったりすれば、彼の命すら危なかっただろう。
元はと言えばどこぞの陛下が呪文を間違えて唱えなければこんな村の近くに落とされることもなかった、という事実はアズリアが知る由もないのでこの際置いておくとして。
あの村長にしてこの住人あり、というべきか。
すっかり春太と仲良くなった村の人たちを思い出し、アズリアは小さく苦笑を溢した。
それにしても、あのお人好し――フレンドリーさが裏目に出なければいいが。
「……駄目だ、なんか心配になってきたんだけど……」
考えれば考えるほど、不安を覚えてしまう彼女だった。
今日も無事に平和な一日を終え、村の仕事を手伝ってくたくたになって帰ってきた春太をアズリアは温かく迎え入れた。
顔や服など、あちこちに泥をつけて帰ってきている彼の姿を見れば、頑張っているのは一目瞭然で、日に日に逞しくなっていく彼の背中は、出会ったばかりの情けない姿が嘘だったかのように、とても頼もしく見えた。
荷物もなしにこの世界へ来ただろうから、と親切にも村の人がプレゼントしてくれた服は彼の仕事ぶりをこれでもかというぐらい証拠づけるように泥だらけになっている。しかしそんな服でさえ、違和感なく着こなしている彼のそれは、一種の才能に近いものだろう。
「おかえりなさい。今日も、お疲れ様」
アズリアが労わりの意を込めてにっこりと微笑めば、女子に免疫力のない春太はたちまち頬を朱色に染め、視線を彷徨わせる。
「……えっと、その……ただいま」
照れが入り混じった彼の声音に釣られるようにしてアズリアもまた頬を朱色に薄く染めた。
彼女からしてみれば、頑張っている彼を労わろうと言葉をかけただけだ。それなのに春太があまりにも照れるため、逆に言った本人まで恥ずかしくなってくるのだ。
何とも言えない空気が二人の間に流れ、甘酸っぱいようなもどかしいような、そんな沈黙が二人を包む。
「――夕飯の準備して待ってるから、先に温泉、どうぞ!」
って、なんでこんな空気が流れているんだ。
と場の雰囲気に呑まれそうになったところをなんとか正気を取り戻し、沈黙を破ったアズリアは、新しい着替えを半ば無理やり春太に押し付けた。
このまま雰囲気に呑まれようとしていた春太は、切り替えの早いアズリアにぽかんとした表情を浮かべながらも素直にそれを受け取り「あ、うん、了解」と返事をした。その顔からはすっかりと赤みが引け、今は温泉でさっぱりできるという喜びで染まり、今にもスキップを踏んでしまいそうなほど締まりのない顔になっている。
鼻歌を歌いながら家を出ていく春太を見送りながら、アズリアは未だにほんのりと赤い頬を隠すように手を当てた。
春太がこの世界に来て何も変わらなかった、というわけでもなかったらしい。
しかしその変化は、現段階においてアズリアが気にするほどのことでもないことは確かだ。
気を取り直し、アズリアは夕飯の準備に取り掛かることにした。
もちろん料理は既にできあがっているので、あとは温め直したり盛り付けたりするだけの簡単な作業だ。
この世界での両親を早くに亡くしてしまったアズリアは、春太が来るまではずっと一人で暮らしていた。
とはいっても、あの優しい村人たちはそんな彼女を放っておけるほど心の狭い人間ではなく、何かと彼女を気にかけてくれたおかげもあり、こうして生活が成り立っているのだ。その点において村人のお人好しさに彼女はしみじみと感謝していた。
つまるところ、彼女が一人で住むにはやけに広い家に住んでいる理由とは、そういうことである。
幼い頃に両親が亡くなっているにも関わらず、自分の不幸を嘆くこともなく悲観することもなく、アズリアはただ生きることだけを考えてきた。
それができたのは、この前世の記憶を持ったまま生まれてきたから、という理由も大きいのかもしれない。
前世での親を覚えているから、彼女はこの世界の両親を血の繋がった身内とは思えても、両親とは思えなかったのかもしれない。
それでも、亡くなったときは確かに悲しかったし、涙を流したのも確かだ。
しかしそれはあくまでそのときの話であり、今となっては、ときどき思い出して少ししんみりとする程度で終わっている。
自分は思っているよりも薄情なのやつかもしれない。
アズリアは心の中でそんな自分を嘲笑った。
春太もこの広すぎる家に疑問を持ったことだろう。
しかし、それをアズリア本人に直接聞いてこないということは、彼なりの気遣いなのか、遠慮なのか。
聞いてくれば答えるつもりでいた本人としては、そこまで気にしてくれなくてもいいのに、と逆に気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じていた。
満足そうな顔で汚れを落とし帰ってきた春太を迎え、夕飯を終えると、彼はにっこりと笑った。
「後片付けは俺がやるから、今度はアズリアが温泉に行っておいでよ」
きっと彼は親切心からそう申し出たのだろう。
他意はないと判断したアズリアはそんな彼に「ありがとう」と微笑み、着替えやら色々道具を持って家を出た。
その後ろ姿を見送り、よし、と意気込んだ春太は腕捲りをする。
この世界へ来たばかりの頃は重たいものなど滅多に持たないため、男にしては骨と皮しかない情けない腕だったが、この村の仕事を手伝うようになって、見る見るうちに筋肉がつき、逞しいものになっていった。その気になれば力瘤だって作れる。
そんな自分の変化を見る度に春太は自分が少しずつ変わっていくような気がして、嬉しいような寂しいような、なんとも言えない気持ちになった。
元の世界での彼を知っている人が今の彼を見れば、驚いて卒倒してしまうかもしれない。
ま、そこまで大きく変わったってこともないか。
変わったといえば筋肉がついたかついてなかったかというぐらいで、顔がイケメンに変わったとか、全くの別人になってしまった、というわけでもないのだ。
それでも、驚かせるぐらいにはなるだろう。自分を知る人たちの驚く顔を想像し、堪え切れない笑いを溢してしまった。
「さてと、洗うか」
村での仕事を手伝っているせいか、あまり家事の手伝いをさせてもらえない春太は、実はこれがこの世界で初めての皿洗いとなる。
元の世界とは勝手が違い、捻れば簡単に水が出てくる蛇口なんて便利なものは存在しない。
予め汲んでおき溜めている水を使い食器を洗うのだ。
アズリアがどんな風に食器を洗っていたか思い出しながら、見よう見まねで食器を洗っていく。
彼女が洗っているときよりも少し多めに水を使っているものの、今はそれを咎める人物もいないので春太が気にすることではない。
今頃、あの温泉で体を洗っているのだろう、と春太はそこまで想像して、つるっと落としそうになった皿を慌てて回収した。
いくら水の使いすぎを咎められないとはいえ、さすがに皿の数を減らしてしまえば、この場にはいない彼女でも気づくだろう。
出会ったときに見据えられたあの冷たい瞳で叱られるかもしれない、と想像してしまった彼は恐怖で体をぶるりと震わせた。
それにしても、と順調に汚れた食器の数を減らしていく春太は、おそらく温泉にいるだろうアズリアのことを思い浮かべた。
初対面のときはあんな風に冷たくされて、こちらとしても生きるので必死だったということもあり、全く気にしてはいなかったが、アズリアはとても美人だ。
まさか自分があんな美少女とひとつ屋根の下で暮らすことになるなんて思いもしなかった。
まあ性格は厳しいけれど優しいところもあるし、甘やかすだけが全てじゃないというところは、逆に好感が持てる。
正直なところ、いつ村の男に背後からぐさりとやられるだろうかと毎日が不安だったりもする。この村に限ってはそんなことをする人なんていないだろうとは思うが。
さぞかしアズリアは村の男たちからモテているに違いない。
そして自分はそんな男たちからの嫉妬の的だ。
「……嬉しくないな、それは」
小さく溜息をつき、さらに一枚、汚れた食器の数を減らした。
「いやでも、アズリアと一緒にいれるのは嬉しい……よな、うん」
ぶつぶつと呟きながらも作業をする手を止めない彼は意外と器用なのかもしれない。
アズリアは厳しいけれど優しいし、やることさえちゃんとやれば褒めてくれるし、たまに甘やかしてくれるし、優しい。あと綺麗だし可愛い。
毎晩自分の愚痴のような情けない話を嫌な顔せず聞いてくれるし、彼女なりに気を遣って言葉を選んでくれるのだ。そんな姿がまた可愛い。
村の人たちと同じような服装をしているが、それすらも彼女の魅力を引き出す道具にしか過ぎないのだ。
「……服、そう……服だよな、うん……」
きっと服の下も、凄いに違いない。
彼女は露出のある服を好まず、スカートの丈もそれほど短くないものばかりをいつも身につけている。辛うじて膝小僧が見えるか見えないかぐらいで、ブーツを履いているせいもありせっかくの綺麗な足も膝小僧がちょろっと見えるぐらいなのだ。
それが非常に残念で仕方がないが、しかし彼女がミニスカを穿いて惜し気もなく白い生足を出してしまえば男たちがそれでどんなよからぬ妄想をすることやら。
自分のことは差し置いて、他の男たちは狼だからそんな危ないことをしてはいけない、と実際に穿いてもいないのに春太は首を横に振った。
あぁ、今こうして自分が食器を片づけている間にも温泉であられもない姿になっている彼女に危険が及んでいるんじゃないだろうか。
いつしか見当違いなことを考え始めている春太だが、それを止める人物など当然この場にはいない。
食器を洗う手のスピードを速めながら、彼の妄想世界はさらに広がっていった。
湯けむりの中、白い肌を泡に包み、体を洗うアズリア。
温泉の湯気に当てられ、しっとりと濡れた柔肌。
華奢な体からは想像もつかないほど豊満な二つの膨らみに乗った泡はその谷間へと吸い込まれるようにして伝い落ちた。
体を洗うために腰まで長い髪を結い上げ、ちらりと覗く項がさらに色っぽく、泡を流すためにかけたお湯が背中から、細く括れた腰を伝い、泡をさらっていく。
実にけしからん。もっとやれ。
鼻息荒く食器を洗う春太の姿は、傍から見れば変態としか言いようがない。
しかし妄想をしている本人の表情はだらしなく緩み切っていた。
「――なんか楽しそうだけど、いいことあった?」
ぎゃあああっ!!
びくうっと全身で跳ねた春太は心の中で悲鳴を上げながら慌てて後ろを振り返る。
するとそこには、温泉で上気した顔のアズリアが。
もしかしてもしかしなくとも、さっきのよからぬ妄想がばれたのでは……?!
内心冷や汗だらだらとかきながらも誤魔化すように「別に何も」と告げようとした春太だったが、あまりにも動揺していたせいで「べべべべべ!! 別に! なななな何もッ!」と明らかに不自然な返し方をしてしまった。
そんな彼に対し、嘘が下手だなぁ、と思いながらも、彼が言いたくないらしいことを感じ取ったアズリアは「ふぅん」と短い返事をする。
アズリアが特に気にした様子を見せなかったことで、これでもかというぐらい春太はほっとしていた。
「ところで、まだ食器洗ってるの?」
「あ、いや……今洗ってるこれで最後」
「そっか。ありがとう」
あとは私がやるから、とアズリアは春太が持つ最後の食器を取り上げた。
「お、おう……」
一瞬だけ鼻をついた良い匂いにまたもや緩みそうになった頬を引き締めて、春太はぎくしゃくとした動きで部屋へと歩いて行った。
あそこまであからさまに不自然な動きをしている春太を突っ込むべきか突っ込まないべきか。
どうしたものかとアズリアは考えたが、触れてはいけないような気がしてならないので、やはり触れないことにした。
その選択が、いかに最善の選択であったのか彼女は知る由もない。
春太が妄想しながらも頑張ってくれていたおかげで夕飯の後片付けを思いのほか早くに終えたアズリアは、いつものように彼がいる部屋へと足を向けていた。
扉の前に立ち、ノックを数回すると、中から彼の声が聞こえる。
アズリアはドアノブを捻り、部屋の中へと入った。
「……えっと、今日も話、する?」
そういえば、自分から彼の部屋を訪ねるのは、初めてだったような気がする。
「あ、えと、その、アズリアがよければ……」
「じゃあお邪魔します」
「どうぞどうぞ! む、むさ苦しい部屋だけど!」
「……一応、うちの家の部屋なんだけど」
「……言葉の綾です。ごめんなさい」
彼がこの世界に来て、あの情けない愚痴を聞いて以来すっかり日課となってしまったこの会話。
といっても、話すのは大抵彼のことばかりで、自分は適当に相槌を打ったりする程度のものなのだが、それでも彼はこの会話が好きらしい。
前に一度、疲れているのに迷惑じゃないのか、とアズリアが尋ねたとき、これでもかというぐら首を横に振り、必死の形相で懇願までされてしまったのだ。
そのため、こうして夜に会話をすることがお互いの日課となってしまった。
知らない世界に突然放り込まれてしまったから、アズリアの予想を遥かに超えるほど、春太は不安を抱え込んでいるのかもしれない。
そんな不安が、自分が話を聞くだけでも薄れてくれるのなら、とアズリアも彼の頼みに了承したのだった。
アズリアとしても、前世の世界の話を聞くのはとても懐かしく、嬉しかった。
懐かしさのあまり寂しく思ってしまうこともあるが、それでも嬉しそうに語る彼の姿を見て、不快に思うことはなかった。
しかし最近の春太は、前の世界のことばかりではなく、この世界で体験したことを話すようになっている。
少しずつ成長をしていっているのだとわかると、アズリアとしても嬉しかったが、それと同時にこのままこの世界に馴染んでいってしまうのではないだろうかと、言いようのない不安も覚えた。
確かに彼にとって、早くこの世界に馴染んでしまった方がいいのかもしれない。元の世界に帰れるという保証はどこにもないのだから。
でもそれは彼にとって現実を強く突き付けているような気がして、このまま故郷を忘れてしまうことが一番いいと言われているような気がして、とても悲しくなるのだ。
このまま、彼が異世界から来たという事実も、有耶無耶になってしまうのではないか。
アズリアはそれを一番恐れていた。
アズリアは忘れたくなかったのだ。確かにあの世界が存在していたことを。
あの世界が存在していたことを示す存在である彼までもが忘れてしまったら、自分も、一緒に忘れてしまうのではないか。
それが何よりも怖かった。
「――春太は、寂しくないの?」
ぽつりと呟いた彼女の声は、酷く寂しい。
「寂しくないといえば、嘘になる」
「帰りたい?」
「……どうなんだろう」
よくわからない、とでも言うかのように春太は首を傾げた。
それは彼の本心から告げたことで、彼もまた、自分の気持ちに戸惑っているのだ。
この世界へ来たばかりの頃は、自分は元の世界に帰れるのだろうかと不安に思っていたし、早く元の世界に帰りたいとも思っていた。
しかし心優しき村人と触れ合い、アズリアと共に過ごしていくと、こんな生活も悪くはないんじゃないか。そう思ってしまう自分もいるのだ。
あの世界に戻るよりはむしろ、この世界で暮らしていった方が自分は幸せなんじゃないだろうか。
そう思えるぐらい、気持ちが傾いてしまっているのだ。この世界に。
それがいいことなのか、悪いことなのか、彼自身にもわからなかった。
「春太は、私みたいになったら、駄目だよ」
「……え?」
「過去として受け入れたら……終わりなんだよ」
少なくとも、そうなって欲しくないと思う自分がいる。
これは自分の我儘で、押しつけなのだ。
アズリアはそれを理解していながら、ぽつりぽつりと呟いていた。
「……アズリア?」
いつもと様子が違い彼女に疑問を感じたのか、ぽかんとした表情を浮かべる春太。
「今日はもう遅いから、明日に備えて寝ようか」
「え、でも」
「おやすみ、春太」
春太の言葉を遮り、アズリアは笑った。
それは、もはや二の句も上げられないほど、綺麗で、儚いものだった。
その翌日、物語は急速に動き出した。
いつもと変わらなかったはずの日常が、崩れたのだ。
平和だった村に現れたのだ――魔物が。
猪にも似たその生き物は、アズリアの背を優に超えるほど大きい。
鋭く尖ったその図体に見合った牙で全身を貫かれてしまえば、ひとたまりもないだろう。
アズリアは胸に子どもを抱き抱えながら、その場に座り込んでいた。
さっさと子どもを連れて逃げればいいのに、動かないのだ、体が。
恐怖で震える。
自分が、この得体の知れない化け物に殺されてしまうのではないかと想像して。
胸に抱いた子どもは、ただ泣きじゃくっていた。
何度も何度も、自分の両親に助けを求めるようと叫んでいた。
気づいたら体が勝手に動いていたのだ。
それは使命感からなのか、無意識からなのか、自分でもわからない。
無我夢中で走って、走って、気づいたらこうなっていたのだ。
自分がこんなにも考えなしで、無鉄砲な行動を取るとは思いもよらなかった。
けれど、後悔してももう遅い。
せめて村娘なりに、それなりの役目を果たしてやろうじゃないか。
アズリアは震える体を叱咤して、庇うように子どもを胸に強く抱いた。
目の前の化け物がけたたましく吠えた。
それと同時に、アズリアは強く瞳を閉じ、今までにないぐらい強く子どもを抱いた。
そして、強く願った。
脳裏に彼の姿を思い浮かべ、強く。
――助けて、と。
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
普段の彼からは想像もつかないほど悲痛な叫び声が響き渡った。
眩い光が辺りを包む。
あぁ、来てくれたんだ。
彼の後姿を見て、アズリアは確信した。
間違いなく、彼なのだと。
彼が放つ光はますます強くなり、アズリアはぎゅっと強く瞑った。
次に目を開ければ、魔物は重たい音を立てて地に伏していた。
やがてその身は黒い靄となり死体までもが姿を無くす。
「……今の、は……?」
戸惑うように、彼が自分の手を見つめる。
「! そうだ……アズリアは?!」
思い出したかのように血相を変え、くるりと後ろを振り返った。
アズリアの無事を確認すると、よかった、と小さく呟いて彼はその場にへたり込んだ。
どうやら腰が抜けてしまったようで、せっかくかっこよかったと思ったのに、なんだか情けない。
アズリアは思わず苦笑をしてゆっくりと立ち上がった。
彼女がひたすら庇おうとしていた子どもは、ぽかんとした表情からはっと我に返り、泣きながら両親のもとへと駆けていく。
それと同時に両親も駆け出し、ひしっと子どもを抱きしめていた。
その様子を見守り、アズリアは彼のもとへと歩み寄る。
「せっかくかっこよかったのに、かっこ悪いところは……さすが、春太というか、なんというか」
すっかり力が抜けて立てない春太に向かって、彼女は手を差し伸べた。
「う……ま、まあ、無事で何よりっていうか!」
「ありがとう。春太は、迷わず私を助けてくれたね」
「……や、だって、あそこで迷ってたら間に合わなかっただろ、普通」
渋々とアズリアの手を取り、やっとのことで立ち上がった。
軽く服についた砂を払った春太は、それにしても、と口を開く。
「なんだったんだ、今の……」
それはあの化け物についてなのか、それとも、あのときの光についてなのか。
前者は、ここ最近すっかり鳴りをひそめていたはずの――所謂、魔物、と呼ばれる存在だ。
目撃されることすら滅多にない存在だったというのに、その魔物がまさか突然村を襲うだなんて。
今日初めてそれを目撃したアズリアは、その異変に、嫌な予感をひしひしと感じていた。
まるで、そう、悪いことが起きる前兆のように。
後者は、アズリアにとっても予測の範囲でしかない。
おそらくは、特別な力なのだろう。
例えるなら――勇者の力、とでも言うのだろうか。
自分でも馬鹿げた考えだとアズリアは自覚していた。
しかし、彼女の中の何かが訴えかけていたのだ。
それはただの力ではないということを。
何故彼が、春太が、この世界に来たのか。
アズリアは気づいてしまった。
彼が、この世界にとって何であるかを。
それからあとは村中で大騒ぎになった。
それもそうだろう。全員が死を覚悟していたというのに、その魔物を春太が光で倒してしまったのだから。
アズリアだけではない、村中の人々が気付いたのだ。
春太が特別だということに。
彼は異世界から来たと言っていた。
つまり、彼は異世界から召喚された、勇者さまなのではないだろうか。
それまで人々は彼を、春太として普通に接していた。
しかしどうだろう、昼間のことがあってから、村人たちは彼を名前では呼ばなくなってしまった。
彼らは口を揃えて春太を呼ぶ。
勇者さま、と。
そう呼ばれた瞬間、春太がどんな顔をしたのか。
それを知っているのはおそらく、アズリアだけなのだろう。
村の人々の目にはもはや、春太という少年は映っていなかった。
勇者さまを歓迎しようと開かれた宴が終わり、すっかり人々が寝静まった頃。
アズリアは春太の部屋を訪れた。
これで、自分から彼の部屋へ訪れたのは、二回目だ。
どう接すればいいのだろうとか、これまでどおりでいいのだろうとか、そんなこと考えもせずにただ、彼の声が聞きたくて、アズリアはその扉を数回ノックした。
返事はない。
「春太、入るよ」
一声かけて、アズリアは扉を開けた。
真っ暗な部屋の中、窓から差し込む月の明かりを頼りに、彼の姿を探した。
――彼は、ベッドの上で膝を抱え込んでいた。
まるで全てを拒絶するかのように、彼の体は小さく、丸くなっていた。
「……アズリア」
彼の声は、硬い。
そして、どこか怯えているようだった。
しかしその声はまるでアズリアを望んでいるかのようだった。
あのときのように、助けを、求めるかのように。
「……春太」
アズリアは彼の目の前に立った。
そこでやっと、春太は俯いていた顔を上げた。
「アズリア」
助けて。
声は悲痛さを帯びていた。
見えない鎖が、まるでアズリアの自由を奪うかのように、何重にも彼女の体に巻きついた。
「俺は勇者なんかじゃない」
情けない顔で、春太は彼女を見つめていた。
「弱いし、腰抜けだし、アズリアには頼りっぱなしだし、情けないし……なんか言ってて悲しくなってきた」
「でも事実なんでしょ?」
「う……まあ、そのとおりなんだけど」
「それで、そんな自分が、勇者のはずがないって?」
そう、それだ。
とでも言わんばかりにこくこくと何度も頷く春太を見て、アズリアは溜息をついた。
「……否定して欲しいの?」
「だってそうだろ? こんな俺が、勇者なわけ……」
「じゃあ、あの光は一体何なのか説明がつくの?」
「……わからない、です」
「じゃあ、勇者かもしれない」
「……アズリアも、そう言うのか?」
絶望に染まりかけた春太の顔。
そんな彼の頬を、これでもかというぐらい強く捻った。
「いでででっ?!」
ぎゅうっと力を込めて抓ってやれば、さらに春太は声を大きくする。
「――だからといって、態度を改めるつもりは毛頭にないけど?」
にっこり。
それはもう美しく、綺麗で妖艶な笑みを、アズリアは作ってみせた。
しかしその目は決して笑ってはいない。
何故なら彼女は、これでもかというぐらい静かに怒っていた。
春太に対して。
「いだだっいででででっ?!」
「大体その辛気臭い顔は何、不幸の真っ只中ですって顔しないでくれる? 腹が立って仕方がないんだけど。あと、お前もかって、勝手に思い込んで絶望するのもやめて。腹が立って仕方がないから。第一、あなたがどうこう言ったぐらいで、じゃあ勇者は違う人にしようとか、そんな都合よくできると思ってる? あなたには間違いなく力がある。それは事実だし、どうしようもないことだから現実逃避するのもいい加減にして。――腹が立って、仕方がないからッ!!」
「うぎゃっ!!」
摘まんでいたほっぺたが指の間から滑り、一番強く力が入った。
あまりの痛さに春太は涙目になる。
しかし目の前の人物の顔を見た瞬間、ぎょっとした表情に変わった。
「私だって、もう何が何だか、さっぱりわからないんだから……っ!!」
「え、あ、ちょ、アズリアさん?」
「人の気も知らないで、自分だけ不幸面しないでよ、馬鹿じゃないのっ?!」
「えと、その、はい、すみません」
「誠意が足りない!」
「すみませんっしたァアアアアッ!!」
がばっと勢いよく土下座をした春太を見下ろしながら、アズリアは目からぼろぼろと溢れ出る涙を拭った。
「もし、仮に、春太が勇者だとしても」
「……うん」
「私は春太を……春太としか呼べないよ」
「……うん」
せっかく拭った涙が再びじんわりと滲み始める。
そのことに気付いた春太は、慌ててベッドから降りてアズリアへと手を伸ばした。
「だから泣くなって……はあ、なんで逆に俺がアズリアを励ましてんだろうな」
指先で彼女の涙を掬い取り、彼は薄く笑った。
月の光が照らす彼のその笑みはとても綺麗なもので、思わず見惚れていたことを、アズリアは気づきもしないだろう。
しんみりとした空気が漂う中、月はただ静かに二人を照らしていた。
老人は、やっと探し求めていた存在を見つけた。
一時は絶望的かと思えた勇者の捜索だったが、彼がその力を発揮してくれたおかげで、思いのほか早くに見つけることができたのだ。
よかった。これで、世界の危機は乗り越えられる。老人はほっと息をついた。
「陛下、ようやっと見つけたぞ」
「おぉ! さすが大賢者! 仕事が早い!」
「……もとはと言えば、お前が間違えたりせんかったら」
「あー聞こえない聞こえない」
「………」
耳を塞ぎ聞こえているはずの言葉を聞こえていないと言い張る彼を、呆れた顔で見つめ、老人は視線を戻す。
老人の視線の先には、水を張った器があり、その水面に映るのは。
「……本当に、こいつが勇者?」
「紛れもなくお前が召喚に失敗した者だ」
黒髪に黒い目を持つどこか頼りない印象の少年。
「で、どこにいるって?」
「アシャール村だ」
「……なんだ、意外と近いな」
「これが海を渡った遠い大陸の村だったらどうするつもりだったんだ」
「いやぁ、運がいいなあ。うん、運がよかったんだよ」
「予定が大幅に狂っているんだから、早く迎えに行ってやれ」
国を治める王に対し、このような言葉遣いが許されるのは、大賢者たる異名のおかげなのか、それとも彼が老人を友として認めているからなのか。
老人の無礼な言葉遣いを気にした様子もなく、男はにいっと口の端をつり上げる。
「言われなくても。すぐに使いの者を飛ばすよ」
ここは王、フレデリック・マーニ・トラヴァーズが治める国。
王都の名前はマンサール。
ここから最も近い村の名前、アズリアたちが住んでいる村の名前。
――その村の名は、アシャールという。
まさかこんなに早く2話目が書けるとは思いもしませんでした。
というか長いですね。うっかりと話入れ忘れて慌てて挟んだらこうなったとかそんな……そんな……。